先日の10月4日に放送された、NNNドキュメント“シリーズ戦後70年”『南京事件・兵士たちの遺言』の、文字起こしをしました。
ビデオをここに転載することができませんので、重要だと思われる場面を切り取りました。
なので、とても長い記事になると思います。
けれども、わたしたちが知らずにいてはいけない事実が、このビデオの中にたくさん存在しています。
どうか、時間を見つけて、目を通してください。
↓以下、文字起こしはじめ
南京事件 兵士たちの遺言/NNNドキュメント
http://www.at-douga.com/?p=14681
中国を貫く大河長江。
下流域では、揚子江とも呼ばれています。
岸辺に寄り添う町の一つが南京です。
揚子江に近いいくつかの場所に、慰霊碑が建てられています。
今から78年前の、日中戦争当時の、悲惨な出来事を伝えるためです。
『南京虐殺』『南京事件』などと呼ばれるこの事件は、1937年12月以降、日本軍が行ったとされる中国人への残虐行為です。
中国側は、犠牲になった人の総数を、30万人以上と主張しています。
戦後日本で行われた東京裁判では、20万人以上が犠牲になったとされ、
松井石根元陸軍大将が死刑になりました。
以後、犠牲者の数については、多様な意見が飛び交います。
日本では、数万人や20万人など、議論にもなってきました。
近年、ネット上などにおいては、「あれは虐殺ではない」、
または、「抗議そのものが無かった」、という声まで上がっています。
日本政府の見解は、
「非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは、否定できない」としつつ、
「被害者の具体的な人数については諸説あり」
「正しい数かを認定することは困難である」としています。
南京陥落。
当時、勇ましく伝えられた『南京攻略戦』。
しかし、日本国内では、残虐行為は伝えられていませんでした。
南京戦に参加した兵士は、
「南京で見たことは、決して口外するな」
公式な記録の多くは、終戦時に処分されたと言われています。
一枚の写真があります。
防寒着姿で倒れている多くの人々。
これは、南京陥落後の中国で、日本人が入手した写真といわれています。
はたして、南京で撮られたものでしょうか。
これば、南京戦に参加した、ある兵士が書き綴った日記です。
『捕虜セし支那兵ノ一部五千名余、揚子江ノ沿岸ニ連レ出し、機関銃ヲ以テ射殺ス』
『年寄も居レバ子供モ居ル。一人残ラズ殺ス』
それは、加害者側の告白でした。
この日記を書いた元日本兵は、
「何万という捕虜を殺したのはこれ、間違えねえ。
俺は生きて帰って、しゃべって、それから死にてえなと思って 」
兵士たちの遺言と、残された日記が伝えるものとは。
多くの部隊が手柄を競った、南京攻略戦。
その中の、ある部隊の記録を遡ります。
南京事件を長く調査している人がいます。
福島県出身の小野賢二さん(66)。
小野さんは、地元である福島県から、南京攻略戦に参加した部隊があることを知り、興味をもって調べ始め、すでに27年が経ちました。
「福島県会津若松にあった歩兵第65聯隊という、その人たちの証言を聞いて、証言を聞いた上でまあ、証拠としての日記を中心に集めてきたという、それを延々とやってきただけですね」
「俺が証言を聞き始めた頃は、ちょうどみんな80歳以上ですからね。
だから(あうな?)見解があったんですけど、一応その中でも200人、には一応、なんらかのかたちで、あの…話は聞きました」
「そのみんな、亡くなったんじゃないですか。もう100歳以上ですからね、生きてても」
「一応用意したんで。これはひ孫のおもちゃ箱から出てきたもの、陣中日記ですね」
兵士たちが綴った戦の記録。
小野さんは、元兵士たちの家に何度も通った、と言います。
集めた日記は、コピーを含めると31冊。
そこに書かれていたのは…。
「これは本人からもらった、譲ってもらった」
「支那事変日記帳」と書かれてますねえ。これはわりと、戦後貼ったんでしょうかね」
古めかしい革張りの表紙に、年季の入った赤い背。
昭和12年9月から、南京が陥落するまでの3ヶ月間、ほぼ毎日書かれています。
今から19年前に亡くなった、陸軍の上等兵の遺品です。
男性は山砲兵、歩兵第65聯隊と行動を共にしました。
日記には、ごく普通の農民だった男性が、身重の妻を残し、戦場へ向かう様子が記されていました。
『10月3日
午後6時頃、いよいよ上陸して、支那の土地を踏んだ。
空襲となり、我が優軍の打ち出す高射砲機関銃は、火花を散らし…、
これが本当の戦争かと思った』
上海などに上陸した上海派遣軍。
当初の作戦任務は、居住していた日本人の保護でした。
しかし…。
これは陸軍の命令書です。
軍部の判断で、当時中国の首都だった南京攻略を目指すのです。
日本を発って一ヶ月。
日記からは、次第に故郷の話題は消えていき、食べ物についての記述が増えていきます。
『11月4日、ひし(水草の種子)を採って食す者、落花生を掘りきりて煮る者などもある』
突然のことだった南京への転戦。
後方支援はほとんどありません。
『11月16日
食糧の補給は全然無く、支那人家屋より南京米、その他の物を徴発して、一命を繋ぎ前進す』
徴発とは、強制的に、民間人から物質を集めることをいいます。
そして、2ヶ月前まで、ごく普通の農民だった男性が、ついに、民間人に対して、銃口を向けたというのです。
『11月17日
ニャー(若い中国人女性と思われる)を一人連れてきたところ、我らの目を盗んで逃げたので、直ちに小銃を発射し、射殺してしまう』
『11月25日
実に戦争なんて面白い。
酒の好きな者、思う存分飲むことが出来る』
12月、日本軍は、南京に迫っていきます。
中心部は高い城壁で囲まれた、巨大な要塞です。
日本軍のとった作戦は、幾つもの部隊による、完全包囲作戦でした。
上等兵が所属していた山砲兵第19聯隊は、歩兵第65聯隊などと隊を組んで、揚子江沿いを遡って行きました。
この包囲作戦で、中国兵や多くの民間人が、揚子江を渡れずに取り残されました。
12月13日、ついに南京陥落。
その後、松井元陸軍大将の、入場式が行われました。
揚子江沿いを遡っていた上等兵たちの部隊は、武器を捨てて降伏してきた多くの中国兵を、捕虜にします。
『12月14日
途中、敗残兵を1800名以上捕虜にし、その他、たくさんの正規兵で、合計5000人の敗残兵を捕虜にした』
捕虜はその後も増えていき、1万人を超えていきます。
そして…
『12月16日
捕虜せし支那兵の一部五千名余、揚子江の沿岸に連れ出し、機関銃を以って射殺す。
その後、銃剣にて、思う存分に突き刺す。
自分も此の時ばかりと、30人も突き刺したことであろう。
山となって居る死人の上をあがって、突き刺す気持ちは、鬼をもひしがん(?)勇気が出て、力いっぱい突き刺したり。
ウーンウーンと呻く支那兵の声。
一人残らず殺す。
刀を借りて、首をも切ってみた』
投降した捕虜を殺害することは、國際法で禁じられていました。
調査をしてきた小野さんは、日記を書いた上等兵に、インタビューをしていました。
この映像は、今から21年前に撮影されたものです。
山砲兵第19聯隊・元上等兵:
「機関銃を持ってきて、バババーッと捕虜に向かって撃っちゃったんだ。
捕虜はそりゃあみんな死んだけれども、中には弾に当たんねえ兵隊がいっかもしんねえから、みんな着剣してその、死骸の上を突いて歩け」と。
ザッカザッカ突いて歩いた。
もうおそらく、そうだなあ、30人くらい突いたと思うが、うん。
何万という捕虜は殺したのはこれ、間違いねえ」
これは、同じ作戦に参加していた、別の兵士(歩兵第65聯隊・第八中隊少尉)の日記です。
『一万七千二十五名の三分の一を引き出し、射殺す』
さらに違う兵士(山砲兵第19聯隊・第八中隊伍長)の日記にも、
『揚子江畔にて銃殺』
歩兵第65聯隊(第四中隊少尉)の兵士の日記
小野さんが入手した日記や写しは、合わせて31冊。
その多くが、捕虜の銃殺に触れていたのです。
中にはこんな日記も。
「これは、16日の記述が消されてますね。インクだから消されちゃう」
「ああ、これ、12月15日まではあって、その後無い」
銃殺があったとされる16日だけが、消されて空白になっていました。
戦後になって、諸説飛び出した南京事件。
その根拠の多くは、戦後になって記された文書や証言でした。
一方、これらの日記は、戦場で書かれたもの、つまり、一次資料です。
上等兵の日記の記述に、不自然な点や矛盾が無いか、さらに調べてみることにしました。
日記によれば、上等兵は、ここ神戸港から、白馬山丸という船に乗って、上海に向かったと記されています。
港のそばにある資料館を訪ねました。
白馬山丸の記録が残されていました。
船は、民間からの徴用船でした。
最大時速は13.3ノット。一時間に、およそ15マイル進むことになります。
日記では、上海までは5日間かかっています。
上海までの直線距離は、およそ830マイル(約1336キロメートル)。
日記の記述と矛盾しないことがわかりました。
上海上陸後の足取りの確認は、できないのでしょうか。
防衛省の研究施設に、軍の公式な報告書が残されていることがわかりました。
上等兵が所属していたのは、山砲兵第19聯隊です。
上等兵の書いた10月の日記と、照らし合わせてみます。
「大塲鎮、という場所ですね。陥落の日、と書いてありますが、こちらの資料にも、大塲鎮粉砕し、というふうに書かれています」
日記と公式な記録は、符合しています。
ただ、この部隊の12月以降の報告書は、ここでは見つけることができませんでした。
「この先の、南京に行った時の分が無いんだな」
プツリと消えた、聯隊の公式記録。
しかし、別の資料が、日記を裏打ちしていました。
これは、従軍していた新聞社のカメラマンが撮影した、65聯隊が捕虜にした、中国人の写真です。
これを報じた新聞によれば、捕虜の数は、一万四千七百七十七人。
翌日の報道では、『大漁鮨詰め』と表現した上で、
『弱ったのは食事で、これだけの人間に食わせるだけでも大変だ。茶碗を1万5千個も集めることは、到底不可能』
などと、苦労話が書かれていました。
捕虜のその後をとらえた、一枚の写真があります。(歩兵第65聯隊の兵士が所有)
欄外には、『幕府山の捕虜』
この写真は、福島の65聯隊の日本兵が、所有していたものです。
着剣した銃を担ぐ日本兵の隣には、後ろ手に縛られ、防寒着を着た捕虜も写っています。
裸足の足元には、冬の西日が、長く影を伸ばしています。
12月16日、捕虜は、揚子江西の、中国軍の海軍施設へ連行されたといいます。
当時、日本軍が使っていた機関銃です。
その引き金を引いたという兵士の、音声が残っていました。
歩兵第65聯隊・元第三機関銃隊兵士(1990年収録):
「この方(捕虜)を“お客さん”て言うんだよね。
『今晩はお客さんが来て、お客さんを処理するんだ』と。
そして、“ピー“という呼び子の、将校の呼び子の合図で、一斉射撃。
ダダダダダダダダと始まる』
暗闇に響く、銃殺の合図。
“ピー“
処刑はこの日だけで終わらなかった、といいます。
翌17日、現場は、揚子江の別の河川敷。
これは、65隊の伍長が、後日スケッチしたものです。
河原に集められた捕虜を、日本兵の機関銃が、半円形に囲んでいます。
同じ現場に居たという、別の兵士の証言。
歩兵第65聯隊・元第一大隊本部行李係二等兵(1994年):
「とにかく、1万も集めるっちゅうだから、相当広い砂原だったね。
有刺鉄線か何か、後ろ、周囲に張ったでなかったんかな、あれ」
機関銃隊に所属していた兵士は…。
歩兵第65聯隊・元第一機関銃隊二等兵(1994年):
「機関銃乗せて高くしてね、砂を積んでこう盛って、こうやって撃ったんだから。
5.6発撃ったんでも百、サブロクジュウハチ…200発ぐらい撃ったのかな、うん。
ダダダダダダダダと、一斉に死ぬんだからそりゃ」
二日間で、多くの捕虜の命が、奪われていったといいます。
何冊もの日記や証言から浮かび上がってきた、南京事件。
私たちは、現地取材のため、中国へ向かいました。
戦後、大きく発展を遂げた町、南京。
戦争の傷跡は、今はかなり少なくなったといいます。
市街の所々に残る城壁。
その一部に、痕跡がありました。
事件に関わる資料が展示されているという、(南京)虐殺記念館。
私たちは、館内の撮影を申し込んでいました。
ところが、一ヶ月の交渉の末、明確な理由が示されないまま、断られてしまったのです。
残されたのは、数少ない手がかりです。
・歩兵第65聯隊第二中隊伍長のスケッチ
スケッチに描かれた、捕虜の銃殺場面。
あの、鮨詰にされた捕虜収容所から、捕虜たちはいったい、どこに連れて行かれたのでしょうか。
スケッチには、捕虜収容所から、揚子江へ連行する経路が描かれていました。
ある兵士は “幕府山を右にまわり1時間ちょっと” と証言しています。
手前に描かれている細長い山が、幕府山です。
当時の日本軍の地図には、幕府山には、中国軍の砲台が記載してあります。
私たちは幕府山へ。
探してみると、山頂付近に、中国軍の砲台跡が残されていました。
眼下には揚子江。そして中洲が見えます。
伍長の書いたスケッチと、ほぼ一致していました。
スケッチに描かれた場所は、この辺りと推定できます。
そして、その前日の16日の銃殺が行われたという海軍施設は、少し上流の、この辺りでした。
*文字制限のため、次の記事に続きます→
ビデオをここに転載することができませんので、重要だと思われる場面を切り取りました。
なので、とても長い記事になると思います。
けれども、わたしたちが知らずにいてはいけない事実が、このビデオの中にたくさん存在しています。
どうか、時間を見つけて、目を通してください。
↓以下、文字起こしはじめ
南京事件 兵士たちの遺言/NNNドキュメント
http://www.at-douga.com/?p=14681
中国を貫く大河長江。
下流域では、揚子江とも呼ばれています。
岸辺に寄り添う町の一つが南京です。
揚子江に近いいくつかの場所に、慰霊碑が建てられています。
今から78年前の、日中戦争当時の、悲惨な出来事を伝えるためです。
『南京虐殺』『南京事件』などと呼ばれるこの事件は、1937年12月以降、日本軍が行ったとされる中国人への残虐行為です。
中国側は、犠牲になった人の総数を、30万人以上と主張しています。
戦後日本で行われた東京裁判では、20万人以上が犠牲になったとされ、
松井石根元陸軍大将が死刑になりました。
以後、犠牲者の数については、多様な意見が飛び交います。
日本では、数万人や20万人など、議論にもなってきました。
近年、ネット上などにおいては、「あれは虐殺ではない」、
または、「抗議そのものが無かった」、という声まで上がっています。
日本政府の見解は、
「非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは、否定できない」としつつ、
「被害者の具体的な人数については諸説あり」
「正しい数かを認定することは困難である」としています。
南京陥落。
当時、勇ましく伝えられた『南京攻略戦』。
しかし、日本国内では、残虐行為は伝えられていませんでした。
南京戦に参加した兵士は、
「南京で見たことは、決して口外するな」
公式な記録の多くは、終戦時に処分されたと言われています。
一枚の写真があります。
防寒着姿で倒れている多くの人々。
これは、南京陥落後の中国で、日本人が入手した写真といわれています。
はたして、南京で撮られたものでしょうか。
これば、南京戦に参加した、ある兵士が書き綴った日記です。
『捕虜セし支那兵ノ一部五千名余、揚子江ノ沿岸ニ連レ出し、機関銃ヲ以テ射殺ス』
『年寄も居レバ子供モ居ル。一人残ラズ殺ス』
それは、加害者側の告白でした。
この日記を書いた元日本兵は、
「何万という捕虜を殺したのはこれ、間違えねえ。
俺は生きて帰って、しゃべって、それから死にてえなと思って 」
兵士たちの遺言と、残された日記が伝えるものとは。
多くの部隊が手柄を競った、南京攻略戦。
その中の、ある部隊の記録を遡ります。
南京事件を長く調査している人がいます。
福島県出身の小野賢二さん(66)。
小野さんは、地元である福島県から、南京攻略戦に参加した部隊があることを知り、興味をもって調べ始め、すでに27年が経ちました。
「福島県会津若松にあった歩兵第65聯隊という、その人たちの証言を聞いて、証言を聞いた上でまあ、証拠としての日記を中心に集めてきたという、それを延々とやってきただけですね」
「俺が証言を聞き始めた頃は、ちょうどみんな80歳以上ですからね。
だから(あうな?)見解があったんですけど、一応その中でも200人、には一応、なんらかのかたちで、あの…話は聞きました」
「そのみんな、亡くなったんじゃないですか。もう100歳以上ですからね、生きてても」
「一応用意したんで。これはひ孫のおもちゃ箱から出てきたもの、陣中日記ですね」
兵士たちが綴った戦の記録。
小野さんは、元兵士たちの家に何度も通った、と言います。
集めた日記は、コピーを含めると31冊。
そこに書かれていたのは…。
「これは本人からもらった、譲ってもらった」
「支那事変日記帳」と書かれてますねえ。これはわりと、戦後貼ったんでしょうかね」
古めかしい革張りの表紙に、年季の入った赤い背。
昭和12年9月から、南京が陥落するまでの3ヶ月間、ほぼ毎日書かれています。
今から19年前に亡くなった、陸軍の上等兵の遺品です。
男性は山砲兵、歩兵第65聯隊と行動を共にしました。
日記には、ごく普通の農民だった男性が、身重の妻を残し、戦場へ向かう様子が記されていました。
『10月3日
午後6時頃、いよいよ上陸して、支那の土地を踏んだ。
空襲となり、我が優軍の打ち出す高射砲機関銃は、火花を散らし…、
これが本当の戦争かと思った』
上海などに上陸した上海派遣軍。
当初の作戦任務は、居住していた日本人の保護でした。
しかし…。
これは陸軍の命令書です。
軍部の判断で、当時中国の首都だった南京攻略を目指すのです。
日本を発って一ヶ月。
日記からは、次第に故郷の話題は消えていき、食べ物についての記述が増えていきます。
『11月4日、ひし(水草の種子)を採って食す者、落花生を掘りきりて煮る者などもある』
突然のことだった南京への転戦。
後方支援はほとんどありません。
『11月16日
食糧の補給は全然無く、支那人家屋より南京米、その他の物を徴発して、一命を繋ぎ前進す』
徴発とは、強制的に、民間人から物質を集めることをいいます。
そして、2ヶ月前まで、ごく普通の農民だった男性が、ついに、民間人に対して、銃口を向けたというのです。
『11月17日
ニャー(若い中国人女性と思われる)を一人連れてきたところ、我らの目を盗んで逃げたので、直ちに小銃を発射し、射殺してしまう』
『11月25日
実に戦争なんて面白い。
酒の好きな者、思う存分飲むことが出来る』
12月、日本軍は、南京に迫っていきます。
中心部は高い城壁で囲まれた、巨大な要塞です。
日本軍のとった作戦は、幾つもの部隊による、完全包囲作戦でした。
上等兵が所属していた山砲兵第19聯隊は、歩兵第65聯隊などと隊を組んで、揚子江沿いを遡って行きました。
この包囲作戦で、中国兵や多くの民間人が、揚子江を渡れずに取り残されました。
12月13日、ついに南京陥落。
その後、松井元陸軍大将の、入場式が行われました。
揚子江沿いを遡っていた上等兵たちの部隊は、武器を捨てて降伏してきた多くの中国兵を、捕虜にします。
『12月14日
途中、敗残兵を1800名以上捕虜にし、その他、たくさんの正規兵で、合計5000人の敗残兵を捕虜にした』
捕虜はその後も増えていき、1万人を超えていきます。
そして…
『12月16日
捕虜せし支那兵の一部五千名余、揚子江の沿岸に連れ出し、機関銃を以って射殺す。
その後、銃剣にて、思う存分に突き刺す。
自分も此の時ばかりと、30人も突き刺したことであろう。
山となって居る死人の上をあがって、突き刺す気持ちは、鬼をもひしがん(?)勇気が出て、力いっぱい突き刺したり。
ウーンウーンと呻く支那兵の声。
一人残らず殺す。
刀を借りて、首をも切ってみた』
投降した捕虜を殺害することは、國際法で禁じられていました。
調査をしてきた小野さんは、日記を書いた上等兵に、インタビューをしていました。
この映像は、今から21年前に撮影されたものです。
山砲兵第19聯隊・元上等兵:
「機関銃を持ってきて、バババーッと捕虜に向かって撃っちゃったんだ。
捕虜はそりゃあみんな死んだけれども、中には弾に当たんねえ兵隊がいっかもしんねえから、みんな着剣してその、死骸の上を突いて歩け」と。
ザッカザッカ突いて歩いた。
もうおそらく、そうだなあ、30人くらい突いたと思うが、うん。
何万という捕虜は殺したのはこれ、間違いねえ」
これは、同じ作戦に参加していた、別の兵士(歩兵第65聯隊・第八中隊少尉)の日記です。
『一万七千二十五名の三分の一を引き出し、射殺す』
さらに違う兵士(山砲兵第19聯隊・第八中隊伍長)の日記にも、
『揚子江畔にて銃殺』
歩兵第65聯隊(第四中隊少尉)の兵士の日記
小野さんが入手した日記や写しは、合わせて31冊。
その多くが、捕虜の銃殺に触れていたのです。
中にはこんな日記も。
「これは、16日の記述が消されてますね。インクだから消されちゃう」
「ああ、これ、12月15日まではあって、その後無い」
銃殺があったとされる16日だけが、消されて空白になっていました。
戦後になって、諸説飛び出した南京事件。
その根拠の多くは、戦後になって記された文書や証言でした。
一方、これらの日記は、戦場で書かれたもの、つまり、一次資料です。
上等兵の日記の記述に、不自然な点や矛盾が無いか、さらに調べてみることにしました。
日記によれば、上等兵は、ここ神戸港から、白馬山丸という船に乗って、上海に向かったと記されています。
港のそばにある資料館を訪ねました。
白馬山丸の記録が残されていました。
船は、民間からの徴用船でした。
最大時速は13.3ノット。一時間に、およそ15マイル進むことになります。
日記では、上海までは5日間かかっています。
上海までの直線距離は、およそ830マイル(約1336キロメートル)。
日記の記述と矛盾しないことがわかりました。
上海上陸後の足取りの確認は、できないのでしょうか。
防衛省の研究施設に、軍の公式な報告書が残されていることがわかりました。
上等兵が所属していたのは、山砲兵第19聯隊です。
上等兵の書いた10月の日記と、照らし合わせてみます。
「大塲鎮、という場所ですね。陥落の日、と書いてありますが、こちらの資料にも、大塲鎮粉砕し、というふうに書かれています」
日記と公式な記録は、符合しています。
ただ、この部隊の12月以降の報告書は、ここでは見つけることができませんでした。
「この先の、南京に行った時の分が無いんだな」
プツリと消えた、聯隊の公式記録。
しかし、別の資料が、日記を裏打ちしていました。
これは、従軍していた新聞社のカメラマンが撮影した、65聯隊が捕虜にした、中国人の写真です。
これを報じた新聞によれば、捕虜の数は、一万四千七百七十七人。
翌日の報道では、『大漁鮨詰め』と表現した上で、
『弱ったのは食事で、これだけの人間に食わせるだけでも大変だ。茶碗を1万5千個も集めることは、到底不可能』
などと、苦労話が書かれていました。
捕虜のその後をとらえた、一枚の写真があります。(歩兵第65聯隊の兵士が所有)
欄外には、『幕府山の捕虜』
この写真は、福島の65聯隊の日本兵が、所有していたものです。
着剣した銃を担ぐ日本兵の隣には、後ろ手に縛られ、防寒着を着た捕虜も写っています。
裸足の足元には、冬の西日が、長く影を伸ばしています。
12月16日、捕虜は、揚子江西の、中国軍の海軍施設へ連行されたといいます。
当時、日本軍が使っていた機関銃です。
その引き金を引いたという兵士の、音声が残っていました。
歩兵第65聯隊・元第三機関銃隊兵士(1990年収録):
「この方(捕虜)を“お客さん”て言うんだよね。
『今晩はお客さんが来て、お客さんを処理するんだ』と。
そして、“ピー“という呼び子の、将校の呼び子の合図で、一斉射撃。
ダダダダダダダダと始まる』
暗闇に響く、銃殺の合図。
“ピー“
処刑はこの日だけで終わらなかった、といいます。
翌17日、現場は、揚子江の別の河川敷。
これは、65隊の伍長が、後日スケッチしたものです。
河原に集められた捕虜を、日本兵の機関銃が、半円形に囲んでいます。
同じ現場に居たという、別の兵士の証言。
歩兵第65聯隊・元第一大隊本部行李係二等兵(1994年):
「とにかく、1万も集めるっちゅうだから、相当広い砂原だったね。
有刺鉄線か何か、後ろ、周囲に張ったでなかったんかな、あれ」
機関銃隊に所属していた兵士は…。
歩兵第65聯隊・元第一機関銃隊二等兵(1994年):
「機関銃乗せて高くしてね、砂を積んでこう盛って、こうやって撃ったんだから。
5.6発撃ったんでも百、サブロクジュウハチ…200発ぐらい撃ったのかな、うん。
ダダダダダダダダと、一斉に死ぬんだからそりゃ」
二日間で、多くの捕虜の命が、奪われていったといいます。
何冊もの日記や証言から浮かび上がってきた、南京事件。
私たちは、現地取材のため、中国へ向かいました。
戦後、大きく発展を遂げた町、南京。
戦争の傷跡は、今はかなり少なくなったといいます。
市街の所々に残る城壁。
その一部に、痕跡がありました。
事件に関わる資料が展示されているという、(南京)虐殺記念館。
私たちは、館内の撮影を申し込んでいました。
ところが、一ヶ月の交渉の末、明確な理由が示されないまま、断られてしまったのです。
残されたのは、数少ない手がかりです。
・歩兵第65聯隊第二中隊伍長のスケッチ
スケッチに描かれた、捕虜の銃殺場面。
あの、鮨詰にされた捕虜収容所から、捕虜たちはいったい、どこに連れて行かれたのでしょうか。
スケッチには、捕虜収容所から、揚子江へ連行する経路が描かれていました。
ある兵士は “幕府山を右にまわり1時間ちょっと” と証言しています。
手前に描かれている細長い山が、幕府山です。
当時の日本軍の地図には、幕府山には、中国軍の砲台が記載してあります。
私たちは幕府山へ。
探してみると、山頂付近に、中国軍の砲台跡が残されていました。
眼下には揚子江。そして中洲が見えます。
伍長の書いたスケッチと、ほぼ一致していました。
スケッチに描かれた場所は、この辺りと推定できます。
そして、その前日の16日の銃殺が行われたという海軍施設は、少し上流の、この辺りでした。
*文字制限のため、次の記事に続きます→
無かったことにできる人は、心をどこかに落としてしまったのではないかと思ったりさえします。
戦争が起こると必ずそこに、人殺しが発生します。だから戦争は世界から無くさねばならないことなのだと思います。それが、人として生きる上での義務だと思います。
大日本帝国軍が犯した数々の暴力について、わたしは全く学ばずに、教育の世界にもそういった記述も無いままに、大人になりました。
事実は事実として受け入れ、認め、反省し、二度と起こさないようしっかり考えないといけません。