思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

皇室の存在が「公」をつくる?ーへのコメント返し(ブログ・ミクシィ内)

2006-03-31 | メール・往復書簡

タケセンさんへ。

Hです。

引用で申し訳ないのですが
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人間は一種の動物だから、きちんと教育をしないと、人間らしく育たない。犬猫とそう変わらない状態になってしまう。しつけが大切なのは、子供が大きくなって社会に出ていったときに、社会のルールや仕組みにちゃんと適応して生活ができ、社会に役に立つ人間になれるようにすることにある。つまりしつけとは、家庭で行う「公の教育」なのだ。
 個と公ということでは、公は「おおやけ」ともいい、「おおやけ」という言葉には、「朝廷」つまり皇室という意味があった。皇室は、日本における公共性の中心とされてきたわけだ。皇室の存在が見失われると、「おおやけ」つまり公が忘れられるのだ。
 教育勅語は、明治天皇の御言葉だが、決して天皇の個人的な創作ではない。わが国に長くずっと伝わってきた伝統を、言葉に表したものであって、日本人が古来ずっと持ち続けてきた伝統的な精神、この国の素晴らしさ、美しさを集約して表しているものだ。
 教育勅語は戦前、家庭教育における指針ともなっていた。「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し」とあるように、親を大切にし、兄弟姉妹が助け合い、夫婦が調和を持って、円満な家庭に努めて来た。ところが戦後、教育勅語が失われた。家庭における教育の基準、規範が無くなった。家庭での「公の教育」も、なされなくなってきたのだ。
 私たちはもう一度失われたものを学び直し、取り戻していくべきだ。今日からでも実行できる。自分の家庭また私たちの社会そしてこの国を立て直すことは可能だと思う。
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とても感銘を受けたのですが、どうでしょうか
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2006年03月31日
21:05

タケセンです。

私は、いま春休み中ですので、時間に余裕があります「嬉」。

公民=社会人になる努力は、何より大切。
ただそれを「『朝廷』つまり皇室」の存在に負わせるという思想は、現代社会においては、全く普遍性を持ちません。個人として「皇室」を敬愛・尊重するのは自由ですが、それを社会的ー国家的指導原理にはできません。特定のイデオロギーや宗教を全国民に強要することになり、現代民主制の原則を覆すことになるからです。
ここで確認しなければならないポイントは、「個人の思想・心情」という次元と「社会制度上の約束事や共通倫理」との次元の相違をしっかりとわきまえることです。
公民=市民とは何かについては、私は以下のように考える以外にはない(思想信条を異にする多くのふつうの人々の共通了解を得るために)と考えています。

 市民=公民=シチズンとは?

 市民とは、自分が一人の個人であると同時に公民=社会人であることを自覚した人のことです。
ここで注意しなくてはいけないのは、「公民=社会人」と、「国民」とは違う概念だということです。パブリック=公(おおやけ)の、ということと、国籍や民族とは何の関係もありません。
市民=公民=社会人とは、自分は社会の中での受動的な一人の人間だ、というのではなく、自分はこの社会をつくっている一人の人間だ、という自覚をもっている人のことです。
繰り返します。市民とは、「国民」ではなく「公民」のことです。
公(おおやけ)とは、自分が生きている「場」のことは自分たちで考え、決定していくという「自由と責任」によってつくられるものです。
その地域で、その国で生活している様々に異なる人々(ピープルであって、「国民」ではありません)がよりよく生きていくためにはどのように考え、行為したらよいか?を考えることが、公(おおやけ)であり、パブリシティーとは、市民的な共同意識―市民的な共同体のことです。(官―役所が「公」なのではありません。官とは「市民」生活を下支えするサービス機関です。)

それ以上の各人の心の思いは、それとして大切にしなければなりませんが、社会人としての共通倫理にそれ以上を求めてはならないのです。これは人類の「殺し合いや他者抑圧の歴史」を改善する思想の原理です。

武田康弘






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エロースは本質に先立つ

2006-03-28 | 恋知(哲学)

日々の生活経験を土台とする「直観=体験能力」を伸ばすことによる総合判断力の育成がないがしろにさえ、「専門知」や情報の追求が自己目的化されて、そこでつくられた知が生活世界の知(民知)の上に立つ、ということになれば、本末転倒です。
「専門知」や情報は、生活世界の知=判断(民知)に役立ち、生活を豊かにするこができる限りにおいて意味を持つにすぎません。

学問や芸術やさまざまな技術もみな、生活世界の問題を解決し、生活世界を豊饒化させることに意味があり、それ自体に自立した価値があるわけではありません。

討論―議論―対話をするのも同じことです。
それをすることで、問題の所在が明確になり、解決の可能性が広がったー面白いし愉しいー頭が刺激され、気分爽快だー疲れたけど深い充実感で満たされた、・・・・というエロースがもたらされなければ、意味がありません。命令や強制でやらされるという「対話」ではお話になりません。

生の充実、生の悦びが得られないならば、何事もけっして普遍的なよきものになることはありません。必ず廃れていきます。人が本音で「嫌」だなと感じることは、制度の強制力や暴力がなければ続きません。どのような理屈よりも先行するのは、エロースなのです。「実存は本質に先立つ」=「エロースは本質に先立つ」=「悦びは本質に先立つ」=「欲望は本質に先立つ」・・・・これは人間の生の原理です。

この原理を踏まえない思想・行為は、人間がよく生きることを阻害する根源悪であり、迷惑思想でしかないのです。

部分の知にしかすぎない専門知が偉いという暗黙のイデオロギー、学的世界が自立して生活世界の上に君臨する馬鹿げた事態、政府・文部官僚によるナショナリズムの宣揚―天皇・皇室崇拝の狂気じみた宗教・・・・こういう異常な思想が生じる根っこをおおもとから廃棄することが、輝く個人として自立した生を歩み、幸福に生きるための基本条件です。エロースは本質に先立つ、これは生の原理なのです

武田康弘


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なぜ「愛知」ではなく「恋知」なのか?

2006-03-25 | 恋知(哲学)

なぜフィロソフィー(哲学)を「愛知」ではなく、「恋知」と訳すのか?という質問に答えたメールを以下に載せます。

Hさん

私が使用している「愛」とは、はじめから恋愛の愛の意味(ソクラテス・プラトン思想の原義)です。そのことがぼやけないようにすることが、とても大事な思想上の核心だと考えるがゆえに、どうしても「恋知」と直訳する必要があると思っています。

以下は、「白樺教育館」ホームページの主要文書として立ち上げの初期から載せているものです。

憧(あこが)れ・想(おも)う世界 (Bさんへの手紙)

 〈ロマンや理念〉は、〈具体的な目標〉とは異なり、憧れ・想う世界です。決して手の届かない夢の世界ですが、しかしその「幻想価値」なくしては、私たちは人間としての意味をもった生を営むことが出来ません。

 よいことや美しいことを希求し続ける心が失われれば、人間は実存するのではなく、ただ生存しているだけの存在に陥(おちい)ってしまいます。

 手に取ることも目に見ることも出来ないロマンや理念の世界 - よいこと・美しいことそのものの世界 - 憧れ・想う世界、この「幻想価値」の世界が唯一、人間の人間としての生を支えるのです。

 即物的 - 現実主義的な想念の中では、人間は人間として生きることができません。人間にとって真に実在するものとは、価値と意味の世界=「幻想世界」であって、只の事実や只の物質や只のシステムや只の規律や・・・というものは、存在しないからです。

 ロマンや理念、憧れ・想う世界を失えば、人間は、輝き、張りや艶(つや)、悦(よろこ)びや愉(たの)しみを失って、灰色の固まりへと転落してしまいます。
心は消えてしまうのです。(2002年11月16日)

以上の「憧れ・想う・・・」を「愛」と言ったのでは意味が分かりませんよね。よきもの・美しきものへの憧れ・希求は、恋する=恋い焦がれる、と言わないと、ピンと来ないと思います。
(なお、プラトンの主著「饗宴」は、このことがテーマです。)

質問・疑問・異論があるから、思想は明瞭になるのです。ありがとうございます。感謝。

武田。


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自分の欲望を見据え、受け入れること

2006-03-22 | 恋知(哲学)

自分の「欲望」をしっかり自覚し・語り・示すこと、という生の基本がないと、本質的にズルくて無責任な人間になりますね。
自分は欲望を語らず、相手に欲望を語らせることで相手をコントロールしようとする妖計は、陰湿で暗く厭らしい人間と社会をつくります。
自分の欲望を隠し持ち、妖計を用いたり、組織を使って自己実現しようと企む人は、濁って腐臭を放ちます。香料で誤魔化しているからよけいに濁って臭いですね(笑)
人間、自己に正直でないと、底なしにダメになっていきます。
欲望がなければ人間は生きていません。その欲望をしっかり見据えることからしか何事も始まらないのです。
「欲望」は、自覚し、肯定し、受け入れたとき、始めてその階段を昇ることができます。だんだんと高まりゆく欲望は、善・美そのもの(もちろんそれは「幻想」上の世界であり価値ですが、それなしには人間の生は意味を持ちません)を希求するまでになる。裸の自分を真っ直ぐに誤魔化すことなく見据えることで、段々と強く善・美に憧れる心がつくられていく。そのプロセスが人間が生きるということの内実だ、と私は思っています。

武田康弘


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「民知」についての雑談 1と2 白樺ML公開

2006-03-20 | メール・往復書簡

下は「白樺ML」メール公開です。

2006.3.19 19:42

「民知」についての放談です。

ざっくりと深く抉る。
精緻ではなく、強靭に。
部分の正しではなく、全体の見通しを示す。
細かな規則や道徳ではなく、人間力ー根源的な生命力をつくる。
日本人の好きな「管理・マジメ・型はまり」を元から粉砕し、自由闊達ー丁々発止ー全身で生きる、を実行する。

☆断固として、愚直に、囚われなく生きる人間になるためのサロンーそれが「民知の会」です。
自由でなければ人間じゃない!
小粒でつまらない人たちの集合=日本というエロースのない社会を元からチェンジする営みは最高に面白い!!とタケセンは思っています。
みなさんもタケセンにつづきバカでダイナミックで外的な価値など糞食らえ(おっと、失礼)内的な真実につくーそれゆえに誰にも負けない人間になってほしいと熱望します。無理?無理にとは言いませんーごめんなさい(笑)。

武田康弘
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
「放談」の2です。 2006.3.20 10:57

みなさんの意見・感想などざっくばらんに聞かせて下さい。
書き言葉でも・話し言葉でも・行動でも、何もアクションなし、では古い日本人丸出しで、お話になりませんものね~。
民知とは、制度知が偉いという宗教を元から打ち破るおそろしい!?恋知(哲学)に支えられて花咲く「物事の知り方ー生き方」のことで、従来の常識に知らずに染まっているふつうの多くの「民」と「私」を叱責し同時に解放する有益な「思想」を指すことばです。学的世界に自閉する専門バカも解放したいのですが、それは「民」に促されてようやく、というところでしょう。
さあ、さあ、お立会。話ことばで、、書き言葉で、行動で、ご参加あれ。ただし、かっこつけるのはなしですよ(どうころんでも私を含めてみんな無知なのですから、今も昔も無知の自覚が大切ですね~)。主体的な営み・自分からの行動・能動的な言動は、なんにせよ隙があるのです。隙があるから動くのです。バカだから光輝くのです。非道徳だから人間が生きるのです。「完璧」や「正しい」とは死んだ世界・行き止まり・終わりの世界しかつくりません。
私のありのままを示すところからしか「動き」は起こらないですよねーなんにせよ「参加」ですね!
出会い・アンガジュマン・呼びかけの心が基本です。
では、また。

武田康弘

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「知」の原理の喪失ーおおもとからやり直そう

2006-03-16 | 恋知(哲学)

心身全体の感覚と思考を融合させて物事をとらえる、という方法以外の方法は、認識論の原理上あり得ないことですが、現代の受験的な知=受験ゲームでは、しばしばその原理を踏まえず、問題と解答を直結させて「正解」を導く技術、いわばコンピューターゲームの裏技を覚え、身につける手法でことが進みます。

自分の五感と頭をフルに使い、手に取れるように、目に見えるように知るという「絶対的な原点」を喪失させているのが、現代日本の知ならざる知です。「知」の基盤そのものが失われている=物事の真偽を確かめる最後の拠り所がないーこの底なし沼のような恐ろしい事態を変えるためには、原理にまで戻ってやり直す以外に方法はありません。

東大を頂点に置く学校名信仰の「狂気宗教」は、名前・言葉・概念だけしか分からない「優秀」!?な人間を生み出し、「自分の五感の全体を使い自分の頭で考える健全な人間」を、かえって価値の低い存在と思い込ませるまでに、その異常性を深化させてしまいました。

人間の生を支える原理であり、また認識論の原理でもある知覚と情動を発達させるためには、豊かな日々の体験が不可欠です。体験=直観の世界を育てず、言語や記号操作を優先させれば、この原理を喪失した人間ならざる人間が出現してしまうのです。「体験=直観」と「言語・数字などの記号」が結び付かないと、生の土台となる「知」がつくれません。全てが宙に浮いて根無し草となり、価値と意味の世界を失います。人間は内的には死ぬのです。

人間としては「死んだ人」がつくる社会は、生のエロースを生み出せず、組織と規則にしたがってただ生存するだけの存在=単なる「事実人」しかつくりません。自分の生の実感や生の悦びをもてない干からびた人間は、人間の干物を生み出すことしかできず、輝く個人をかえって危険なものとして排除しさえします。ツヤ消しでなければいけない!というわけです。ここでは、規律と慣習に従うだけで自分の頭では何も考えない人間をつくることが「正しい」教育とされるのです。いよいよ人間の感性と思考までも幾つかのパターンに閉じ込める「管理社会」の完成―という事態にならぬようにするためには、原理にまで戻ってやり直すことが必要です。 

2006.3.16 武田康弘


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目次ー恋知(哲学)-2

2006-03-14 | 目次(番号をクリック)

目次ー恋知(哲学)の2(恋知・哲学の1は、ここをクリックで出ます。)

67.洗脳と占脳ー恋知の営み
68. 「知」の原理の喪失ーおおもとからやり直そう
69.自分の欲望を見据え、受け入れること
70.なぜ「愛知」ではなく「恋知」なのか?
71.エロースは本質に先立つ
72.裸の人間として生きる ・ 実存としての自他への約束
73.民知の会へのお誘い
74.人間の性とは?
75.表層知に支配される愚かさー民知は響存としての実存を生む。
76.あなたは、人間を「理解できる」と思っていませんか?
77. 「哲学知」の獲得ではなく、「哲学する」ための原則について
78.仲良くする?仲良くなんかできません(笑)ー「対立」していいのです。
79.エロースの奥儀は、足るを知ること
80. 「よい・美しい」の基準変更
81.よい思想を味わうー老子
82.主観性の消去は、型はまりの不幸人しか生まない。
83.人間はどう生き、社会はどうあったらよいのか?のヒント
84.思想とは?―己の価値意識の明晰化が「はじめの一歩」です。
85. 「全体知=民知」と「部分知=専門知」の関係
86.公共哲学を皆のものに。一般名詞にして、それを動詞化していこう!
87.自分自身の問題になる、とは、よろこびの生をひらくことだ。
88.哲学とは何か?主観性の知をめぐってー山脇vs武田・討論会
89.ほんものの恋知(哲学)ークレンペラーの音楽をヒントに。
90.原理主義とは?原理の探求が弱いと原理主義に陥る。
91.生きた公共哲学・その1 公共的自由が健全な社会を生む
92. 「自己納得」の生と「自我主義」とは鋭く対立するもの
93.シリーズ「公共哲学」(東大出版会)の三元論への疑義と解答
94.自分のことは自分でしなさい。
95. 〈恋知としての哲学〉はじめの一歩=絶対の一歩
96.中江兆民と植木枝盛ー自由民権の思想と21世紀の民知
97.「起源」と「本質」は違います。
98.ほんとうによい頭とは、【よろこび・たのしみ・おもしろみ】を生み出すもの
99.【実存・市民思想】は哲学の原理です。
100.思想(主観性の知)なき人間は、昆虫の属性を示す存在でしかありません
101.公共性の思想的基盤となる「ルール的人権」思想
102.他者地獄
103.自分を知るには?
104.哲学の難しさとは、自我の殻を破ることの難しさ
105.広く生活者として哲学することと、哲学の専門家になることの違い
106.理論への依存は、反・哲学でしかありません。
107.「腑に落ちる知」が開く「響存」としての世界
108.エゴイズムを越える条件は、自分を愛し、大事にすること。
109 金泰昌・武田康弘の恋知対話ー開始
110.「恋知対話」パート?の総集編ー金泰昌・武田康弘
111.金・武田の「恋知対話」2-1「自己という中心から公共性は生まれる」

114.【私の悦びや楽しさを広げるために】ー独我論は根源的不幸
115.金泰昌ー「徹底的に市民として哲学する立場を大事にする」
116.武田康弘ー「ほんらいの哲学・対話は、生活世界という共通項の中でするもの」
117.金・武田の「恋知対話」一応の最終回(合計23回)
118.「相手の心のよろこび」をイメージする「私のこころ」(実存論から見た他者の尊重)
119. 「日本人には道徳はない。ただ目上の者に従うだけである」(「日本を知れ」)
120.道徳の基盤は想像力、否、あらゆる人間文化の基盤は想像力です。
121.逆立ち・逆転した思考
122.</>a>感覚とイメージは言語に先立つ/心身全体による愛
130.自己批判なき自己肯定は、よきものをなにも生みません。
131.想い・実存と言語による一般化
132.「存在次元」と「具体・現実次元」の混同ー平面の生
133.「ふつう」に考えることが哲学。
134.わたしの生と仕事を支える哲学
135.他者性とは、悦びをもたらすもの
target="_blank">136.</a>イメージが広がるようなことばが恋知としての哲学には必要。
136.理念主義と哲学精神とは対極にあるもの
137.「公」と「公共」の問題
138.幻の「白樺特集号」 -「公共的良識人」紙07年2月号掲載予定の原稿公開!!
139.事実学は事実人しかつくらないー?


















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洗脳と占脳ー恋知の営み

2006-03-14 | 恋知(哲学)

数年前のことですが、授業中に当時高校生だった飯島君が、面白いことを言いました。
「先生、『洗脳』って、悪い意味で言われるけど、字の通りならいい意味だと思うよ。汚れた脳を洗うというのなら、いいことだと思う。特定の思想で脳を占領するという意味なら、占領する脳と書いて『占脳』だよね。」

これは、その通りですね、
誰でも、周囲の人やマスコミや妖しげなネット情報の「騒音」にさらされて生きていますから、知らないうちに「謬見」にはまってしまいがちです。その人の生きる場の「暗黙の想念」に絡み取られていることが多いので、おおもとに戻して考えてみるという作業には大きな意義がありますね。その作業は確かに曇った意識=脳を洗うわけですから、「洗脳」はとても大切なことだと言えます。

逆に、何気なく世の中の流れに乗って、「考える」という作業なしに生きていると、知らない間に「占脳」されて、つまらない目にあったりします。自分から出発する生のエロースが奪われて、紋切り型のつや消しの世界に陥ってしまいます。

「占脳」から解放されるためには「洗脳」が必要、というわけです。衣服や部屋や車のクリーニングと同じで、頭も「状況」によって汚されますから、新鮮さを保つには、白紙に戻して考えてみる作業が必要ですね。それが恋知(哲学)の営みです。

武田康弘


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国?国側?についての有益なメール交換ー専門知と全体知

2006-03-13 | メール・往復書簡

以下は、3月9日のブログに対するメールですが、大変有益なものです。

武田様

Aです。(Aさんは、法案作成の専門家)

以下の条文の例でわかるように、訴訟当事者としては「国又は地方公共団体」なのです。ですから、訴訟に関する新聞報道等で、国側勝訴・敗訴という言い方をしているのは、正しいと思います。
ただし、これは法律の議論の場合の話です。
私は、特に官僚が何事につけても「国としては、国としての立場は、・・・・」と発言するのは、頭が法律論に毒されているからではないか、と考えています。
議論の仕方、言葉の使い方も、時と場合を考えてすべきですが、無意識のうちに、
天皇制→官僚制→東大法学部→法律偏重思考になっているのではないかと思います。

○行政事件訴訟法
(被告適格等)
第十一条 処分又は裁決をした行政庁(処分又は裁決があつた後に当該行政庁の権限が他の行政庁に承継されたときは、当該他の行政庁。以下同じ。)が国又は公共団体に所属する場合には、取消訴訟は、次の各号に掲げる訴えの区分に応じてそれぞれ当該各号に定める者を被告として提起しなければならない。
一 処分の取消しの訴え 当該処分をした行政庁の所属する国又は公共団体
二 裁決の取消しの訴え 当該裁決をした行政庁の所属する国又は公共団体
○国家賠償法
第一条 国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。

――――――――――――――――――――――――――――――――

武田です。

Aさんのご指摘、分かりました。ありがとうございます。

ここには、部分的な(法律論)知と、民知という全体知の違いが示されていて面白いと
思います。

私は、現在の法律の用語法がおかしいと思っています。
「国」という概念をあいまいにして使用するのは、無意識の意識として「国」イコール「官僚組織を基盤とした政府」という暗黙のイデオロギーに呪縛されているためでしょう。
明治政府の山県有朋が中心となってつくった日本的国家主義=国体思想を用語法にまで遡って清算するのはなかなかやっかいな仕事です。

これは、「国体」という想念を基盤として思考するところから自ずと出てくる用語法で、「政治体制 と 風土や言語 と 故郷」を混合させてしまう詐術です。それによって、各省庁や政府を批判することは「非国民」-「アカ」-「サヨク」(危険分子)というレッテル貼りが可能となり、個人の考え=主観は主観になる前に消去されるというわけです。

ともあれ、よいご指摘ありがとうございました。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――
まとめです。

上記は、専門知(部分知)と 民知(全体知)の違いがわかる大変よい実例です。

全体知である民知という視点、言い方を変えれば、本質論ないしは意味論として捉えれば明らかにおかしい、
しかし、専門知という部分合理性の視点からは「正しい」、
という例の一つの見本がここに示されています。

結論を言えば、民知という全体知(本質論、意味論)に逆らった専門知(部分合理性)とは、無価値な「学」でしかありません。なぜなら、部分としての精緻な知=専門知(この場合は法学)とは、全体知に奉仕することにその存在理由があるからです。言うまでもなく、人間がよく生きるために役立つ知でなければ、知は意味を持ちませんね。これは「知」や「学」の原理なのですが、日本の近・現代史が、制度としての学知を民衆支配の道具にしてきたために、なかなか皆が自覚できずにいることです。 「民知・恋知と公共哲学」をぜひご覧下さい。

武田康弘



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原理としての思考(恋知) と 知識としての理論(イデオロギー)

2006-03-11 | 恋知(哲学)

原理の次元を踏まえて思考するのがほんらいの恋知(哲学)ですが、一般に言われる論理の営みとは、「知識としての理屈・理論」という世界でしかないことが多いですね。

ここに不幸を生む主要な要因があります。
そのような論理であれば、論理とは無用なもの、いや有害なものにしかなりません。生活世界の問題を解決し、人生や社会を魅力あるものとするのでなければ、論理には存在理由がありません。目を濁らせる理論武装によってエゴを肥大化させるだけです。

そんな理屈や理論なら出来るだけそのようなものに関わらずに生きた方がよい、ということになりますね。

そういう知識としての理屈の塊ではなく、自分の生活世界の体験に照らし、おおもとに戻して原理的に考える営みはいかに可能か?それを探求するのがほんらいの恋知(=哲学)です。

部分的な合理性を探求する個別学問に携わる場合も、そこに自閉したらアウトです。人間の生の全体を志向する全体的思考をバックボーンとして持っていないと、個別学問は生きて役立つものにはなりません。そうでないと、かえって専門知崇拝の権威主義に陥り、生身の生きた人間を部分合理にしかすぎない世界に圧し込めるという根源的な不幸を招いてしまいます。

原理に戻して考えるという営みには、それ相当の順を追った努力が必要です。独りよがりや、集団よがりに陥っては台無しですから。
イデオロギー(理屈の塊)ではない思想、「恋知」という思索と生き方を始めるための基本は、まず思考の原理=認識論を了解、会得することです。一人で読むのであれば、 「はじめての現象学」竹田青嗣著(海鳥社刊1700円)が一番のお勧めです。

ただし、はじめに注意しておかねばならないのは、 「認識論」とは思考の原理であり、どうしても踏まえなければならない基盤ですが、それは、自分で考え・生きるための前提にしかすぎないということです。「価値意識」なしに人間が生きることは不可能ですから、広い意味での思想は必須のものですが、その自分の考え・思想を育てつつ生きるための基盤として役立つのが「認識論」という原理なのです。ここが終わりなのではなく、ここから自分で始める=始発点なのだということを明晰に意識しておかないと、「認識論に自閉する」というおかしな話になってしまいます。自分の体験を基にして自分の頭で考えることを始めるための基盤ーそれが認識論としての現象学なのですから。

武田康弘



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国側!?愚かな言語使用はやめましょうー国体思想を刷り込む詐術です。

2006-03-09 | 社会思想

国は、国としては、国としての立場は、国の役割は、国側勝訴・敗訴・・・・・・
なんですかね?
いい加減にこの「間抜けた」言語使用は、やめてほしいですね。
私は国語や社会も教えていますが、毎日、NHKと民放で流されるこの言葉を聞いて、また新聞各紙に踊る活字を見て、全員×だな!困ったものだ、と嘆いています。
政府は、政府としては、○○省の立場は、であり、行政側勝訴・敗訴・・・・
と言わなくてはいけません。

文部科学省の官僚がテレビで、「国としては・・・」としゃべていましたが、なんで主権者に雇われている一役人が国を代表できるのですか?あきれてものも言えません。東大法学部とは、ああ勘違い!の「愚か者育成所」であることは間違いありませんが、このリーダー気取りの人間集団は、民主制の本質をまったく理解していませんね。それに追随して、官僚集団や政府を「国」と呼ぶマスコミ人のお頭は、これまたオメデタイと言うしかないでしょう。

受験勉強しかできない本質的に頭の悪い人間たちによって、とんでもない洗脳が毎日行われているから、わが日本人は、国を実体化する愚かな「国体思想」から抜け出せないのですよ。

私が以前書いた「国とは何か」クリックをぜひご覧下さい。とくに官僚諸君にはぜひ熟読をお願いします。

武田康弘




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二つの世界を媒介するのは「私」ですー活力・魅力の源泉

2006-03-07 | 私の信条

頭がよく動き明晰だが、同時に、ふぁ~とした大きさを持ち、
強い論理性を持つが、同時に、豊かで柔らかな情感があり、
火中の栗を拾うほどの能動性があるが、同時に、他力という深い受動性を持つ。

もちろんこれは「夢」ですが、そんな人間がいい、と私は思っています。


動と静、強さと優しさ、激しさと穏やかさ、剛と柔、明と暗、善と悪、、、、、は、セットです。その二つの世界を媒介するのは「私」です。エロース、悦び、魅力とは、この両面があるところにしか生じません。

現代の日本は、つべこべうるさく「正しい」ことばかりを求めるために、人間の活力を根絶やしにして、すべてを終わらせてしまう「管理社会」に堕落しています。金で物を(人も?)買うしか楽しみがない、生きる意味の乏しい現代日本は、平板でノッペラボウの「無表情社会」でしかありませんね(中学3年生の教科書に載っている「素顔同盟」はとても面白いですー青線をクリック)。

閉塞したつまらない社会をチェンジしましょう!再び、天皇だの皇室だのを称揚するのは、愚か者のすることでしかありません。個人の生を抑圧する昔の日本に戻るだけです( 「主観を消去する日本というシステム」 )。
一人ひとりが、自分から出発する生を歩むほんとうのエロースは、自分の内なる声に深く静かに耳を傾けることからしか生じないでしょう( 「わたしの超越ならざる『超越』」 )。何より必要なのは、「恋知」(哲学)だと思っています( 「恋知・民知と公共哲学」 )。

武田康弘



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独白(モノローグ)と対話(ダイアローグ)-対話成立の条件は?

2006-03-06 | 恋知(哲学)

インチキはやめましょうね(笑)。
日本の各種業界=財界であれ、大学であれ、財団法人であれ、役所であれ、議会であれ、、、、では、(偉い地位や肩書きをもたない)個人の意見=主観が主張されることはありません。おそらく主観とは悪である、自分の意見を言うなんて!という暗黙の想念で金縛りにあっているのでしょう。「上位者」に従うべきだというイデオロギーによる支配は、権威者の言説を引くだけの愚かな人しかつくりません。
どうもわが国のエリートには「人間」ではなく、ただの事実としての人=「事実人」しかいないようですね~。

ダイアローグ(対話)でなければいけない!?と、「業界」ではいつも言われます。笑止です。自身の内に「豊かな主観」を育てることのできない人がどうやって「対話」するのでしょうか?
正しい型が決まっているー「客観的真理」がある、という理に反する想念に心の深部を縛られている人に真の「対話」などできるはずがありません。
深い独白(モノローグ)の力を育てる営み・土壌のないところに対話(ダイアローグ)を要請しても、オママゴトにしかならないのです。
有力者―権威者の説を流布する高等(下等?)戦術としての「対話という形式」では、ほんとうの対話は永久に不可能です。
対話を可能にするもの、それはけっして「技術」ではありません。愛を生み、愛を育てる生き方、よいもの・美しいものへの憧れ・恋心のみが真の対話を可能にする条件です。それが自ずと技術を生むのです。
紋切り型のつまらない顔、権威に囚われたコワバッタ表情、パターンにすぎない思考ならざる想念では、どう頑張ってもダイアローグ(対話)は生まれません。

具体的にはどうするの?という声が聞こえてきました。
まず、何より豊かなスキンシップが必要ですね~。早速「肩もみ」を!直ちに実行して下さい(笑)。心を込めて。

モノローグなのに深い対話の力をもつ言説があり、
ダイアローグなのに特権者の独白の流布にすぎない言説がある、というわけです。
形式や言語に囚われていると「現実」が見えなくなります。
もっとも、ダイアローグという言葉は「対話劇」という意味が強いので、対等な対話とは元来違っているのでしょう。そうなると、劇作家の創作にすぎない!ということでもよいわけですね???ここからまたヨーロッパ人の考え方についての面白い「本質直観」ができそうです。

武田康弘




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荒川静香・イナバウアー (メール公開)

2006-03-01 | メール・往復書簡

以下は、公共哲学ML と 白樺ML内のメールです。

February 24, 2006
アジアン・ビューティー荒川静香が金メダルを取るまでに、日本が歩んだ道 (川西玲子)


 荒川静香選手が日本女性で初めて、というよりアジア女性で初めて逆転の金メダルを取りました。何より嬉しかったのは、彼女が実に美しかったこと。まさにアジアン・ビューティーです。

私の記憶に残る最初の冬季五輪は、グルノーブル。以来フィギュアに魅せられてずっと観続けてきましたが、日本人選手はいつも、出てきた瞬間に目を覆いたくなるほど見劣りがしたものです。

しかし、荒川静香はもちろん、村主章枝も安藤美姫も美しく、それぞれに魅力的でした。感無量です。ここまで来るには、様々な出来事がありましたから。

私がフィギュアに目覚めたグルノーブル・オリンピックの頃。日本は高度経済成長の真っ最中でした。今の中国のように、年率10%近くの経済成長を続けていた怒濤のような時代です。みるみる豊かになって、日本人はどんどん世界の舞台に出て行きました。

そしてトラブルがたくさん起きました。ホテルの廊下をパジャマで歩く、どこにでもインスタント味噌汁を持っていって飲む。その行為は笑われ、がつがつ働いてばかりいるエコノミック・アニマル、センスの悪い成金と馬鹿にされたものです。

一方で日本人は白人の美へ強い憧れを持ち、体型の違いも忘れてひたすら真似をし続けました。お金持ちになって、「気分はもう白人」でしたから。でも、端から観るとしょせんはバナナ・・・つまり黄色い白人でしかなかったのです。

日本人は・・・アジアの人間は、ずっとこうして白人の後を追いかけ続けるのか。私は複雑な心境でした。結局コンプレックスなんですよね・・・。観ている私たちにもそういうものがあったのでしょう。経済大国になってもノーベル賞を取っても、美しさでは白人にかなわない。最後の勝負は美しさですから。

でも今回出場した三選手に、そういう屈折したものは皆無でした。観ている私たちにも、そういう気持ちはもうありません。それが私には感無量だったのです。スポーツはここまで来たかと。願わくば政治家も、低次元のナショナリズムなどに囚われず、外見も中身も成熟社会にふさわしい美を追求してもらいたいものです。

栄養状態が良くなり生活にも気持ちもゆとりができ、むやみな競争を止め、人生を楽しみ、自分の生き方に自信を持つ。美しさはそこから生まれてきます。かくして、観衆を魅了するアジアン・ビューティーが誕生しました。後は男性がどこまで美しくなるか(笑)。

それと私が期待していたパンツルックですが、かなり増えましたね。スルツカヤはSPでパンツルックを使用しました。いつかパンツルックの選手が金メダルを取るでしょう。

それと、私はグルジアの16才の選手が気に入りました。ふだんあまり見る機会のない不思議で魅力的な顔と衣裳、そして音楽がすごく新鮮だった。改めて「美の多様性」に感動しました。美は多様だからこそ素晴らしいのです。 「比類なき唯一の美」とか何とか言い出したら危ない。 by R・K

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February 25, 2006 9:56 AM 武田です。

得点に加算されないことになり、点数としては無価値のイナバウアー(弓を描き後ろにおおきく反りながら滑る)をあえて復活させた荒川静香の自分を貫く凛とした心に深く感動しました。
日本人だからではなく、見事に自分性を貫き開花させたひとりの人間として熱い共感を持ちます。

国籍の別も、男女の別もありません。
ただ、よきもの・美しきものへの感動だけがあるのです。

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February 25, 2006 2:05 PM 古林です。

武田さんのMLに触発されて。

フィギュア・スケートは美しいとは思っていましたが、これまでその採点の不透明さと偏りに
あまり関心を持たなかった私が偶然、荒川静香のSPを見てとても気になりました。
何だ、これは!
うまいとかきれいという次元とは異なるものを感じたのです。
インタビューでは、自分自身を表現してみたい、楽しみたい、という言葉が出てきました。
多くの選手がその重圧から逃げるように、そうした言葉を発するのと違って、荒川静香は
本当に心の奥底からそう願っているようでした。
(あとで知ったことですが、いろいろ悩み、迷った末の確たる決断だったようです。)
金を取った今、『無欲の勝利だ。』とたたえられていますが、そうではないでしょう。
『率直に自分自身を表現してみたい。』というその願いは、『金メダルが欲しい。』という
世俗的な欲望よりもはるかに貪欲で純粋なものだということでしょう。
イナバウアーはその象徴でもあります。
これは誰も太刀打ちできないんじゃないか、とそのとき感じました。
フリー演技当日の朝、インターネットを開くと、
『荒川、金!』の大見出し。
やっぱりそうか。
録画の演技を見ていてゾクッとするような感覚にとらわれました。
多くの(外国の)観客が総立ちになって拍手していたわけがテレビを見る者にも伝わってきます。
内面から湧き上がってくるような凛としたすがすがしい美しさと強さは何ともいいようのない
感動を与えてくれます。
久しぶりに浪花節でないスポーツの感動場面でありました。
『金』とか『メダル』はたまた『日本人』のことばかり騒ぎ立てるマスメディアにはいい加減うんざりします。
もっとましな、冷静でいながら感動を劇的に伝える内容の記事を一つ紹介します。

 「調和と勝利の神が手を結んだパラヴェーラが、日本語を話す東洋の女神を生んだ。
アラカワの演技は、優雅であり情熱的だった。すらりと背が高く、エレガントで、まるで
日本の丹頂鶴のようであった。光沢ある生地で作られた空色とロイヤルブルーの
コスチュームは、優美でありシンプルだった。シズカは素晴らしいジャンプも持っている。
その演技は魅惑的で、クオリティーも極めて高い。観衆はドガの絵画の中に身をおいて
いた。彼女は完璧な世界に手を触れた」。
クラウディオ・グレゴリ ガゼッタ・デロ・スポルト紙(イタリア)

さて、荒川静香、帰国してからはメディアから大騒ぎされて大変な日々が続くことでしょう。
自分を見失わずにいて欲しいと願うばかりです。
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February 26, 2006 12:21 PM宮内です

古林さんの感想に触発され、私も感想を述べさせていただきたいと存じます。

演技が終盤にさしかかったころから笑顔がこぼれ(内面から滲み出て)
最後のポーズをとった瞬間のあの解き放たれたような神々しい表情。
彼女(サポートスタッフも含む)の努力に対する最高の結果が出て、本当に良かったと感じました。
家内と、心技体とはまさにこのことだねと述べ合いましたが、厳しい競技でのこの結果は、
まさに奇跡的な最高の結果だったと思います。
その結果を導いたのは、荒川静香のメンタルコントロールこそが一番神に近かったのではないか
という印象を持ちました。
『無欲の勝利だ』ではなく、「無心の勝利だ」であったのではないでしょうか。
その証拠に、金メダルを告げられた時の、彼女の表情。純粋に、えっという驚きの表情。
欲しい、欲しいと思っていた者が出す表情ではありませんでした。
もしかすると、競技後、ほぼ自分の力を出し切った充足感に満たされ、
ランキングに対する関心は頭の中にまったくなかったのかも知れません。

私は pure の力をまざまざと見せつけられた瞬間であったと思います。

また 偶然出会うのでは無く、地球上の全員が見つめる中で表現された、
奇跡的な瞬間を目撃出来たよいうことだと考えます。
ミューズが彼女のからだと精神を借りて、我々に示した瞬間だったのでしょう。

古林さんがお感じになった 次元の違い、
ガゼッタ・デロ・スポルトが報道した完璧な世界に手を触れた
というのを私なりに、上記のように感じました。
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February 26, 2006 5:29 PM武田です。

話がいろいろ発展して面白いです。

結果がでたから素晴らしい!のではなく、何より姿勢ー生き方がよいですね。
真っ直ぐに「主観性」を深め、魅力あるものとするブレない人間性に賞賛を送りたいと思います。
スポーツは見よいですが、右顧左眄(うこさべん)しない人生は、どのような人生でもひとしく「善美」です。
「日常」こそがかけがえのない世界です。荒川静香の場合は、たまたまオリンピックという国際イベントだから、皆が見たわけですが、私はそのことに主要な価値を感じるわけではありません。
自分を真っ直ぐに見つめ、外的価値に依らず、意味充実の生をおくる日常こそが「至高の価値」だと思います。

武田康弘



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