そこそこの放送作家・堀田延が、そこそこ真面目に、そこそこ冗談を交えつつ、そこそこの頻度で記す、そこそこのブログ。
人生そこそこでいいじゃない





大ヒットしているのが信じられない。
中高生たちよ、本気なのか。
以下、この映画のいちばんダメなところを書く。
当然ネタバレだ。





隕石が岐阜県の山奥の町に降ってきて、町民500人全員が死ぬ大災害。
それは主人公の女子高生・三葉や、三葉の家族(父・妹・祖母)の命が失われる事態のみならず、町民500人の命がかかっている危機緊急の事態である。
隕石落下の事実を唯一知る(3年ずれて過去の三葉と中身が入れ替わっている)主人公の男子高校生タキは、この入れ替わり現象を利用して町民避難を試みるが誰も信じない。
ここに来てもう、隕石落下、町民全員死亡のカウントダウンが始まる。
そんな時、あのクレーターの淵で主人公の高校生男女2人は夕暮れ時に再会する。
そこまではいい。
だがここで信じられないことに、この2人、悠長にイチャイチャし始めるのだ。
とても理解できない。
速やかに隕石落下の情報を交換して、町を救うためにまずは迅速に動くべきだろう。
イチャイチャが始まりそうになったら、むしろ「今はそんなことしている場合じゃない」と男だったら言い出してくれタキくんよ。
それが映画で描かれるべき「男」だと思う。
だからこそ共感できるってもんだ。
ていうか、あんな時にイチャイチャし始めるのが、もうまるで共感できないし、ただの色恋バカにしか見えないのだ。
そこがいちばんこの映画のダメなところだと思う。

そこまでして全てを恋愛に落とし込む物語を描きたいのなら、隕石落下で町消滅なんていうスペクタクルを使わず、三葉1人が死ぬなんらかしらの別の事故が起こる程度のストーリーで十分だろう。
だったら、2人の恋愛物語に終始することも納得なので、死の運命に瀕している女とそれを救いたい男が奇跡の再会をして、そこでカタルシスを迎えればよろしい。
あのクレーターの淵で会えたところが物語上のクライマックスで良かったと思う。
その上で、タキが三葉を救えるか救えないかは好きに描けばいい。
好きな相手の命を救う、という描写は、イコール、恋愛の延長線上にあるからだ。

なのにこの映画では、町民500人の命がかかった状況なのに、主人公の男女は自分たちの恋愛をまず優先するという○○○○(自主規制w)じみた、まるで共感できない行動を取る。
500人が生きるか死ぬか、それを救えるのは自分たちだけ、そんな重大な局面で、なに「スキダ」って書いてんだ?
せめてまず名前を書いておけ。
しかも転ぶまでなに書かれたか確認してないし。
なんじゃそりゃと思ったわ。

町民500人の命より、自分たちの恋愛の優先度の方が高いって、そんな映画あるか?
そんな描き方、宮崎駿も細田守も絶対しない。
ラピュタのバズー、ナウシカ、カリオストロのルパン、サマーウォーズの男の子(神木隆之介くんが声優しているのは一緒だね)、皆、恋愛よりも正義を取ったじゃん。
タキくんにもそーして欲しかったわー!



追記
『セカイ系』というジャンルの映画は「世界を救うのは私たち二人」であり、「世界崩壊の危機よりも究極の所、個人が大事」というものだと、どこかで読みました。
だとしたら、僕はセカイ系を絶対に受け入れられないし、だからこの映画が苦手なんだ思います。
そういう意味で、エヴァはぜんぜんセカイ系じゃないと思います。
シンジくんは最終的に世界崩壊の危機より自分を取ったりしなかったよね?

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