ウイルスの世界(川喜田愛郎著)

2020-04-30 00:00:21 | 書評
1965年が初版の新書なので、コロナウイルスはまだ発見されていない。つまり、この本を読んだからと言って、昨今の事情に何か役に立つことはまったく書けないし、当時のウイルス学の一人者のレベルよりワイドショーのコメンテーターの方が詳しい(あるいは同等)ような気がする。

ただ、当時の「NHK日曜大学」の4回分のテキストということで、比較的易しく、むしろウイルス発見の歴史といったところが、現在に耐えうる部分と思う。



そして、本稿の最後に、個人的に驚いたことを書くことにする。

まず、ウイルスの存在のことだが、光学顕微鏡しかなかった時代には、発見するには大変困難な時代だった。(本には書かれていないが、野口英世先生は黄熱病の研究でノーベル賞候補にもなっていたのだが、ウイルスではなく細菌性と考えていたようで、ある意味、受賞されなくてよかったのかもしれない)

最初にウイルスの手掛かりをつかんだのは1898年のこと。牛痘の研究をしていたレフトルとフロッシュという二人の学者が牛の水泡液を濾過した液にまだ病原があることに驚く。細菌より小さいものがあるというのが新発見だった。その後、同様の細菌より小さなサイズの病原体が何種類もあるのではないかと多くの学者が考え始めた。その結果、病気ごとに見えないほど小さな病原体があるだろうと推測されることになった。(素粒子論みたいな展開だ)

そして、ウイルスに大きく近づいたのが1935年のスタンレーによる「タバコ・モザイク・ウイルス」の発見だった。一般に植物を宿主とするウイルスは大きく、このタバコ・モザイク・ウイルスは特異的に大きいサイズだった。これを遠心分離器で寄せ集めて束にして結晶化したものを光学顕微鏡で見ることができたわけだ。

ちょうどその頃、電子顕微鏡が使われるようになり、1938年にはウイルスの全体像を見ることができるようになる。といってもそのタンパク質の内部構造が解明されるのは、ずっとずっと後になる。

最初の頃は、ウイルスは細長い紙巻きたばこのような形だと思われていたのだが、より小さなウイルスを見ることができるようになると、かなり様々な形があり、様々な異なる特性があることがわかってくる。

その後、DNAの二重らせんが発見された頃、ウイルスにはDNAかRNAのどちらかが含まれているものの、そのウイルス単体では増殖できず、他の生物の細胞を壊しながら増殖することがわかってきた。といっても寄生虫のようなものではなく、直接細胞の中のたんぱく質を壊してウイルスの増殖に使うという狂暴性があるわけだ。

本書の中では、ウイルスの起源については、DNAとRNAが不完全であることから、ウイルスから生命が発生したという説と、生命の中の不完全なものがウイルスになったという二つの説のうち、後者の方を支持している。


ところで、1965年に初版が刊行された本書だが、著者の川喜田愛郎氏の略歴を調べているうちに大いに驚いたことがあった。生没は(1909年~1996年)ということで、東京帝大医学部卒業後、1949年に千葉大学医学部教授、1968年学長となっている。WHOの技術専門職でカイロに勤務されたことがあるそうだ。本書は56歳の時で、3年後に千葉大の学長になっている。

実は、千葉に住んでいたことがあるのだが、住居のすぐそばの広い敷地に豪邸があって、頑丈な門の表札に「川喜田」と書かれていた。近所の方の話では千葉大学の学長をされていた人と言われていた。住人を見たことはないのだが、おそらくはご子息と思われる人物が住んでいて、迷惑なことに大音量のロックミュージックやエレキギターの音をウイルスのように近所にまき散らしていた。おそらく父親がカイロに勤務していた時だったのかもしれない。

竹林を見て見ぬふりして歩く人たち

2020-04-29 00:00:29 | 市民A
近くの公園は竹林や森林を保存している。とはいうものの、少しずつ荒れていっているような気もする。というか、森林が衰えているような感じ。山の神が怒っているのだろう。一昨年は大風でご神木といわれている榧の古木が上の方だけ折れたし、十年以上前には嬰児のご遺体が見つかった事件もあった。

そして、毎年、4月末から5月になると竹林から、たけのこが出現する。ボランティアで竹林を守る会のメンバーがパトロールして、残すべきタケノコとタケノコ狩り用に間引きするものを選別する。そして解禁日にはご近所の人たちが開始時間に合わせて山に入るのだが、なんとなく危ない感じがある。私も去年、斜面で転ぶという失態をおかして、腕に4か月消えない青あざを作った。



もちろん、今年はタケノコ狩りは行われないはずだ。屋外なので三密ではないものの、密接するのは間違いない。

さらに何年か前には、早朝に盗掘している親子を見たことがある。少なくとも日本の土地はすべて誰かの所有地になっている。公園は横浜市だ。市有地に生えるタケノコは横浜市のもので、竹林を守る会のボランティアの方だって、許可を得ているはず。「万引き家族」ならぬ「盗掘家族だ」。親が子供にタケノコの盗み方を教えるわけだ。



とりあえず、手ごろな大きさの一本に目をつけておいた。

家持、義経、芭蕉、現代

2020-04-28 00:00:11 | たび
義経岩のある雨晴海岸の場所には大伴家持と松尾芭蕉の歌碑と句碑が並んでいる。少し離れた場所に両者とも苔むした石碑があるそうだが、まあ石碑で読むようなものではないかもしれない。古い順に行くと、家持(746年)、義経(1187年)、芭蕉(1689年)、現代(2020年)。間隔は441年、501年、331年。日本史の距離間隔で言うと、芭蕉と現代が最も短いわけだ。



それで、今回は松尾芭蕉を中心に考えてみる。芭蕉はおくのほそ道の旅で、ここに来て一句を詠んでいる。

わせの香や 分け入る右は 有磯海  芭蕉


これは相当に家持を意識している。

「わせの香や」は、俳諧連歌の元になった連歌の始まりとされる一首、
佐保川の水を塞き上げて植ゑし田を(尼つくる)
  刈る早飯は独りなるべし(家持つぐ)

の早飯(わせいい)を指している。この辺りは早稲米の産地で、京都よりも先に新米が食べられていた。そこで私(家持)を辺地(越中)に赴任させた京都の政敵より旨いメシを食っている、と当てつけの一首である。

芭蕉の旅は、江戸から奥州へ向かい、酒田のあたりから日本海を南下していた。したがって富山に来た時には南西に進んでいるので、海は右に見える。分け入るというのは、このあたり、あまり人が住んでいなかったという感じが出ている。

そして最後の『荒磯海』だが、いわゆる歌枕である。そして『ありそうみ』と読む。なぜ読み方がわかるかというと、万葉仮名で書かれているからで、なぜ万葉集に掲載されているかというと、大伴家持が作った造語だからだ。実際の地名ではない。

もっとも、家持が越中の守に赴任した頃から使っていたわけではなく、最初は隣の石碑にあるように『渋谿の清き磯』とかにしていた。『荒磯海』と言い出したのは、赴任している5年の間に、家持の弟が京で亡くなった時に、その悲しい気持ちを海に託して『荒磯海』と表現した。その家持はこの単語が気に入り、量産している。

つまり、芭蕉は中七以外の十音を家持に捧げている。中七の「分け入る右」はかなりのラフロードのイメージだが、ここで芭蕉は寄り道をしようとして、現地の人に止められている。季節はずれの藤を見て初秋のあわれ感を味わいたかったようだが、人里離れた場所にはいかない方がいいといわれたそうで、そのがっかり感が影響したのかもしれない。もっとも芭蕉は幕府のスパイだった可能性が極めて高く、平泉に行ったのも義経の最期の地を見に行っただけではなく伊達藩の探索であり、北陸を歩いたのも前田藩の探索であったのかもしれない。

そして芭蕉はその後、山中温泉から金沢に向かい、敦賀を経由して最後は大垣に向かい筆を置き、川船で伊勢湾に下り、故郷の伊賀上野に向かった。


実は、奥の細道のルートだが、不意に気が付いたのだが、義経が京都から奥州平泉まで二回目の逃走を行った時の、ほぼ逆順になっている。実は、どのルートを使ったか細部はわかっていない。室町時代に完成した『義経記』によると山伏に変装して伊勢と美濃を使って北陸道に出て、途中、越中(富山)の如意の渡し(現:伏木)で見つかりそうになり、弁慶が義経を従者にみせかけるために扇で叩いたということになっている。

その前には白山比咩神社に寄ったことになっているが、何か違和感がある。というのも難所の倶利伽羅峠の西側で山を下りると峠で捕まりそうである。このあたりはよくわからず、敦賀で海岸に出て、海路能登半島の西側に上陸して、半島を船で回るようにして能登半島の東側に上陸し、如意の渡しで疑われたのではないかとの説もある。

いずれにしても富山に出てきたわけだ。芭蕉はその後、律義にも義経が通ったと思われる推定逆ルートを歩いたのだろう。

ところで、弁慶が義経を棒で殴ったことになっているのが歌舞伎では「勧進帳」といって、安宅の関。金沢より京都に近く小松市であるが、関所があったかどうかはっきりしない。実は義経記では「越中の如意の渡し(伏木)」である。芭蕉がおくのほそ道でここを通ったのは1689年だが、市川團十郎が最初に「勧進帳」を演じたのは1701年である。つまり、おくのほそ道より後に安宅の関が登場したわけだ。といってもおくのほそ道が刊行されたのは1702年。没後13年かかっている。

大伴家持、渋谷に現れる

2020-04-27 00:00:44 | たび
富山県の雨晴海岸に義経岩と言われる名跡がある。源義経が武蔵坊弁慶と連れ立って京都から奥州平泉に逃亡中に大雨が降って、傘の代わりに弁慶が近くの大石を持ち上げて義経の傘の代わりにしたという由来による。

義経と弁慶がここを通ったのは1187年と言われる。この話は明日少し書くとして、それよりも441年前、天平18年(746年)の8月に京都から越前守として赴任したのが大伴家持(和歌の天才)だ。今でいえば富山県知事兼税務署長だ。○○守というのは、その後、武家政権に変わると、肩書だけの名誉職になる。客員教授みたいなもので、皇室の経営にとって重要な命名権と化す。

しかし、当時は重職だった。が、京都勤務とは大違いだ。



そして、赴任直後にこういう和歌を詠んでいる。

馬並めて いざうち行かな 渋谿の 清き磯廻りに 寄する波見に  家持

赴任のすぐ後に宴会があったそうだ。歓迎パーティか祝賀懇親会かは知らないが、宴席の中心人物だろう。その家持が宴も終わりに近くなった時に、

それでは皆の者、馬に乗って渋谷の海岸にでもいってみようか

という歌である。いわゆる酒酔い運転だ。渋谿は渋谷の旧字だ。当時の地名だ。

現代的にいうと、都知事新任歓迎会を新宿のHホテルパーティ会場で行った後、「ではみんなで海を見に行こう」と、第三京浜+横浜新道で鎌倉の材木座海岸まで集団暴走するような話だ。家持にとって赴任が嬉しかったのか無念だったのか。実際には、知事でありながら和歌の量産に励む。5年後に京に戻っている。

万葉集に残る赴任中の歌合せにこういうのがある。
 
佐保川の水を塞き上げて植ゑし田を(尼つくる)
  刈る早飯は独りなるべし(家持つぐ)

 さほがわの みずをせきあげて うえしたを かるわさいいは ひとりなるべし
 (堰を作って水を引き、作った早稲米のご飯を一人で食べる)

一人で食べるというのは、「旨いものを一人だけで独占して食べる」という意味だったのだろうか。あるいは、「単身赴任」だったのか。あるいは、自分を京都から追い出した政敵に対して「旨いものを食っている」とあてつけたのか。

二人で一首を創る連歌の始まりと言われる歌である。その後、前半の五七五を分離独立させた男が900年以上経って、さらにこの歌を使って句を継いだ。その男、松尾芭蕉。

雨晴海岸と義経岩(富山県)

2020-04-26 00:00:15 | たび
能登半島の旅の前に、実は僅かに富山県にもいた。あまり長々と書いていると、急増中の石川県の感染者のうち100人分くらいの責を求められそうなので、そろそろ打ち切る予定だが、今週は、何回か登場。

雨晴海岸は「あまはらし」と読むそうだ。雨を晴らしたという能動的な意味があるそうだ。弁慶を同伴して奥州に逃走中の義経が、ここを通っていたところ急に雨が降り出し、近くにあった巨石を弁慶が持ち上げ、義経の傘にしたといわれる。これが義経岩で、その場所が雨晴海岸と呼ばれたそうだ。



実際には巨大な石造りの甘食パンのような形の石がある。石と石の組み合わせにより、下に数人が隠れられるような空間がある。やはり弁慶が石を持っていたわけではなさそうだ。

地元で聞いたところ、富山、石川方面での言い草では、「弁当忘れても傘忘れるな」というのがあるそうで、それほど天気が急変しやすいということだそうだ。



ところで、義経と弁慶の二人組は牛若丸の頃(1174年)と兄の頼朝から命を狙われた晩年(1187年)と2回、奥州へ逃げ落ちている。石を傘の代わりにしたのは2回目と言われてる。

歌舞伎の勧進帳は加賀の安宅関を舞台とした関所破り物語だが、それは2度目のはず。しかし、2度目の逃走は京都から越前方面ではなく、紀伊半島横断し美濃国方面に逃れたとされる。点がつながらないと思っていたのだが。ある細い糸を後年たどった人物がいる。調査中であり、明後日には書けるかもしれない。

もっとも、逃げ道が推定できるなら、あっさり捕まったはず。わからないからこそ伝説が生まれるということだろうか。



当日は、寒いながらも風が雲を飛ばし、かろうじて海越しに立山連峰を眺めることができた。見るからに危険な感じがする。

このあたりでは日本屈指の韻文作家(詩人)である大伴家持と松尾芭蕉が和歌や俳句を詠んでいるが、次回以降にする。

清酒 「歩」

2020-04-25 00:00:11 | しょうぎ
朝市で有名な輪島に行った時に、酒店の前に特別大きな暖簾がかかっていた。



「歩」と紺地に白で染め抜かれている。特別限定本醸造「歩」生酒、というのが本名だ。

宗友会勤醸となっている。臨市の珠洲市にある宗玄酒造のことだろう。能登の酒造所として古くから有名である。

創業は1768年。会社の「公式サイト」にはなぜか「米国独立(1776年)より古い」と書かれている。アメリカ人が知ったら、ムカッとされそうだが、念入りに、英語でも明記されている。

Sogen Sake Brewery was founded in the mid-Edo Period,1768, even before America declared independence in 1776.


創業者は宗玄忠五郎という人物で、もともとは七尾城の城主だった畠山義春の子孫ということだそうだ。上杉謙信に先祖が追われ能登に逃げていたそうだ。逃げるにしては近すぎるが、なんとか江戸時代まで家をつないだのだろう。そして、酒どころ伊丹で修業して、能登に戻って宗玄酒造を興したそうだ。たぶん色々と伝承されなかった逸話があったのだろうと思う。

そして、残念ながら、清酒「歩」は現在は市販されていないようだ。ネットに残るいくつかの情報から推定すると、軽やかで酸味の少ない都会的な味わいだったようだ。もしかすると会社に求められている個性的な味とは路線が違ったのかもしれない。(以前、ふるさと納税の返礼品で「宗玄」をいただいたことがあったが、奥能登的であり、都会的な味ではなかった。)

珠洲市といえば将棋界では産休中の井道千尋女流初段の出身地でもある。タイトルを獲得した時には、会社より記念の銘酒を出してもらえるだろうか。宗玄にあやかり「棋聖宗歩」と予想しておく。


さて、4月11日出題作の解答。





初手は大技。桂を丁寧に使う。あせらないことが重要。(ヒントみたいな解説かな)

動く将棋盤は、こちら。(flash版)

Gif版。
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今週の問題。

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くらげのようにふわふわ逃げる王を捕まえるには・・

わかったと思われた方はコメント欄に最終手と総手数とご意見をいただければ正誤判定します。

国民宿舎でフグ料理(能登小牧台)

2020-04-24 00:00:23 | あじ
能登の料理と言えば、映画の話になるが「武士の献立」というのがあった。2013年の公開。主人公は春(演:上戸彩)。包丁侍と言われる加賀藩の厨房を預かる料理人の仕事を、無能の息子(演:高良安信)に任せなければならない父の舟木伝内(演:西田敏行)の苦悩を描いた作品で、料理の上手な出戻りの春を見つけ出し息子の嫁にするだけでなく、加賀、能登の海や山の珍味を探し出して絶品レシピを書き残すという「しあわせ後出しストーリー」である。

ついでに、「釣りバカ日誌17」も能登がテーマだ。2006年。こちらにも西田敏行が出演している。珍味探し映画の7年前に下見していたことになる。

能登小牧台の国民宿舎に食事のみをいただきに行く(いただくと言っても、おカネを払う)。

今回の料理の軸は、フグと牡蠣。能登半島の七尾から輪島の間は、日本有数のフグの漁場だそうだ。6種類のフグを総称して「能登ふぐ」と呼ぶそうだ。



まず、先付が「珍味:ふぐの卵巣」 卵巣を一定期間塩漬けするとふぐ毒(テトロドトキシン)が消えるそうだ。これも許可がいるそうなので、マネをしてはいけない。



造りは「天然とらふぐのてっさと鉄皮」 とらふぐである。きわめて薄くスライスして皿の文様を楽しむ地域もあるが、身が薄すぎるのはいけない。ちょうどよい厚さだ。



台物 「ふぐの寄せ鍋」 いわゆるてっちりだろうか。地域により呼び方は様々で、加賀や能登では関西風の場合もあり関東風も場合もある。要するに前田藩は政治は江戸向きで、商売は大坂向きだったのだろう。



焼物 「能登牡蠣の殻付焼き」 いわゆる焼き牡蠣。駐車場には牡蠣小屋もあるのだが、なぜか観光客はほぼいない。



揚物 「能登ふぐの唐揚げ」 フグ料理ではだいたいこれが出てくる。本当は白子の唐揚げがいいのだが、セットメニューに文句を付けるわけにはいかない。



蒸物 蓋をあけて写すのを忘れたが「能登海藻入りの茶碗蒸し」。海藻入りの茶碗蒸しは初めて食べた。

ご飯 汁物 香の物 特に説明はないが、国産米と書かれているが、そうでなければ驚きだ。



赤ワイン 能登ワイン。価格は中だが、国産ではトップクラスの味。運転者は飲んではいけない。警官は少ないが、道路端にはよく絶壁がある。



菓子 栗羊羹。色どりのある菓子皿。加賀の栗は絶品なのだ。金沢の21世紀美術館の中のカフェで栗を使ったデザートが何種類かあって、それもお勧めだが、能登と加賀はまったく別の国だ。


かくして、コロナ禍が押し寄せる直前にあわただしく能登を旅行したのだが、その後、石川県知事が「石川県に旅行に来てほしい」と言い出し、その2週間後に「緊急事態宣言」が発表された。

今年の秋には、奥能登国際芸術祭が予定されているが、無事開催されることを心より祈りたい。7選中の知事の任期がまだ2年残っているのが気がかりだ。

翔んで埼玉(2018年 映画)

2020-04-23 00:00:00 | 映画・演劇・Video
ずいぶん話題になった映画。今頃観る。私も首都圏にいて、10回ほど引っ越ししているが、東京都、神奈川、千葉に住んだことはあるが埼玉に住んだことはない。

映画の基本的バックボーンは「埼玉県人」の都民に対する「ヒガミ」という屈折した心理である。一応、時間軸でいうと、現実の埼玉県民の家族が娘の結納の儀で婚約者に会いにマイカーで移動中に車中のラジオかテレビから流れる空想ドラマで「埼玉解放戦線」の活躍を聞いて喜ぶという二重構造になっている。

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映画のほとんどの時間は空想ドラマの方で、金髪の二階堂ふみとサングラスを外したGACKTがW主演だ。

今一つ、観ていて気分が乗れなかったのは、埼玉の地名がわからなかったこと。もともと、名前としては春日部とか所沢とか川越とか熊谷とか知っているが、場所がよくわかっていなかった。

なんとなく、所沢とか秩父とか川越とか、埼玉の奥の方にあると思っていたが、改めて地図を見ると、西武線は奥へ奥へと進むものと思っていたが、どうも埼玉と東京はずっと西の方まで県境が伸びていて、この西武池袋線はこの県境の北側を西北西に進むので、埼玉の中心の方からはどんどん遠くなっていく。ずっと前に、浦和という町があった時に、名物のうなぎ料理を食べにいったことがあるが、浦和は埼玉の中心と思っていたが、ずいぶん南の方だ。

一方、埼玉は、北に行けば行くほど暑いという非科学的な土地で、毎年40度になる。一方、埼玉県の首都は池袋と言われるほど、池袋のことを都民よりよく知っている。埼玉県の方と飲み会をすると、たいてい場所は池袋、高田馬場、新宿ということになる。

実際、東京の回りにあるのは、神奈川、埼玉、千葉ということだが、東京に対するネタミというのは埼玉県民が一番強いような気がする。埼玉県人に怒られそうだが、「歴史はあるが文化がない」ということかもしれない。千葉は「歴史もなければ文化もない」のであまりストレスはないのだろう。

埼玉の誇るべきものといえば、前述の『うなぎ料理』だろうか。江戸のウナギは蒲焼が薄いのを誇るだろうが、浦和では肉厚が上物とされる。

それと、千葉県民が埼玉県民を捕まえて、九十九里浜で地引網を引かせているという話になっているが、実際はおカネを払って喜んで引いている。

また、竹中直人が神奈川県知事である加山雄三の真似をしているが、やはり歌は上手くない。

ところで、二階堂ふみの出演作はいくつか見ているが、強烈な運命の女を演じることが多かったが、なんとなくキワモノ女優という方向に進んでいるような気がする。少し心配だ。

菜の花畑、見つけ!

2020-04-22 00:00:24 | おさんぽ
毎日散歩をする人が、なぜか増えている。コロナ疲れだろうか。電車に乗って都心に行くと怒られるし、茨城や静岡まで行ってパチンコに興じられるのも、もうすぐ終わりだろう。

ということで、『散歩』なのだろうが、散歩にふさわしい遊歩道は徐々に人口密度が高くなってきた。しかも犬のように急いで歩く人や亀のような速度の人もいる。向かい側から人が来る時は、すれ違いは一瞬なので、10秒ほど息を止めていればやり過ごせるが、同方向に歩く時は、かなり長い時間、近くの空気を共有することになってしまう。

ということで、河原とか農道とかに押し出されてしまっていて、ついに菜の花畑を発見。休耕地のような場所の一角に菜の花畑がある。立札があって、JA神奈川となっている。たぶん契約農家なのだろう。侵入禁止の場所であるわけだ。食用なのかな。あるいは花の鑑賞用なのか。あるいは、菜の花じゃなかったりして。



ところで、菜の花といえば、「菜の花畠に入日薄れ」という『朧月夜』という唱歌が有名で、多くの方が知っているだろう。

菜の花畑に 入日薄れ見わたす山の端 霞ふかし春風そよ吹く 空を見れば夕月かかりて 匂い淡し

里わの火影も 森の色も田中の小径を たどる人も蛙の鳴くねも 鐘の音もさながら霞める 朧月夜

作詞:高野辰之;作曲:岡野貞一、特に岡野貞一氏は苦難を重ねて一流の音楽家になっている。数々の名作を残している。

実は、台湾では女神のように輝いている歌手の中島美嘉さんだが、アルバム『MUSIC』の中で、この朧月夜の後半に葉加瀬太郎作曲、中島美嘉作詞の『祈り』という曲を合体させている。なかなか素晴らしい曲になっている。基本的に、誰でも知っているスローバラードというのは、よほど歌のうまい人でないと歌えない。ごまかせないから、完璧でないといけないわけだ。

しかし、なんとなく感じるのは、彼女は歌手という仕事があまり好きではないのかもしれない。得意だからと言って好きじゃない、というのはどんな世界にもいる。歌手は勝手に好き勝手にアレンジして歌うわけにはいかないし、技術をキープするためには努力をしなければならない。向いていない人もいるだろう。

とはいえ、逆に能力もないのに仕事が好きな人が首相になったりすると、大惨事が起こる。

庭に来た鳥

2020-04-21 00:00:29 | 市民A
芝生の手入れを怠っていた。洋芝と和芝(か高麗芝)を混植していて、庭の場所によって洋芝が勝っていたり劣っていたりして、結局、ムラになっているのだが、あまり気にしていない。そうすると洋芝に花が咲き、実が付いたりして、さっそく鳥がやってくる。

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去年までは、鳥が庭に来ると犬が吠えて追い払っていたが、今年はいない。人間はいまのところ鳥を追い払わないので、特にムクドリが多い。ムクドリの主食は果実、穀類、昆虫というので芝の中の地面を嘴でつついて、時々パクパクしているのは虫でも食べているのだろうか。

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もう一羽やってくることもある。隣の庭から一羽ずつ飛来する。二羽の関係性はよくわからない。単に、隣の芝生が青く見えるということなのだろうか。マスクが入荷したらしいとドラッグストアを駆け巡って何も得られないということに似ている。

このムクドリに似ているのがヒヨドリ。しかし嘴と足の色が黄色なのがムクドリで黒いのがヒナドリ。ヒヨドリの方が少し大きくて、その分、動きが遅いので、猛禽類に狙われやすいということらしい。ヒヨドリの語源は、ヒーヨ、ヒーヨと鳴くかららしい。ムクドリは椋の実を好んで食べるかららしいが、実際には何の実でも好んで食べるそうだ。

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そしてムクドリがいなくなると、今度は鳩が舞い降りてきた。日本の鳩は二種類で、都会に多いのがドバトで郊外に多いのがキジバト。ドバトは全身が黒っぽいが、キジバトは羽がキジのように美しく、首回りにも柄が入っている。庭に降り立ったのは、典型的なキジバト。いわゆる山鳩である。

そういえば椋鳩十という動物作家がいた。椋木に鳩が十羽並んでいるようなペンネームだが。何でそういう変わった名前を選んだのだろうか。

月はピアノに誘われて(木根尚登著 小説)

2020-04-20 00:00:08 | 書評
“TM NETWORK”の一員としてのミュージシャンの姿が表芸とすれば小説を書くのは裏芸のようなものだろうか。その中間が作曲ということかもしれない。

1991年に出版された単行本が角川文庫になっている。もう29年経っているのだが、日本の芸能界は今でも旧態依然で、人気が出たタレントやミュージシャンの引き抜きが行われたり、成功した人間を妬んだり、足を引っ張ったり、横取りしたり・・



杉本暁美27歳。傾きかけた父の音楽プロダクションを立て直すために悪戦苦闘する。オヤジバンドを改造してコーラスグループで成功させたものの、中傷誹謗を受け、ニューヨークへ脱出、そこでも芽が出ず、とうとうアポロ劇場のアマチュア・ナイトに出演。日本で言えばNHKののど自慢みたいなものだ。

そして、ヤケッパチになって東京音頭をラップで歌い、大受けする。

そういえば、少し前に観た映画の『ドリームガールズ』。これもアポロ劇場のアマチュアナイトでの実話に基づいている。ダイアナ・ロスとスープリームズがモデルだ。そんなレベルのわけだ。

この小説は、ストーリー的には巧くできているのだが、巧くできすぎていて、本当らしくない、という欠点があるような気がする。注意深く読むと、杉本暁美の父親と敵対するプロダクションの社長とは相当以前に女性を巡るトラブルがあったようだし、オヤジバンドの一人は娘の難病と闘っていた。さらにアポロ劇場に出演前に、路上ライブで練習中に、音楽少年たちが興奮してしまったことなど、もっと深く筆を入れた方がいいと思えるところもあるだろう。もっとも、そうなるとページ数も倍になりそうだ。

それと、日本でミュージシャンとして売り出す第一歩は「ライブハウス」ということ。コロナの第一原因として「三密」の代表にされてしまい、これではしばらくは新人は現れないだろうと思わざるを得ない。

のとじま水族館は素朴ではあるが(能登島)

2020-04-19 00:00:21 | 美術館・博物館・工芸品
能登半島は東側が富山湾である。半島から僅かな距離の島が能登島。橋が架かっていて、実質的には能登半島の一部のように感じる。

したがって、能登半島同様に一年中強風が吹き、天候も不安定だ。もっとも海の中には風は吹かないので、魚たちにはあまり過酷ではないのかもしれない。3月はじめ、まだコロナウイルスが能登半島と無縁だったころに行った。

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ここの売りはジンベイザメだが、沖縄の美ら海水族館でも見ていたので、それほどでもなかった。美ら海ものとじまと同じように海とつながった水族館というイメージの象徴がジンベイザメだ。

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そして、いつどこでみても心が和むのがペンギンの散歩。ずいぶん長い距離を歩かされている。パワハラのように見えるのだが、ペンギンたちはどう思っているのだろうか。まあ、それほど好きではないだろうが、「お仕事」と思っているのだろう。対価として餌のお魚にありつけるわけだ。まったく人間と同じだ。

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イルカショーも全国でやっているが、のとじまのイルカは小柄ながらシンクロ度が高い。同時に動くって、難しいはずだが高さもタイミングも美しい。当日のトレーナーは二人だったが、そのうち一人はまだ新米らしく、むしろイルカに調教されているように見えた。今後、Society5.0というIT時代が来るようで、人間がAIの前にひざまずくことになるのだが、AI側から見ると、イルカの方が人間より素直で優秀だ、という判定を受けるかもしれない。

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初めて見たのが、小魚の群泳。白い魚は何だろうと思ったら、サケのこどもだそうだ。つまりイクラが孵化するとこうなる。イクラも赤いし、サケの成魚の筋肉も赤いのだが、なぜかこどもの頃は白い。

王位署名入り免状

2020-04-18 00:00:01 | しょうぎ
通常、段位の免状には、将棋連盟会長、竜王、名人の三人の直筆の署名が記されている。何かの都合で私も何枚かの免状を持っているが、字が上手いのは、中原氏と大山氏だろうか。どちらかというと代筆をお願いしたい方々もいるような気がする。

ところが、昨年、『中年の星』とも言われた木村一基王位が誕生したことから、突然に期間限定で「王位署名入り」という免状が登場。追加料金11,000円(税込)を支払えばいいそうだ。唐突感があったが、なんとなく納得していた。3月末までの申し込みということだったが、5月10日までに延長された。

しかし、よく考えてみると、「王位署名入り」というのは深慮遠謀があるのではないかと思い始めた。部分的には大変に頭の良い人たちの組織なので先の先を読んだ一手だったのだろう。つまり、最も人気のある棋士がまもなくタイトルを獲得したときに、すかさず署名入り免状を売り出す準備なのだろう。今から和服の着付けに加え書道の練習をしておかなければならないだろうが、『藤』とか『聡』とか難易度は高い。





さて、4月4日出題作の解答。

短手数問題。3六馬が邪魔駒であることに気付くと、大盤振る舞いの捨て駒が見えるはず。

動く将棋盤はこちら(Flash版)。

Gif版。



今週の問題。



最後の方で、合駒登場。

わかったと思われた方はコメント欄に最終手と総手数とど意見をいただければ、正誤判定します。

羽咋温泉での食事(能登)

2020-04-17 00:00:09 | あじ
能登で温泉といえば東側の和倉温泉だが、西側には羽咋(はくい)温泉がある。どうも能登の地名は読み方が難しい。名前の由来は神話にあって、この地方を飛び回っていた怪鳥をある皇子が三頭の犬とともに退治したときに、犬が羽根を食ったことによるそうだ。この地方には朱鷺(とき)が多かったそうで、当時は大型の朱鷺がいたのかもしれない。地球上から消えた最後の怪鳥だったかもしれない。

また、近くでは江戸時代にUFOが現れた場所があるそうだ。怖いものが「怪鳥」「UFO」だけでは不足と見えて、もう一つ「原発」というのが加えられた。当面動かないが。

温泉は無色で、ホテルでは大量に流れ出ていた。何しろ、能登の冬は訪問者少なく閑散としている上に、ウイルス問題がある。無人の露天風呂に入ってみたが、何しろ寒すぎる。



そして、夕食は豪華だ。献立を列挙すると、



前菜 :蛍烏賊沖漬け
お造り:本日の盛り合わせ
凌ぎ :のど黒握り寿司
煮物 :八目煮付け
焼き物:能登豚陶板焼き
鍋物 :能登いしる鍋
揚げ物:能登河豚天婦羅
御食事:石川県産ひゃくまん穀、香の物、汁物
デザート:本日のデザート

*八目はメバルの一種だそうだ。

能登に三日いたが、フグを気安く食べられることに驚いた。



そして、朝食も相当豪華だ。普段の一日分のカロリーを一回で摂取している。個人的には、めざしと納豆だけでも十分だ。

青林寺の御便殿(ごべんでん)

2020-04-16 00:00:37 | たび
青林寺は和倉温泉にある寺院であるが、観光的には寺院というよりも御便殿として有名だ。

とはいえ、『御便殿(ごべんでん)』と言うと、トイレを思い浮かぶ方がいると思うが、とんでもない間違いで、戦争前なら打ち首にされたかもしれない。



御便殿とは、天皇をはじめ皇族の方々が地方に行幸、行啓される際に、ご宿泊所や休憩所として設けられる建物のことである。皇族の方は、あちこちに出歩かれるので、そのつど御便殿が建てられる。しかし、その御便殿で現存するものは数少なく、和倉温泉のほかには数か所を残すのみと言われる。和倉温泉では、現在、有名なホテルの新館になっている場所に御便殿があったのだが、新館を建てる時に、取り壊す代わりに青林寺が引き受けて、移設したそうだ。

では、どういう皇族がいらっしゃったのかというと、大正天皇が皇太子時代、明治42年9月に行啓され、この御便殿に2時間だけ滞在されたそうだ。



まず、建物は総檜白木造りである。お座敷に置かれた大型の座布団は、絹のカバーだそうだ。皇太子が2時間座ったあと、長い間使用されず、青林寺に移設された後、現御住職がしばらく使用したあと、思い直して展示することにしたそうだ。



天井は凝った造りで、使用木材は栃の木だそうだ。



そして、廊下は秋田杉。木目がおそろしく細かい。

もっとも現代人には住みにくいかもしれない。