県西総合病院と筑西市民病院が一緒になった中核病院を作る案が、混迷を極めていた頃、私は、なぜ茨城大学には医学部がないのか、疑問に思っていました。
私が学んだ千葉大学には医学部がありましたし、奥さんの実家のある群馬県には群馬大学病院がありました。だから、どの県にも、医学部のある大学はあって当然と思っていたのです。
そんな疑問を持っていたとき、茨城大学工学部で教鞭をとっていた方が、「昔、茨城大学にも医学部をつくるチャンスがあったのだよ」と教えてくれました。
東京オリンピックが始まる前、つまり1964年(昭和39年)以前のころ、茨城大学に東龍太郎という学長がいました。この方は、医師免許をもった学長で、この人が、茨城大学に医学部をつくるために学長になったのだと期待したそうです。
時々、学長講話として、工学部(日立市にある)にきて話しをしたそうです。ところが、東氏は、オリンピック誘致の話ばかりだったそうです。
そのうち、学長をやめ、東京都知事に立候補し、東京都知事になり、東京オリンピック誘致に成功したと言うわけです。
そうこうしているうちに、岩上二郎知事が誕生し、医学部より鹿島開発に力点をおいてしまい、医学部をつくる話は、なくなってしまいました。
茨城県がいつも全国最下位に近い医師数になっている原因は、茨城大学に医学部がないことが大きな原因なのです。
今日の茨城新聞の訃報欄をみて、そんな話が思い出されたので、書いてみました。