最終手の余詰め

2009-02-28 00:00:34 | しょうぎ
tumi5最近、浦野真彦七段の「5手詰ハンドブック2」を解いた。浦野七段は短編の名手で、「5手詰」の詰将棋集を何冊か出されている。本書も200題も入っていて、瞬時に解けるものもあるが、うんうん言ってやっと解いて、答えを突き合わせるような難解作もある。

詰将棋を創るとなると、この5手詰めというのは、「最後の収束」のようなところで、体操の着地みたいなもの。できばえに影響する。5手というのは先手が3手、後手が2手なのだが、4手目と5手目には好手を入れにくいので、最初の3手の中に、好手を最低2手は織り込まなければならないから、意外に難しい。

200題の中には、「ちょっと変えてみたいな」とか「あと2手追加して7手詰にしたいな」という欲望が湧く作品もあるが、それは普通「盗作」とか「剽窃」に近くなる。もっとも短編だと、盗作する気はなくても偶然に同一作、あるいは類似作になる可能性も高く、油断できない。特に形が美しい場合ほど危ない。

ところで、本書の冒頭に浦野七段は詰将棋のルールを再確認されているが、その中に気になる一文があった。

なお、最終手以外で別手段の詰みがある場合は、余詰めといって問題の不備ということになります。

余詰めの解説であるが、この書き方だと、「最終手の余詰めは不問」というように読める。

もちろん、問題を解く方は、いかなる変化でも必ず詰められることがわかれば、「解の発見」ということになる(数学の証明のような話だ)のだから、最終手の余詰めにこだわるのは、問題作成者の方である(懸賞詰将棋とか詰将棋解答選手権では、そういうわけにはいかないが)。

最後の一手が歩成りでも飛車成りでもOKという程度なら、キズなしということだろうし、頭金で詰むものを、横に一枡ずらして金を打って3手詰めにする変化は小キズ。そして、最後の一手をまったく違う筋で追い回して詰めるようなものは大キズということなのだろうか。あるいは大キズではなく、余詰め扱いとなって、作品の仲間に入れてもらえないのだろうか。まあ、大キズでも不成立でも同じようなものと考えればいいのだろうが。

さて、2月14日出題詰将棋の解答だが、長く厄介な問題を出してしまって、解答を書くのが大仕事になってしまった。

まず、本筋から。





▲1二歩成 △同飛 ▲2二歩 △同飛 ▲同龍 △同玉 ▲1四桂(途中図1) △2一玉 ▲2二歩 △3一玉 ▲3二歩 △4一玉 ▲4二飛 △5一玉(途中図2) ▲7二飛成 △2四歩 ▲6三桂 △4一玉 ▲3一歩成 △同玉 ▲2一歩成 △4一玉 ▲3一と △同玉 ▲2二桂成 △4一玉 ▲3二成桂まで27手詰。

途中図1に対し、△2一玉(△1二玉)には、▲1一飛以下。

自分で打った歩をなんとか処理して、ギリギリで詰める。最終手の余詰めパターン1である。

本題で最大の難関は、2手目の変化である。▲1二歩成を△同玉の場合。▲3二龍では打歩詰になるので、一つ離して▲4二龍と変な手を使う。

ここからが大変で、2二に合駒を打つ変化各種と、3二に各種中合いをする場合がある。多くの変化は簡単だが、やっかいな筋は、△3二歩の筋(変化1)と▲2二銀(変化2)である。





△3二歩のあと、▲1三歩 △2一玉 ▲2二歩 △同玉 ▲1四桂 △同角 ▲3四桂 △2一玉 ▲1二歩成 △同飛 ▲2二歩 △同飛 ▲同桂成 △同玉 ▲3三角成 △1三玉 ▲1二飛 △同玉 ▲3二龍 △1三玉 ▲2二龍まで、つごう25手詰歩余り。

△2二銀のあと、▲1三歩 △2一玉 ▲2二龍 △同玉 ▲3三銀 △3一玉 ▲4二銀不成 △2一玉 ▲2二歩 △同玉 ▲1四桂 △同角 ▲3四桂 △2一玉 ▲2二歩 △3二玉 ▲3三角成まで21手詰。




今週の問題は、手が広いので筋に入るまで苦労するかも。

やっと詰んだ、と思った先に、おまけがついていて、一汗必要だ。

わかったと思った方は、コメント欄に最終手と手数を記していただけば、正誤判断。

メタボから最高峰、そして危機が

2009-02-27 00:00:12 | スポーツ
スキーヤーで冒険家である三浦雄一郎氏の講演を数週間前に某証券会社の主催で聴いたのが、ジャストタイミングで、骨盤骨折の報を知る。

三浦雄一郎さん 不覚!
スキー場で転倒し骨折 全治3カ月(2月26日2時36分 毎日新聞)

国内最高齢の75歳でエベレスト登頂に成功したプロスキーヤーの三浦雄一郎さん(76)が、2月19日に札幌市内のスキー場で転倒して骨盤を骨折していたことが分かった。全治3カ月と診断されたが、既にリハビリを始めているという。

長女の恵美里さんによると、三浦さんは19日午前、スキー中にこぶに乗り上げてコース外に飛び出し、路面で腰を強打した。三浦さんは市内の病院に運ばれ、現在も入院している。

回復の意味を込めて、講演会のことを思い出しながら書いてみる。

miura1三浦氏は昨年(2008年)、75歳で二度目のエベレスト登頂に成功。エベレスト制覇の最高齢者記録を更新する。5年前の70歳の時にも登頂成功しているので、高齢者記録連発である。講演は、この二回の登頂に関する話題を中心に進められる。

まず、学生時代。スキーで日本一になってオリンピックに出場しようと思っていたそうだ。そして挫折。そこで、今度は世界一のスキーヤーになろうと考えたそうだ。そして、ついに1964年31歳でスキー世界最高速記録を樹立する。時速172キロ。

このあたりから、彼の考え方が硬質製であることがわかる。普通なら、学生スキーヤーの行く先は、ショップの店員ということになる。良くてもスポーツ用品メーカーのサービススタッフ。

さらに、パラシュートブレーキを使って富士山直滑降(1966年)。エベレスト8000m地点で滑降(1970年)。南極で滑降(1977年)。そして、今度は再び南米で、七大陸最高峰滑降を完成させる(1985年)。コジアスコ(豪大陸)、マッキンレー(北米)、エベレスト(アジア)、キリマンジェロ(アフリカ)、ビンソン・マッシフ(南極)、エルブルース(欧州)、アコンカグア(南米)

そして、栄光の時間は短く、その余禄の人生が始まる。人生は楽しい。飲み放題、食べ放題で運動不足。彼の身体は確実にメタボ的崩壊に向かっていた。一方、彼の父親は90代でも滑っているし、次男は父の果たさなかった五輪代表(モーグル)に近づいていた。

そして、転機は奥様の病気。入院中の奥様に付き添っているところを、病院の医師に捕まり、人間ドックへ。

既に60才を超えていた三浦氏は、身長164cmで86kg。高血圧、高血栓、高脂肪・・糖尿病寸前で、不整脈付き。検診結果表が真っ赤だったそうだ。

ここで、再び、彼の硬質精神が登場する。目標を高くである。

「体を治して、エベレストに登頂しよう」。

そして、当時住んでいた札幌近郊の数百メートル山に登ったところ、「もうダメ、死にそう」ということになる。

そのため、5年計画で体力回復に挑戦することになる。ただし、二つのことを決めていたそうだ。

1.きつ過ぎないこと。
  つまり目標のエベレストは、あまりにも難しかったからだそうだ。遭難率15%、登頂成功率30%。体力があってもこれである。できないことは、しょせんはできないということはわかっていたのだろう。

2.飲み放題、食べ放題をやめないこと。
  おそらく、食べずにやせるのではエベレストは無理ということだろう。

そのため、三浦氏は、自分の生活の中にトレーニングを組み込むことになる。両足首に1キロのウェートをつけ、背中に10キロの重りをつけ、毎日30分以上歩くことにしたそうだ。そして、登山靴で散歩することにする。そして、足のウェートは徐々に重くなり、現在は6キロだそうだ。そして、ついにエベレストを目指すことになる。

講演では、エベレストの登り方については、結構、面白い方法が紹介されたのだが、ここに書いても有害無益なので省略(行きたい人は自分で調べること)。

ただし、70歳の初登頂の時に、ことを急いだことにより、後遺症が発症。こどもの頃からわずらっている心臓疾患が悪化。不整脈で倒れることになる。普通の人間なら、ここでペースダウンする。もう70歳を超えているのだから。

そして再び、目標が設定される。75歳でエベレストに最登頂すること。

miura170歳の時には、頂上が曇っていて、何も見えずに達成感がなかったそうだ。

その後、激しい不整脈に見舞われ、張り裂けそうな状態の心臓を2回手術をすることになる。ここがミソだ。

人づてに、自分の心臓手術に適した名医を茨城県に探し出す。これが、アメリカのジョンズ・ホプキンス大学付属病院に専用ジェット機で乗り付けて、とれたての新鮮な心臓と交換してから、いざエベレストというのでは、日本人は納得しないだろう。


そして75才となる。

エベレストは、再び彼を頂上に迎えることになる。天気快晴である。

さらに、再び80歳での登頂を狙っているそうだ。何しろ、75歳の登頂のときは、直前に中国隊がオリンピックの景気付けに登頂し、帰り際に、すれ違ったそうだ。中国隊はチベットルートで下山。今度は、そのルートで登りたいそうだ。

実は、地球温暖化で、いつものコース(ネパール側)には多くのクレパスが生じているそうだ。穴に落ちて亡くなるのはスキーヤーとして耐えられないのかもしれない。



そして、今回の骨盤骨折。思うに、筋肉は鍛えられても、骨を鍛えることは難しいのだろうか。スキーと登山は若干、バランスが違うのだろう。何か、エベレストとは別の目標を設定しそうな気がする。



ところで、不摂生の末、体力ボロボロとなり再起をはかる話題としては、中川昭一衆議院議員のことが思い浮かぶ。彼の政治的復活にも、大きな目標が必要だろうか。

『財務大臣復帰』ではないだろう。『総理大臣の椅子』だろうか。ただし、エベレストは、登頂すること自体が目標となりうるが、総理の椅子の方は、座ることが目標であってはならないのだが、勘違いする歴代首相がなんと多かったことだろう

屋島で発見した那須与一

2009-02-26 00:00:51 | 歴史
イサム・ノグチ庭園美術館に行くには、琴電では「八栗駅」が最寄だが、JRでは「屋島駅」になる。屋島といえば、源平合戦で平家が滅亡に向かう三連敗の第二戦の古戦場である。



最初の敗戦の、一の谷(神戸福原)では背後の山から急坂を源氏の騎馬兵が駆け降りてきた。そのため、平家は海上に逃げるのがやっとだった。そして二敗目が屋島(香川県)の海戦。そして、最後が壇ノ浦(関門海峡近く)である。

ノグチ美術館の近くに屋島があることは知っていたが、屋島は海に面したかなり大きな山である。山の裏側に美術館があるのだから、海戦の現場に行くには、山を回って向こう側の海岸に行かなければならないから、とても無理だ、と簡単に考えていた。



それだから、美術館への道の途中に、「那須与一」の遺跡である「与一岩」があることを知って、かなりびっくりした。



さらに、岩は水の下に沈んでいて、よく見えない。さらに、その水は海水であると書かれていて、引き潮の時には水上に姿を現すと書かれている。だいたい、何もわかっていなかったのである。与一岩は直径が1メートルほどのテーブル上の岩である。ここに立って、海上に浮かぶ平家の女官の船の上に立てられた、揺れる扇を矢で射落としたことになっていて、一気に源氏側が精神的優位に立ったと言われたのだが、いくら名人でも、かなたにある標高数百メートルの屋島の山を超えて向こう側まで矢が飛ぶはずないじゃないか、と思ったのである。

帰宅後、調べたら、まったくの無知であった。


屋島は山ではなく、当時は島だった。島と陸地の間は、江戸時代に干拓されたそうだ。それだからこそ、水路には海水が逆流してくるわけだ。つまり、源平合戦の戦場は、今は陸地になっているわけだ。

したがって、那須与一が狙った扇は、山越え何キロメートルも飛んだのではなく、70メートル程度だったそうだ。やっと、実話の範疇に入ってきた。そして、史実に基づいた絵画によれば、浅瀬に乗馬したまま進んでいき、馬の前足を岩に乗せ、そこから揺れる扇を狙ったそうだ。さらに、普通の矢ではなく、鏑矢といって先が二つ割れになっていて、飛行中にひゅるひゅると音がしたそうだ。よく開戦の合図で、景気づけに放たれるが、精度はかなり落ちるそうだ。だから、与一岩が水に沈んでいても、それの方がリアルに近い。さらに、石に乗っていたのは、与一ではなく、与一の馬ということになる。

では、実際に、どういう状況で、与一は、そんな成功率の低いトライをしたのだろうか。

伝承では、まず平家の挑発に、気の短い義経が切れてしまう。

義経:誰か弓の上手いやつ、連れて来い。

そこで、与一が連れてこられる。

与一:私では、力不足です。誰か別の人を・・

義経:他にいないから、あんたなんだよ。きょうは、まだ、これといった活躍してないじゃないの。




ここで、与一は、大役を引き受けなければならないことを悟るわけだ。しかし、失敗すれば腹切りものだ。といって、空飛ぶ鳥の撃墜率は三羽のうち二羽である。絶対に当たるとは言い切れない。それならば、はずした時の口実を作らなければならない。

与一:それならば、引き受けますが、ついでにギャラリーからよく見えるように、音が鳴る「鏑矢」で撃たしてもらいましょうか。

義経:そうだな。鏑矢の弾道は不正確だから、万一、的をはずしても味方の士気に影響することはないだろう。

学者を殺した男の運命は?

2009-02-25 00:00:31 | 書評
anie中央大学教授殺人事件は未解決である。教授が、アナログ回路の研究を行っていたということから、当初は、第一目撃者の「留学生」が犯人、かつ産業スパイではないかと思っていたが、命の値段の安く産業スパイの大勢いる近隣諸国からの留学生ではないかと思っていたら、「スイス国籍」とのこと。白っぽい。

都会の中心での犯行が捕まらないということになれば、問題だ。五輪誘致にもマイナスだ。早期解決を願いたい。

そして、昨年末には厚生労働省元次官を狙った連続襲撃事件があった。身の回りに捜査が近づいてきたと感じた犯人が、警視庁に乗り込んでくるという例のない結末であったのだが、犯行計画が、自宅から近い順に実行するようになっていたため、捜査網が絞られていったのだろうが、自宅から遠い順に犯行が行われていたら、はたして逮捕できたのだろうか。

その時の犯行は、宅配便業者になりすまし、段ボールを持って被害者の玄関があくのを待つという方法であり、その当時は、パトリシア・コーンウェルの小説『証拠死体』と似ていると思ったのだが、もっと似ているミステリがあった。

アニーの冷たい朝(黒川博行)

特に、読む必要もないと思うが、簡単に書くと、「連続殺人」である。そして、動機がなかなかわからない。

小道具として。宅配便が登場するが、段ボールを持っていると、自然にドアを開けてくれるようだ。荷物が小さいとドアはなかなか開かないそうだ。

小説の方には、もう一つの筋が存在するのだが次官殺傷とは無関係だろう。


ところで、次官殺傷事件の犯人は、理不尽な勘違いで殺人を犯したのだが、江戸末期にも同様の事例があるようだ。

文久2年(1863年)12月21日、国学者の塙次郎が暗殺された。盲目の大学者、塙保己一の息子である。

塙次郎は、老中安藤信正の依頼で、外国人のもてなし方を研究していたのだが、孝明天皇退位の研究をしていたと思いこまれてしまった。長州藩の志士が勘違いで天誅してしまった。犯人は、伊藤俊輔。のちに、日本最初の総理大臣となる。

つまり、日本は、テロリストが総理大臣になる結構な国であるわけだ。

のちに伊藤は、ハルビン駅で暗殺される。その事件も、若干の勘違いから起きたもののような気がする。

歌舞伎町昏睡強盗事件

2009-02-24 00:00:30 | 市民A
新宿歌舞伎町で土曜日の未明に路上で昏睡状況で発見された男性が9時間半後に死亡した事件だが、既に4人が逮捕されている。NIKKEI NETから

路上に放置の男性死亡 昏睡強盗容疑で男女4人逮捕

東京・歌舞伎町のスナックで酔った男性客からキャッシュカードを奪い、客を路上に放置したとして、警視庁捜査1課と新宿署は22日までに、渋谷区本町、スナック店経営、●●●●●容疑者(73)ら女3人と自称、新宿区歌舞伎町在住のレンタルルーム店員、●●●●容疑者(22)を昏睡(こんすい)強盗、保護責任者遺棄などの疑いで逮捕した。

男性は21日朝に路上に放置され、同日夕、搬送先の病院で死亡した。調べに対し、4人は「金が欲しくてやった」といずれも容疑を認めているという。同課は以前にも同様の昏睡強盗を繰り返した疑いもあるとみて調べる方針。

男性は練馬区の会社員、○○○さん(50)。新宿区内の別の店で同僚と飲酒し、別れた後に1人でスナックに来店したとみられる。同課は司法解剖を実施し、詳しい死因を調べている。(01:22)


その後、従業員が昏睡状態の男性をコンビニに連れて行き、キャッシュカードで現金を下ろさせているところがビデオに記録されていることがわかった。「ぼったくり」の延長線上の犯罪なのだろうか。そして、飲ませたのがアルコールだったのか、あるいは何らかの薬物だったのか。

さらに、放置した行為が、単に保護責任者遺棄になるのか、未必の故意による殺人なのか。

奇妙なことに死因は今のところ特定されていない。(Sankei)

死亡男性の死因特定できず、歌舞伎町の昏睡強盗

このニュースのトピックス:伝統芸能
東京・歌舞伎町のスナックで、男性客が大量に酒を飲まされキャッシュカードを奪われた事件で、死亡した男性客の会社員、○○○さん(50)を司法解剖した結果、死因が特定できなかったことが23日、警視庁捜査1課の調べで分かった。目立った外傷もなく、さらに詳しい死因を調べる。

捜査1課によると、○○さんは21日未明、●●●●●容疑者(73)=昏睡強盗容疑などで逮捕=経営のスナックで、焼酎などを大量に飲まされてキャッシュカードを奪われ、路上に放置された。同日朝にうつぶせで倒れているところを発見され、病院に運ばれたが、約9時間半後に死亡した。


ところで、被害者の男性だが、50歳の会社員となっているが、勤務先は大手5紙には書かれていないが、一部のスポーツ紙には会社の実名が書かれている。私の勤務先とも取引のある、新宿にある損保大手の部長。ビルの中にゴッホがある社である。昼ごろに葬儀の案内が届いていたようだ。

そして、この男性が、どうして危険なスナックに行ったのかはわからないが、保険会社の建物は新宿西口で、歌舞伎町は東口である。駅周辺の雑踏ではなく、甲州街道沿いに駅のガードをくぐれば、5分強で歌舞伎町に行けそうな距離である。地元だからの油断だったのだろうか。

私も何年に一回かは歌舞伎町に行くことはあるが、ホームグラウンドではないので、必ず、知人と一緒に行くことになる。絶対にフリーで店に入ろうなどと思わなくても引っ張り込まれたりする町だからだ。

そして、なんとなくわかるのだが、深夜に帰ろうと思ってもタクシーが拾えないのだ。大手損保会社の部長がタクシー代を気にして朝まで飲むことは考えられないが、いざ歌舞伎町でタクシーに乗ろうとすると、少ないタクシーに乗ろうとする人が奪い合いになり、なかなか(1時間とか)乗れない。帰ろうとしても帰れなくなり、じゃあもう一軒、ということになりがちである。


実は、ある時、個人タクシーの運転手の方に、歌舞伎町のタクシーの話を聞いたら、教えてもらったことがある。

つまり、歌舞伎町でお客を乗せると、運転手が酷い目に合うことが多いそうだ。ところが、乗車拒否すると、近代化センターに通報されるので、結局、歌舞伎町一帯には近づかないということだそうだ(これがタクシーの少ない理由なのだろう)。

それでは、タクシーに乗るにはどうすればいいかというと、西口まで歩いてから乗ればいいそうだ。10分以上歩かなければならないが、新宿公園まで行けば絶対に乗れるそうである。

もちろん、電車のあるうちに帰れば、いいのだが、「タクシーに乗ればいいや」と安易に思っていると、人生の罠に嵌るわけだ。余計なお世話かもしれないが、一応、念のため「新宿公園」を忘れずに・・

どこにいるのよ、サラマンディアゴス

2009-02-23 00:00:04 | 映画・演劇・Video
週末に、麻布演劇市というのがあって、六本木にある区民センターで観劇。劇団は「OSA・LUストリート」。実は港区に勤務していると、超格安なのである。




『どこにいるのよ、サラマンディアゴス』というのは、元々『どこにいるんだウィッツェンハウセン』という。有名なオーストラリアの現代劇の書き直しバージョンである。

何を書き直したかというと、『ウィッツェンハウセン』劇は、登場人物たちがほとんど男性なのだが、『サラマンディアゴス』は、ある事情で、女性バージョンになっている。

ある事情というのは、おそらく役者の数が女性の方がずっと多かったからではないかと推定するのと、舞台の設定が、まことに奇妙な場所だからなのかもしれない。

トイレである。

女性事務員「サラマンディアゴス」さんが、会社のトイレに立て篭もったのだ。そうなると、一つしかないトイレットルームのドアの前に、事務の女性たちがずらっと並んでしまう。そして、そこであれこれと、経営者の悪口を言い合うのだ。(日本の男性用トイレには、ドアがないので列ができない)


それで、原作の『どこにいるんだウィッツェンハウセン』は1960年代にメルボルンのラ・ママ劇場で上演された。このラ・ママ劇場での上演が、オーストラリア演劇の原点だそうだ。それ以前は、主にオーストラリアでは、英米の戯曲が演じられ、自国の作品はほとんど存在しなかったそうだ。第二次大戦後、元々のアングロ・ケルティック系の支配する社会に、特に荒廃した東欧諸国から大量の移民が流入していたそうだ。そして、白豪主義の国是の中で、原住民、東欧移民たちを社会のあらゆる面で差別していた。

会社は、経営者や上級管理職は一般事務員を虫のように扱うし、そこに人間性のかけらも見られない。

もちろん、現代の日本も「格差社会」という言葉があるが、それは主に、「経済格差」という意味であって、「人種差別」とか「身分格差」というようなトーンは薄いのだが、当時のオーストラリアは、さまざまな矛盾が圧縮されていたわけだ。

つまり、オーストラリア演劇というのは、オーストラリア人としての人間性の奪回運動という側面があった。

それで、この劇が、そういう筋書きであることは、しばらくしてわかるのだが、まあ深く考えずに、劇中人物になったつもりで楽しむことにする。サラマンディアゴス嬢は、役員にぐうたれた後、トイレに立てこもり、ドアを壊して強制排除しようとすれば自殺する、と脅す。ドアの隙間からトイレットペーパーに書いた決起文が送り出される。そのうち、その紙を読んだものが、「サラマンディアスの言うことも正しい」というようなことになっていく。

ところで、今一歩、階級闘争風の芝居にはのめり込めないのだが、当然、そういう線でやっているのだろう。「そういう過激な行動は、劇だけで楽しみましょう」ということだろう。

人間性回復とか反体制というのは、日本でも近松にはじまり、寺山修二なんかもそういう傾向にある。演劇の基本なのかもしれない。


ところで、劇が終わり、外に出れば六本木の雑踏である。マッチ売りの少女ではなく、大麻売りの黒い人たちがうろうろしていて、くれぐれも視線が合わないように下を向いて歩かなければならない。階級闘争がまったく似つかわしくない異次元の街である。

イサム・ノグチ庭園美術館へ

2009-02-22 00:00:37 | 美術館・博物館・工芸品
行きたくても、簡単に行けない美術館がある。その一つが、イサム・ノグチ庭園美術館。



その前に、イサム・ノグチについては、弊ブログでも2006年9月20日21日22日と3日間扱ったので、それを見てもらってもいいが、簡単に言うと、日本人の詩人、野口米次郎が、明治の終わりごろ米国東海岸で英語で詩を発表していたころ、年上の才女であるレオニーと短い期間の同棲を初める。

しかし、別の女友達にも粉をまいていた無責任男であるヨネジロウは、レオニーが妊娠したことに慌て、さっさと一人で日本に帰国してしまう。そして1904年、運命の子、イサムが生まれる。

ちょうどその頃、米国では日本人移民への排斥運動が始まり、母レオニーは、混血で父親のいない子をアメリカで育てることは困難と判断し、ついに、親子二人で日本に渡る。ところが、米次郎は、日本では十代の娘を嫁に貰う、という相変わらずの無責任ぶり。レオニーは日本で英語教師の仕事をしながら、イサムを幼稚園・小学校と通わせる。結局、二人が流れ着いたのは神奈川県の茅ヶ崎で、ここから横浜のミッション系の学校に通いながら、地元の大工から木工の手仕事を教えてもらう。



そして、日本の未来に自分の場所を見出すことができなかったイサム少年は、日本で教師を続ける母親に先立ち、単身、米国に向かったわけだ。その時、13歳の少年のスーツケースには大工道具セット一式が収められていたのだが、その中の一本のノミが、文字通り、彼の人生を切り開いていったわけだ。器用に木材からさまざまな造形作品をつくる腕は、その後、石材を削るようになる。若いときには、資産家の彫像なども彫っている。

そして、彼が世界の大家になっていく過程には、数々の苦難が待っていて、第二次大戦中は、慰問に行った日本人収容所から出してもらえなくなったり、戦後、日本で山口淑子と結婚するも、彼女の戦争中の李香蘭としての活動が、共産党的だとして、米国政府が入国を拒否したりしている。そして離婚。

芸術的には、ブランクーシとパリで出会い師事している。イサムの作風にアフリカ系のスピリッツが入っているのはそのときの影響だろうか。その後、石材は肺に悪いとして、ニューヨークで石に限らず様々な素材で創作を続ける。

そして、1969年、日本にもアトリエを持つことになる。それが四国香川県の牟礼である。約20年にわたり、年の後半(7月から11月頃)来日し、牟礼のアトリエで創作を行い、隣接する和風住宅で生活していた。1988年、彼はニューヨークで84年の生涯を閉じる。


その、牟礼のアトリエが、彼が亡くなった時のままの状態で美術館になったのが、「イサム・ノグチ庭園美術館」である。



ついに、そこへ行ったわけだ。といっても、ホームページで住所を確認して、最寄り駅を検索して、財布を持って出発、というわけにはいかないのだ。

まず、毎日、開館しているわけじゃない。火・木・土。さらに、事前に往復はがきで「見学申し込み書」を提出しなければならない。火・木・土の10時、1時、3時と1日三回だけ門が開き、さらに1回あたり10人以内で、それぞれ、館員が作品の説明を行い、写真撮影禁止で、制限時間は1時間。ということ。さらに、申し込みは10日以上前に行うことになっている。



さらに、最寄り駅から遠い。どうも琴電というローカル線の八栗という駅から徒歩20分らしい。四国だから関東から車で行くわけにはいかない。困難の二乗三乗四乗。

しかし、何もしなければ事態は前に進まないので、往復ハガキを送ったところ、ある日にちの朝10時に予約することができた。高松に前泊する。そして、早朝の高松城址を一っ走りしたした後、2両編成で市街地を走る「琴電」に乗り、途中で乗り換え1回で、やっと八栗駅(やぐり)に着く。もちろんタクシーなんかない。

ただの住宅地だが、駅から北へ歩き始めると、左右に高い山が立つ。左側が屋島である。源平合戦のラス前の一戦である。有名な那須与一が平家側の女官が船上にかざした扇を陸上から矢で射止めたとされる与一岩があるが、周囲に海は見えない。当時と地形が変っているのだろう。そして右手の山は地肌を荒々しく削られていて、牟礼が石切の町であることがわかってくる。美術館に向かう途中、数多くの石材店があり、多くの墓石が加工中である。南無。イサムがこの地を選んだのは、石の供給コストを下げるためだったのだろうと、勝手に納得してしまう(実は違った)。



往復ハガキに描かれている地図には、「道は複雑で、カーナビは全く違う方向へ導くことがある」と書かれている。油断できない。ローカルで道に迷うと始末に終えない。聞くにも過疎で人がいない。そして、到着寸前に、誤った道を選んでしまい、美術館の受付ではなく、イサムが住んでいた無人の家の前に並んでしまった。もちろん、予約時間の5分前に、気付く。

開館内は写真撮影が禁止なので、HP上の画像と、エリア外からの覗き見撮影だけしかないが、雰囲気はわかると思う。美術館といっても、ここには美術館の建物もなければ、作品の解説もない。



エリアは大きく三箇所で、アトリエエリアには、屋外の一見展示スペースと、酒蔵を移転改造した屋内展示施設、そして石を削っていた仕事場がある。イサムは、この地で仕事をしているうちに自らの寿命との相談で、自分がなくなったとき、そのまま美術館に転用できるようにと、未完成の作品を屋外の各所に配置したあと、同時並行的に、その場所で石を彫っていたそうだ。雨の日は屋内展示室の方の未完成品に手を入れていた。完成すると、「I.N.」というイニシアルを入れる。だから、完成品と未完成品が混在している。

次に、彼の住居としていた和風住宅。最初は畳の生活が嫌いだったようだ。和洋折衷に改造。こちらも室内には、彼の造形作品が展示されている。テーブルやあかりだ。残念ながら、住宅が文化財になり、入室はできない。



そして、アトリエの脇には立体的な庭がある。イサムは和風庭園を造るのが得意だった。棚田を改造した一帯には、丘があり、抽象的小川があり、座れば心のやすらぐ岩がある。「日本で、母を支えてくれた人たちへの想い」をこめて作られたそうだ。

そして、僅か1時間の鑑賞時間は、あっという間に過ぎてしまう。


せっかくの石の町なのに、実はイサムは現地の石をあまり使わずに、ブラジルから輸入した石を好んでいたそうだ。作品を見ていて気付いたのだが、一つの石でも、削ったり磨いたりする角度や方向で何通りもの表情を引き出している。そういう表情の富む石が、彼の多くの作品で重要な素材になっているようだ。例えば、木工では木目が重要である。そこに、彼が13歳の時に覚えた木工の技術を見たのである。



ところで、美術館の裏手にはイサムが買い集めた石材の資材置き場があるのだが、残された石の在庫は、裕に100年分はありそうだ。もっと長生きするつもりだったのだろうか。


数年前には、宇多田ヒカルがここを訪れ、インスピレーションを持ち帰ったそうである。また村上春樹は「海辺のカフカ」の中の重要スポットである甲村記念図書館のイメージを、この美術館から得た、とも言われている(後日知った)。二人とも本名で往復ハガキを書いたのだろうか。

順位戦、瀬戸際のひとたち

2009-02-21 00:00:42 | しょうぎ
将棋界にとって3月は順位戦の季節。上から、A、B1、B2、C1、C2と五段階に分かれたリーグの間で、上がったり下がったり、あるいは引退を含めて地位の入れ替えが行われる。その1年の最後の1局が行われる。A級は3月3日。10日がC2、13日がB1、17日がC1、19日がB2である。ついでに奨励会は14日。

夏の頃から、順位戦の予想でも書いてみようかと思っていて、ずるずるきてしまったが、書かなくてよかった。リーグ後半で、様々な好不調の変化があり、書いていれば大はずれだっただろう。

そして、ファンの関心は、昇級する人のことだけではなく、「降級に追い込まれる人は誰だ」という点にもある。多くの場合、「他人の不幸は蜜の味」という一般論によるのだろうが、中には「陥落して給料が下がったり、各種イベントのギャラが下がったりしてかわいそうだ」という同情心を持つ人もいる。私の場合、「蜜の味」と「同情」のどちらが勝つのだろうか。「?」。そして、個別論。

A級。名人挑戦の可能性は、郷田、木村、佐藤ということだが、羽生名人からすれば、森内、深浦という苦手が登場しないことが確定して、「もう、もらったようなもの」だろう。むしろ、降級の方が混戦で、三浦、谷川、鈴木、深浦が同星であぶない。このうち2人がB級に落ちるわけだ。おそらく、「谷川永世名人(資格)の降級は見たくない」という人も多いだろう。現役引退(あるいはフリークラス宣言)し、次期連盟会長へ向け、立候補準備ということになるのだろうか。

そして、深浦王位。タイトルホルダーながら、あまりにA級運がない。過去2回のA級リーグでは、いずれも4勝5敗で陥落。今回も、最終局で勝って4勝5敗でも、陥落危険性が高い。理論的には、10人のリーグで一人が全敗して、残り全員が5勝4敗になることもあるが、何か、4勝して落ちるのも0勝でも、同じことになるのがむなしい。

B1級。渡辺竜王に昇級の目がない、というのが一つのポイント。そして、第12位山崎、第13位屋敷にピンチが訪れている。特に屋敷九段の5勝6敗。B1に上がってくるまで長々と時間がかかっていたのだが、実は、負け越したことは1回もない。過去19期でリーグ通算7割以上の勝率。指し分けたことが2回。後は勝ち越しである。そして、ふと見ると、最終局で負けると・・。関西の山崎王子の5勝6敗も同様、過去10年負け越しなし。こちらも・・。こういう時に落ちると、立ち直れないことがある。

B2級。本当は、B2ではなくCで、C1がDでC2がEなのだろうが、DやEだと、あまりにも弱そうに聞こえるのでABCだけにした、という俗説がある。加藤、内藤の両ベテランが降級の危機に追い込まれている。加藤九段は猫の餌付け問題でも近隣住民に追い詰められ、八方塞。内藤九段は、降級すれば連盟会長候補へ担がれるとの声も聞こえるのだが、どうなのだろう。

C1級。張出し宮田五段は2年前に急性胃潰瘍で入院。胃の摘出手術まで行い、次年度休場。規定により、降級点1の上、休場1年は降級店0.5点扱い。追い詰められた今年度。ついに勝ち越し決定。降級点はすべて帳消しになった。今のところ全棋士勝率トップなのだから、当然と言えばそれまでだが、これで油断して詰将棋に熱を入れすぎると、まずいかな。

C2級。有吉九段にピンチ。降級点をもって、引退ということになるそうだ。

あまり言われていないが、詰将棋系の先生、総じて不調だったような気がする。

そして、A級最終局は、通常、NHKの衛星放送で終局まで中継されるのだが、今年はどうなのだろう。放送枠の争いは、国会中継が強敵だ。深夜にわたる牛歩戦術とか最悪だ。

そして、できれば女流名人戦A級リーグの最終日も放送してほしいのだけど。

さて、2月7日、出題2題の解答。




1題目。▲2一角 △同玉 ▲3一角成 △同龍 ▲2三竜 △2二歩 ▲1三桂 △同香 ▲1二銀まで9手詰。

最初に▲2四桂というのがやりたい手だが、うまくいかない。6手目の合駒は、何でもいいのが欠点。




2題目。▲3九金 △1九玉 ▲2九飛 △1八玉 ▲2八飛 △同と ▲1七飛まで7手詰。

2手目△1八玉は、▲1七飛打で解決。

5手目の飛車の使い方が骨子だが、この味わかるかなあ。江戸の味。

動く将棋盤は、こちらこちら


今週の問題は、ついでに「江戸の小粋」。



お気に入りの作だが、こういうのは現代的ではないのだろう(江戸時代の作品は、意外に軽快ではないのが多い)。

わかった!と思われた方は、コメント欄に最終手と手数と酷評を記していただければ、正誤判断。

いつか読書する日(映画)

2009-02-20 00:00:38 | 映画・演劇・Video
友人から、「あの映画、いいよ」と言われてからずいぶん経つのだが、忘れる寸前に思い出して、観る。

2004年の映画なので、あらすじ大公開でもいいだろうと思うので、「GOO」から拝借。

山肌に家々が貼り付いたような生まれ故郷で、牛乳配達をしている50歳の大場美奈子。独身で親兄弟もいない彼女の生活は、判で押したように単調だ。一方、美奈子の牛乳配達先の高梨家では、槐多が末期ガンの妻・容子を看病していた。実は美奈子と槐多は高校時代につきあっていたのだが、不幸な事故をきっかけに疎遠になったいきさつがある。その事を偶然知り、二人が今も想いあっていると確信した容子は、自分の死後、二人が一緒になればと願いはじめる。

田中裕子、岸辺一徳、そして女優復帰後、初の本格的な映画出演となる仁科亜季子と熟練した役者陣が織りなす、不器用すぎる大人の恋物語。主人公の美奈子は少女時代の恋を30年以上も胸に秘め、たった一人で生きてきた女。こう書くといかにもつまらなく、陰気な女と思われそうだが、毎朝ジョギングシューズで坂の多い町を走り抜ける美奈子はハッとするほど軽やかで、不思議な透明感すら湛えている。

一方、死を目前にし身勝手とも思える願望を抱く容子、長年感情を押し殺し淡々と暮らしてきた槐多にも、ふとした瞬間に垣間見せる深い魅力があり、目を離せない。監督は『独立少年合唱団』でベルリン国際映画祭新人監督賞を日本人で初めて受賞した緒方明。脚本も前作と同じ青木研次が担当している。




主演の大場美奈子(田中裕子)と高梨槐多(岸辺一徳)の長い長い長い恋愛映画であることに気付いたのは、不覚にもストーリーがかなり進んでいった頃だ。どうも、微妙な感情を理解するのが鈍い。最初は『鉄道員(ポッポや)』みたいに、牛乳配達員の苦闘数十年を描いた労働者映画かと思っていた(『鉄道員』の理解も間違いだろうが)。何しろ、舞台の長崎は、町中、坂道と階段。女優も体力だ。

GOOで書かれている『高校時代におきた不幸な事故』とは、美奈子の母親と槐多の父親の不倫関係と、その結末としての事故死。美奈子は、母親のせいで、その後の槐多の人生を歪めてしまった、との想いから、独身のまま、黙々と高梨家にも毎日、牛乳を届け続ける。



市役所職員の仕事を得た槐多は、容子と家庭を持つが、やがて容子は闘病生活の末、自らの寿命を悟ることになるが、ふとしたことから、槐多と美奈子が、長い長い長い期間をかけての恋愛感情を持ち続けている、と断定し、美奈子と対決の場面がやってくる。

そして、予想に反し、遺言のように、自分の死後、槐多と恋愛を成就するように要望&予言を行う。

そして、細かな感情の行き違いをほどいて、・・・

と、ハリウッド風ハッピーエンドで終わらないのが日本映画で、川で溺れかけた少年を助けようと、水泳の不得意な槐多は濁流に飛び込み、唐突に、長い恋は終わる。

だからといって、公僕である市役所職員の勇敢さを称える映画でないことは、鈍感な私でもわかる。

案外、「忍ぶ恋」というテーマは、万葉集から始まる日本文学の古代からの系譜ではないかと、ふと思う。


しかし、この映画を観てから、しばらく、夜、眠れない日が多い。大脳が、見逃している前半部のプロットを無意識にたぐろうとしているのか、あるいは別の理由なのか、よくわからない。まあ、脳が活動することに悪いことはないだろう。

オバマ研究は不発に

2009-02-19 00:00:28 | 投資
先週、都内某所で勉強会。



題目は、「米国経済とオバマ新政権の経済対策」。あまりにもタイムリー過ぎる題材で、ちょっと不安。雇用不安が他人事じゃないはずの、某証券会社の国際金融市場のアナリストの方の話を聞く。先日、議会に提出された金融機関に対する支援策や実体経済へ対する刺激策についての意見と、その前の大統領就任演説の経済的側面での分析。

ただし、目新しいものは、なかった。大統領就任演説については、密かに私が思っていたのと同様の疑問を語っていた。

テレビでは、熱狂的な支持の場面を映していたものの、地味じゃなかったのか、ということ。「Change」も「YES,WE CAN」も封印。彼の演説術をもってすれば、観衆を喜ばせることなんか、簡単なのに・・・

ということだ。

本当は、知りたかったのは、オバマによる、「GMの調理法」なのだけど・・

故障の多い軍事用トラックの調達とかだろうか。

収穫は三つ。

一つ目は与太話。保険会社プルデンシャルというのは、英国と米国とまったく異なる保険会社が同一の社名を使っているそうだ。どちらも19世紀からの会社で、当初は国際進出なんか考えていなかったからよかったのだが、そのうち第三国への展開が始まると海外で困ったことが起きる。そのため、二社間で協定が結ばれたそうだ。

先に進出した方が、その国では「プルデンシャル」という名前を使っていいことにし、後から出る方は、そこでは別の社名を使うこと。

日本のプルデンシャルは米国系だそうだ。香港では英国系。英米企業らしいジャングルルールである。


二つ目の収穫は、エコカイロ。その英国系プルデンシャルの別名の一つが「PCA」。宣材品である。何度も使えるカイロだそうだ。

ジェル状の液体の中にコイン状の金属片が浮かんでいて、「バシッ」と折ると発熱開始。効果時間はわずか1時間。そのあと、捨てずに、お湯で温めると再生するそうだ。

注意書きには、「鍋であたためる時にはタオルでくるんで下さい」と書かれている。口頭で補足注意があったのだが、「ご家庭の鍋で温めますと、鍋がゴム臭くなります」そうだ。どうするの?

どう考えても、試作品かな?

三つ目は、古書三冊。会場の外に出ると、近くのデパートで古本市が開催中。なかなか感じのいい会場だ。地方の古書店からの出品もあり、力が入っている。結構安い。売れ残った古本も売れ残った幼犬みたいなものだろうか。10分だけ歩き回って、結局歴史本3冊購入。

幕末日本を救った、先見力と胆識 新井喜美夫 プレジデント社
19階日本横丁         堀田善衛  朝日新聞社(文庫)
にっぽん音吉漂流記       春名徹   晶文社


ファーストクラスが鬼門だったかな

2009-02-18 00:00:28 | 市民A
以前、国際線のファーストクラスに乗ったことがある。エールフランス。かなり昔なので、うろ覚えなのだが、食事の差別化が甚だしい。

機内食のメニュー。

エコノミークラスだと、狭いテーブルのサイズに合わせた、小学生の給食セットのようなものがでてくる。もっとも、身動きできない状態なので、消費カロリーなし。そして、片付けの都合もあるので、周りの席の人たちと同じようなペースで食べなければならない。ナイフもフォークもプラスティック。だいたい30分くらいが食事タイムである。

ファーストクラスでは、メニューが出てきたのだが、エールフランスだからフランス語である。よくわからないのだが、どうもオードブルが5種類ほど書かれていて、スープがあり、魚料理と肉料理がある。まあ、普通のメニューだ。

そして、「選べ!」と言われているのはよくわかるのだが、読めないメニューを見て、適当にオードブルを一つ指差すと、イエローモンキーは、大笑いされてしまった。

「魚」か「肉」か「魚と肉」かを選べと言われていたらしい。

というのも、オードブルは、全部、山盛りで出てきたわけだ。好きなだけ食べればいいわけだ。もちろん、オードブルだけ食うわけにはいかないから、節度が必要だ。

結局、魚も肉も全部出てきた。うかうかしていると、食べ続けることになる。

そして、

高級ワインやウィスキーも飲み放題のわけだ。いくらでも出てくる。基本的に機内は、ファーストクラスだって、退屈だ。ついつい大宴会になりがちだ。

ところが、飛行機の中で飲む酒は、回りが早い。気圧の関係で血液中にアルコールが溶ける量が多く、また、早いのだろう。

以前、歌舞伎俳優の二代目中村獅童こと本名小川某が、帰国直後、酒気帯び運転で捕まり、同乗の女性が妻でなかったことから足がつき、結局、辞任(いや離婚)に追い込まれた例がある。前財務大臣と、そっくりだ。




ところで、1月15日にハドソン川に緊急着水した US Airways 1549便だが、最近、ある写真が話題になっている。

前部ドアから脱出した人たち、つまりファーストクラスの乗客は、既に救命ボートに乗っているのだが、後部座席の乗客はと言えば、まだ、沈みそうな飛行機の翼の上である。だいたい機体も後部から沈みつつあるように見える。

タイタニックだ。

ファーストクラスのコマーシャルに使われるのだろう。

総裁レース脱落1号

2009-02-17 00:00:57 | 市民A
GW直前に予想される総選挙の「自民党の顔」が決まらない。

2月中旬段階で支持率約10%の麻生太郎総裁でいいという自民党議員は少ないだろう。

もっとも、ほとんどの例で、首相になった瞬間が最高支持率であるということは自明だから、「次の顔」が決まった場合は、直ちに総選挙ということになる。定額給付金がおおむねバラまかれ、大型連休で使い切ってしまうと、ありがたみもすっかり忘れるだろうから、4月26日(日)ということかもしれない。もっとも、金額的に近い『自動車税』の納付時期と重なっているので、いかなる効果(選挙対策とか経済効果とか)もないのかもしれない。

となると、2月後半から「麻生おろし」の風が吹き始め、3週間ぐらいで大暴風雨に発達し、3月後半に新総裁決定で、即解散ということも考えられる。

案外、総理、総裁分離論のような妥協策もあるのではないかと、思っている。どうみても、党を挙げてということにはならないだろうし、「人気のある人」を「顔」にして、裏で「人気はないが、数の多い集団」が支配するという構造だ。別名、呉越同舟方式。

では、誰が、顔になるのか、まったく無責任に予想するのだが、さっそく脱落1名。J-CASTより。

中川財務相、G7で酒帯び疑惑浮上

G7は各国が一斉に財政出動することなどを盛り込んだ「共同声明」を採択。14日(日本時間15日)に閉幕したが、中川氏にはとんだ“第2ラウンド”が待っていた。

米ABCテレビのウェブサイトが「日本の中川昭一財務大臣がG7会議中にコックリ」と題し、居眠り疑惑を報じた。



記事には中川氏が目を閉じているようにみえる写真を添付。「15時間ものフライトは大変だったろう。しかし、トヨタや日産でさえ何万人もを解雇している状況では、寝ないで起きているには十分だ」としたうえで、「もしそうでなければ、伝統的なイタリアの刺激、エスプレッソがある」と痛烈に皮肉っている。さらに、2000年総選挙の活動中、テレビに泥酔した姿を映し出される、かつての『酔っぱらい伝説』もよみがえった。G7終了後の会見で、言い間違え&詰まり&ろれつ回らずの“醜態”をさらした。このもようはフジテレビなども「取材陣とかみ合わない中川大臣」とニュース番組で報じた。
・・・・

中川氏は1月の衆院本会議でも金融危機の「渦中(かちゅう)」を「うずちゅう」と読み間違えているが、国内の恥ですんだ分、まだこちらのほうがかわいかった!?


「うずちゅう事件」の時にもささやかれていたが、「アル中」疑惑があるようだ。少し考えれば、現内閣の中でも、最重要ポストである「財務大臣」という絶好のポジションにいるわけだ。「ゆうちょイジメ」で目立っている「鳩弟」なんか、目じゃないほど要職である。長旅の末、飲みすぎたのが醜態の原因なのか、飲む時間がなくて禁断症状が出たのかは見分けがつかないが、理由の如何に拘らず、一周目でレース脱落だろう。

現政権内部からの候補

 与謝野馨→消費税増税派であることがネック。

 菅 義偉→個人的には推したい人。団塊世代の星も既に60歳。読みにくい名前(すがよしひで)。麻生太郎に近過ぎるのが問題。

 升添要一→閣内に入って、評価激落。言うことに一貫性がなく、信頼がない。

小泉ラインからの候補

 小泉本人→勝つかもしれないが、またしても外交停滞にはまる可能性がある。

 小池百合子→この人が中心になってくると、自民党は分裂するだろう。2分割か3分割。その可能性、ややあり。

その他:「総理(候補)、総裁分離論」

 選挙に勝つことだけを目標に、総裁とは別に総理大臣(候補)を擁立する可能性もある。その場合、現在、議員である必要すらないだろう。総選挙で議員になればいいわけだ。

 野田聖子、東国原宮崎県知事、中田宏横浜市長、堺屋太一、田原総一郎・・・・

要するに、NHKのアナウンサーでもいいわけだ。


ここで、大胆に予想すると、自民党は東国原氏を総理大臣候補に擁立。総裁は与謝野馨。

小泉-中川秀-小池ラインが50人程度で分派。総選挙後、過半数に届かなかった民主党との連立内閣に進むのではないだろうか。

置き去りになるのが、自民、公明、社民。国民新党やや微妙。この場合、首相は、「鳩兄」か「岡田克也」ではないだろうか。

もっとも、ここに書いたいずれの人物とも、現在付き合いはないし(小池さんにはアラビア語を教えてもらったことがあった。また、菅さんは将棋連盟神奈川支部連合会名誉会長)、政策すらよくわからないので、単に無責任に書いているだけだから。念のため。

渋谷のドボルザーク

2009-02-16 00:00:56 | 音楽(クラシック音楽他)
N響を聴く。

花粉症なので、2月の中旬は、コンサートに行くのに、もっとも微妙な時期である。発症しているかどうかあらかじめわからないので、前売りというわけにはいかない。

しかも、「クラシック・コンサートのデビュー戦」という男性と一緒だった。ということで、NHKホールの3階席奥というE席(自由席)ということになった。というか、今回、E席は1500円だが、その前のD席(三階前側)は3450円なので、ずいぶん格差がある。実際、3階は野球でいえば外野席というか甲子園のアルプススタンドというか、おまけみたいな場所である。特に、紅白歌合戦用の奇妙な構造のNHKホールの3階席は、ステージから、かなり遠い。



演目は、ドボルザークのチェロ協奏曲と交響曲第九番「新世界から」。指揮はカルロ・リッツィ。チェロはミクローシュ・ペレー二。



デビュー戦の男性には、あらかじめビールを飲みながら、注意を2点。

1点目は、「眠らないこと」。

2点目は、「人より先に拍手しないこと」。

そして、N響の悪口を一通り。


ところが、開演19時の直前に、どんどん観客が増えていき、アルプススタンド、いや三階席もほぼ満員の入りになった。演目がポピュラーだからだろうか。あるいは、花粉症患者の滑り込みなのだろうか。

デビュー戦男に解説したクラシックの分類というのがあって、まず縦軸の時間では、1800年前後からの時代と、1900年以降の時代に二分割。さらに横軸として、ウィーン系、パリ系、スラブ系、そしてオペラ。

となると、きょうの演目は、大雑把に言うと、スラブ系Bタイプ。比較的、人気が高い分野である。

ところが、N響は結構、特殊部隊で、「世界最高のベルリンフィル」と呼ばれているという噂がある。腕は確かだが、かなり保守的で、ウィーン系Aタイプが好きな楽団員が多いという話もある。しかし、いつもベートーベンばかりでは営業できないので、さまざまなスタイルの指揮者を招聘して、モデルチェンジを狙っているというように見える(かなり個人的観測)。そして、きょうの指揮者のカルロ・リッツィ氏のことはよく知らないのだ(ローマ字入力で『リッツィ』と書くのはやたらに難しい)。

そして、リッツィ氏のドボルザークは、・・・


予想外で、批評不能。

N響楽団員を燃え上がらせたのは確かだが、なんか「帝国海軍音楽隊」みたいに、やけに威勢のいい『新世界』になってしまった。

『新世界』というのはアメリカのことで、一介の肉屋の息子であるドボルザークが、あれこれ苦労の末、作曲家になり、新興国アメリカで感じた気持ちって、「わあ、すごい。イケイケ!」ということではなく米国と欧州の文化や歴史の差を感じながら、「アメリカは自由で広大で活力があるものの、わが欧州は長い文化が疲弊して、革命があったり王制があったり、もやもやもや」という複雑な感情が込められているのだが・・

何か、イタリア式オペラみたいだなあ、と思ったのだが、後でN響の会員誌「フィル・ハーモニー」を読んだら、リッツィ氏はオペラのスペシャリストだそうだ。そしてミラノの生まれ。

不景気だから、これでいいかもしれない。


ところで、デビュー戦の男性は、景気のいいドボルザークに大満足した様子だ。


デビュー氏:「楽団員、70人以上いましたよ」

葉一郎:  「3階席の奥まで音が届くように、大勢いるのですよ」

デビュー氏:「ところで、次は、いつです?」

高松城、再建か?

2009-02-15 00:00:11 | The 城
歴史城有名な高松城といえば、備中高松城である。2005年6月20日に記している。豊臣秀吉が織田信長の命を受け、毛利攻めを行い、備中高松城を水攻めで攻略中、明智光秀による信長暗殺の報をここで知る。そして、あっという間に講和条約を結び、城主(清水宗治)に腹を切らせて、大慌てで京都に戻っていく。そして、現在、備中高松城は、全く存在しない。




そして、香川県の高松城。こちらは江戸時代の城であるが、城址を残すだけで、部分的に残った跡地は公園になっている。入場料200円。高松方面でわずかな時間があったので、足を向ける。

この高松城のいわれであるが、1590年(天正18年)に生駒親正の築城である。公園には、設計は築城の名人と言われた黒田孝高の手になると書かれている。いかにもすばらしそうな書き方だが、ある事実を隠している。

生駒親正は、黒田よりももっと築城名人と言われている藤堂高虎に依頼したのだ。しかし、すでに秀吉、家康といった大権力者の依頼で大仕事をしていた高虎は、なんらかの理由でこの依頼を断り、売り出し中の設計家の黒田に仕事を回したわけだ。「ギャラの低い仕事は、もう受けないからね」と、いうことだろう。だいたい城の地元では、そういうカッコ悪い話は省略され、いつか、なかったことになる。



その後、江戸時代に入り、生駒家は四代続くも「お家騒動」。小藩へ格下げになり、代わって入場したのが水戸光圀の兄。つまり松平一門になる。そして明治を迎えるのだが、困ったことに、なぜ天守閣がなくなったのか、よくわからない。明治17年の天守閣の写真が残っていて、その直後に解体されたようだ。何かを隠している。

現在残っているのは、海水を引き込む水濠と割と大きい月見櫓である。三層のように見える。

ところが、天守閣が立っていた跡地に行こうとしたら、工事中であった。濠の工事も行われていた。私の目では、石垣は、すべて当時のものを一旦組み直したように見える。後で知ったのだが、どうも天主閣の再建プロジェクトが動いているようだ。明治初めの何枚かの写真が残っていて、それをもとに図面を引くようである。ただし、古写真で見ると、江戸時代からの天守閣は、現存している月見櫓とデザインがそっくりである。月見櫓は三層だが、天守閣の方は四層のように見える。



しかし、四層の天守閣は、大きいとはいえない。

その、あまり大きくない天守閣を再現しようというのだろうか。あるいは、大阪城のように、空想を交えてまったく別の新高松城を組み立てるのだろうか。税金の使い途としては、それより雇用対策ではないだろうか。


全体の印象だが、全国各地の城郭と比べると、高松城は、かなり原型を崩壊させている。城内中学という名の中学まである。

今更ながら、という気がする。

「待った」をした頃

2009-02-14 00:00:32 | しょうぎ
matta自宅の本の整理を、なにげにしている。なにしろ狭いスペースにジャンル無視で詰め込んでいる。特定ジャンルの本だけ読む人は、この点、楽だ。多くの本は、人にあげたり、捨てたり、換金したり、そして、やはりとっておいたり。再刊なった岩波のギリシア悲劇全集を収めるスペースを確保するのは大変だ。

『「待った」をした頃』は、昭和46年から3年間の将棋関係のエッセイ81話を集めたものだが、発行が大分遅れたようだ。手元にあるのは、文春文庫で昭和63年(1988年)のものだが、その間に単行本になっていたのかどうかは、よくわからない。

一気に読んだのだが、もともと、大勢の書いたエッセイ集というのは苦手なのだ。多くの人がそれぞれの価値観とそれぞれの文体で、無責任に書いたものを集めているため、同感できるパートもあれば、腹が立つ部分もある。本書も、実は、あまり楽しくないのは、書かれた時代と35年も経つことによるのだろうか。世間の常識が変わっているのだろう。エッセイを書いたいるのは、棋士はわずかで、棋士を取り巻く財界人や作家や観戦記者など。いわゆる世論を形成する人たちなのだが、現在の常識で言うと、歪んだ感覚の人が多そうだ。

棋士の地位も低く、まあ、当時の一流の人から見れば、将棋の世界は「見世物小屋」といったところだ。「棋士は奇人変人であること」が求められていたのだろう。「飲む、打つ、買う」の話が多く、とても現代では上梓されないだろうか。

表題の『「待った」をした頃』は、前前連盟会長のF氏(当時九段)の一稿だが、若いころは『待った』を多発していたという自伝的告白である。そういう時代だったのだろうか。

『待った』は、いけないのである。

実際に、正々堂々と「待った」をする人は、あまりいないと思っていたのだが、かつて、企業対抗の団体戦で、ある巨大企業の方々と対戦中に、私の同僚が「待った」をされた。禁じ手の二歩を打って、10秒ほどしてから、別の手を指し直した。険悪な雰囲気になって、指が離れてない、とか開き直られて、結局、負けてしまったのだが、そういう人って、普段の生活からして、そうなのだろう。すぐに、忘れるのだろう。首相が、「あの時は民営化に反対だった」とか、後で言うようなものだ。きちんと反対して、脱党した女性議員の風下にも立てないじゃないか。


ところで、本の内容をまったく書いていないのだが、81人の著者のうち、多くはすでに石の下なのであえてここで終わり。


この本は、将棋系の友人に贈呈することになりそうだが、以前、たくさんの将棋本を贈呈したある友人は、先日、石の下に入ってしまった。いまのところ、ご遺族から返本されていないのが、まったくの幸いである。




さて、1月31日出題の詰将棋の解答。



▲1八飛 △同玉 ▲2九角 △1九玉 ▲3八角 △1八玉 ▲2七角 △1七玉 ▲1九竜 △2六玉 ▲4五角 △3五玉 ▲1五竜まで13手詰。

前半部と後半部で別の詰将棋をくっつけたような感じになった。

動く将棋盤は、こちら


今週の出題作は、やや長めである。



というか、長いだけかな。

最初がごちゃごちゃしていて、後の変化や本筋が長いというのは、読みにくくて嫌われやすい。

収束をつけようと思っても、「この手筋はありふれているし、あの手筋も平凡。とりあえず結論は延ばすことにして、・・しかし、好手もなく30手を超えるわけにもいかず・・とうとう前の総選挙から4年経ってしまった。」ということかな。

わかった、と思われた方は、コメント欄に最終手と手数と酷評いただければ、正誤判断。