歴史と物語

2011-04-30 00:00:14 | 美術館・博物館・工芸品
国立公文書館の春の特別展。既に終わってしまったものを語るのもちょっとだが、公文書館のHPで、展示終了後もかなりの資料を読むことができる(もちろん、現物を見た方が感動は大きい)。

大部分の資料は、江戸時代の徳川家の図書館である紅葉山文庫で所蔵されていたものである。



まず、目を引くのが現存最古の歴史書と言われる古事記。そして勅撰の国史として最古になる日本書紀。古くは「日本紀」と呼ばれる。本の書名には「日本紀」となっているがなぜ日本書紀と言うのだろうか。



ところで、古事記が完成したのは712年で、来年2012年は、古事記1300年の記念の年であるそうだ。古事記の舞台の多くは現島根県ということで、盛大なイベントも準備されているそうだ。島根県で盛り上がっている話題は、この古事記1300年祭と、全国で島根だけが県庁所在地(松江市)に原発があり、福島と同型機であり、さらに故障していた原発が立ち上がるかどうか、という問題らしい。(立ち上がらなくても危険であることは多くの国民が知ることになってしまった)。

この古事記、日本書紀はじめ、多くの資料は、刊行当時の本物ではなく、各地に伝わる書籍を家康が調査し、「慶長御写本」といって、いわばコピーとして自分のコレクションに加えたものだそうだ。家康ほどの実力者が、古寺等に伝わる古書を強奪ではなく、写し取るという行動にでたのか、よくわからない。だいたい、集めた理由だってよくわからない。

そして、国史というのは、日本書紀に始まり、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三代実録と続く。この日本三代実録は清和、陽成、光孝の三代の天皇の治世(858年~887年)をまとめたもので、最近話題の貞観時代を含んでいる。完成したのは901年。編者の一人は菅原道真である。

道真が役人になったのは貞観13年のことで、貞観地震の2年後。試験で、「地震について述べよ」という出題があったそうだ。解答は伝わっていない。この貞観時代には、隕石、火山、疫病、火山(富士山、阿蘇山、鳥海山、開聞岳)が爆発。地震も越中越後、貞観地震、播磨・山城地震と大地震が多発。さらに応天門の変という政治的陰謀まで起きている。

日本三代実録には、地震や災害の克明な記録が克明に記載されているようだが、地震問題に苦しんだ菅原道真の影響なのだろうか。

東日本大震災の時の宰相は菅直人。菅原道真と名前は似ているが、別人である。道真がいれば、と思う方もいるだろうが、その道真は三代実録完成の901年に政変で太宰府へ飛ばされる。その後、全国に天変地異が多発することになるので悪口は言わない方がいい。



そして、歴史と並ぶもう一つの柱の「物語」。平家物語は、通常、盛者必衰の物語として平家よりの視点を与えられるのだが、今回の展示では、「源平闘じょう(言ヘンに争)録」として源氏からの視点で、誰を生け捕りにしたとか、首を切ったとか、そういうことが並んでいる。ものは書きようということだろうか。

genpei

戦争文学は、敗者の立場で語られた方が面白い。

御撰象棊攷格(1/2)

2011-04-29 00:00:26 | しょうぎ
先日、東京竹橋にある国立公文書館に行った時に、記念はがきの中に「将軍のアーカイブ」シリーズがあり、その中の一枚が徳川家治公の残した「御撰象棊攷格」の中の2題になっていた。将棋好きの第10代将軍の残した徳川家の図書館である「紅葉山文庫」に遺した自作詰将棋集である。はがきの他、公文書館のホームページからこの本の表紙を見ることができる

koryaku書物は二冊ワンセットになっていて、一冊には、百題の詰将棋が各1ページに記載され、もう一冊にはその解答が書かれている。ホームページの画像は、解答書の方の表紙と思われる。

家治公は名将軍と言われる吉宗の孫にあたる。吉宗は大の勉強家として知られ、紅葉山文庫の書籍を日々精読したと言われ、後世にその読書記録を書き残したがため、後代の将軍が逆に小読量を恥ずかしがって、さらに読書しなかったとも言われている。

そして家治の時代は、ちょうど、田沼意次が老中として政権を我が物としていた時代で、結果として家治は極楽殿様に徹することになる。幸か不幸か将棋界は、宗看、看寿の影響で詰め将棋ブームが起きていた。将軍までもが詰将棋を創っていたわけだ。また家治公は指し将棋でも家元の指導を受け、相当の実力(アマ高段ということだろうか)を持っていた。

ところが、この「御撰象棊攷格」だが、実は不詰めや余詰めなどの不完全作が多いことが知られている。なかには、簡単に誤りに気付く例もあるようだ。家元とも近い将軍が、どうしてこういうことになったのか、実は謎とされている。

言われているのは、
 1.伊藤家・大橋家といった家元に見せていない。
 2.家元に見せたものの、将軍に対して、誤りや改善策を口に出すことが憚られた。

との説があるようだ。

あえて、個人的に別の謎を上げれば、「御撰」というコトバを将軍とはいえ、自分で使うだろうか、ということ。上記の推測と微妙に係わる謎である。

そして、時代が下り、幕末の最終頁になる西郷×勝会談。東京を火の海にしてやろうという西郷に対し、東京を火の海にして守ろうという勝が会談を行い、江戸開城となる。本来、灰燼になるべき紅葉山文庫は、薩長軍の手先となり江戸城受け取りの任務を受けた尾張徳川家により、無事、後世に残されることになった。



記念はがきの二題だが、将棋ソフト「柿木将棋」で解かせると、一題目が9手詰と超早詰になり二題目は不詰になる。この方面の研究に詳しい大橋光一氏(家元大橋家の方なのだろうか)の詰将棋博物館に全百題が解説されていて、一題目から順に照合していくと、第98問と第99問であった。次のページが第百題で、裏表紙となるのだろう。家治の名誉の為にも完成作のページを使ってもらいたかったが、「なぜ、不完全作を記念はがきにしたか」という次なる謎を未来に残してしまった。修正図も掲載されていたが、これにも少し謎がある。来週また。


さて、4月9日出題作の解答。



1題目。▲2五金 △同銀 ▲2四金 △同玉 ▲3三馬 △1四玉 ▲2三龍まで7手詰。

相手駒を引きつけてから、接近(接金)戦に持ち込む。動く将棋盤は、こちら



2題目は、こちら


今週の問題。



かなり以前に、本コーナーに出題した作を、全面的に大改造した。以前作は、かなり中途半端だったので、ようやく完成に近づいたということで、なんとなく覚えている方も、全て忘れてから取りかかっていただけると嬉しい。

ヒントは、

 「王手と言えば、王手と言う」

 「大駒が欲しいと言えば、大駒をどうぞと言う」

 「一枚足りないと言えば、一枚どうぞと言う」

 「難解作でしょうか、いいえ、誰でも」

わかったと思われた方は、コメント欄に最終手と手数と酷評を記していただければ、正誤判断。

四人の東郷(3/3)

2011-04-28 00:00:04 | 歴史
そして、四人目の東郷が、東郷青児である。画家である。彼の絵も誰も真似をし得ない特殊感覚。また、奔放な生活を送り、自殺未遂なども起こしている。もっとも当時の有名な画家や作家にとって、別に変ったことでもないのだろうが。

seijiで、他の3人とはかなり異なる分野に属すると思われる東郷青児だが、実は冒頭に述べた薩摩英国留学生の「東郷愛之進」の孫にあたるわけだ。ただし、実は血の繋がらない孫というややこしい関係になっている。

実は、この東郷調査のかなり早い時期に、「青児は愛之進の孫」という情報は得ていたのだが、あまり確度の高いソースではなかった。そのため、半信半疑だったのだが、ついに青児自身が自伝を書いていたものを発見。日経ビジネス文庫に収録されている「私の履歴・孤高の画人」の中に登場する。

本来、自伝のような俗っぽさとは無縁のはずの彼が、どういうつもりで「私の履歴」を書いたのか、それはさっぱりわからないが、もっと違う年代の時の人生を誇りたかったのだが、生まれた時の事情を書かないと自伝にならないから、幼少期の話は、おまけのつもりだったのかもしれない。

ともあれ、1897年、彼は鹿児島に生まれる。本名は鉄春。剣豪のような名前だが、東郷家の秘伝が示現流剣法であることと関係があるのだろうか。

祖父に当たる東郷愛之進は戊辰戦争に参加し、20歳台で亡くなったのだが、既に男児がいたそうだ。その男性に同じ薩摩藩士の家からきた母親が嫁いだのだが、三人の女児が生まれた後、東郷某なる夫がなくなってしまう。それでは由緒ある家系が消えるということになり、熊本より石山某という男性が入籍する。そして生まれたのが東郷鉄春なので、愛之進との血のつながりがないわけだが、孫ということになる。

ところが、当時の戸籍法では、石山某が石山家の長男だったため、すぐには東郷家への入籍が認められなかった。父親が石山姓だと、せっかくの男児(鉄春=青児)も東郷姓を得られないということで、出生後4年後の1901年に神戸で生まれたことになったそうだ。

この神戸というのは、青児によれば、一家がなんらかの理由で鹿児島から東京へ移住した途中に1年半の神戸生活があったそうである。さらに、青児の三人の姉(父親が異なる)は三人とも長崎にある活水女学校を卒業しているとのこと。鹿児島からわざわざ遠い長崎に勉学に行ったのも、なんらかの理由があると思うとしているが、母親に聞くこともなく、謎のままに終わったということだそうだ。

そして、姉の影響で、彼は青山学院中学を卒業後、母校から一文字を頂戴し、東郷青児として、画家への道を進み始めたわけだ。

本稿は四人の東郷の、それぞれの功績を評価する目的で書いたのではないので、ここで筆をおくべきだろう。

当初は、この愛之進の家系が東京に出てくるにあたって、東郷姓を朴家に売却したのではないか。そして愛之進が軍神東郷平八郎の兄で、そのため家系図を書き直し、愛之進の生まれ年にも疑念が生じたのではないだろうか、と推測を立てたのだが、東郷青児一家が東京に向かったのは、1900年頃であるのに対し、朴家が東郷姓を得たのは1886年ということ。また、青児が自伝の中で、鹿児島の菩提寺である南湘寺にある先祖代々の墓をまとめて東京に移したと書いていることから、東郷家をやめたわけではないということが知れるので、当初の推測が間違っていることがわかった。

これ以上の詮索をするには、鹿児島に行って調べないといけないのだが、その意味も希薄であるので、当面、ここまでとする。

(おわり)

四人の東郷(2/3)

2011-04-27 00:00:27 | 歴史
heihachiそして、一方の東郷平八郎だが、こちらは薩英戦争に参加するもその力の差に愕然とするばかりだったそうだ。戊辰戦争に参加し、主に海軍として、榎本武揚、土方歳三を中心とした幕府軍と海上戦を経験。

その後、平八郎は、なんとか英国留学をしようと新政府の要職に頼みこむのだが難航。西郷隆盛の推薦を得て1871年から1878年まで英国留学に成功。1877年に西南の役で西郷が亡くなったのを見計らって日本に帰ってくる。果たして日本にずっといたら、どういうことになったのか、やはり西郷を裏切ったのだろうなと思わなくもない。

家系図によれば、この平八郎の兄に祐之進という人物がいて、夭折したことになっているが、祐之進=愛之進ではないか、という仮説を持っていたわけだ。なんらかの理由で、その人物がいなかったことにしたかったのではないか、ということ。たとえば、その後裔の不始末が海軍大将の名誉を傷つけるのではないかとの配慮とか。

togoその後、平八郎は日本海海戦では、丁字戦法という奇策を用いる。正面から迫るバルチック艦隊に対して横向きに艦船を並べて一斉砲撃を始める。軍艦は構造上縦長なので、そのまま戦闘を始めるよりも、横向きで艦砲射撃をした方が大量に砲弾を発射できるわけだ。ただし、横向きになることで、被弾する率が高いので、生きるか死ぬかという一発勝負型であるのだろう。なんとなく、先祖の編み出した示現流剣法と通じるところがある。なお、現代示現流は、平八郎と示現流をなんとか結び付けようとしているが、ちょっと苦しい。

四人の東郷の中で、次に、生まれたのが東郷茂徳(1882年-1950年)なのだが、実は、彼は東郷家の末裔ではない。生まれた時の苗字は「朴」である。そう、朝鮮半島出身者。とはいえ、朴家が日本に来たのは、秀吉の朝鮮出兵の時。捕虜になり日本に連行された。

薩摩焼を江戸時代を通して焼いていたわけだ。同じようでも佐賀の鍋島藩は、有田焼の陶工を半島から連れてきたが、後に半島に帰している。しかし、朴家は薩摩藩からは優遇され、サムライ扱いを受けていた。

ところが、明治になり、この海外からの客人たちの居処がなくなったのである。

shigenori本当は平等ではない「四民平等制」のため、元サムライ(士族)と平民の間の不平等が公認のものになったためだ。そして、元サムライ格を与えられていた朴家の身分も中二階風になってしまう。そこで、思い切ったウルトラCを行ったわけだ。

サムライ株を買う。

冒頭に書いたように、由緒正しい(ルーツは天皇家)東郷家も幕末は三十家以上に分かれていたそうだ。その中の一家がサムライ株を朴家に売ったことになっている。それが1886年のことで、東郷茂徳が4歳の時である。これによって、茂徳は東郷の姓を得るとともに日本人になったわけだ。

茂徳はその後、東大卒業後、ドイツ文学への夢をあきらめ、外務省に入省。ドイツ、ソ連大使を歴任。対米工作を重視する茂徳と独ソとの関係を重視する外相の松岡洋右とは対立し、クビになりそうになるが、東条内閣に替わり、今度は東郷が外相になる。

では、なぜ純粋日本人とは言い切れない東郷茂徳が、それほどの重職に就けたのか。現在の感覚ではよくわからないのだが、1910年の「日韓併合」後だったからなのだろう。茂徳が外務省に入省したのは2年後の1912年。29歳の時である。

そういう、本人の周りに起きた様々な偶然が、彼を外務大臣にしたのだろうが、結果として彼は1950年、巣鴨プリズンで病没。戊辰戦争で戦死した東郷愛之進と同様、靖国神社に祀られる。

(つづく)

四人の東郷(1/3)

2011-04-26 00:00:55 | 歴史
少し前に書いていた鹿児島シリーズだが、一つだけテーマを残していた。鹿児島出身の有名人に「東郷姓」が多いこと。東郷平八郎(日露戦争当時の海軍大将),東郷青児(画家)、東郷茂徳(終戦時の外相)。一体、この東郷姓は何なのだろう、というところから捜査を開始。

その他、東郷姓で有名と言えば、プロレスラーのグレート東郷(アジア系米国人)、デューク東郷(ゴルゴ13)がいるが、これは捜査対象からはずす。グレート東郷は、もともと悪役レスラーのイメージを創るため、グレート東条と名乗ろうとしたものの、本当に殺されそうなので東郷に改名したらしい。

実は、この3人の東郷に加え、幕末に薩摩藩が英国に留学生を送った時にその中に加わっていた「東郷愛之進」という青年がいて、捜査途中段階では、この愛之進をキーワードにして、すべてが繋がりそうだったのだが、結局、東郷青児が書いた自伝や英国留学生の研究書を読んだ結果、仮説が崩壊。なんとなく、まとまりのないことを書かなければならない感じである。


それで、最初に話を現代の東京から始める。東京の渋谷に近い原宿に、「東郷神社」がある。軍神東郷平八郎を祀った神社である。では、なぜ、東郷神社がそこにあるのかということ。話は飛ぶが、乃木神社は乃木大将が生まれた今の六本木ヒルズの土地や、明治末に居住していた自宅の近くというロケーションである。

実は、渋谷は東郷家の先祖の土地だったわけだ。なにしろ、東郷家は「渋谷家」と名乗っていたわけだ。桓武平氏の末裔である。歴史的には源平盛衰時代には、関東を本拠地にしていた。その後、大きく省略するが、中世後期に鹿児島まで高飛びする。そして、渋谷家は、いくつかの家に分かれ、その一つが東郷家だった。

さらに、戦国時代の初期の段階で、同じ薩摩の島津家と伊集院家と三つ巴の九州争奪戦を起こすのだが、結局、島津家に圧迫される。そして、降伏して島津家の家来としてビルドインされるわけだ。

ということで、ビルドインされた段階で、東郷家はいくつもの家系に分かれていて、さらに江戸時代を通じて分家が行われていたようで、幕末には三十家以上の東郷家があったそうだ。ということで、同じ東郷でも近い家系や遠い家系があり、一言でいえば、東郷という苗字が多いということだ。

例えば、薩摩藩秘伝と言われる殺人剣法である「示現流」。これは江戸初期に東郷家で発明されたと言われる。佐々木小次郎や宮本武蔵のようなカッコイイ剣の振り方ではなく、両手の間に間隔をあけて握るわけだ。簡単に言うと、野球のバント型。それで、右に振り下ろしたり左に振り下ろしたりする。要するに接近戦である。

この東郷家の剣法を薩摩藩は藩流として、外部に秘匿していた。


ainoshinそして、時代を下って、幕末である。1840年。四人の中の一人「東郷愛之進」が生まれたとされる。奇妙なことに実際に1840年に生まれたとすると、享年との矛盾が生じることになる。1843年か1844年に生まれた可能性もある、としておく。さらに1848年「東郷平八郎」が生まれる。当初、この二人が兄弟だったのではないかと思っていたのだが、別家のようだ。愛之進は、薩摩藩士の中でも身分的にはかなり下位の方だったらしく、1865年に彼を含んで19名が薩摩藩英国留学生に選ばれた中で、名簿の最下位に近い所に名前が書かれている。ただ、やや腑に落ちない点も感じる。


そして、英国留学生のことを調べていると、この愛之進氏は、薩摩藩開成所で、蘭学を学習。成績優秀ということで選抜されたことになっている。実際には、この使節団の選考には藩内の実力者だった五代友厚の選考基準によっていて、「頭脳優秀者」「将来の家老候補者」「尊王攘夷派の懐柔策」という混合部隊だったそうだ。

そして、困ったことに、彼ら留学生が渡英中に日本国内は大混乱に陥り、薩摩藩も彼ら19人に対する学費支給をやめてしまったわけだ。そのため、本来、英国で勉強したく、さらに実家が裕福で仕送りが受けられるものだけが英国に留まることになり、愛之進は、せっかく海軍機械術を学んだのに、帰国して戊辰戦争に参加することになった。

そして1868年(明治元年)、東北で戦死してしまう。20代後半である。英国留学生や薩摩藩のエリートは、中央政府に所属して明治時代に大活躍するのだが、英国に行っていた数年の時代のズレが彼の居所を間違わせてしまったのだろうか。

(つづく)

扇風機を入手

2011-04-25 00:00:36 | 市民A
実は、昨年秋、長い期間使い過ぎた扇風機を捨てる。長く使い過ぎて発火する事件が多発していて、さらにメーカーのホームページには、その機種よりも新しい機種でも問題が起きていることがわかっていた。

さらに、昨夏は猛暑で、エアコンだけでは対応できずに扇風機を併用する方が効果的だったわけだ。

といって、秋に扇風機を捨て、同時に扇風機を買う人間なんているわけない。洋品などでは、夏物最終バーゲンで購入して、翌年に着ることはあるのだろうが、扇風機は嵩張る。

ところが、

扇風機が品切れとの情報があった。まだ4月である。想像するに、例の問題で消費電力の小さな扇風機に人気が殺到しているとの連想だろうか。

ないと、困るわけだ。何しろ、既に捨ててしまったのだ。


それで、ヤマダ電機に行ってみたわけだ。

扇風機売場が特設されていた。

なんだ、デマか・・

ところが、よく見ると山積みされているのは、聞いたことのないブランド。コピー商品といってもいいものばかりだ。これでは、後々火を噴いた時の保証がないではないか。やはり有名メーカーがいい(あくまでも個人的意見だが)。東芝とかパナとか。

しかし、そういうブランド品は、展示品があるものの、在庫はゼロ。出直すしかないかなと思うも、そこで、ロジカルシンキングを働かせる。

つまり、この特設売り場に扇風機が運び込まれるプロセスを考えると、たぶん地下の駐車場に納品のトラックが入ってきて、店舗に直行するエレベーターに乗って、バックヤードに運ばれ、バーコード情報を読み取って、それから売場に店員が台車を押してくるはず。

ということで、バックヤードと扇風機売場の途中にある電動マッサージチェアコーナーで待ち伏せすることにする。一石二鳥である。ただ、直ちに睡魔が襲ってくる。あと1秒で夢の世界へ、という瞬間、来るものが来た。台車に3台の日立製の扇風機が。

マッサージ急遽中止である。

店員に掛け合う。

「これ売り物ですか?」

「一応、売れるのですが、これから展示しようと・・」

「じゃあ、いいよね」。

ついに購入成功である。

ただし、もう一台衝動買いしてしまったわけだ。

これって、「おとな買い」かな? いいえ、・・・




しかし、持ち帰ってから、よく見ると、扇風機にしては、段ボールが小さいような気がしてきた。6千円台というのも安すぎるような気がしてきた。



一つの箱を開いてみると、驚くことに一台が細かく分割されていて、手品師の助手が箱詰めにされているように隙間なく詰め込まれていた。

実際に箱から出すと邪魔になるので、そのまま倉庫に押し込むのだが、そこには長く使い過ぎてちょっと危ないドイツ製オイルヒーターが・・

これを捨てると、半年後にまたマッサージチェアに座って、・・

今頃、厄払いしても・・

2011-04-24 00:00:36 | 市民A
4月も中ごろになって、やっと初詣に行った(初詣というコトバを誤解している可能性はあるが)。

といっても、どこの神社にも行ったことがないわけでもなく、一応、1月の間に、勤務先のある東京都心の山に登ったり、仕事関係の厄払いのために専門分野の神社(信じていない者が行ってはいけないとされているが)には、行っている。

後は、住民登録をしている神奈川県の守り神である「寒川神社」に行くだけだったのだが、あれこれ所用があったり、やっと行けそうになると、ガソリンが手に入らないといった事態となる。

なんとなく、最近、自分が歩いた後から後から災難が起きているような気もしていて、運勢が悪い(あるいは運がいい)のではないかと思わなくもないので、まあ厄払いということに行く。なにしろ、寒川神社と言えば、全国で(つまり世界中で)唯一、「八方除」をメインテーマとした神社であるわけだ。

それで、しかるべき金額と引き換えに、昇殿の上、その他大勢と一緒に順に氏名を読み上げられ、「八方どこから攻められても無敵のパワーを与えたまえ」との無理なお願いを頼んできたわけだ。



そして、正月の混雑の中ではとても無理なのであるが、神社の背後に開ける森の中に、いつの間に完成していた『神嶽山神苑』という庭園に足を踏み入れることができた。なにぶん神聖な神社の裏側なので、神社そのものの写真を撮影してはいけないのだが、庭園に入る前に無意識で撮影した画像に、屋根の一部が写ってしまったようだ。裏側だからいいかな。

そして、その神苑の中に、「方徳資料室」という博物館がある。寒川神社の歴史がわかるようになっている。

ただ、資料を慎重に読んでいくと、「いつ、どのように神社が始まったのか」ということが、はっきりわかっているわけではないようだ。が、5世紀の雄略天皇の治世の頃に、神社の存在が認められるようである。雄略天皇というのは、天皇史の中では、神話的ではない最初の天皇と位置付けられている。つまり、この神社は日本最古クラスの神社であるということは確からしい。

しかし、その後、歴史の中で確認されるのは平安時代初期のようである。また、「八方除」とか、方位とか、暦の方面に特化しているのは、平安時代からの流れのようである。安倍晴明関係の展示物が多いというのも、そういうことらしい。安倍晴明が天に未来を占う場面の絵を見たが、妖しすぎる図である。晴明の周囲を四匹の人獣が取り囲み、燈明の中で占うわけだ。

まあ、個人的には、そこまでの未来予想を神社に頼む気にもならないので、早々に退散することにする。

ふと、資料室の出入口のそばに、富士山の宝永年間の爆発に関する資料と、火山灰が展示されていることに気が付く。どうも、自分の守備範囲外の静岡県にある富士山が爆発しても、神奈川県は守ってくれる、ということなのだろうかと勝手に推測する。



最近、うっすらと話題になり始めた「富士山爆発」だが、屋根に太陽光パネルを取り付けたばかりなので、火山弾NO!、火山灰NO!、状態。爆発が間近いとするならば、寒川神社におすがりするしか具体的な対策はないのかもしれない。

史上初の永世名人対決(ではなかった)

2011-04-23 00:00:29 | しょうぎ
meijinsen名人戦7番勝負が、淡々と進んでいる。過去7回名人位に坐っている羽生19世名人と過去5回名人位に坐っている森内18世名人。5回名人になると永世名人の資格を得られることになっている。実力名人制になってからは、木村義雄、大山康晴、中原誠、谷川浩司、森内俊之、羽生善治の6人である。

それで、過去の名人戦をひもとくと、まず江戸時代は世襲制で終身名人制なので、名人が他界しないと、次の名人が継がないので、理論的に名人同士の対局はない。

そして、木村‐大山戦は名人戦では2回あり、1勝1敗ではあるが、その時、大山はまだ永世資格を得ていない。次に大山‐中原戦だが、これは2回とも中原が勝っているが、その時に中原はまだ永世名人じゃなかった。

中原-谷川戦は3回。中原の2勝、谷川1勝。しかし、この時には谷川は永世名人にはなっていない。谷川-森内戦は2006年の一度だけ。森内の勝ちだがまだ名人5期には未達だった。羽生-谷川戦も一度だけ。この時に谷川勝ちでついに永世名人資格を得るも、羽生はまだ永世資格がなかった。

そして、森内‐羽生の名人戦は過去に5度あり、羽生3勝、森内2勝。しかし、これも羽生が永世資格を持っていなかった。

ということで、今回が史上初の対決になるわけだ。

PS:アップ後、1986年度に、中原×大山戦があったというご指摘がありました。つまり、今回が2回目。

もっとも、今が江戸時代だったら、現在の名人は中原誠名人ということになる。いや、対局後、脳梗塞で倒れた時に、江戸時代だったら、「これまでです」だったかも知れず、その場合は、谷川名人となっただろう。そして、森内、羽生と二人がほぼ同じ年齢であることから、もしかしたら、羽生名人になり損ねることになったかもしれないわけだ。

さて、4月9日出題作の解答。





長すぎるかな。

動く将棋盤は、こちら


今週の問題。GW前なので、軽く。(何か意味深発言か)



わかったと思われた方は、コメント欄に最終手と手数を記していただければ、正誤判断。

朝のデザート

2011-04-22 00:00:32 | The room of Sora
朝のデザート。



バナナとキウイとパイナップル。そして、中央には細かく千切ったパンが。

なぜか、フォークもスプーンも使わないわけだ。


最近、新しい言葉を覚える。

「ジシン!」



携帯に地震速報が流れ、「ジシン!」と言うと、安全なバリケンに避難するようになったのだが、何回か、避難しても地震が空振りになっているうちに、「ジシン!」と言っても、たかをくくって、避難しなくなってくる。犬も人間も、行動は同じということだ。

タケノコ泥棒

2011-04-21 00:00:29 | 市民A
4月になって暖かい日が続くと、ニョキニョキと発生するのが、タケノコ泥棒。

いや、正確に言うと、タケノコが生えてきて、タケノコ泥棒が現れる。



自宅の近くをドライブ中に、嫌なものを見てしまう。歩道橋の階段の脇に生えているタケノコを狙った盗賊団がいた。

盗賊団の構成はこうだ。

父親。母親。こども。中型犬。どうも二家族いるようだ。

ところで、誰の土地なのかといえば、横浜市の土地に決まっている。あるいは、それがわからなくても、この家族の土地じゃないことは、当たり前だ。他人の土地に、無断で入ることも広い意味での犯罪だろうが、用意のスコップでタケノコを自分のものにしようと言うのは、紛れもなく「大犯罪」である。

そして、大人が率先して犯罪を計画し、準備周到にタケノコの盗み方を、こどもに指導するわけだ。

「うそつきはドロボーの始まり」という諺は有名だが、それでは「ドロボーは何の始まり?」なのだろうか。まあ、凶悪事件の始まりと言った方がいいだろう。

車から降りて、インネンを付けに行こうかと思ったのだが、犬と戦うのは嫌だなあ、と自重する。もしかしたら、犬は、トリュフでも掘っていたのかもしれない。

期待される科学、期待される観光

2011-04-20 00:00:03 | 市民A
日本経団連の関連組織である(財)経済広報センターの社会公聴会員になっている。3000人ほどの会員が、定期的にアンケートに答えている。こういうのが、いわゆる世論的なものを構成していくのだろう。そして、答えたアンケートについては、定期刊行物である「ネットワーク通信」で送られてくる。春号は3月31日の発行である。つまり大震災のあと。ただし、アンケートは2月以前のもの。だから、ちょっと違和感を覚えることがある。

まず、科学技術についてのアンケートで、日本が科学技術を重視すべきかどうかという関係のいくつかの問いに関しては、おおむね80%の人が、科学技術の重要性に同意している。ただし、日本の科学技術水準が今後向上するかどうかについては、楽観論が54%、悲観論が38%といったところで、ギャップがある。悲観論の理由としては、「教育水準の低下」「こどもの理科離れ」「政府が消極的」ということ。

そして興味深いのが、今後の進歩を望む分野である。複数回答であるが%がある。



1位 医療・介護  73%
2位 生命工学   52%
3位 環境保全・リサイクル  51%
4位 再生可能エネルギー   51%
5位 農林水産   45%

そして、かなり下位の方に、原子力・核融合12%となっている。原子力は、あまり期待されていなかったようだ。

次に、将来実現を期待する科学技術だが、



 1位 電気自動車 60%
 2位 がんの転移を抑える薬 60%
 3位 変換効率の高い太陽電池 52%
 4位 iPS細胞により作成される人工臓器 49%
 5位 M6以上の地震の予測技術 38%

ちなみに、下位に高速増殖炉技術(13%)や外国語の自動翻訳機(15%)がある。

こうみると、今の日本で、安全な原発というのは、望むべきもないのかもしれない。


次のアンケート結果は、「観光」なのだが、これこそ言わずも知れるように、3.11以後様変わりである。地面に余震があるように、我々の気持ちもまだ揺れ動いていて、観光気分にはないような状況だ。さらに外国人の日本への入国も激減していて、3月11日から3月末の成田空港からの外国人入国者は前年の73%もマイナスになっているそうである。

ただ、半年から1年ほどで、人々の心も変わっていくのではないだろうかとか思っている。

まず一つは、自然を崇めるというようなムードになるのではないだろうか。人間の所業には限界があるのだが、地震と津波のパワーは、まさに、「自然と対決する」ことの愚かさを証明したようなものだ。(しかし、海辺の防波堤の上なんか歩いちゃまずいけど)


さらに、素朴に、社会や日本といったものを各自が確かめるような旅が増えていくのではないかと思うわけだ。各地に伝わる民俗とか。東北地方の森なんか、まったく神秘的な空間なわけだ。柳田国男や宮本常一の世界だ。

980円で行ける所は、・・

2011-04-19 00:00:01 | 市民A
例えば、東海道線で東京から西に進むと、950円で茅ヶ崎にいくことができる。

感覚的には、結構遠くまで行くことができるのだが、だからといって、電車を降りてもそれほど気候が異なることもなく、駅前にはどこにでもあるコンビニやサラ金ビルがあるだけだ。

西方向ではなく、東に行っても北に行ってもたいして変わらないだろう。1000円ってそういうものだ。

ところが・・・

スカイマーク、片道「980円

スカイマーク(BC)は2011年11月以降、成田発着の国内4路線に順次就航し、就航後3ヶ月間は片道980円のバーゲン運賃を設定する。普通運賃は千歳が1万2800円、旭川と福岡が1万3800円、那覇が1万6800円だが、「前割21」では千歳、旭川、福岡は3800円、那覇は5800円とする。

西久保社長によると、バーゲン運賃の終了後も「だいたい全席の75%程度は1万円以下」になる見込み。



980円で、北海道や沖縄に行けるわけだ。


もちろん、普通運賃の成田-千歳12,800円。成田-那覇16,800円も格安だし、「前割21」での、千歳、福岡の3,800円、那覇の5,800円も格安。それにしても、980円!。

でも、都心から成田空港まで、もっとかかるわけだ。

スカイライナー(京成):上野-成田空港 2,530円

スカイマークの次の航路として、成田-出雲空港が予定されているようだが、2012年は島根県に馴染みの深い「古事記1300年」の記念行事が多数予定されているようだ。980円で出雲大社に行くことができるのだろう。ただし、ご利益もそれなり、ということになるのだろう。



ところで、スカイマークが成田就航するのは2011年11月ということだが、11月には、11年11月11日11時11分11秒という時間が来ることに気がついたが、とくに記念行事があるということは聞いていない。

児童をぶん殴る方法

2011-04-18 00:00:27 | 市民A
福島から疎開中の小学生が、千葉県の船橋でいじめられたようだ。サンケイから。

福島から避難の子供「放射線うつる」といじめか 船橋市教委が指導
2011.4.14 13:25

 福島県から千葉県船橋市に避難した子どもが「放射線がうつる」などと言われ、いじめられたとする匿名の電話が3月、同市教育委員会にあったことが14日、市教委への取材で分かった。

 市教委は、避難者の気持ちを考えて言動に注意するよう児童、生徒への適切な指導を求める通達を、市内の小中学校計83校に出した。

 市教委によると、匿名の電話は、福島第1原発事故のあった福島県から避難し船橋市内の公園で遊んでいた小学生のきょうだいが3月中旬、別の子どもたちにいじめられたとの内容だった。

一昔前なら、小学校のクラスの担任が、犯人を見つけ出して、前に並ばせて、げんこつでボコボコにしてしまえば事が済んだのだが、そう簡単にはいかない世情である。

どうしたら、懲らしめることができるのだろうか。

一例をあげる。

まず、教師が犯人を並ばせるところまではいい。

そして、次のような演説をぶつわけだ。

一昔前なら、君たちをゲンコツでぶん殴ればよかったのだけど、今、そういうことをすると、先生がクビになってしまうわけです。そうすると、悲しい気持ちになってしまう人がもっと増えてしまうわけですね。だから、先生は君たちを殴ったりしないので、今後は絶対にそういうことをしないように。

まあ、そう言っておいて、後で校舎の裏で待ち伏せしていて、ゲンコツでぶん殴ればいいわけだ。

「先生が殴った」と訴えても、みんな信じないからだ。

もちろん、この手は何度も使えないし、先生がクビになっても悲しい気持ちになる子が誰もいない場合は別だ。

それと、犯人を間違えないことも重要な点の一つである。


船橋市長が福島県知事に謝罪をしなければ、ならないのではないだろうか。県知事が会ってくれるかどうか???だが。

県知事:「この場所で、殴ってもいいのだが、それでは私が首になるので・・・」。

あとで県庁の裏で・・

ふくやま文学館

2011-04-17 00:00:00 | 美術館・博物館・工芸品
世に「美術館」は数多いが、「文学館」というのは、かなり少ない。個人の文学館の場合、作家の生家や書斎を利用したものが多いし、「ふくやま文学館」のように、地元に何か縁のある作家達を特集したものもある。美術館の場合、収集した美術自体がアートであるのだが、文学館の場合、作家の万年筆や、著作を並べたところで、それを見た方が何かを感じるかどうかわからない。




それで、本当はあまり関係ないのだが、福山や尾道を題材にして活躍した、志賀直哉や林芙美子といったグループがある。

一方、生まれが福山、尾道といった産地型ご当地作家については、資料が多い。

特に、この文学館が力を入れているのが、「井伏鱒二」。

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有名作については解説付きで紹介してもらえる。山椒魚など、実際に水底にある岩穴の模型が設置されている。水族館みたいだ。

また、鱒二は将棋好きで、かなり日本将棋連盟の創成期に援助しているように思える。巨大な五段免状が展示されている。大山康晴氏と懇意にしていて、並んだ写真があるが、丸縁メガネと鼈甲眼鏡を取り換えると見わけがつかなくなるだろう。


そして、日野啓三。芥川賞作家である。その芥川賞の賞状が展示されている。結構シンプルだ。賞金 30万円、商品 時計、とそっけない。表彰状の大きさは、半紙1枚程度。将棋免状の4分の1以下の面積である。

この一枚の紙切れがもらえなくて、一生を棒に振った太宰治のことが頭に浮かぶ。私立大学卒で初めてノーベル賞を狙う候補者も芥川賞落選。ちょっと滑稽な感じが漂う。

そして、さらに展示物を眺めていて、ある一人の童謡詩人に興味を持つようになった。

「武内俊子」。いずれ、・・

「日めくりカレンダー2012」用の作品に苦吟中

2011-04-16 00:00:22 | しょうぎ
年々応募締め切りが早まるLPSAの「日めくりカレンダー2012」の募集のお知らせが届く。



念を入れて、郵送とメールと両面からだ。たぶん、過去にこのカレンダーに作品を投稿した人たちに同様に送られているのだろう。1年かけて在庫作品を貯めていた方々は、さっそく投稿用紙に記入を始めているのだろうが、当方は、これから作品を創り始める。

手数は、7手以内の短編で、応募点数は、マックス5作まで。

どういう作品が選ばれやすいかというガイドラインがあって、

・5手詰め以下の短手数
・駒数の少ない好形
・女性やお子様の作品
・はじめて作った作品
・その他、みなさんが作って下さった作品!!

ということだそうだ。名前を「おおた葉一郎」ではなく、「おおたよういちろう」にして、年齢9歳とすると愚作でもパスするかな、と頭をよぎる。


実際はこの条件となると、結構大変で、結局、7手詰が歓迎されていないことが感じられる。また、みかけが難しい作品もNGという感じだ。しかし、5手詰の好作というのは、実際に稀にしかないわけで、大家の作品集でもそれほどたくさんはない。

7手詰になると、一気に難解作があるが、コンセプトとして、2、3分で解ける問題ということなのだろう。案外、トイレの中に配属されたりしているのではないだろうか。解いた後の日めくりの紙の扱いも簡単だ。

個人的には、一日一作ずつ解くのではなく、1週間分をまとめて5分程度で解きたいなあと思わないでもないので、「週めくりカレンダー」みたいにした方がいいのではないかと思うのだが、世の中に「週めくりカレンダー」のような商品をみたことがないので、誰も思いもつかないのだろうか。


ということで、あれこれ半日がかりで、短編を創りまくってみたものの、すべてが7手詰になってしまった。

もうしばらく5手詰の痛快作を考えてみようかと思っているのだがどうだろう。「双玉&香車連続不成」みたいなのが思い浮かぶといいのだが・・

締切は、4月25日ということで、ちょっと余計な気配りの文章が添えられている。

ゴールデンウイークにじっくり創作ということが出来ないことについては、大変心苦しいのですが、ぜひとも皆様のお力をお貸しいただきまして、世界に一つしかない詰め将棋カレンダーを作り上げましょう!


大量制作の中の規格外の個人的落選作を、「今週の問題」にしてみる。



たぶん、9歳の小学生が、「はじめて作った」ような問題。ここ数週間、難解作が続いたので、GWに向けて軽い問題を並べてみようかと。

しかし、秒速で詰める人もいると思うので、もう一題。



こちらも二秒速で詰められるかもしれない。


わかった!と思われた方は、コメント欄に最終手と手数を記していただければ、正誤判断。

さて、先々週の問題。





簡単だと思ったけど、意外に難解作だったのだろうか。

手数は長いが、選択肢が多くはない道を歩く。実は、詰め上がりの最終手では、他の手を指して手数を伸ばすことができるが、現代のルールでは、最終手の余詰めは許容されている。将来、余詰め扱いにされることも考え、なんとかできないかと数年来考えていたが、数年かけて考えるべき大問題は、人生にはたくさんあるので、この詰将棋は、ここで完成ということにしてしまう。

なお、動く将棋盤は、こちら