井沢満ブログ

後進に伝えたい技術論もないわけではなく、「井沢満の脚本講座」をたまに、後はのんびりよしなしごとを綴って行きます。

神とは何か

2018年07月31日 | 日記

大仰なタイトルでいささか気恥ずかしいのだが、しかし他にタイトルが
見当たらなかった。

今回はたまに綴る、怪しげな領域の話なので
苦手な方はスルーされたい。

今、聖地シャスタ山に2ヶ月半こもって修行なさっている方に
私や私と接する人や持ち物、衣服に降る、あるいは「湧く」金粉に
ついてメールでうかがったら、幼い頃から私を見守っている
大天使ウリエルがそばに来た時という合図だ、というお答えだった。

ウリエルというのは、東洋人のセンサーに映じる時は
「弁財天」ですよね、と問うたら技芸サポートという意味でならそうであろうと。
しかし、その働きはウリエルのほうが広い、と。

神は光であり、波動であり形は本来ない存在であり
受け取る人間の地域性や知識により感知する姿が
異なる、という私の以前からの説もその通りだと
お答えを頂いた。

となれば、不動明王が大天使ミカエルと同質である、という
論は成立する。その方も肯定していらしたし、私も以前から
そう感じていた。

たとえば宇宙の根本神としての大日如来が日本ではアマテラスとなり、
エジプトではラー、ヒンドゥーではヴィシュヌ、中国では義和、
北欧ではソールであった、という思考も出来るとつい最近まで
思っていた。

しかしラー他は、おそらく太陽そのものへの信仰であり、
しかしながら大日如来やアマテラスは、「太陽に表象されるところの」
ある人智を超えたあるエネルギーの総体ではなかろうか、ところの
現在では考え方を進めている。

そして大日如来、アマテラスと原語で規定したところから
すでに神という本来は遍く存在への制約が始まるのではないか、と。
アマテラスと称したところから、日本という地域限定の
神になるのではなかろうかというのが、現在の私の
思考である。

そして時代は地域限定の神から、もっと地球規模の神となり、
それは地上の神を突き抜け、いよいよ根本神(SOMETHING GREAT)への
認識を人類は歩み始めるのではなかろうか、と。

神々という名の複数の神は、根本神の分波のごときものであろうと
私は解釈している。光の雫、といっても良い。

話が私の手には余るサイズになったので、元に戻す。

神とは本来不定形の光(高い波動)であるので、大日如来は
必要に応じ、不動明王となるわけである。
密教に於いては、不動明王は大日如来の化身であると
説かれる。この融通無碍の感性で捉える神は、
現在地球上の我々の規定を遥かに超え、飛翔する。

西欧の人々の感性のスクリーンに映る大天使ガブリエルは、
東洋人の感性では観音に近いであろう。だが、ミカエルと不動明王ほどの
近似値性はない。ミカエルと不動明王は画家がそのインスピレーションで
描く時その手に剣を持っている。だがミカエルは剣ではなく
炎が燃え立つ松明であることもある。普通は炎の色だが
私が感知するのは、なぜだか鮮やかな紫だ。

大日如来とて、固定化された形で存在するわけではなく、たとえば
密教の金剛界と胎蔵界では、その結ぶ印を異にする。

わが内なる神がいずれその鞏固な定形を失い、融通無碍の光となった時
人は本来の神と対面するのかもしれない。

 

補遺 私と金粉を共有してから後、お一人でいる時も金粉が現れる
お方もいるかと思いますが、その時はウリエル(名前は何とでも。高次元の
存在)に、何のメッセージを伝えに現れたのか、それとも
単なる祝意なのかを問うてみてください。

ただ、かそけき風のごときメッセージなので、胸が波立っている時は
感知できません。

 

かそけき=幽き 儚い、夢幻の、たまゆらの

 

誤変換他、後ほど。

 

 


「木陰」を連れて歩く

2018年07月30日 | 日記

男の日傘がまだ使用者がレアで、いくらか肩身が狭いのですが
テレビ番組で見たところでは、携帯傘として男物の日傘が
売り場に並んでいるようで、やっと業界が腰を
上げたのかと思います。

私が持っているのは表がメタリックシルバーで
日光を跳ね返し、裏地が黒で熱気を吸収と
理に叶っているのかもしれません。

確実に病院へ搬送の救急患者が急増、死者が出る東京五輪対策として
「木を植える」というものまであり、その無邪気さに
思わず笑ったのですが、しかし都民として緑が一本でも
増えることは歓迎です。

植樹で木陰を作るのはいいのですが、その木陰にずっと
いなければなりません。
完全仕様の日傘なら緑陰を持ち運ぶようなもので、
もし傘内部から冷たいミストが降り注ぐような仕掛けがあれば最高です。

東京都は、とんでもない虚偽の発信で五輪招致をしたお詫びの印に(加担した
国もですが)日傘を配ってはどうでしょうか。

莫大な費用がかかるかもしれませんが、一人でも患者と死者を
減らす努力をすべきです。病院が満杯で、あぶれる患者も
想定されます。そんな事態になっては日本の評判と信用が
地に堕ちます。

東京の景観にそぐわないデザインの競技場に、大金を
棄てて平然としている五輪委なのだから金のなる木を
どこかに持っているのでしょうよ。

どこからかお得意の裏技で通達して、五輪見物客に配る
万全の日傘を作製、配ってくださいよ。どうせ五輪誘致にも
裏からお金を渡したでしょうに? 仏紙が疑惑を報じていたと思います。

 

誤変換他、後ほど。

 


日本人よ、言われっぱなしにしてはならない 通州事件

2018年07月29日 | 歴史・政治

本日は、中国で起こった日本人への残虐極まりない通州事件が
起こった日です。

南京大虐殺の慰安婦のと、ありもしないことを言われっぱなしでも
日本は、自らがやられたことを世界に言おうとしません。

それは、よくないことです。

女性の読者もいらっしゃるので、つまびらかには記しませんが
たとえば・・・・

控えめにしても、残虐なので苦手な人は読まないほうがいいです。
私は個人的には、日本人なら目を背けてはならないことだと
思っていますが・・・・。

処女を犯そうとしてしかし未通の性器は
固く、3人の学生が両足を押し広げ保安隊の銃でこじ開けられた上、
性器を切り取られました。それを中国人たちが黙って見ていました。

娘をかぼうとしたお父さんは、すでに殺されいています。
娘さんも最後は首を切り落とされ、その首はお父さんの
死骸のそばへ投げられました。

通州事件については画像も数枚拾えますが、控えます。

この逸話で十分でしょう。

通州事件は関心があれば、調べてください。

通州事件(つうしゅうじけん)

日中戦争(支那事変・北支事変)初期の1937年(昭和12年)7月29日に中国陥落区の通州現:北京市通州区)において中国人部隊が、日本人居留民を襲撃・殺害した事件。200人以上の邦人が性的、猟奇的に残虐ななぶり殺しにされた。

昔・・・の話ではありません。中国によるチベット人惨殺は現代です。
私達がどう国と、わが子の命を守るか、国防を考える日として
通州事件の日を「国防の日」として定めて欲しいのです。

中国は大騒ぎするでしょうが、私達は戦後73間やられ放題、いわれ放題なのです。
というのは感情的意見ですが、せめて本日を私達は国防を考える日として心に刻み、被害者の同胞に心を寄せる日としたいのです。

犠牲者の方々に、30秒でいいのでどうぞ、私と共に黙祷をお願いできたら・・・と
思います・・・・。光で包むイメージで。

 

誤変換他、後ほど。


歌で学ぶ言葉

2018年07月28日 | 日本語

なにかのきっかけで、「雨に咲く花」という昔流行った歌を思い出し、
青江三奈さんや美空ひばりさん・・・など他の人達がカバー
した歌を聴きそれぞれが作曲家と作詞家の提示した世界観を
歌うのが興味深かったのですが、途中で歌詞が一箇所
人により違っているのに気づき・・・・
調べたら、とっくに話題になったことがあるのですね。

「窓に涙のセレナーデ」

「空に涙のセレナーデ」

で窓と空、一語ですが文字数の少ない歌詞の世界では
深みと情緒が、がらりと違うのです。

私は「窓」が正解だと思っています。

最初に出たレコードが「空」と歌っているので空だ、と結論づけする
人がいて、それがシンプルな答えかというといささかレコーディングの
現場を知っている立場で言わせて頂くと、その時の作詞家と
ディレクター、そして歌い手との力関係によるのですが、
井上ひろしさんが当時それほどの力を持っていたわけではないので、
ディレクターがここは「空」だとして、ひょいっと変えた
可能性があるのです。

想像の範疇でしかないので、これが事実かどうかは解りませんが
とりあえず、たまの作詞家としての私の感性から言わせていただけるなら
絶対に窓なのです。

というのは作詞家の生理として、意図的に用いる場合以外は
一曲中に同じ単語を重ねることは避けます。

「雨に咲く花」では「呼んでみたとて 遠い空」と
2コーラス目ですでに使われているので、3コーラス目で「空に涙のセレナーデ」
と「空」を重ねることは、作詞家の生理としてまずありません。

それに、「空に涙の セレナーデ」では、単に雨を表現しているだけで
タイトルで提示された雨を単純にリピートしているに過ぎません。
それに遠近法で言えば、空と空では幅がないのです。
「窓」と視線を下ろしたことで、窓を流れる水滴、かすかな雨音と
音までが添い、硝子に微かに映るこの歌のヒロイン、と情景が広がるのです。
空二つでは、ヒロインが空ばかり見上げて動きも単一です。
優れた作詞はカメラアングルを変えます。

1コーラス目がヒロインの心象風景

2コーラス目がヒロインが雨の戸外にいて、雨に打たれている花を見る

3そして室内でむせぶ

と、心の内側 ⇒ 雨降る戸外 ⇒ 室内 と構成もきれいです。

私のこの説が正しいという根拠はありません。ただ、一語でも
解釈がこうも違うということを述べてみたかったのです。

「空」をいつしか「窓」と歌い変えている歌手がいることが
私の説のいささか補強になるかもしれません。

作詞家が後から申し入れたのか、歌い手かディレクターの
感性で変更したのか、興味のある所ですが真相は解りません。
ただ「空」でしっくり納得できない人たちがいたことは
事実です。

八代亜紀さん、高橋真梨子 さん(したたるように色っぽい)、来生たかおさんの「雨に咲く花」を聴いてみましたが、八代さん、高橋さんが「窓」派でした。
台湾バージョンの歌手も字幕によると「窓」です。

それと「わたし」と歌うか「あたし」とするかでヒロイン像が微妙に変わります。
八代さんが「あたし」でした。皆さん当然だがうまい。
来生さんも女性歌手とは違う味わい。井上ひろしさんは男女の中間みたいな
歌い方です。

ヒットチャートの二位に駆け上った「夜に抱かれて」をN.Yの
スタジオにいた久保田利伸くんと電話で話し合っているとき
彼がどうしてもピッタリと来ない歌詞の部分があったのですが、
私がひょいと思いついて「禁じられぬままで⚫⚫⚫⚫恋は」と
いうところ、⚫の部分に「届かない」と入れ替えたら、久保田くん、
「やりましたね!」と納得した、とそんな経緯がありました。
私自身もあるべき箇所に、あるべき言葉が収まった快感がありました。


 
「知りたくないの」の作詞家であるなかにし礼さんがお書きになっていて、
覚えているのですが「あなたの過去など知りたくないの」の「過去」が
歌の言葉として硬すぎる、と菅原洋一さんから意見が来たそうで、
どういうやり取りがあったかは知りませんが、当初の「過去」でいいのです。
この「過去」を他の言葉に置き換えたら、そもそも詞の世界観が
壊れます。

それに故意に、耳に抵抗感のある言葉を使うのも作詞家の芸のうちで、
「燃える思いをぶっつけたいの」と、これもなかにし礼さんが
書いていましたが、敢えて「ぶつけたいの」ではなく、それまで
歌には登場しなかった言葉「ぶっつけ」を用いたのだと。
聞き手の耳へのインパクトとして。

「知りたくないの」も、ぶっつけたいの(曲名失念)も、
大ヒットしたので、なかにしさんの読みのほうが正しかったわけです。

私は日本語を学ぶ方法として、文部省唱歌と大正・昭和の
歌謡曲の詞を渉猟するよう、薦めています。
いい言葉がたくさん、拾えます。

昨今は、詩であり得る詞が少なくなったように感じています。
「音」サウンド優先で、言葉が耳に残らない事が多いのです。
これは良いフレーズだな、と感心することもないではないのですが、
日本語としての深みと精錬度という意味では昭和です。

平成もじき御代が改まり、文字通り昭和はいよいよ遠くなります。
日本語がまだ生き残っていたのが、昭和でした。

 

補遺 ああ。私の感性で正しかったのかもしれません。井上ひろし版がオリジナルだと思いこんでいたのですがこの歌、昭和10年にすでに出来ていました。
そのまさしくオリジナル詞が「窓」になっていました。
それと実を言うと「あたし」は違うだろうと思っていたのですが、これも正解、
作詞者は「わたし」とひらがなで指定しています。

ただ八代さんは「あたし」で八代ワールドを歌い上げているので、それはそれで。

昭和10年の動画には、当事の世相も織り込まれていて独特です。

更に追記するなら、「空」派の来生さんが谷村新司さんと歌っている時は「窓」になっていました。実に面白い。自ら作詞を手がけ言葉に繊細なセンサーを持つ谷村さんの助言か?

しかし解ってみれば、作詞の言葉のチョイスが昭和初期です。

「及ばぬことと」「むせぶ」「儘になるなら」など。

映画の主題歌だったのですね・・・・・。ハモンドオルガンの哀切なメロディーが
後の「君の名は」につながります。(アニメではありません。取って替わられた印象ですが)

 

関種子-雨に咲く花、映画主題歌、昭和歌謡・カラオケ、オリジナル歌手、中国語の訳文&解說

 

 

誤変換他、後ほど。

 


足腰が要、鍛えよう!

2018年07月27日 | 健康美容

親しくしていただいている方が自宅で転ばれ額を数針縫う怪我、
それを機に足腰の衰えについて私も考えたのだが、

なんだかいやに、躓いたり転ぶなぁと自覚したのが
3年ほど前。こりゃいかんと、駅でもなるべく
階段を歩くなど工夫、つま先立ちで洗面するなどして
ずいぶん改善した、と油断した矢先にーーーー

コンビニでカフェオレを買って、深夜のことでひと目もないし
夜風に吹かれながら、と低い縁石に腰を下ろし機嫌よく
飲み終えて、すっくと立ち上がった、とそれはイメージの
中のことで、現実の私はあっという間によろけコンクリートの
壁に肘を打ち付けていたのだった。怪我はしていないが、
一瞬(あ、やっちまった)と思った。

以前、エスカレーターで後ろ向きに倒れる格好で
尻もちをついた話は書いたが、その時は睡眠不足の上に、
珍しく泥酔状態。

・・・・・だったから、と思っていたのだが、若い頃なら
いかに眠りが足りなかろうと、深酒をしようと無意識の
条件反射で、エスカレーターに尻をつくことはなかったろうと
思う。

怪我された方からは、絆創膏と薄いサングラスでバラエティに出た、と
メールを頂いたが、私のような裏方ではなく表に出る方なので
顔はおおごと。バラエティがナマ放送か録画か知らないけれど、
ご本人が当然番組中で語られるであろうから書いた。
室内で転倒され、鏡台に額を打ち付けられたそうで、いや
ご同輩(と言われるに値するご年齢の方々は)、足腰は普段から鍛錬して
おきましょうね。

 

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