◎ダンテス・ダイジの初期の説法から
(2014-09-11)
ダンテス・ダイジの説くところは、彼の説法の初期においては悟りと無関係な、「その人らしく生きる、その人の天命を生きる」(ライフ・スタイルの悟り)といったものでも良しとしていた。これが、末期になると、悟りと無関係な、いわば能天気な生き方で良しとする方向性はなりを潜め、悟りはどんな人間にでも必須のプリンシプルであるということが通底していた。
それでも初期の説法の中にも時間を越えた見解が随処に散りばめられている。
慈悲、安心、感謝、そういうものは、天国的なものである。それ自体崇高、純粋な境地の属性であり、求めるべきあり方である。ところが天国がある以上は地獄がある。完璧に天国的なものに到達しようとする直前になぜだか、釈迦のケースでもイエス・キリストのケースでも悪魔が登場する。
これは天国だけの悟り。
別の場所で、悪魔・サタンを越えた悟りは、高みを極めた悟りだが、深さにおいて欠けるところがある。深さとは、天国と地獄を包含した悟り。それを「自由の悟り」という。人には天国の悟りが通用しないシチュエイションの人がいて、例えば最愛の人、子供や愛人配偶者と死別したような人。そうした完全な闇にある人がその状態をクリアした場合に天国と地獄を越えた悟りとなる。禅の悟りがそれ。
ちまたでは、この天国の悟りと「天国と地獄を越えた悟り」の区別を知的理解している人も多くはないが、基本である。
『「サタンていうのは、天国を大切に守ろうとしている人にだけ現れる。たとえば、イエス・キリストがさ、荒野で自分を本当に高めようとしたときにさ、高めるっていう方向があるときにサタンは現れるわけ。それから釈迦が成道しようとしてさ、成道するっていうのは、天国的な方向に向かおうとする努力なんだ。そしてそれは絶対に必要なことなんだ、人間にとって。より素敵なものに向かうっていうのは。
そしてその方向に向かってるとき、突然サタンが現れるわけ。それも、釈迦のサタンていうのは、いかにも釈迦っていう人をよく表していてさ、奴の自意識の豊かさっていうのをよく表現してるよ。まだ素朴だよ、キリストのサタンの方が。汝を帝王にする、とか。石をパンに変えてみよ、とか。崖から落ちて飛び降りてみよ、とかさ。その代りにこの世の一切の権力を与えようとかさ、やるじゃない。
で、釈迦の場合に現れたものって言ったら、何のことはない、古女房が現れてきてさ(笑い)、ヤスダラっていうのが女房で、子供がラーフラか。ラーフラを抱きながら、その女房が現れるわけよ。』
(ダンテス・ダイジ1978年の東京是政での説法から)