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奈良派、小浜派、鴻池派と童蒙酒造記
文化・芸術
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2019年04月30日
能、狂言などの舞踊、華道、茶道、香道などの芸道、弓術などの武術をはじめ日本の伝統芸能では「流派」が存在する。流派はそれぞれ異なる流儀を継承する集団であり、 流儀すなわち様式化された技術、技能を、家元・宗家などを頂点として継承する。
そして日本酒造りにおいても流派がある。
日本酒の醸造工程を行う職人集団である蔵人の監督者で酒蔵の最高製造責任者は「杜氏」(とうじ・とし) と呼ばれる。全国にはいくつかの杜氏集団があり、各地方による酒造りの様式は各々の流派として独自の技術をもって日本酒が造られている。
日本酒サービス研究会・酒匠研究会連合会 杜氏の流派と分布
http://www.sakejapan.com/index.php?option=com_content&view=article&id=40&Itemid=5
例えば全国最多の杜氏を抱える「南部杜氏 (南部流)」は、1606年頃に南部藩の御用商人であった村井氏・小野氏が、上方の伊丹で鴻池善右衛門によって開発された大量仕込み樽の製法を領内にもたらし、藩のバックアップを受けて盛岡城下で本格的な藩造酒の生産を始めたのが起源で、その後藩、商人、農民に至るまで一体となった藩造酒によって発展したものだ。
一方で歴史の中で衰滅し、現存しない流派も存在する。
「奈良流」は、平安時代から江戸時代に至るまで、大寺院で醸造された日本酒の総称である「僧坊酒」(そうぼうしゅ) の伝統や技法を受け継ぎ、江戸時代の諸流派の源となった流派である。
奈良流
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%B5%81
中世の日本においては、大和国や河内国の大寺院が造る僧坊酒が日本の酒の中心であったが、戦国時代に織田信長はじめ武将たちの攻撃を受けて寺院勢力は大きく衰え、同時にその中で培われてきた醸造設備は破壊され、技術も散逸していった。それを直接受け継いだのが奈良の造り酒屋たちであり、彼らの製法・技法を奈良流と称する。
江戸時代に下り酒 (上方で生産され、江戸へ運ばれ消費された酒のこと) を生産する摂泉十二郷の伊丹流、鴻池流、小浜流、池田流など、あるいはそこからさらに技術革新し江戸後期に栄える灘流など、すべての流派はこの奈良流を源流とする。
しかし伊丹で奈良流に改良が加えられ大量生産方式が確立されたことや、奈良が地理的に大消費地である江戸への輸送に適していなかったことなどから、奈良流そのものは商業的に隆盛することはなかった。
「小浜流」は、摂津国小浜郷 (現兵庫県宝塚市) で栄えた。奈良流から発展した流派である。
小浜流
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B5%9C%E6%B5%81
武庫川上流の小浜郷の酒蔵が、僧坊酒の直系の後継者である奈良流から習得して、独自の工夫を加えたものと思われる。当初は摂泉十二郷の走りとして伊丹、池田、鴻池などとともに栄えた。下り酒の一銘柄として、武庫川をくだって大坂湾に出て江戸へ出荷された。しかし幕府の酒造統制や、摂泉十二郷のなかでの競争に敗れ、江戸中期までには衰滅してしまったものと思われる。
2018年1月に放送された『ブラタモリ・宝塚』で、タモリさんがかつての小浜宿の元造り酒屋だった民家を訪問したが (その後私も行ってみた)、その酒は小浜流ということになる。
同様に奈良流から発展して摂津で発展した流派に「鴻池流」がある。
鴻池流
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%BB%E6%B1%A0%E6%B5%81
1600年に鴻池善右衛門が、室町時代からあった段仕込みを改良し、麹米・蒸米・水を3回に分ける三段仕込みとして効率的に清酒を大量生産する製法を開発した。これはやがて日本国内において、清酒が本格的に一般大衆にも流通するきっかけとなった。
また、これを以て日本の清酒の発祥とみなす立場もあり、伊丹市鴻池には「清酒発祥の地」の伝説を示す石碑「鴻池稲荷祠碑」(こうのいけいなりしひ) が残っている。
鴻池で造られた酒は船で猪名川を下り、大坂湾に出て、菱垣廻船や樽廻船で江戸へ出荷されたわけだが、地元で消費されるよりも圧倒的に江戸に出荷する率が高かった。寛文以降の幕府の厳しい酒造統制、元禄年間の減醸令、また1738年に新酒一番船の江戸入津は15艘までと制限されたことなどにより、鴻池郷の酒造りは次第に衰退し消滅していった。
しかし、すでに財を成し大坂へ進出していた鴻池家は、鴻池という酒郷が衰滅したあとも豪商として諸方面に活躍し、やがて近代以降は財閥となり、平成時代に至るまで三和銀行として綿々と商脈は続いていくことになる。 もちろん鴻池家は、始祖が自分の出自である村「鴻池」を姓として名乗ったことから始まっている。
余談だが、三和銀行は2001年にUFJホールディングスとなり、さらに三菱UFJフィナンシャル・グループとなって現在に至るが、三和銀行 (1933年に鴻池銀行・三十四銀行・山口銀行の3行が合併して設立) は鴻池善右衛門の両替商としての創業の年「since 1656」をロゴマークに記していた。国際的にも極めて古い金融業者であった。
奈良流、小浜流、鴻池流をはじめとした日本酒の醸造技術が記された江戸時代の書に「童蒙酒造記」(どうもうしゅぞうき) がある。
童蒙酒造記
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%A5%E8%92%99%E9%85%92%E9%80%A0%E8%A8%98
童蒙酒造記とは、江戸時代初期に書かれた日本で代表的な醸造技術書。現存する同類の書物の中では、江戸時代を通じて質、量ともに最高の内容を誇る。「童蒙」とは、「子どもや馬鹿者」といった意味だが、そんな言葉をわざわざタイトルの頭につけたとなると、今ならちょっと鼻につくそのような謙遜から、著者の一種マニアックな「酒造りの鬼」と化した姿がうかがわれる。
著者についても不詳であるが、自分は「鴻池流」の人間であると書いていること、商才に敏感な記述が多いこと、などから鴻池流の蔵元の誰かであると思われる。
はっきりとした成立年代はわかっていない。しかし貞享3年(1686年)における米や酒の価格が詳しく分析されていることから、それより後であることは確かであり、かつまた、同年が米作という面でそれほど特殊な年であったとも思われないので、はるか後代になってから書かれるにしては必然性がない。このような理由からとりあえず貞享4年(1687年)の成立と推定されている。
酒造りについて執筆当時にわかる「すべて」が書き込まれたと言っても過言ではないほど、江戸時代を通じて質、量ともに最高の内容を誇る酒造技術書である。 全5巻。
日本酒専門WEBメディア「SAKETIMES」 寒造り、アル添、火入れ......現代に通じる江戸時代の多様な醸造技術─ 熟成古酒の失われた100年<5>
https://jp.sake-times.com/knowledge/culture/sake_g_lost-100years_05
童蒙酒造記の表紙には「これは口伝であるから他人には教えるな」という注意書きがあるが、まさに江戸時代の酒造の秘伝書であるといえよう。
このようにいろいろと調べると、かつての流派の日本酒を味わいたくなるのは当然のことである。上記の流派のうち奈良流の技法が再現された日本酒が、奈良県の梅乃宿酒造株式会社 (創業1893年) から販売されている。
梅乃宿酒造株式会社 奈良流五段 露葉風 純米吟醸
https://www.umenoyado.com/sake/390031
平安時代まで遡る伝統や技法を受け継ぎ、諸流派の源となった奈良流の日本酒をたしなみながら、日本の新しい時代を迎えよう。
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