『神々の草原』『賛歌 樹木』

2024-06-02 00:00:45 | 美術館・博物館・工芸品
横浜市鶴見区のサルビアホールで開催されていた『山内若菜予感展』を拝見。

『神々の草原』は3m×9mと大作。太古の人間が洞窟の壁に描いたような雰囲気が漂うが、あるいはシャガールの作品に度々登場する空想の動物群のような存在なのだろうか。

『賛歌 樹木』も同サイズ。広島の被爆地で生き残った樹木の中を象のような動物や幽霊たちが彷徨っている。



生きる者への讃歌なのだろうか、いや、生き残った者への讃歌というべきかな。

会場ですぐに感じたのは、数十年前に観た香川泰男展(練馬か埼玉か)。前の大戦でシベリアに抑留された経験を基に多くの作品を残されている。孫娘ではないかと思うほど同じような引力を感じた。

実は、彼女(山内氏)のプロフィールを読んでさらに驚いたのは、2009年から「シベリア抑留を忘れない文化交流」を始め、ハバロフスクの極東美術館で展覧会を開催されている。

今のロシアには、内心はまったくがっかりされていると想像。

2021年には東山魁夷日経日本画大賞入賞されているのだが、なぜ日本画と呼ばれるかといえば和紙におそらく日本画用の絵具で着色しているからだろう。

多くの方が思っているだろうが大きな公募型の展覧会(県展とか市展とか)は洋画の部屋と日本画の部屋と分かれているのだが、あまり意味はないと思うがたぶん審査員がなんらかの都合により分かれているのだろう。


名人戦に駒柱出現!

2024-06-01 00:00:04 | しょうぎ
名人戦7番勝負第五局で駒柱が出現した。74手目、75手目。76手目に解消されたが、78手目、79手目も駒柱が再現した。「駒柱は不吉」と言われているのだが、この迷信はどこからきているのだろうと考えているうちに松本博文さんが「加藤治郎説」をさっそく書かれていた。



1956年に加藤治郎名誉九段の親しい棋士が夭折された時の弔辞で、亡くなられた棋士の絶局で駒柱が出現したこと。および、その棋士から、日本のある地方では駒柱ができると、不吉なことが起きると盤面を崩すことがあるという伝承を以前に聞いたことがあると述べられていたそうだ。

ただ、それが本当なら、加藤九段が言いだしたわけでもなく親しい棋士が言い出したわけでもなく、日本のどこかの地域で言われていたというのが全国に広まったということだろう。

それはどこなのか、想像の手がかりがない。不吉の最たるは殺人事件だろうが、将棋から殺人に至ったのは江戸時代末期の新発田藩の城内。もっとも原因は「助言」で「駒柱」ではない。実際、自分の将棋でも駒柱は数回あると思う。そもそも、不吉なことはたくさん起きるので気にしない。

技術的に言えば、居飛車対振飛車だと8筋で美濃囲と舟囲で対決すると、すでに6枚が縦に並んでいる。端攻めをしようと8五桂と跳ねて、それに対して桂先の銀を打つと縦に8枚が並ぶことになるので、駒柱寸前になる。

もっとも、駒柱が出現したら引き分けというルールができたら、利用する人は多いだろう。不利になったら駒柱を狙え!とか。駒柱の中の相手の駒を取っても駒柱は解消しないわけだ。


さて5月18日出題作の解答。







今週の問題。



解ったと思われた方は、コメント欄に最終手と総手数とご意見をいただければ正誤判定します。

mottainaiがmottainaiかも

2024-05-31 00:00:02 | あじ
横浜市産の果実で有名なのが、梨と葡萄かもしれない。浜なし、浜ぶどうと言われている。郊外の道路端では「浜なし」というようなノボリが出ていて、横浜市から出身地の親戚に梨を贈る人が多い。

ところが梨の生産では、途中で摘果したり、傷んだものがあったりと、最終的に販売に回さないものがでる。地元の菓子店ではそういうものを引き取って洋菓子の材料につかったりしているが、KIRINの氷結にmottainaiシリーズがあり、梨果汁0.2%入っているお酒が売り出された。



ところが、ちょっと口に合わないような感じだった。

何しろ、梨の特徴である、ザラザラ感がない。あえていうと甘いドリンクであるが、梨の味という感じがないわけだ。

せっかくの企画なのだろうが、mottainai がmottainai と思った。ザラザラな感じを残すならジャムとかどうだろう。

品川歴史館へ

2024-05-30 00:00:25 | 歴史
大森貝塚を見学したあと、今年の春に完成した品川歴史館に行く。貝塚跡から5分ぐらい。まだ、ピカピカというところだ。一枚の画像に入りきらない。東京都は金持なので、あちこちに文化施設が増えている。神奈川は新設の予算はないので、リニューアルばかりだ。千葉県は美術館も図書館も数十年前のままで、あまりにも古びていて、映画のロケに使われる始末だ。次の県知事には落選後の都知事を招聘した方がいいかもしれない。



ただ、品川の歴史というのは、少し苦しい。江戸時代の宿場町といっても、人々の楽しみは遊郭だった。それも公営の吉原と違って、非公認の岡場所だった。品川宿は今の品川駅より京急で一つ横浜寄りの北品川駅のあたり(品川駅より南にあるのに北品川というのが通っぽい)。

まあ、数枚の浮世絵で、そういう町であったことも表示されていて安心する。

展示資料の中に、延喜式の中で「大井」という「駅」が定められていることが地図として展示されていた。延喜式は927年に完成し、967年に改定された法律(律令格式例の中で具体的定め)。道としての、東海道の中の一つの駅。今の大井町のことかな。実際には三浦半島の東側から千葉県に向かう航路と品川に向かう航路があったはず。大井と豊嶋の間に道があったことになる。現在の地図を見ると、ほとんど同じ場所に道路がある。大井ジャンクションから大井町の駅から荏原を通り、学芸大学や三宿屋から中野通りと呼ばれ、中野駅から豊島区の東長崎へ道がある。



さて、前段で「道としての東海道」と書いたのは、地域としての東海道という言葉もあるから。五畿七道といって全国の行政区を七つの地域に分けていた。(東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道の七つの道と畿内五か国)。たとえば品川歴史館の地図の区域は東海道の一部と東山道の一部が含まれている。現在の東京・埼玉が武蔵、千葉は安房・上総・下総、茨城が常陸、神奈川が相模でここまでは東海道。群馬が上野、栃木が下野、この二つが東山道といったところ。

さらに、上総・下総、上野、下野のように上下対や前後対になっている国も全国に多い。豊前・豊後とか肥前・肥後とか。備前・備中・備後とか越前・越中・越後とか三点セットもある。ということは、総とか野とか豊とか備とか越といった大きな国があったことになる。つまり、ヤマト朝廷が全国統一をするころの地名ということになりそうだが、記録がないわけだ。ただ、ビンとかブンとかヒとかビとか普通の日本語では聞かない発音であるわけだ。(品川の話からは大きくはずれたわけだが、何年か先にはリニア新幹線の出発駅(つまり日本の中心)ということになるわけだ。

レベッカ(1940年 映画)

2024-05-29 00:00:25 | 映画・演劇・Video
ヒッチコック映画の一つ『レベッカ(1940年)』を観る。ヒッチコック監督が英国からアメリカに主戦場を変えた第一作になる。2年前に刊行された同名の小説の映画化ということで、原作に忠実に作られていて、監督の腕を見せるというタイプの仕事ではなかったようだが、それでも評価は高かった。

あらすじ
ヴァン・ホッパー夫人の付き人としてモンテカルロのホテルにやってきた「わたし」は、イギリスの大金持ちの貴族であるマキシムと出会い、2人は恋に落ちる。マキシムは1年前にヨット事故で前妻レベッカを亡くしていたのだが、彼女はマキシムの後妻として、コーンウォール地方マのンダレイにある彼の大邸宅へ行く決意をする。

美しい自然に恵まれ、多くの使用人がいる邸宅の女主人として、控えめながらやっていこうとする彼女だったが、人に使われたことはあっても使ったことのない「わたし」には、戸惑うことばかりだった。以前からの使用人、特にレベッカ付きの使用人で、今なお邸宅を取り仕切るダンヴァース夫人にはなかなか受け入れてもらえない。

屋敷の調度は前妻レベッカの趣味で整えられ、新参の「わたし」は内心不満に思いながらも、その中で暮らしていたが、少しずつ「わたし」は前妻レベッカの、見えない影に精神的に追いつめられていく。

中盤になると、レベッカやダンヴァース夫人の関係者たちが現れ、複雑な人間関係になっていく。さらに、後半では前妻レベッカの事故に関してマキシムの隠された過去やマキシムですら知らなかったレベッカの一面が次々と明らかになっていく。

最初はラブ・コメディのようで、ミステリアスになったりオカルト的になったり、警察小説になった末、ラブコメディとして落ち着くことになるのだが、最後は大邸宅が放火で炎上し、死者が出たストーリーがコメディとなるのだろうかと少し考え込む。

ヨット遭難の筋書きを思い出すと、レベッカが一人で乗っていたヨットが暴風で流され、数か月後に発見され、その遺体を夫のマキシムが妻のレベッカと確認している。ところが実際には妻を殺したのはマキシムでヨットに穴を開けたり船底の水抜きバルブを開き沈没させ、自分はゴムボートで逃げ出している。その沈没船がひょんなことから発見され、船内からレベッカの遺体が発見された。実際には悪妻で浪費家のレベッカは末期がんと宣告され、自殺する動機があったということになり、マキシムに無罪が転がり込むのだが。最初のヨットで見つかったご遺体は誰だったのだろうか。

大森貝塚?貝墟?

2024-05-28 00:00:40 | 歴史
先週、都内でちょっとした空き時間があったので、思いついて大森貝塚(跡)に行って見た。JRの大井町駅と大森駅の中間にある。もとはといえばアメリカの動物学者のモース博士が鉄道に乗っているときに線路脇に貝殻が層になっている場所を見つけ、「貝塚だ!」と確信して調査を始めたということ。



大森駅のホームには『日本考古学発祥の地』という碑が立っている。100年後に建てられたものだ。

貝塚のことは、以前、加曾利貝塚の近くに住んでいたことがあるので、ある程度詳しいので、それ自体のことよりも周りの環境なんかが知りたいと思っていた。



そして、大森駅から池上通りを大井町方向に歩くと、貝塚碑の場所があった。通りから右に向かう小径があり、線路沿いに「大森貝墟」と書かれた縦長の碑があった。碑の背面には昭和5年四月建之と書かれている。

そのまま帰らなかったのは、その先に完成したばかりの「しながわ歴史館」があったからだ。少し歩くと、「品川区立大森貝塚遺跡庭園」という公園があった。違和感があったのは、さきほどの碑から少し距離がある。さらに庭園は品川区立となっているが、そもそも大森というのは品川区ではなく大田区だ。大森区と蒲田区が合併するときに、大森の大と蒲田の田をつなげて大田区にしたはず。大森貝塚がなぜ品川区にあるのだろう。



そして庭園の中を散策すると、こちらには、横長の「大森貝塚」の碑がある。昭和四年五月二十六日起工と書かれている。



何が何だかわからない。そもそも碑に刻むのは竣工とか建之といった完成した日で起工日を刻むのは普通じゃない。

後年わかったのだが、国の記録にはモース博士の発掘調査に当たって品川区に補助金が交付されている。つまり、横長の碑の方が本物と言うことなのだろうか。

さて、貝塚のことを書かないといけないが、時代的には縄文時代後期から弥生時代の初頭にかけての遺跡が発掘されている。

震度7で逃げられるのかな

2024-05-27 00:00:10 | 市民A
地震や各種災害の時にいつもテレビで解説をされたり、現地レポートをされる山村武彦さんの講演を聞きに行った。「防災システム研究所所長」ということで、2024年は能登半島地震、花蓮地震の現地調査に行かれている。台湾では相当有名らしく、あちこちのテレビに出演されたそうだ。



能登半島地震の時は輪島のビル倒壊や朝市地区の火災といった被害が出ているが、2000年基準の木造家屋ではほとんど崩壊はなかったそうだ。したがって大地震の時の行動は住んでいる家によって異なるということだそうだ。

その前に、大地震の時に、逃げられるか問題がある。会場で流されたビデオは1995年の阪神淡路大地震の時の神戸市内のコンビニ店内のもので、ちょうどレジで精算をしているときに地震が起こり、最初は入口の自動ドアがガタガタと妙な音で鳴りだして、数秒後に本震(震度7)がきた。店員の客もなすすべもなく店内の棚の間で固まってしまった。

山村所長によれば震度7は立つことすら難しく、生死の差は運頼みになってしまうので、最初のガタガタの時に逃げないといけないとのこと。

最初のガタガタはP波で秒速7キロで、本震はS波で秒速4キロだそうだ。つまり震源地から30キロの場所ならP波到達が約4秒後、S波到達は7秒ということで3秒の差がある。

この間に、2000年基準の場合は3秒間の猶予があると考え、家の中で比較的安全な場所(玄関とか)に移動するとか基準値以下の場合、特に1階にいる場合。すぐに脱出する方がいいらしい。しかし二階にいる人は1階の玄関までは行けないだろうから、2階がいい場合もあるということらしい。

「東芝科学未来館」一般公開終了

2024-05-26 00:00:15 | 美術館・博物館・工芸品
川崎駅西口の正面にある東芝ビルにある東芝未来科学館の一般公開が2024年に公開終了となる。公開しないミュージアムとはどういうものかよくわからないが、事実上の閉鎖なのだろう。

東芝は5月23日、同社の企業博物館「東芝未来科学館」(神奈川県川崎市)について、2024年6月29日に一般向けの公開を終了すると発表した。   事業内容の変化にあわせた見直し  東芝科学未来館は1961年、東芝小向事業所内に「東芝科学館」として開設。その後、2014年に現在の同社川崎本社内へ移転し、「東芝未来科学館」に名称を変更している。


東芝のことは弊ブログでも過去に5回取り上げている。

2007年8月26日 東芝科学館

2007年8月27日 田中久重の歴史

2017年3月14日 大阪天満宮と大塩の乱と東芝

2022年3月29日 浜芝浦駅にも行って見る

2022年9月4日 洗濯機売場から未来館へ(東芝未来科学館のこと)

結局、ほとんどなくなるような方向なのだろう。当事者の社員たちはすでにモノを作る会社ではないと思っているのに、ものづくりを期待する人たちがあれこれやっているように見える。

解けてうれしい詰将棋(令和二年早春号)

2024-05-25 00:00:10 | しょうぎ
知人からいただいた小冊子を解いてみた。1手詰から11手詰まで。

その他にチャレンジ問題というのが10題出題されているのだが、これが曲者。「詰将棋」だけではなく「必死問題」と「必死がかからない問題」が混ざっている。一応、答えを考えた後、詰将棋以外の場合、正解と合わせてみたいのだが、解答のページには、前号の答えが書かれているだけ。



逃れ図というのは古来からあるのだが、必死逃れ図というのはあまりみない。むしろ、「必ず詰みます」とか「必ず必死がかかります」と記載しておいて、あきらめて解答欄を見ると、「本当は詰も必死もありません。ごくろうさまです。」と書いてあるというのが最高ではないかな。


さて、5月11日出題作の解答。








今週の問題。



解ったと思われた方は、コメント欄に最終手と総手数とご意見をいただければ正誤判定します。

小説小野小町 百夜(高樹のぶ子著)

2024-05-24 00:00:04 | 書評
小野小町(おののこまち)といえば世界三美女といわれ、小倉百人一首の「花の色は・・・」は百首の中でも有名度ベスト3に入るだろう。絶世の美女といわれ、百夜(ももよ)伝説というのは、小町に短歌で愛を百回伝えると本懐を遂げるというもので、実際には本懐ではなく呪い殺されるというようなものだったような気がする。



一方、そんなに有名であっても生没年も親子関係も、さらに存在すらも確証がない。小野小町作という短歌の多くは、そうではないと思われていて、紀貫之らが編んだ古今和歌集18首は紀貫之を信じるとして彼女の作ということになっている。

本作にあるように彼女が何かの機会に詠んだ歌が京都の市井に流布している間に少しずつ変化しているということだろうか。

ということで本作では小野小町は小野篁(おののたかむら)の娘ということになっている。一説では、(本作では篁の弟と言われる)篁の子の小野良実の子とも言われるが、篁と小町の推定年齢の差は25歳ぐらいなので孫としては近すぎるかな。

その当時の京都は藤原良房(北家の事実上の始祖)が謀略を持って朝廷を支配していく時代で、文化人は生きにくい時代だったようで、小野篁も世間から引き込みがちで、あちらの世界に通じている人間と恐れられていた。

そして、本作には当時の魅力的な人物が次々に登場している。

そして、意識的なのだろうが、著者の高樹のぶ子氏の文体が、まさに源氏物語風で、小説の語り手がめまぐるしく変わる。物語を語る第三者だったり、小町の心中のことばだったりだが、あまり気にならない。というのも、ほとんどの場面に小町がいるわけだからだろう。

数か月前に紫式部の史跡を京都で巡った時に、雲林院の近くにある紫式部の墓はすぐそばに小野篁の墓があり、どうして時代が100年も違うのに近接しているのかという疑問があった。一説では小野篁は地獄の使いとして思われていて(体も巨大)、紫式部は源氏物語の中で嘘をたくさんついたので地獄に送られたということが共通しているといわれているそうだ。小町の晩年は伝わっていない(小説では生誕地の秋田へ向かう途中、白河の関で亡くなったことになっている)。

著者はあとがきに、今に伝わる小野小町像は男性中心の視点なので、・・・というように小町の名誉回復といようことが書かれていたのだが、そもそも実像が明確に判らない人物の小説なのだから、あえてそういう方向性まで書かない方が良かったかもしれない。