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思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「東大病」の克服のためにーML・メール公開

2005-06-30 | メール・往復書簡

「東大病」の三回目です。 第1回(クリック) 第2回(クリック) もご覧下さい。

京都で新しい教育に取り組む平野慶次さん(お会いしたことはありません)からの質問メールを受けて、私と山脇直司さん(東大教授)との間でのやりとりです。



武田さん 平野慶次@京都です。

 「東大病」という言葉は使ったこともありませんでしたが、なるほどと思いつつ
読んでおりました。

 線形的に過ぎる思考は、パッチワークが如く公式化されている。思考は、もっと
自由だ、と。

 こんな感じで理解していて良いのでしょうか?

―――――――――――――――――――――--------------


平野様。
武田です。

そうですね。思考が「型はまり」なら思考ではなくパターンですものね。

おおもとに戻して、具体的経験から立ち上げる「知」(ソクラテス的な知)ではなく、既存の理念や公式から出発する「知」(受験勉強的な知)のことで、これは東大の問題ではなく、日本の教育一般の問題ですが、象徴的に「東大病」と言えば分かりよいと思います。

東大以外は大学ではない、という親がたくさんいます。一元的な価値信奉のヒステリーは「狂っている」としか言いようがありません。わたしの周りでも悲劇が何件も起きています。自殺者も出ています。序列意識がつくる権威主義の支配は市民運動にまで及びます。

こういう同一価値観による一極集中は、みなを不幸にします。エロースが広がりません。東大関係者はじめ皆が「東大病」の解決に取り組むことが必要です。受験力ではなく人間力を育てること、人間の知的能力の多様さを深く自覚することが重要だと思います。問題解決の「はじめの一歩」は、この社会的ヒステリーをはっきり「病気」と認識することでしょう。

ブログの記事ー「東大病」もそういう意味で書いています。
「思索の日記」http://www.doblog.com/weblog/myblog/29972

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

私にも一言:
山脇です。

武田さん、平野さん
私は一度も東大で学ぼうと思ったことがないまま、めぐり合わせで東大教員になった者ですが、東大卒の思考力の訓練が他の大学より劣るとは必ずしも思いません。政治家でも、中曽根、後藤田、宮沢らの東大卒は、石原(一橋)、小泉、橋本、竹中(慶応)、森、海部(早稲田)、安倍(成蹊)などより、政治的狡猾さを中心とした思考力(型にはまらないという点を含んで)では上だと思っています。ですから、すべてを「東大病」というのは、ある意味では痛快ですが、ある意味ではミスリーディングで、真面目な少数の東大生が可哀想だと思います。一元的な価値のヒステリーは、受験業界に多くの責任があるでしょう。
また、この問題は科挙制の伝統に通じるかもしれません。ちなみに、韓国や中国や台湾の受験戦争は、日本以上にすさまじいと聞いています。
山脇直司

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

山脇さんへ。
武田です。

この問題は、経験的次元でどこがいい、悪いという話とは違うのです。(私は「慶応」の福沢主義の問題を批判し続けてきました。)

「一元的な価値信奉は人間を幸福にしない、旧・帝大中心の日本の教育政策には大きな問題がある、いくつもの違ったよさをもつ大学を育てなければいけない、、、」ということを東大の人も非東大の人も、心ある人は皆が一緒になって言わなければ、と思いますが、どうでしょうか?「官の支配」ということは、この問題と直結しているのですから。「公共善」をつくるためには各自が自分の所属する世界を相対化する営みが必要です。

佐々木毅学長が率先して、日本人の「東大病」を改める必要とそのための具体的方策を提言すれば、ふつうの市民の側に立つ健康な精神をもつ大学として、より東大の価値が上がるのではないでしょうか?

「東大病」とは、日本人の多くが東大絶対の信仰をもっていることを指す言葉なのですから、東大関係者が率先して、「東大病を治しましょう!」と言うのがよいと思います。ぜひそうしましょう。

笑って自己変革のできる余裕のある精神が底力のあるほんものの「公共哲学」を生むと思います。内と外のラディカルな変革を共にしましょう!真面目な東大生は私の提言に賛同してくれると思います。心配無用です(笑)。

では、また。失礼。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――


武田さん

お返事に納得しました。
あと蛇足ですが、佐々木毅さんはこの3月末で退任し、現在の学長は工学部出身です。ちなみに、佐々木毅さんは、思想史家としては大変優秀な方でしたが、公共哲学に関して言えば、私と違って「市民的公共性」と「政府の公」を峻別しようとしません。そのせいでしょうか、学長職にあっても、法学部的発想の域を出ず、期待はずれに終わった感じがします。あと、東大法学部のど真ん中で学んだ小林正弥さんにも、現在は平和運動やCOEでご多忙でしょうが、東大論をこのMLで書いてもらえれば面白いでしょう。

山脇直司


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「マジメ」とは狭い囚われの自我のことー自他を不幸にします。あなたは?

2005-06-28 | メール・往復書簡

以下は、白樺MLでのやりとりです。

高城久です。

昨日、武田先生が治療に来て、終わったあと、少し話しをしました。

武田先生は

「まして宗教者の固いあるいは『マジメ』な人間性にはウンザリで、どこか深いところで「インチキ」(自己欺瞞)をしているな…」

というように「マジメ」をネガティブに捉えることが多いのです。
もちろん、小泉純一郎氏のようなフマジメを奨励していることではないのは明白です。

私はここにあるような教条的というか型にはまったマジメを限定的に指していると解釈していて
確認のために質問してみると、タケセンはこう言いました。

「本物が好きなんですよ。」

親鸞の言葉を借りれば、本物とは『計らいのない』ということですか?と確認するとYESの答えでした。

つまり、念仏をするぞ!とか念仏を唱えなければいけないというのは凡夫の計らいで、
本物の念仏者は計らいがなく弥陀の本願が身体化して自然法爾(じねんほうに)の状態になるというのが親鸞の確信です。

「マジメ」をかるーく飛び越えて本物になりたいと思い、ふかーく納得です。



武田です。

その通りですね。

ひとつ付け加えると、「ほんもの」とは、「実用性」と「遊び心」の融合ですー「用の美」こそ本物の美(柳宗悦)。

日本の事実学=受験的な思想(神経質な愚か者の想念)とは対極にあるおおきく豊かな世界です。

一時の損得や他者の評価などに惑わされることのない「内的意味充実」の世界をつくりあげることが「ほんもの」です。

エロース豊かな生のことです。

ニセモノの顔は貧しいです。いつも「はからって」ばかりいるから、自分自身になれないのです。小さな自己を守ろうとして、殻に閉じこもればエロースはやってきません。「存在そのもの」の魅力が消えて「世間体人間」へと堕落するのです。

ちょっと思いつくままに。失礼。






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目次ー5

2005-06-27 | 目次(番号をクリック)
目次5(番号をクリックするとでます)
私の信条

 1.他人に勝つ?
 〔1と2は、一緒に出ます。〕
 2.私の信条
 3.情熱
 4.生きる上で一番大事なことは?
 5.最もよい人=魅力的な人とは?
 6.エロース豊かな理念
 7.有と無-音楽と言葉と
 8.批評するのではなく、能動的に問題に取り組もう!
 9.自分自身でいること
10.至高の音楽=ベートーベン・ベルリオーズ・モーツアルト
11.「寛容の精神」のために必要なのは、「非寛容の精神」です
12.社会問題を語るのは自分を語ることー「社会」への逃避は有害です
13.「空気」は論理に先立つ
14.「改革」派敗北の原因ー雪崩うつ右傾化=「靖国」思想を復活させれば日本は終わりなのすが・・・
15.ああ、日本人!「幸福をつくらない日本というシステム」
16.「自我主義者」か?否か? 見分け方は簡単です。
17.わたしのライフワーク (「民知」の補足説明-2)
18.わたしの好きな三つのこと
19.二次元世界の住人は、自分を変えません。
20.自分をチェンジ。社会をチェンジ。
21.受験知がつくる『構造欠陥人間』-底なし沼の日本社会
22.不屈の意志と無限の優しさー熱いバカと沈着な思索者
23.私の決断ーエロース生むための「民知」という革命
24.なぜ民知」の運動をするの?30年前の覚醒。
25.日本人という人類(人間)が存在する!?へんですね。
26.二つの世界を媒介するのは「私」ですー活力・魅力の源泉
27.江戸城に住む天皇家!・・・至高のよきものとは心の内部にのみ存在する。
28.ほんらい哲学とは「学」ではなく、生体それ自体の知である
29.グルダの弾くモーツアルトを聴きながらー天才とふつう
30.私の生の充実と社会問題ー批判的精神をもつことの素晴らしさ
31.疲れたらすぐ休もう!ーネクロフィリアに陥らずにエロースの生を拓くために。

趣味 

 1.トランジスタアンプと真空管アンプ(わたしの音楽・オーディオ半生)
 2.BMWミニクーパー讃
 3.真空管アンプー再トラックバック
 4.わたしが愛する指揮者―オットー・クレンペラー
 5. 『ミニ・インターナショナル』ラトルとベルリンフィルの革命
 6.新コンセプトスクーターと21世紀
 7.2004年私の音楽体験ークラシックの10枚
 8.BMWミニ・クーパーの乗り味は?

9.嬉・生誕120年「クレンペラー再考」-レコード芸術4月号特集!!(増補4月2日)
10.う~ん、凄い ♪ラトル・ウィーンフィルの「第9」
11.ショスタコービッチ交響曲5番の真の姿を示した稀代の名演
12.バッハ「管弦楽組曲」クレンペラーの名盤が復活!
13.ブランデンブルク協奏曲ークレンペラーの名盤(ロマンはロマン主義を退治しないと花咲かない)
16.ザ・ベスト・オブ・スイング・ジャズ―UCCU 1055
17.宿題の三曲、ベートーベン
18.ベートーベンの初期の三曲―穢れなき純粋な力に溢れた名曲
19.コンパクトデジカメのベストは?コンタックスを愛用する私の一押しはコニカミノルタのディマージュA200
20.エレーヌ・グリモーが創った「愛」の音楽
21.※驚愕※空前絶後の音楽―1968年・クレンペラー・ウィーンフィルのライブ
22.BMWミニクーパーのユーザーレポートです。
23.トヨタの思想 vs BMWの思想
24.クレンペラーのベートーベン「コリオラン」「交響曲4番」
25.独創―革新!日本のMINIになれるかも?三菱の軽自動車=i(アイ)
26.カーオーディオ=思いがけない改善!!マイナスイオン発生器・1880円なり
27.マウンテンバイク開眼!
28.ラモーの「ピグマリオン」―古楽の名盤
29.考えられた「愉悦」は愉悦ではない = ポリーニのモーツアルト

30.ビックリーお買い得のモーツァルト序曲集―Vonk・ドレスデンシュターツカペレ
31.ベルリオーズの「トロイ人」(ロンドン交響楽団の自主制作版・デイビス指揮の12枚組ボックスより)
32.小沢・サイトウキネンのショスタコーヴィチ交響曲5番
33.ベルリオーズの世界ーコミュニティ創設







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人間と教育の原理ー「実存は本質に先立つ」ー優れた人

2005-06-24 | 教育

人間と教育の原理ー「実存は本質に先立つ」ー優れた人とは?


わたしが思う「優れた人」とは、吸い取り紙のような吸湿性をもった人です。
襞(ひだ)が細かく、襞が多く、襞が深い人です。
逆に言えば、自分の心を、素直に・自然に・自由に開くことのできる人です。
死ぬまで「固まらない」人です。

「伝統」という概念に固執し、縛られ、固い鎧兜を着た人には、発展性がありません。優れた人とは、「伝統」から新しい世界を生むことのできる人です。
古いものに縛られ、自由な想念を広げることのできない人は、自他を共に不幸にします。

自民党文教族の人たちの顔は、総じて固く神経質な顔ですね。人間的な柔らかさ・面白みがなくエロースの少ない顔です。既成秩序が優先し、自由な発想が乏しく、内容の豊かさは後回しで、保守的で固い論理をもった形式好き、特に国旗と国歌を熱愛するフェティシスト、そんな顔にしか見えません。失礼!(エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』ー顔は顕現する!)

このような人たちは、本来、最も「子どもたちの教育」にはふさわしくないはずです。ある特定の傾向に人間を閉じ込める=固い「理念」を優先させるやり方は、本質的に人間の教育には合いません。本来、大人は虚心に子どもの姿を見て学ぶのです。スキンシップを含む「心身全体での対話」という方法が教育における理念なのです。予め決まった内容を持たない「理念ならざる理念」です。

人間の様々な事業の中で、唯一、教育のみが通常の意味での理念をもってはならない営みです。民主政治と同じです。実存する子どもたちを見て、どれだけ吸い取り紙になれるか?一見、非合理にしか見えない子どもの言動・全身から発するメッセージを、心身の全体でどこまで受け止めることができるか?が、勝負なのです。子どもたちの実存のありようによって、常に自在に変化してゆく通常の理念とは異なる「理念」が求められます。人間教育においては方法が理念の役目をもつのです。「実存は本質に先立つ」からです。

「よき人間を育てる教育」のためには、「工場生産物の品質管理」とは正反対の思想と方法が必要とされます。人間は何かのために存在するのではなく、生きること=存在すること自体が価値・エロースなのですから。この原理を知らず、「政府」の思想に従わせようと考える愚か者を私は絶対に許さないでしょう。子どもー人間に対する冒涜者=「国家主義者」以上の悪者はいません。通常の犯罪者とは次元が違います。

2005.6.24 武田康弘

上記の文書は、3月18日の文書に少し加筆し、意匠を変えたものです。重要な原理だと確信していますので再度発表します。


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メール・竹田青嗣さん綿貫信一さん「マルクス思想のアキレス腱ー鳥肌が立ちました。」26日ー追加

2005-06-22 | 恋知(哲学)

昨日の「わたしの哲学と思想」について、哲学者の竹田青嗣さんと綿貫信一さんからメールを頂きました。感謝です。公共的にも大きな価値を持つ「思想的な部分」について公開します。「理論」や「主義」ではなく、「哲学」を拓くために!


竹田青嗣さんからのメール

「原理上、認識論は「観念」を先立たせなければ成立しません。したがって「唯物論的認識論」とはそれ自体が言語ー概念矛盾です。だからマルクスは認識論が書けず、ヘーゲルのそれに拠るしかなかったわけですが、そのことを彼が自覚できずにいたことがマルクス思想を「主義」として教条化させた深因だ、と私は見ています。」(武田)

これはまったく賛成、ほんとにその通りと思います。認識論の原理がはじめにないと、何とでも直観補強できるので、哲学の名前に値しない。いや、こういうことを理解しているひとが少ないのでほんとにこまります。(竹田)


綿貫信一さんからのメール

「話はそれますが、「認識論」抜きの哲学は哲学ではなく、人生論やただの主義にし
かなりません。原理上、認識論は「観念」を先立たせなければ成立しません。したが
って「唯物論的認識論」とはそれ自体が言語ー概念矛盾です。だからマルクスは認識
論が書けず、ヘーゲルのそれに拠るしかなかったわけですが、そのことを彼が自覚で
きずにいたことがマルクス思想を「主義」として教条化させた深因だ、と私は見てい
ます。」(武田)

私はとても強く納得しました。(この話を土曜日の「哲学の会」に聞いた時は鳥肌が立ちました)
何故マルクスが哲学者ではなかったのか、そしてマルクス「主義」として酷く教条化
していったのかが、非常に明確に分かりました。(綿貫)


竹田様、綿貫様
とてもありがたいコメントです。心強い限りです。


追加:以下は、6月26日の綿貫さんからのメールです。

話が戻りますが、この前のマルクス主義の件です。
やはり「生」の話し言葉で聞くインパクトは凄いと思います。
私はさほどマルクス主義の呪縛はありませんでしたが、やはりソ連崩壊後もずっとモ
ヤモヤとしたものが残っていました。竹内芳郎や竹田青嗣の論で何となく分かったつ
もりでいましたが、決定打では無かった…。

6月18日の「哲研」のあの場で、深い納得を自分の言葉で発言したかったのですが、あまりに感激してしまって何も言えませんでした。
「唯物論的認識論自体が矛盾」と聞いたときにアッ!(以下空白です)

綿貫信一

ほんとうにありがたい話です。感謝!です(武田)。





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わたしの哲学・思想についてー徒然なるままに

2005-06-21 | 恋知(哲学)

昨日の公共哲学MLのメールに少しだけ手を加えて公開します。武田思想の理解のために!です。なお、このメールに対して竹田青嗣さんと綿貫信一さんからメールを頂いていますが、明日公開しまので、期待して!お待ち下さい。



「メタノイア=回心の重要性は、実存主義の影響を強く受けた(+プラトン?)ように思われる武田さんの問題意識にも通じるでしょう。」(山脇)

との山脇直司さんの言説を受けて、 「私の思想」について徒然なるままに書いてみましょう。

わたしの思想について 武田康弘

私は小学生の時以来、「なぜ?」と考える欲求が強く、大人を「質問ぜめ」にする子どもでしたが、同時に内臓疾患で苦しんでもいました。人間が「欲望存在」だという原理を見つけたのは小学6年生の時ですが、書物や他者の話としてではなく、考え・悩んだ末の「覚醒」=結論でした。

私は自分の「日々の経験と実感」に基づいて「自分で考える」ことが何よりも好きでしたから、哲学や思想の本を読むことは好きではありませんでした。「変な人だな。わざわざ難しくして。感覚の鈍い人だな。ピントが外れているな。」 誰の本を読んでもあまり感心しなかったのです。

まして宗教者の固いあるいは「マジメ」な人間性にはウンザリで、どこか深いところで「インチキ」(自己欺瞞)をしているな、としか感じることはありませんでした。ついでに言えば、千代田区神田と文京区向丘が私の故郷?ですが「皇居」=天皇という存在は、まったく理解不能―不自然極まりない非人間的なものにしか見えませんでした(もちろん今でも)。*「皇族の人権と市民精神の涵養」を参照してください。

話を戻しますが、始めに書いたように私は小学6年生の時に「回心」したのですが、それは高校生になって「歎異抄」を読み、「回心」は自力から他力への回向一回だけという記述に触れ深く「納得」するところとなりました。

私が影響を受けたのは、主には、親鸞の他力主義であり、白樺派の楽観的人間主義であり、ソクラテス・プラトンの恋知学であり、マルクスの熱い現状改革主義であり、サルトルの全体的人間主義であり、フッサールの原理的な認識論ー現象学です。
大学生の時に読んだ竹内芳郎の「サルトル哲学序説」(筑摩叢書)は長いこと私の基準になっていました。

私の哲学の立場は「現象学的存在論」です。
認識論ー現象学は、「学」としての哲学の最深の基盤なのですが、その最も有効な理解は、竹田青嗣の一連の現象学に関する著作です。これは認識論の「世界基準」です。
話はそれますが、「認識論」抜きの哲学は哲学ではなく、人生論やただの主義にしかなりません。原理上、認識論は「観念」を先立たせなければ成立しません。したがって「唯物論的認識論」とはそれ自体が言語ー概念矛盾です。だからマルクスは認識論が書けず、ヘーゲルのそれに拠るしかなかったわけですが、そのことを彼が自覚できずにいたことがマルクス思想を「主義」として教条化させた深因だ、と私は見ています。

話を戻します。
思想とは本来「生きられるもの」であり、それを深く了解するためには、「理論」ではなく、まさに「哲学」として遇さなければならないのです。哲学とは広義の実存論のことであり、広義の実存思想でない哲学とは哲学ではなく、何かしらの「理論」に留まります。人間の心の問題ー探求を基盤としない知は哲学ではないからです。これは「原理」です。

以上、ちょっと思いつくままに書いてみました。

2005.6.21


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シリーズ・哲学の核心ー「認識における言語、体験能力、よき生」

2005-06-20 | 恋知(哲学)

教育が普及した近代社会―啓蒙時代以降、私たちは、事象―事態を言葉や数字等の記号に表すことで「分かった」と思うようになってしまいました。それがしばしば的外れの「確信」(紋切り型で形式的―表層的な理解)でしかないことに気づこうとしません。

元来、言葉や数字は過剰になると物事は見えなくなるものです。

肝心なことは、心身の全体を使って直截に知ろうとすることーよく見て、よく聴いて、よく触れて、よく味わうことです。言語化したりされたりする以前の豊かで大きな世界を心身の全体を使ってよく経験すること。言語によって観念化される前の事象―事態そのものを全身で感じ知ろうとすることです。

言葉に言葉がもつ以上の役割を与えてしまった言語中心主義、言葉を神にしてしまう言語教が、世界を小賢しく小粒にしてしまい、神経質でかつ鈍感な人間を生み出してしまいました。言語だけを明確にする技術を仕込まれた哀れな「優等生」は、自分には何も見えていないことに気づきません。柔らかく掬い取るように対象と触れ合うことのできない本質的に鈍感な人間を、私たちの社会では「優秀」と呼んでいます。

だがしかし、偽善―形式主義―紋切り型の言葉=社会システムを変えていくにもやはり言葉を使うしかありません。言語を神にしてしまう上記のような逆立ちを防ぐために注意しなければならないのは、?言語を明確にすることではなく、言語は、意識を明晰にする手段として使うこと ?言語によってできることと、言語ではできないことを区別することです。

心と体で感じること、想うこと、五感の全体で感じ知ることー感覚の明晰と悦び、感情の豊かさと深さ、それこそが核心です。人間の幸福=よき生とは、詰まるところ心身の快活と充足であり、魂の覚醒と喜びなのですから。

よき生のためには、記号化(言語化―数字化)したことで「分かった」―「知った」と思う単純で硬直した意識を繊細でしなやかなものにする必要があります。観念が優先して言語に囚われている人は、目の前の物、事象、事態が全然見えません。感覚が鈍磨して空気を読むことができません。気配を察することができません。心身が硬く、型はまりで、自己の観念に閉じこもっていると、自分を取り巻く世界からエロースを汲み取ることができなくなります。

豊かに感じ、豊かに知ることが、よく生きることです。心身全体で感得し、心身全体で生きたいものです。よく見、よく聴き、よく触れ、よく味わう力=体験能力を養うことが、人間に言語使用を可能にしている想像力の世界を広げることになるのです。体験と想像の力が乏しいと全ては砂上の楼閣(ろうかく)となって、生きる意味が消えてしまいます。

認識における言葉は、意識を明晰にするためや、既成社会に囚われている心を解放するためにこそ使われるべきものです。言葉によって固定観念に縛られ、身動きがとれなくなったのでは本末転倒です。価値ある認識をもたらす生きた言葉の使用には、体験と想像の力が不可欠です。頭と心と体のすべてを存分に使って、生き生きと知りー生きようではありませんか。(武田康弘)


(以上は、ブログを立ち上げる前、2004年2月29日に書いたものですが、「核心」の文書ですので、ブログに載せます。)





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実存として生きるー白樺フィロソフィーと民知の理念

2005-06-18 | 恋知(哲学)

公共哲学のパイオニアー推進役の金泰昌(キム・テイチャン)さんの来訪・会談については、昨日のブログに載せましたが、キムさんが「深く感動、熱く共感」してくれた「白樺フィロソフィーと民知の理念」を以下に貼り付けます。


実存として生きる
市民大学 『白樺フィロソフィー』 と民知の理念
 武田 康弘


「生活世界」の中から新しい意味と価値をつくりだそうとすること。 日々見慣れたもののなかに新たな〈意味〉を見いだし、生活の中に小さくとも新しい(価値)を生み出してゆこうとすること。
それが人間が人間としての悦(よろこ)びをもって生きるための条件だ。
新たな意味と価値の予感の中に生きることを、私は、「実存として生きる」と呼ぶ。

そのような生は、硬化した社会システムとはなじまない。
なぜ? どうして? なんのために? 意味と価値を問うことは、必然的に既存(きぞん)の社会システムの固定化、マンネリ化を許さないからだ。実存としての生は、序列意識や権威主義とは相容(あいい)れない。

権威主義者は、序列と所有にこだわる。過去や過去の価値に拘泥(こうでい)する。しかし本当に問題となるのは〈今〉だ。未来への希望と現在の充実であり、過去ではない。 過去はこの今の判断に節度と落ち着きをもたらすために役立つが、それ自体が目的とはならない。過去の事実を知り解釈することの意味は、エロス豊かな未来を生み出すためにのみある。

未来は誰にとっても未知のもの。今の一刻一刻の行為〈考え・判断〉が、未来を決定してゆく。今の、未来へ向けての投企のありようが、〈私〉という人間をつくってゆく。この未来への投企を促(うながし)し、支える知が「生きた知」である。

生きた知は、具体的経験としての意識の流れからつくられる意味に満ちた知だ。 生成変化してゆく事象や精神をそれとして直截(せつ)に見ようとする。具体的な課題-問題、疑問-問い、関心-欲望から出発するこの知は、生きるパワーとエネルギーを生み出す 認識 である。

それに対して従来の知一学問は、終わったもの一出来上がったものから過去を解釈する「死んだ知」でしかない。既成の概念(がいねん)と範疇(はんちゅう)から出発する強制された記憶の集合物にすぎない。そこでは死んだ言葉=文字言語が崇拝され、権威的システムによって決定された過去の記憶が「学問」と言われる。学者の世界でいう創造とは、既存の概念と情報のパッチワークのことでしかない。このスタティックな理屈の膨大な建造物=知の廃墟は、人間の生を抑圧し、頭を不・活性化させてしまう。概念化が手段ではなく目的となるために、直観=体験能力が衰弱してゆく。やがて、言葉上の矛盾の指摘や辻褄(つじつま)合わせが知的な作業だと思い込むようになる。言葉‐概念の操作が、具体的な体験の悦びを越えた「エロス」に昇天(しょうてん)する。

この理屈‐形式‐知識による陰湿な知の支配に終止符を打つのが、新しい生きた知=実存としての生を支える知だ。一人ひとりの個人の生を勇気づけ、元気づける知だ。東大と官僚の官知による支配‐序列意識をその根元から裁ち切る知だ。

市民大学『白樺フィロソフィー』は、深い納得を生む意味に満ちた知をつくりだすための機関である。意識の深層に届き、黙(もく)せるコギトー(自己意識)に答える新しい学問は、生活世界の具体的経験の明証性から出発し、またいつでもそこに立ち戻ることのできる民衆の知=民知だ。この民知イコール広義の哲学は、民主制を要請し、逆にまた民主制を支える「知」でもある。

従来の学問は、学的世界という特殊な環境の中でしか生きられない脆(ぜい)弱で問的な知の体系にすぎない。権威と学の伝統という鎧(よろい)に守られていなければすぐに潰(つぶ)れてしまう。
もはや私たち市民は、意味のないスタティクな知の殿堂=廃墟に呪縛(じゅばく)されている必要はない。より大きな普遍性、腑(ふ)に落ちる知、民知の探求に乗り出そう。

出来上がった建造物や社会制度や人間精神や・・・・を見て結果を解釈する従来の知がつまらないのは、死んだもの‐輪郭(りんかく)線に過ぎず、実存としての生にとっての有用性がないからだ。テストゲームと他者を支配すること以外には役立たない干乾(ひから)びた惰性的(だせい)な知だからだ。やればやるほど生気を失う。輝きやツヤが消えて、溌剌(はつらつ)とした魅力が奪われてゆく。

事象や生の原理にまで降り、創造の只中(ただなか)に立って生成のありさまを見、知る生きた知、広義の哲学=民知には形式ばったもの、儀式めいたものは何もない。豊かな内容が自(おの)ずと形をつくり、また変えてゆく。囚(とら)われがなく、軽やかで、刺激的。ざっくばらんで、真剣で、愉(たの)しい。やればやるほど元気がでて、勇気が湧いてくる。

『白樺フィロソフィー』は、21世紀を担う新しい生きた知=民知をつくりだそうとするエロス溢(あふ)れる試みだ。それは、実存としての生を支える広義の哲学、新たに意味論としてつくり直される全ての「知」である。
 
〔2000年8月6日 武田康弘〕

これは私が創った「白樺文学館」の初版パンフレット(12ページ・発行5万部)に載せた「基本理念」です。ただし今の「白樺文学館」は大きく様変わりしてしまいました。この理念は現在、「白樺教育館」で具現化しています。




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「公共哲学」編者ー金泰昌さん来訪・会談ー『実存として生きるー民知の理念』

2005-06-17 | その他

一昨日、「公共哲学」の推進者―金泰昌(キム・テイチャン)さんが若手の研究者の厳麗京(ヤン・リジン)さんと共に拙宅及び「白樺教育館」を訪ねてくれました。金さんは、シリーズ「公共哲学」全10巻(東京大学出版会)の編者です(もう一人の編者は佐々木毅・前総長)。

5時間20分に及ぶ会談は大変有益で、実に愉しいものでした。意気投合しましたが、金さんがわざわざ大阪から上京して私に会いに来て下さったのは、「白樺教育館」の基本理念―『実存として生きるー白樺フィロソフィーと民知の理念』に「深い感動と熱い共感をもって」のことです。とてもうれしいことです。

「公共哲学」発展のための私の問題提起は次回以降にしますが、まずはその『理念』をぜひご覧下さい。クリックすれば見られますー実存として生きるー白樺フィロソフィーと民知の理念 なお、この「理念」の文書を金さんに送られたのは、山脇直司さん(「公共哲学とは何か」・ちくま新書の著者)です。感謝!

私は今から鎌ヶ谷市の公民館で「哲学講義」です。宣伝のために(笑)今のテキストは、「柳宗悦―手としの人間」(伊藤徹著)です。

6.17 武田康弘




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ショスタコービッチ交響曲5番の真の姿を示した稀代の名演

2005-06-15 | 趣味

この曲の名演としては、1973年、東京文化会館でのムラビンスキー初来日時のライブが知られています。私もその時会場にいましたが、それまで聴いたどのオーケストラとも異なる異様なほどのアンサンブルの冴えに唖然として声を失いました。ムラビンスキーの透徹した指揮、高潔、孤高の精神が具現化したような音楽には心底感動しました。私の音楽体験の中で最も強く記憶に残る一夜です。この日のライブは2000年にキングレコードからCD化されました。(Altus-ALT・002)

しかし、この曲は一周遅れのトップランナーのようで、ムラビンスキー体験の前後に名演と呼ばれたレコードは一応聴きましたが、どうもあまり感心できませんでした。

ところが、もう10年以上前ですが、偶然入手した「新星堂」発売の廉価版CDを聴いて茫然自失!まったく曲のイメージが違うのです。異様なほど遅いテンポで奏でられる荘重な美しさに満ちたメロディーは、深く沈みこみ、真の悲劇がくり広げられています。そのときにショスタコービッチ晩年の「証言」の意味がはじめて分かりました。この曲は社会主義リアリズムなどとは全く無縁であることが痛いほどに。

指揮は息子のマキシム・ショスタコービッチで、ロンドン交響楽団の演奏です。録音は1990年ですが、大変残念ながら現在入手は不可能です。中古を探すしかないようです。

でも不思議なのはこの曲の真価を現した「歴史的」な名演奏がなぜ評価されずにいるのか?ということです。批評家は先入観に囚われて聞けていないのかもしれませんね。完全に無視されていて話題にすらなりません。受け入れる「精神の器」がないのでしょう。

この交響曲がロシア・ソビエトの重戦車の音楽ではなく、20世紀の人類の悲劇を深い叙情をもって美しくかつ強靭に歌い上げた名曲であることを証明した稀代の名演が埋もれてしまっているのはなんとも残念です。私の愛聴盤で、来る人みなに聴かせていますが、孤高の作曲家・清瀬保二のお弟子さんー松橋桂子さんも、日本最高の声楽家だった柳兼子さんのただ一人の内弟子―大島久子さんも驚き感動していました。

「新星堂」さん、ぜひ再発売をお願いします。



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竹田青嗣著 『言語的思考へ』ー世界的名著の解題的書評

2005-06-12 | 書評

本書が出てから3年以上経ちますが、この書は、「言語論」に新たな地平を開いた世界的名著です。じっくりと時間をかけて読まれることをお勧めします。難解な言語の原理論ですが、推理小説のように面白い!この書評は、2002年5月「白樺教育館ホーム」の民知の図書館に載せたのですが、脚注のカタチで出したので、ほとんど読まれていないと思い、ブログに発表します。


解題的紹介 竹田青嗣著「言語的思考へ」
径書房(2001年12月)刊・定価2200円+税

 現代思想は、その主張の論拠を<言語理論>に置いています。したがって、現代の哲学思想問題は、言語理論の検討を必須のものとして要請します。

 しかし、単なる言語学(言語を分析する科学)の対象となる言語(これを竹田さんは「一般言語表象」と呼ぶ)をいくらがんばって追いかけてみても、生きた現実の言語について知ることはできません。

 言語問題の中心にある言葉の意味とはなにか?を明らかにするためには、現象学の方法を徹底させることが必要です。なぜなら、現実の生活世界から立ち上る意識―言語を問題としなければ、言葉の意味を確定することはできないからです。

 同一の語や文も異なる状況の中で多様な意味を持ちますが、生きた実際の発話の場(文学や理論の言語もそれぞれ独自の発話場をもつ)を踏まえれば、意味を決定することができます。

 言葉を人間のそのつどの関心、・欲望から切り離して科学的な分析の対象としてしまうと、意味は多様となり決定不可能性に陥ります。言語学の祖・ソシュール、ヴィトゲンシュタイン、現代思想のデリダまで従来の言語理論は、形式論理によって言語を分析してきた為に、言葉の意味が確定できないという「言語の謎」に逢着(ほうちゃく)してしまいました。

 現象学による現実言語の解明ではなく、形式論理の言語学による言語分析(一般言語表象)では、この「謎」を解くことができません。そのために言語理論に依拠する現代思想は、「何事もすべて決定不可能」という結論に導かれてしまったのです。こうして現代思想は、従来の思想を批判するだけで、新たな思想の原理を提示することが出来ない事態となり、終焉する運命になったのです。 

 人間や社会問題の原理的な解明のためには、実存論(現象学的存在論)の立場による分析が必須ですが、当然のことながら言語論もその例外ではないことを証明したのが、竹田青嗣著の「言語的思考へ」です。

 明治以来、日本ではじめて誕生した世界水準を抜く哲学思想の書に、乾杯!
私は、本書は歴史的名著となると確信しています。

武田康弘



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東大病ー近代天皇制=ヒステリーの制度化

2005-06-09 | メール・往復書簡

「東大病」=思考力の減衰(東大教授・山脇さんとのメール)-このすぐ下の記事
に対して以下のようなメールがありました。法律の専門家の方からです。


「日本の社会・人間問題の底には、「東大病」という名の精神病があります。右翼も左翼もその点では同じです。」(武田)

右も左もだけでなく、エリートも非エリートも「東大病」にかかっています。
もちろん私もそうです。
いくらか自覚があるかどうかの違いだけです。

「東大病」の根っこが近代天皇制にあるという認識が重要であると思います。
敗戦をきっかけにこれを清算すべきだったのですね。
それがないまま60年も過ぎてしまった。



そうですね。内容ではなく形式が優先するのです。それが人間を幸福にしないわけです。
東大生や東大教授個人が「どうこう」の問題ではなく、「一極絶対のヒステリー」の制度が皆を不幸にするのですね。意識を歪め、内容の豊かさを損なう生き方―価値観の象徴が「東大神話」です。その根っこが「近代天皇制」にあることはもちろんです。

誰とも何も変わらない生身の同じ人間を、「日本国民全員を統合する象徴」!?にしているのですから何ともおかしな話です。
生まれながらにして全て特別待遇の人間が存在し、「皇族」であるだけで敬語が使われるとは、人間の平等に反しますね~。ほんとに。
「東大」であることが偉かったり、「官僚」であることが偉かったり、「巨人」であることが偉かったりするのと同じです。
理不尽な話なのに誰も何も言えずに黙っているしかない。おかしな敬語で遇する。爽やかでない空気をつくって人々の深層意識を抑圧しているのが、こういう「形式が支配する」非人間的なシステムです。ヒステリーが制度化された社会が明治以降の日本です。

もっともこれだけ一極集中していると「もろい」ですから、本気で取り組めば変革は容易かもしれません。
「王様は裸だ」!と言い出す人が幾人か出れば、個々人から出発するエロースを奪うおかしなシステムは瓦解するでしょう。
もう21世紀、古代国家ではないのです。いつまで不合理極まりない「元号」を使い、時間―時代区分までひとりの人間の生死にゆだねているのでしょうね。愚かです。

「皇族の人権と市民精神の涵養」をぜひご覧下さい(クリック) 。日本社会の健全な発展のために、また皇族の人権を回復するためにも明治政府が作った「近代天皇制」を改めることが必要です。天皇家を「歴史・文化的存在」とし、天皇「象徴」の規定をやめなければいけません。

6.9 武田康弘

付加:6月10日 山脇さんからのコメントが入りました。わたしのコメントも貼り付けました。「コメント」をクリックしてご覧下さい。問題の本質が明瞭になると思います。




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東大病=思考力の衰退 (東大教授・山脇さんとのメール公開)

2005-06-07 | メール・往復書簡

私とメールで思想的なやりとりをしている山脇 直司 さん(「公共哲学とは何か」の著者・東大大学院院総合文化研究科教授)へのメールです。(公開にあたり一部カットしました)山脇さんからは「重く受け止める」との返信がきています。
以前の山脇さんとのやりとりについては「メール・往復書簡」クリックをご覧下さい。


山脇さんへ。
小堀桂一郎(東大名誉教授)のこと、
なるほど、そうですか。

情報処理能力と思考力は逆比例しがちです。自分の頭で考えることを始めると、深層的な理解は深まりますが、表層的な処理能力は落ちます。日本の教育は、深層の力(本来の意味での哲学)の開発については全くというほどできていません。したがって日本で頭がいいというのは、真に自分の頭では考えず、情報をパッチワークする能力が高いということにしかなりません。

深い思考力の持ち主=ソクラテスが文字を残さず、しかも自国語しか話さなかったということ、アインシュタインがアメリカに移住しても英語は最低限しか使わず思考はすべて母国語(ドイツ語)で行っていたこと、などの意味を掘り下げてみるのも一興かと思います。

ちょっと話がずれてしまいましたが、
戦前の東大国史科・主任教授の学生への一言ー「きみ、農民に歴史があるのかね?ブタに歴史がないのと同じで農民に歴史があるはずないだろう」と同じで、頭の芯が歪んでいて、歪んでいるのが自分の「偉さ」だと固く信じているのですから救いようがありません。現在の日本の「高級!?官僚」も同じ歪んだ「エリート!?」意識に囚われていますね。
(「イワンのばか」を書いたトルストイはさすが!です。)

日本の社会・人間問題のには、「東大病」という名の精神病があります。右翼も左翼もその点では同じです。『人間を幸福にしない日本というシステム』の源は、人間の価値・能力に対する偏った見方(あまりに侵食されているのでほとんど自覚できない)にあると思います。日本社会の本質的問題とは左右の政治対立という次元の話ではなく、もっと深く人間的エロースの源泉を涸らしてしまう[単眼的価値観刷り込み]の思想・制度(社会思想的なことばで言えば「近代天皇制」)にあると思っています。韓国の人が「日本人は三人集まればもうそこに天皇制が始まる」と言いますが、その意味するところは何か?を探ることが核心です。外面、役割の固定化、秘密主義、、、、、

即物的、決定論的思考、序列主義ー権威主義、紋切り型、深層ヒステリー、潔癖症、規範主義、、、、しなやかさー自由さを消去するこうした意識は深く人間生活の全てを覆っています。ちょっと油断すると改革者の頭も心もすぐに染まります。或る「構造」が厳として存在するからです。有名大学に行くのは、日本社会での序列上位を獲得することが最大の目的なのですから、『哲学』は永遠にやってきません。哲学は大学内「哲学科」の職業としてだけ存在する、というわけです。

山脇さんはめずらしく現状変革的な方なので、ぜひ内部からの問題提起をしてもらいたいと思います。いかがでしょうか?何よりも深く重い課題ですが。同志としてエールを送ります。

2005.6.6 武田康弘



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増補:A級戦犯が合祀されているから「靖国」が問題なのではありません

2005-06-04 | 社会思想

そんな次元の話ではないのです。
靖国「神社」(日本の神社の伝統とは全く異なる明治政府がつくった施設)という極めて特異な思想を持つ神社ならざる神社に「まつる」ことが間違っているのです。

戦前の「天皇主権」という特異な国家から民主制社会=「主権在民」社会に進化した日本の戦没者の慰霊に、国家神道=天皇教の総本山であった「靖国」がふさわしくないのは誰の目にも明らかです。大多数の戦没者は職業軍人ではなく、赤紙一枚で強制的に戦地に送り出された民衆です。明治政府がつくった「国体」=「天皇制イデオロギー」の犠牲者です。この事実に反論できる人はいないでしょう。

「国体」という極めて特異なイデオロギーとそれに基づいた政治を根本的に反省し改めなくては何事も始まりません。その思想を今日でも堂々と主張し、展示し、宣伝映画を毎日エンドレスで流している靖国「神社」にいつまでも「まつって」おくとは一体どういうことなのですか?「答える」ことができる人はいますか? 明治政府が政府側に立った兵士だけをまつるために作った施設、戊辰戦争や西南戦争で「反・政府」の側に立った人間はまつらないという日本の伝統を否定したこの「神社」(国家神道という明治政府が作った新・宗教の総本山)にまつっておくことは根本的な間違いです。

現代の日本人は、特殊なイデオロギーの信奉者でない限り「靖国思想」に賛同する人はいないはずです。
政府は一刻もはやく兵士だけでなく全ての戦没者をまつる「公共墓苑」の創設に着手しなければいけません。これは現代の政治家の義務です。論を待ちません。


増補:本日6月5日朝の8チャンネルで「靖国」問題を取り上げていました。不十分ながら管民主党前代表は、「国家神道」と神道の違いを指摘していましたが、竹村や西部など他の出演者は、靖国の「国家神道」と伝統の神道との根本的相違に無自覚で、笑止でしかありませんでした。大学の学長(西部)がこれほど無知な国もないでしょうね。明治政府の日本像改ざん=洗脳の深さを見る思いです。

6.4 武田康弘



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9条改憲は目くらましー保守主義者の真の狙いは何か?

2005-06-02 | 社会思想

保守主義者は、憲法論議で何を獲得しようとしているのか?
自民党右派の真の狙いを批評家は誰も分かっていないようです。

9条の改憲は目くらましです。
真の狙いは、「天皇制国家―日本」の確立なのです。
彼らは憲法前文の改定によって、実際上1条の象徴天皇規定の内実を強めていこうと考えています。元号の使用を役所に義務づける法律の制定に始まり、明治天皇賛歌の「君が代」を国歌として法制化し(戦前の日本でさえ法制化は見送られました)、さらに学校現場での歌唱の強要、昭和の日の制定、、、、。一連の政策はみなそのための布石です。

欧米とも中国とも異なる日本の国の姿を「天皇制」に求めることで、強いアイデンティティーを確立するのが保守主義者の「夢」なのです。
彼らは、山県有朋の明治政府が作った「国体」イズムを平成版にソフィスティケートして復活させることによって、保守主義の永続化を目論んでいます。女性天皇も形式的な議論の末に容認することで、かえって天皇制を揺ぎないものにしようとしているのです。
9条改憲によってアメリカとの軍事同盟を強化することは、天皇制保守主義の政権を維持するための基盤ですが、9条問題だけに目を奪われているとひどいことになります。

では、なぜそれほどまでに保守主義者は「天皇(制)」に求心力を求めようとするのか?
答えは簡単です。自分自身から出発する「よきもの」を育てつつ生きることのできない外面人間は、即物的な現実主義の醜さとはかなさを糊塗する装置を必要とするからです。保守的権力を安定して維持してゆくためには、宗教儀式を生活の中心に置いている天皇―皇室を利用することが必須なのです。「天皇制」とは占有する権力を聖化するアイテムです。

何も本質が見えない不感症の民主党は、この自民党右派の遠大な戦略に気づいていません。「市民精神」に基づく政治哲学が未確立なために、深いところで彼らに対抗することができないのです。
言うまでもなく、国体思想=明治政府がつくった近代天皇制と民主制=市民自治とは本質的に背反するものです。

こわばった固まじめな心ー厳禁の精神ー国家主義に通じる思想ほど愚かなものはありません。ばかばかしい復古趣味は市民みなの迷惑です。自民党右派の「天皇制ー日本」のおかしな思想には明白に「ノー」の意思を示したいと思います。



「皇族の人権と市民精神の涵養」および「水の国ー日本、よき伝統を破壊したのは誰ですか?」をご参照下さい。

明治政府が破壊した日本本来の伝統については、「感性としての日本」(北沢 方邦著 2002年11月 藤原書店 \2600(2730円税込)をお読み下さい。




6.1 武田康弘


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