「悪」と戦う(高橋源一郎著)

2013-07-31 00:00:35 | 書評
出張先で電車に乗るのに、急いで本を買う、というシチュエーションで千葉県で購入し、私のカバンの中で1500キロメーターほどの移動をしながら、読まれることがなく、ついに読み始めると、どうも実験小説だったらしい。

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副題が、

少年は、旅立った。サヨウナラ、「世界」

ということ。

で、あまり好きな実験ではない、「時空移動」とか「意識の表裏」とか、「主人公の転換」とかなのだが、好きでも嫌いでも否応なく主人公の少年は旅立ってしまい、好きじゃない文体にのって読者もついていくことになる。

筋が軽いのが救いだが、本当は個人的には濃密な小説が好きだ。

もちろん、「濃密」と「実験」は反対語ではないので、「濃密な実験小説」であるジョイスの「ユリシーズ」なんか数か月も苦労したりした。本書は、単に実験的軽小説であるから、対して苦労はいらない。作家の命令通りに余計なことを考えずに、筋を追う以外、完読する道はない。

読み終わったからと言って、本の題名のように「悪」と戦う気が起きるわけでもない。戦いに立ち上がってしまった少年を見殺しにしてしまうかもしれないが、そもそも「悪」とは何かがよくわからないので、むやみに少年と共闘すると、犯罪者の仲間に分類されてしまう。


もっと力強い小説を書いてもらいたいと、念願してみる。

シャガールは諦めて、・・

2013-07-30 00:00:07 | PHOTO
2013年6月11日号「シャガールの話を書いた日に、本物を見るのが芸術都市倉敷か」で書いたのだが、倉敷市内の会社を訪問すると、中小企業であっても社長室の壁に絵画があり、それもシャガールとかモネだったりする。

それではと、頑張ってみてもシャガールのリトグラフでも100~300万円ほどするし、壁にかけるよりももっと高い絵画を金庫の中に眠らせていたりする。

会社の金庫から300万円を引き出して、デパートの画廊に電話をかければ、絵画を買ってしまうことは簡単だが、後始末が大変なことになりそうだ。


ということで、妥協の産物で考え付いたのが、写真方式。知人写真家の作品を壁に並べてみようか、ということにし、さっそく写真家に依頼してみる。

「もしもし、おおたです。今度、『太陽と海』という題材でシリーズ写真を社内に掲示したいのだけど、少しまとめて写してくれないかな。謝礼はナッシングだけど。」

「あ、おおたさん。ナッシングはきついから、今度、交際費で倉敷国際ホテルでフレンチおごってくれないかな」

というような交渉の結果、画像を譲っていただいた。

さっそく6枚を並べてみる。

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遠景ではなく、オリジナルから画素を落として掲載してみる。

題名と撮影日、場所は以下の通り。

なお、写真家の名前は、「Y.OTA」氏。

Your Day, Beginning (2013-02-20 Beppu bay)
YourDay


Natural,but (2005-03-01 Hakatajima)
NaturalBut


Cloud, Sky, Our Sea (2010-01-01 Umihotaru)
CloudSkyOursea


To Heaven (2010-05-05 Nojimazaki)
ToHeaven


Invitation to Hot Night (2011-08-14  Bali)
InvitationToHotnight


Fisherman in Bali (2011-08-14  Bali)
FishermaninBali


一応、1枚50万円の保険をかけて、夜は鍵を開けておこうかと思っている。

スペイン高速鉄道の事故のことで思い出すこと

2013-07-29 00:00:30 | 市民A
スペイン高速鉄道での事故は、誰しも福知山線のことを思い出すだろう。カーブでスピードオーバー。自動制御システムの設置遅れ、遅れを取り戻そうとする回復運転。衝突したのが壁とマンションの差はあるが2両目が大破したこと。

もっとも、日本国内であれば、福知山線の事故を分析して他の路線も安全の横展開ということだろうが、飛行機とは異なり、他国の事故を参考にすることはないといってもいいだろう。

そして、個人的に思い出したのが10年以上前にスペイン旅行に行ったときに乗った高速鉄道のこと。ちょっと変だなと、感じたことがあった。

その時、乗ったのはマドリードからセビリアまで、途中にコルドバがある。乗っていた時間は記憶にないが2時間くらいだったような気がする。そして、あの時間にルーズで電車の遅延なんか当然というような国にしては信じられないようなルールがあった。

1分でも遅れたら、特急料金を全額返却するというものだった。

とてもスペイン人らしくないルールだった。もっとも当時はユーロ統一直前ということで、「スペインを変えなければ」という機運がスペイン全土で盛り上がっていた(結果は、元もスペイン人に戻ったようだが)。

といってもスペインは国鉄とはいえ、一分でも遅れたら全額戻しなんてルールができるわけないと思っていたのだが、その謎は乗ってみたらすぐわかった。つまり定刻よりも15分くらい早く到着するわけだ。要するにダイヤにのりしろがあるわけ。発車であれば、時刻になると、何の放送もなく無慈悲にドアが閉まって、猛烈に走り始める。そして、予定の速度にはお構いなしで到着予定時刻よりも15分早く到達。途中駅の人のことなど顧みないわけだ。

今回の列車は予定より5分遅れていたという報道もあるが、全額罰金を防ぐために必死に回復に努めていたのだろうか。そうでないことを祈りたい。

シャガールの不思議な森(高知県立美術館)

2013-07-28 00:00:49 | 美術館・博物館・工芸品
高知市に行ったら、行こうと思っていたのが県立美術館。(美術館に行くために高知に行くとは考えないのだが)

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シャガール作品をかなり収蔵していると聞こえている。ちょうど、シャガール関連の展覧会がダブル開催されているので、超鈍足の路面電車で朝一9時に訪れる。

まず、「シャガールの不思議な森」展から。ご存知のようにシャガールは後期になると、作風がかなり安定してしまい、不思議な動物、花束、男女などお決まりの道具立ての中に物語性が加わるという設定になっている。それらの設定が多くは森とか教会といった神秘的な場面との組み合わせになるため、「不思議な森」というタイトルになったのだろう。

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そして、実は高知美術館のシャガールといっても、大別すると、「オリジナル絵画」と「リトグラフ」ということになる。「絵画」は世界に一枚しかないことから、収集は高額で、数千万円から億になるのだろう。一方、リトグラフは同時に100枚以上製作されるため、100万円から400万円くらいまでだろうか。といっても、全部をリトグラフにしてしまうと、美術館ではなく、ギャラリーだ。館長室で値決め交渉をして、「お買い求め、ありがとうございます」ということになってしまう。

で、展示も絵画1に対しリトグラフ4といった比率で展示されている。実際、リトグラフの方が表面が滑らかで見やすいともいえるが、やはり絵画の方が人気がある。絵画の方が画家のスピリッツが感じられるのだが、気のせいかな。

でも、多作のシャガールにふさわしい鑑賞法は、やはりこの展覧会のように、壁一面がシャガールという設営ではないかな、と思い、満足することにする。

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同時開催の安倍泰輔展「シャガール世界」。シャガールの絵画に登場する不思議な動物や、謎の男女のような架空生物を布で作ってみようということで、地元のこどもたちが展覧会に参加している。だけど、「架空動物なのだから、リアルな動物にこだわらず、好き勝手に創作すればいい」のだが、どうしても既存の動物にしか見えないものができてしまう。もっともシャガールやゴッホやピカソの素質を持った天才芸術児童が、何十%もいたら人類の未来が大きく変わるだろうが、そんなことはないことは歴史的事実である。

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もう一つの展覧会は、高知出身の両親を持ち、ドイツ在住の塩田千春展。現代芸術である。部屋いっぱいの糸で紡いだ造形物や、現代演劇のビデオ。芸術の中に一本の筋(糸)が通っているのが感じられる。欧州の現代芸術は高みをめざし、東アジアの芸術は混沌をめざす。どちらかというと、日本や中国の現代芸術の方が、明るく、非論理、無茶苦茶といった感じが強く、個人的にはそちらの方が好きだが、人それぞれの好き好きだろうか。

40枚の謎

2013-07-27 00:00:35 | しょうぎ
将棋の駒は、なぜ40枚なのか、という問題に歴史学的に取り組んだのが、増川宏一氏の「将棋の駒はなぜ40枚か」。しかし、歴史を学問的に考えれば考えるほど、答えは出ないもので、なぜ40なのか、決定的には書かれていないような気がする。大いに関係があるのがマス目の数でヨコが9枡なので二段詰めにして36枚。大ゴマを一人2枚にすると40になる。

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実際に将棋というゲームに謎は多く、小学生教室とかやっていると、答えられない質問を受けることがある。たとえば、角はなぜ左で飛車が右なのか。なぜ歩の裏は、香桂銀とは異なり金の崩し字ではなく「と」なのか、とか。「と金」問題には、全部漢字だと日本のゲームじゃないみたいなので、ひらがなを一文字入れたということにしている。

では未来の将棋ではどのルールが変わっているだろうと思うと、やはり桂が強力化して、4か所くらい動けるようになったり、穴熊囲いが禁止されたり、ニ歩が認められたりするのだろうか。その前に対局室へのパソコン持ち込みが禁止されるのだろう。


さて、7月13日の出題作の解答。

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1三の成香を金にかえ、3一には香を置くと、それでいいらしい。

動く将棋盤はこちら



本日の出題。

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以前、似たような問題を出題したことがあり、その改良型。一桁である。

わかったと思われた方はコメント欄に最終手と手数を記していただければ、正誤判断。

高知で思った食のこと

2013-07-26 00:00:04 | あじ
高知は10年ぶり以上の3回目。以前2回とも行ったことのある有名寿司店に入る。まず酔鯨の冷酒とカツオのたたき、その他、目光の唐揚げとか食し、普通の握りを何貫か食べ、約一人分6000円を払って退散。最後に食べた店の名前を冠した巻物には、にんにくが大量に使用されていて、その後の夜の行動に影響が出てしまう。

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この店は、15年前には、道を聞いた地元の警察官も「ネタの太い寿司」と有名だったが、その5年後には、「ネタの大きな店」と表現が大人しくなり、今回は、単に「有名な店」というに過ぎなくなったような気がする。そういうのは、なかなか自覚症状がないまま破綻することが多い。「その差歴然:絶対優位」から「競争優位」に代わり、「わずかに優位(かも)」といったところに落ち込んでいるように思う。

次に高知に来る機会があっても5年以上先だろうから、その時には行かないというか、店がないかもしれない。「堕ち行くものは止まらない」という格言を作ってみた。

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食べ物といえば、何より日曜市。日本最大である。追手筋を中心に歩いても歩いても市が並ぶ。多くは農作物だが、その分量からして、うかつには買えない。こういう商売は税務署の範疇外だし、GDP統計の計算外。それに激熱だ。日曜市へは「ひろめ市場」でわけのわからない食事をしてから歩いたので、あまりの暑さにブックオフに逃げ込まなければならなかった。立ち読み自由、エアコン無制限使用OKだ。


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「モネの庭」のカフェで食べた焼き立てパン。「すいれん」となっているが、実際は睡蓮の花とはだいぶ形が違う。それに、紫いもの味だし・・


そして、ついに岡山行きの高速バスに乗る時間がくる。倉敷駅周辺で中途下車するために、
バスの指定席は「1A」というように最前列である。

最前列の乗客は、運転手の心臓が不都合なことになった場合、代役となって、ブレーキを踏まなければならない。また、バスジャックされそうになったら最後の砦になる必要がある。


そして、運転手の居眠り・心臓麻痺の監視に努めたのだが、ついに(5分後)自分が眠ってしまう。

高知城再訪

2013-07-25 00:00:55 | The 城
以前から、当ブログを読まれている方はご存知かと思っているのだけど、わずか数百年前には日本中にあった天守閣も、いまや江戸時代以前のものは12しか残っていない。

東(北)の方から、弘前、松本、高岡、犬山、彦根、姫路、備中松山、松江、丸亀、宇和島、松山、高知。

すでに総てには足を運んでいるが、行けば行くだけ知識は重層的になり、この12の中でも再訪したいと思う城もあるわけだ。

もちろん、全部に再訪したいわけでもなく、いわゆる再建城の中にも和歌山城のように再訪したい場所もあるし、すでに城跡しかなくても行きたい場所もあるのだが、中世以降の城でも400。平安時代後期からなら1000を超える城址の全部に行こうと思っているわけじゃない。

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それで高知城だが、高知に行ったことはこれで3回目。今回はまったくの観光トリップ。前2回のうち登城したのは1回。この城のよさは、天守閣+本丸御殿付きということ。残存12城のうち、本丸が完全形で残っているのは、ここだけか。

ただし、そう立派なものではない。

そもそも、高知は誰のものだったかといえば、長曾我部一門のものと考えるべきだろう。江戸を通じての大名は山内家。そう、山内一豊が妻の持参金を拝み倒して借用し、馬の購入資金に充てたわけだ。現代でいえば競走馬を買って一山当てたようなもの。

それで静岡県の掛川の城主として関ヶ原の戦いでは東軍として出場。結果として、滅亡した長曾我部の遺産をそっくり我が物にし、出世街道を過ごした掛川城および掛川市民には、軽くサヨナラし、喜び勇んで高知に乗り込んだものの、数年後にあっけなく寿命に従うことになる。

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高知県民の感情も、「山内よりも長曾我部」という人もいるらしいし、「故郷を見捨てて脱藩した卑怯者の坂本龍馬」と考える人もいるらしい。いろいろだ。

で、話は専門方面に走るが、高知城は1603年に山内一豊が築いたあと、1727年に城下の大火事で焼失している。しかし、1749年に以前とほとんど同一様式で再建がなっている。

で、明治になって、廃城令が出たりして天守閣には厳しい時代があったものの昭和に入り復古主義の時代に、予算が出ることになり、何度も修復工事が行われている。

そして、問題は、高知城天守の写真をよく観察すると、石垣の上部(つまり天守閣に近い部分)とその下の部分で石の色が異なることに気付く。下の方は一面に黒く、石垣の上部は白っぽいわけだ。

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そこに何らかの人為的は行為が見えるわけだ。

しかし、天守閣が上にあるにもかかわらず、石垣の分解掃除をするわけにはいかないだろうし、合理的に考えると、石垣下部が黒いのは1727年の大火の時の炎の跡であり、その時に天守が燃え落ちるとともに石垣上部も崩れ、その後、現代に至ったのではないだろうか。1730年代に石垣の修復が行われたものと推測できる。さらに、石垣上部の積石の白い部分を危険を冒して調査したのだが、石の裏側が焼け焦げているところも多いように思えた。やはり、再建に当たっては廃材から順に使っていたのだろうか。

安芸、この静かな海。・・・

2013-07-24 00:00:58 | たび
「モネの庭」を後にし、高知方面に向かう途中、海岸に忽然と現れる町が「安芸市」である。「安芸」は「ア」ではなく「キ」の方にアクセントを置いて高く発音する。一方、広島県にも「安芸市」は存在し、かなり紛らわしい。たとえば、相撲界には双葉山の70連勝をはばみ、後に横綱になった「安芸ノ海」という力士がいるが、広島出身である。高知県安芸市出身には「土佐ノ海」がいて、関脇を勤めていたが、「安芸ノ海」を名乗りたくとも登録商標法に違反するので土佐にしたのだろうが、土佐では場所が広すぎるような気がする。

そんな土佐ノ海の無念さを払うために、「高知県安芸」の海を見に行く。というのは偽動機で、私の知っている高知県出身者の中で安芸出身者も多く、その豪快な気風はどういう町から醸造されるものだろうかと、町の雰囲気を探るために下車してみたのだが、「それなら、夏の海でしょ!」という気持ちになり、海岸に出てみた。

誰ひとりいない。

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南海トラフ大地震警報でも出たのだろうか。確か高知県は、津波が押し寄せるまで30分から1時間だったような気がするが。町の人達は何事もないように歩いているから、そんなことはないのだろう。

まあ7月後半の晴れた午後、休日とはいえ、砂浜を靴で散歩する人間はいない、ということだろう。海辺の写真は好きなので何枚か撮影。ここでも汗が容赦なく噴き出す。先週、備えて、サウナに行ったばかりなのに。

以前、八戸やいわき市の海辺を訪れてから4か月後に巨大津波が発生したことがあり、平和そのものの高知の海を記憶の中に埋め込んでおく。


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そして、海岸に打ち寄せられたごみを観察すると、プラスティックの小片が目についた。どうも病院の診察券のようだ。深く考えてみると、病院の診察券が海を漂うというシチュエーションは、合理的ではない。一般的には着衣のまま、何らかの突然の事情で海に診察券ごと入ることになり、その後、診察券だけ、海岸に戻ってきた、ということかもしれない。後で調べると、桂浜の近くの病院らしい。

あるいは、単に、診察券を海に落としてしまい、病院に行けずに困っている人がいるのかもしれない。心当たりの方があれば、診察券を預かっているのでご連絡いただければ、と思う。

モネの庭(高知県北川村)

2013-07-23 00:00:42 | たび
数か月前から西日本(岡山県倉敷)に拠点を持ったのに、西日本探索にはほとんど出られないまま、灼熱の季節となってしまった。やろうと思ったことをズルズルと日延べすると、結局チャンスを失い、場合によっては二度とできないことになったりするのは、よくある話なので、無謀にも、さらに灼熱の高知方面に出発する。東京<岡山(2度)、岡山<高知(2度)といった関係で、本当に暑く、鞄には水分とか、パンとか緊急時補給品を携帯する。

実際には、高知へはマイカーで行くという選択もあるし、時間も短いだろうが、3時間半車で走るのも疲れるし、さらに足回りが重いし、厄介だが、電車(&ディーゼルカー)の乗継で行く。

岡山から、瀬戸大橋をマリンライナーで渡り、次に土讃線特急で高知に向かい、途中の「ごめん駅」で、高知とは逆に東向きに海岸をひたすら低速で進む「土佐くろしお鉄道」に乗り換え、終点の奈半利(なはり)という駅までたどり着き、北川村の村営バスで山あいを登って行き、「モネの庭」に到着。自宅を出たのが7時15分。たどり着いたのが12時15分。

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モネの庭は、フランスと高知の二ヵ所だけで、特にモネが好んで描いた睡蓮の池が、ここの最大の特徴なのだが、大変困ったことに、睡蓮の花は、午後になると次々に花を閉じていく。これが睡蓮の名前の特徴で、花が睡眠してしまうわけだ。ということで、すでに到着が午後ということで、大慌てに池に走っていくことにするが、汗は止まらず眼に沁みて痛い。陽射しも強すぎて肌が痛い。高低差が大きく息が苦しい。良いことと言えば、大津波が高知を襲っても100メートルくらいの大物が来なければ安泰だ。

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モネの頃までは睡蓮と言えば白い花だけだったそうで、モネの描く色とりどりの睡蓮の花は、ちょうど品種改良されはじめた各種睡蓮をモネが積極的に購入していったことを示しているのだろう。

しかし、当時、存在できなかったのが、「青い睡蓮」だそうだ。この高知県の「モネの庭」には、青い睡蓮がある。熱帯種ということで、フランスでは育たなくても高知なら育つのだろう(というか、高知は完全に熱帯だ)。

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庭園全体は、「水の庭」「光の庭」「花の庭」とわかれていて、「花の庭」では、庭作りのコツみたいなものがわかる。モネは庭の花の絵を描くのが仕事だったが、庭の管理はモネの妻の仕事だったそうだ。

花といえば、女性スケーターが娘に花の名前を付けただけで、何らかの根拠を持つ父親候補たちが、頭を抱えているようだが、この庭も、秋になり、花が枯れれば種子が残るが、どの花のめしべが、どの花の花粉を受粉したのか、詮索するのも愚かだろう。

人商人

2013-07-22 00:00:19 | 書評
上から読んでも人商人、下から読んでも人商人。

では何と読むかというと、ひとあきびと、と読むそうだ。ではどういう人間かというと、古来、日本で人身売買の仲介をしていた人たちのことである。別名は、人買い、とか人売り、と呼ばれていた。

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岩波新書の「人身売買」(牧英正著)は、日本史の中の陽のあたらない影の部分を詳細にとらえた書である。影の部分と言えば問題というのが相場だが、この人身売買は、もっと根源的な人格問題である。

日本史では、ほとんど奴隷問題を取り扱うことはないが、古来、という公認された奴隷制度はあったのだが、本書では、もっとアングラの世界で、子を売ったり、妻を売ったり、あるいは戦争で勝った者が、大量に市民を連行したり、あるいは誘拐によったり、また、倭寇が朝鮮半島や中国大陸からさらってきた人間を九州で売りさばいたこと、ポルトガル人が日本人を買い取って世界中に売りさばいたことや、朝鮮から連れ帰った捕虜を、そのままポルトガル人に売っていたことなどが、平然と羅列されていく。

なんとなく、秀吉がポルトガル人を追っ払ったこと(これが徳川の鎖国に繋がっていくのだが)の遠因に、日本人を売り払うポルトガルへの反撃があるというような自説を、うっすらとにじませている。

そして、近世以降になると、売買の多くが女性の遊郭への人売りになっていくのだが、古代から近世に至る流れの中では、禁止法というのは、大きく奈良時代の朝廷法によるもので、その後、鎌倉幕府によって厳罰化される。人商人を、捕まえた場合、顔に焼印を押すというもの。人の字でも押したのだろうか。なんとなく、トレードマークみたいになって、商売に便利な感じもする。

そして、江戸時代(元和二年の高札)になって、さらに超厳罰方式になり、人売りについては死刑。人買いについては有期の懲役に加え罰金となり、罰金が払えない場合、死刑ということになる。

江戸の時代の罰金刑というのも当時の法律からいうと例外的だし、金を払えなければ死刑というのも例外的な法律だ。

人を売る方が人を買うよりも重罪ということは、少し前の売春と同じだ(今は買う方が捕まるのだが)。

それで何となく、気分が重くなり、割り切れない感じの一冊であったのだが、特に中世において人の売買が多かったのが九州だそうで、慢性的な労働力不足によって、九州内での売買があったり、半島や大陸から連れて来たり、また国外へ売ったりしたりする行為も多かったそうだ。(島津家も幕末以降は羽振りがいいが、大分県人を捕まえて熊本に売ったりしていたと書かれている)

生き残った人たちが、今の九州人ということなのだろう。人吉って地名もあるし。

情景作家(昭和のミニチュア)

2013-07-21 00:00:18 | 美術館・博物館・工芸品
旧新橋停車場で開催中のミニチュア展。

4人の作品。

「昭和のミニチュア」というような表現だが、私よりも若い作者もいる。

何か観ていると、「人は、なぜミニチュアを作るのか」と思うのだが、もちろん本物サイズでつくれないものはミニチュアで作るのだが、本物サイズで作れるものまでミニチュアで作るという行為は、なんだろうと、答えのない愚問を考えたりする。

いわゆるプラモデルとは異なり、素材のすべてのパーツを自分で作って組み立てる。少なくとも私にはできないし、やろうとも思えない。富士登山と同じだ(例が悪いが)。

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しかし、みなさん精巧です。桜の木を作るのだって大変だと思うが、山田卓司さんは、地元の浜松に、彼の作品を常時展示するための「浜松ジオラマファクトリー」がオープンしたそうだ。

戸塚恵子さんの場合は、もっとわかりにくいのは、もともとポップライターやステンドグラスなどのリアルなものつくりをしていたのだが、徐々に小物製作に移っていき、ついにミニチュアの世界に到達。出品作は「銭湯」みたいだ。

諸星昭弘さん。肩書は「イラストレーター」と「模型作家」。鉄道模型を専門とする正統派。電球に情景を収めた「ノスタルジックランプ」を出品。輸送中に壊れそうだが、壊してしまって泣いたこともあるのだろうか。特にマニアックな感じが漂う。

坂本衛さん。キャリア65年。廃材を使って模型電車を作るそうだ。ある意味、日本の伝統をミニチュアにして保存するという使命を自らに課しているような感じがある。そう考えると、人間誰でも信じることが重要だということがわかる一方、少し(いや、かなり)、こわい。

こういう仕事をする人から見れば、3Dプリンターなんて、究極的邪道の極みということになるのだろう。

6文字名人の訂正

2013-07-20 00:00:22 | しょうぎ
7月13日付「6文字将棋名人は誰?」の中で、現在、過去を通じて姓名6文字の棋士は男女ともいない。奨励会6級の鈴木シャウト君(東)か、同じく6級の獺ヶ口笑保人が将来対局したならば、その勝者に「六文字名人」の称号を与えようじゃないか、というようなことを書いたところ、読者より追加情報あり。

その一。「獺ヶ口笑保人」君の読み方。どう読むのか、手も足も出ないと書いたところ、「おそがくち:えほと」ということだそうだ。

その二。六文字棋士のこと。比江嶋麻衣子さん。まぎれもなく6文字。では、どうして見逃したかというと、途中で名前が変わったから。再婚後、藤田という姓になったようだ。そして、LPSA籍で引退。引退時の名前(藤田麻衣子)で記録が残っているため、調査の網から漏れた。

正確に言うと、1997年に女流プロとなり、2005年10月に藤田姓になる。

つまり、6文字棋士だったのは8年間ということ。

初代六文字名人位は、彼女こそふさわしいわけだ。そして2005年に自ら退位し、現在は名人位空席ということになる。したがって二人の6級の勝者は第二期六文字名人ということになる。

ただし、なんらかの理由で、藤田さんが再び比江嶋麻衣子さんになった場合は、彼女にも名人復位のチャンスを与えなければならないだろう。

さて、6月8日出題作の解答。

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1一に金を打って、そのあと2二に角を打って総精算後2三に飛車を打っても、わずかに足りない。

動く将棋盤は、こちら


今週の問題。

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あまり長くもなく、難しくもない(はず)。

わかったと思われた方は、コメント欄に最終手と手数と酷評を記していただければ、正誤判断。

仕掛け倒れの弁当?

2013-07-19 00:00:31 | あじ
神戸方面での仕事をしてから、東京方面に向かうため新幹線に乗るのだが、食事用の駅弁を購入する。

淡路屋の「すきやき弁当」1100円也。

しかし、非常にパッケージが大きい。どうもスチーム弁当といって、蒸気が出てきて弁当が熱くなるそうだ。もちろん温めたらすぐに食べないといけない。冷めたら、まったく不味いはず。

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しかし、新幹線に乗ってから加温すると、蒸気が立ち上ることになる。隣席に迷惑だろう。

ということで、新幹線の発車時間の8分前にスチーム吹き出しを始める。そして、車両に乗り込み、隣席の状況を見ると空席。

そして、ふたを取り、食べようとするが、生卵Sサイズが問題。

卵を割るのが難しい。

何しろ、殻が硬い。それに堅いものが車中にない。色々と試行錯誤を行いながら。ついに卵の殻を破壊することが可能になった。別の袋に入れて、握りつぶしてしまうわけだ。

で、20分の生卵との格闘の結果、ついに手とテーブルが、ベトベトになる。拭き取って、さあ食事と思うが、ついに新大阪駅についてしまう。

大坂城

2013-07-17 00:00:13 | 書評
岩波新書(739)の一冊。著者の岡本良一氏は、「大坂城に命をかけた男」のようだ。本職は一介の歴史家で、主に大阪の歴史を研究されていて、後に堺市の博物館の館長に就任している。1988年、75歳で没。

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大坂城には何回か行ったことがあり、軽く調べたところでは、秀吉が栄華を極めた大坂城は土の奥深い所にあり、現大阪城は徳川家のものでもなく秀吉のものでもなく、場所も意匠もまったく異なる空想の存在らしい。

本書でもそれらはしっかり書かれているし、さらに豊臣大坂城の前身は、信長との戦いに敗れた石山本願寺だそうで、それらを文献や遺構発掘により一つずつ確かめていったようだ。

それで、話は元に戻るが、そういう歴史考察とまったく異なる天守閣についての考え方は、受け入れられるだろうか。ちょっと微妙だ。