なかにし礼原作 隆旗康男監督 常磐貴子 伊勢谷友介 香川照之 布袋寅泰 2003年
「赤い月」は、満州を舞台にした、なかにし礼の自伝的小説の映画化である。
満州・牡丹江で酒店を開いて成功した父と、女としての生き方を貫いた母。幼い著者の目を通して、父と母の生き様と当時の満州を描いたものである。
著者の人間形成の原体験は、満州にあると言っていい。
なかにし礼といい五木寛之といい外地引き揚げ者は、若くして颯爽とデビューした。何より、彼らの中の無国籍的感性(五木はそれをデラシネと呼んだ)が、僕は好きだった。
満州から幼少時に日本に引き揚げてきたなかにしは、父の故郷である函館に住んだあと、東京に移り住むことになる。苦学しながらシャンソンの訳詞をしたことで、彼の才能は開花する。
シャンソンから歌謡曲に足場を移したなかにしは、1966年「涙と雨に濡れて」でヒットを飛ばすや、その後は「知りたくないの」「霧のかなたに」「天使の誘惑」「花の首飾り」と矢継ぎ早にヒット曲を放ち流行作詞家となる。そして、70年「今日でお別れ」で日本レコード大賞を受賞。まだ彼が30歳前後の頃である。
彼はそれまでにない歌作り手であった。僕は、なかにし礼のファンだった。
77年には、すべて作詞・作曲による自分のアルバム「マッチ箱の火事」(フォーライフ)を、79年には「黒いキャンパス」(東芝EMI)を出した。
「マッチ箱の火事」では、彼の歌謡曲では見せていない才能の側面を垣間見せている。このアルバムには、「時には娼婦のように」「白い靴」「マッチ箱の火事」など、文学的作品ともいえる名曲が散在しているが、特筆すべきは、このアルバムの最後に、「ハルピン1945年」を入れていることである。
この歌で、彼は「あの日からハルピンは消えた、あの日から満州も消えた…」と歌っている。満州を、感傷的かつ哀愁を帯びて描いたこの曲は、彼の満州を舞台にした最初の作品(歌も小説も含めて)ではなかろうか。
僕は最初から彼の歌の中に、他の作詞家にない文学性を見いだしていた。
やはりと頷いたのは、71年封切られたドーデ原作のフランス映画「哀愁のパリ」のリメイク版が出版された時である。その翻訳をしたのが作詞家なかにし礼だった。彼を口説いたのが、当時角川書店の風雲児と呼ばれていた2代目角川春樹である。
なかにしは、78年には日活で映画「時には娼婦のように」の原作、脚本、主演を演じた。この映画も、自伝的作品の名作である。相手女優は、鹿沼えりで彼は濡れ場も演じた。
この頃の彼は何をやっても唸らせるものがあった。僕は天才だと思ったものだ。
そんな彼に、僕は一度だけ会う機会があった。
1991年、僕が婦人雑誌の編集をやっていた時で、モーツアルト生誕200年ということで「モーツアルト」の特集を組み、彼にインタビューを申し込んだのだった。その頃彼は、歌謡曲から少し離れてクラシック、オペラに関する仕事を試みていた。いや、彼の中で歌謡曲の作詞の灯は消えていたのかもしれない。
昭和から平成になった頃から、彼は小説へ足場を移し始めた。彼は、それまで歌の天使のような羽がなくなったといった表現をしている。
なかにし礼は、若い時から「花物語」のような、本人にとっては習作のような小説は書いていた。しかし、意識的に小説家として書いたのは、自分の心臓発作のことを雑誌に発表したものが最初だろう(題名は忘れてしまった)。
その後、98年、「兄弟」で直木賞候補になり、2000年「長崎ぶらぶら節」で同賞受賞。「赤い月」は、その翌年の作である。
作詞家としては類い希な才能を遺憾なく発揮したなかにし礼だが、小説を見れば、僕としては文も構成も硬すぎると思えて、心地よく乗って読めない。歌では流れるようにメロディーに溶けこんだ天才的な詩(文句)が、小説では構成の技巧的作為が感じられるのである。何にもまして、歌で見られた彼の秀れた情緒性を、積極的に排除、排斥しているように見える。
彼の小説の多くは、体験を元にしたものだが、その中でも、素直に描けているのは兄のことを書いた「兄弟」で、これが個人的には最も好きだ。
さて「赤い月」だが、小説を読む前から、僕の頭の中には彼の自伝にもとづいたものという前提が入っていた。だからかもしれないが、満州国、関東軍やソ連との関係、引き揚げといったダイナミックな歴史の波に母の恋愛が絡むなど、個人の自伝的小説としてはあまりにも物語的なので、読んでいる途中から小説より映画的だと感じた。
映画では、常盤貴子が気丈な母親役を、香川照之が屈折した父親役を熱演している。
ラストシーンの、敗戦のあとの芋の子を洗うような引き揚げ列車の中で、誰かが叫ぶ。
「満州のバカタレ。何が王道楽土だ」
ところが、母親役(主役)の常盤貴子は、一人呟く。
「私は感謝するわ。ありがとう、満州」と。
なかにし礼の満州を語ったものとしては、比較には不適切かもしれないが、個人的には、哀愁を帯びた「ハルピン1945年」の余韻のある歌の方が好きである。
彼は愛惜を込めて歌った。
「…幾年時はうつれど、忘れ得ぬ幻のふるさとよ」
しかし、満州とは何だったのだろう。歴史の中で、蜃気楼のように現れ消えていった幻の国、満州国。
僕の父も母も満州に生きた。
「赤い月」は、満州を舞台にした、なかにし礼の自伝的小説の映画化である。
満州・牡丹江で酒店を開いて成功した父と、女としての生き方を貫いた母。幼い著者の目を通して、父と母の生き様と当時の満州を描いたものである。
著者の人間形成の原体験は、満州にあると言っていい。
なかにし礼といい五木寛之といい外地引き揚げ者は、若くして颯爽とデビューした。何より、彼らの中の無国籍的感性(五木はそれをデラシネと呼んだ)が、僕は好きだった。
満州から幼少時に日本に引き揚げてきたなかにしは、父の故郷である函館に住んだあと、東京に移り住むことになる。苦学しながらシャンソンの訳詞をしたことで、彼の才能は開花する。
シャンソンから歌謡曲に足場を移したなかにしは、1966年「涙と雨に濡れて」でヒットを飛ばすや、その後は「知りたくないの」「霧のかなたに」「天使の誘惑」「花の首飾り」と矢継ぎ早にヒット曲を放ち流行作詞家となる。そして、70年「今日でお別れ」で日本レコード大賞を受賞。まだ彼が30歳前後の頃である。
彼はそれまでにない歌作り手であった。僕は、なかにし礼のファンだった。
77年には、すべて作詞・作曲による自分のアルバム「マッチ箱の火事」(フォーライフ)を、79年には「黒いキャンパス」(東芝EMI)を出した。
「マッチ箱の火事」では、彼の歌謡曲では見せていない才能の側面を垣間見せている。このアルバムには、「時には娼婦のように」「白い靴」「マッチ箱の火事」など、文学的作品ともいえる名曲が散在しているが、特筆すべきは、このアルバムの最後に、「ハルピン1945年」を入れていることである。
この歌で、彼は「あの日からハルピンは消えた、あの日から満州も消えた…」と歌っている。満州を、感傷的かつ哀愁を帯びて描いたこの曲は、彼の満州を舞台にした最初の作品(歌も小説も含めて)ではなかろうか。
僕は最初から彼の歌の中に、他の作詞家にない文学性を見いだしていた。
やはりと頷いたのは、71年封切られたドーデ原作のフランス映画「哀愁のパリ」のリメイク版が出版された時である。その翻訳をしたのが作詞家なかにし礼だった。彼を口説いたのが、当時角川書店の風雲児と呼ばれていた2代目角川春樹である。
なかにしは、78年には日活で映画「時には娼婦のように」の原作、脚本、主演を演じた。この映画も、自伝的作品の名作である。相手女優は、鹿沼えりで彼は濡れ場も演じた。
この頃の彼は何をやっても唸らせるものがあった。僕は天才だと思ったものだ。
そんな彼に、僕は一度だけ会う機会があった。
1991年、僕が婦人雑誌の編集をやっていた時で、モーツアルト生誕200年ということで「モーツアルト」の特集を組み、彼にインタビューを申し込んだのだった。その頃彼は、歌謡曲から少し離れてクラシック、オペラに関する仕事を試みていた。いや、彼の中で歌謡曲の作詞の灯は消えていたのかもしれない。
昭和から平成になった頃から、彼は小説へ足場を移し始めた。彼は、それまで歌の天使のような羽がなくなったといった表現をしている。
なかにし礼は、若い時から「花物語」のような、本人にとっては習作のような小説は書いていた。しかし、意識的に小説家として書いたのは、自分の心臓発作のことを雑誌に発表したものが最初だろう(題名は忘れてしまった)。
その後、98年、「兄弟」で直木賞候補になり、2000年「長崎ぶらぶら節」で同賞受賞。「赤い月」は、その翌年の作である。
作詞家としては類い希な才能を遺憾なく発揮したなかにし礼だが、小説を見れば、僕としては文も構成も硬すぎると思えて、心地よく乗って読めない。歌では流れるようにメロディーに溶けこんだ天才的な詩(文句)が、小説では構成の技巧的作為が感じられるのである。何にもまして、歌で見られた彼の秀れた情緒性を、積極的に排除、排斥しているように見える。
彼の小説の多くは、体験を元にしたものだが、その中でも、素直に描けているのは兄のことを書いた「兄弟」で、これが個人的には最も好きだ。
さて「赤い月」だが、小説を読む前から、僕の頭の中には彼の自伝にもとづいたものという前提が入っていた。だからかもしれないが、満州国、関東軍やソ連との関係、引き揚げといったダイナミックな歴史の波に母の恋愛が絡むなど、個人の自伝的小説としてはあまりにも物語的なので、読んでいる途中から小説より映画的だと感じた。
映画では、常盤貴子が気丈な母親役を、香川照之が屈折した父親役を熱演している。
ラストシーンの、敗戦のあとの芋の子を洗うような引き揚げ列車の中で、誰かが叫ぶ。
「満州のバカタレ。何が王道楽土だ」
ところが、母親役(主役)の常盤貴子は、一人呟く。
「私は感謝するわ。ありがとう、満州」と。
なかにし礼の満州を語ったものとしては、比較には不適切かもしれないが、個人的には、哀愁を帯びた「ハルピン1945年」の余韻のある歌の方が好きである。
彼は愛惜を込めて歌った。
「…幾年時はうつれど、忘れ得ぬ幻のふるさとよ」
しかし、満州とは何だったのだろう。歴史の中で、蜃気楼のように現れ消えていった幻の国、満州国。
僕の父も母も満州に生きた。
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