日本三名園コンプリート

2024-05-06 00:00:00 | たび
茨城県の旅、最後は水戸の偕楽園。

岡山の後楽園、金沢の兼六園、そして水戸の偕楽園を日本三名園と呼ぶ。岡山の池田藩の秘密庭園だった後楽園にも、前田藩の大庭園だった兼六園にも行ったことはあったが、最後に兼六園が残っていた。



そして感想なのだが、他の二つの庭園とは、かなり感じが違うと思った。三名園と並べるのはどうかなというのは、第一に歴史的に偕楽園を開園したのは幕末の水戸藩主徳川斉昭公と言わるのだが、他の二園は江戸時代初期から代々の藩主が手を入れていた。ということで、規模や趣向に凝りが入っている。またそれぞれの藩の城に隣接し、主に藩主のための庭園という風情だが、そもそも水戸藩は御三家と言うことで、江戸定府ということになっていた。

実際に徳川斉昭公が水戸に住むのは井伊直弼との政争に敗れ、水戸蟄居の処分を受けてからだ。一方、正妻の吉子様は王女であり、江戸に在住中に後の15代将軍慶喜公を含め七人の子女の母になっている(斉昭公は多数の妾を囲い、37人も子がいたそうだが)。



園内は、梅ブロック、竹ブロック、杉ブロックと分かれていて、好文亭といわれる屋敷からは千波湖が眼下に広がる。こういう造りは後楽園にも兼六園にもない。好文亭は城内から側室の女性が景色を楽しみに訪れるという説明になっていたが、殿が江戸定府ということとどう結び付ければいいのかよくわからない。



水戸蟄居中の斉昭公が亡くなった後、明治維新が進行。明治の初期には未亡人の吉子様が居住することになったが、そういうことは、どこにも書かれていないので後で知ることになった。広島原爆の4日前の空襲で焼失した後、再建され、現在に至っている。

大名庭園として三名園に匹敵するとすれば、高松の栗林(りつりん)公園と熊本の水前寺公園かな。かつて9年間だけ存在した日本最高のレベルだった佐賀の観頤荘については、いつか文献で読んでみたいと思っている。