井沢満ブログ

後進に伝えたい技術論もないわけではなく、「井沢満の脚本講座」をたまに、後はのんびりよしなしごとを綴って行きます。

しぶとく咲くか、潔く散るか

2018年06月30日 | 日記

今回のワールドカップは、オンタイムで追っているわけでもなく
観るとヤキモキするし・・・・後追いのニュースで観るだけなのですが、
「今、それどころ?」というのも、多少はあって。

国も人もダメにするようなリスキーな現実が熱狂の陰に隠れてしまうのもあり
東京五輪は歓迎していないのです。今から予想できるので、
本当に大事なニュースが、五輪のお祭り騒ぎの水面下になって
騒動去って我に返ったら、しらじらとした現実に直面するのが。
でも祭りというのは、本来憂さをつかの間忘れさせる効用があるのかもしれません。

日本のパス回しは観客席から罵声を浴びせられ、海外でも酷評の対ポーランド選でしたが、最初のわたくしの率直な感想も「いやだな」「みっともないな」でした。
日本人らしからぬ、潔くなさだと感じたのです。

ただ・・・・その後サッカーファンの人たちの擁護論や、何より西野朗監督の自嘲混じりのコメント、

「これは間違いなく他力の選択だったということで。ゲーム自体で負けている状況をキープしている自分というのも納得いかない。不本意な選択をしている。他力に頼っている」

「ただ、そういう状況だったので、自分の中になかったプランの選択を自分が選んだのは他力だった。自分の信条では納得できなかったですが、選手に遂行させました」

・・・・を聴くに及んで、苦渋の二択であったことを知り、今ではこれも作戦・・・・とは受け止めていますが、やはりわたくしは散っても、潔い武士であることを世界に観せたかった。日本人としての美学の欠如が心のどこかに澱になって沈んでいます。

さりながら次に勧めた駒の、見事な闘いの華があれば(仮に敗退しようと、そのガッツに)酷評も反転するのだろうし、もっとワールドカップの檜舞台で「日本を」観たいという人々の思いも解らぬでもありません。

「リスクが高すぎた選択だった」という人もいますが、西野監督の仕事師としての全身全霊を傾けた賭けであったのだろうし、賭け自体には勝ったのです。上げたり下げたりしていますが、わたくしも思い半ばなのです。

普段は中庸のいいコメントを出される方が海外からのバッシングに対して「西欧人は自分たちがサッカーの源だという優越感があるので、日本人のやり口が許せないのだ」という意味のことを述べていましたが、それは違うでしょう。
あのゆるいパス回しまでは、彼らは日本勢の活躍に瞠目、絶賛を惜しんではいなかったのだから。

それにしても「愛国心」を難しく述べ立てることもないので、日の丸を打ち振りながら、ニッポン!! と叫ぶその心が総てのベースです。理屈で解き明かせるものではないでしょう。

他国チームには人種混交の趣もありますが、日本人チームは誰も皆昔からのわたくしたちと先祖を分かち合う日本人、という言い方にきっと横槍を入れたくなる人もいるのでしょうが、わたくしはそのように感じています。

人生というものは、命の発火、一瞬のスパークの連続なのであり、それを凝縮したのがスポーツで、それゆえ人の心を捉えるのではないでしょうか。

最後に至って発火しなかったという点で、わたくしはまだ胸に多少わだかまりはありますが、しかし韓国の時に考えられないラフプレイを思えば、あなた方には言われたくない、とルール内では納めた日本をかばいたくもなるのです。

もっとも、韓国人も突出して反日を表明する人たちばかりを、マスコミが取り上げるので全員がそうであると思いがちですが、根拠のない過剰な反日本活動に冷静で批判的な眼差しを向けている人たちも多いのです。

しかしながら、帰国した韓国の選手団に物や卵を投げつけている画像を見ると「・・・・・」。日本では、批判したタレントのツイッターが炎上などして
ご本人が謝ったりなどしているようですが、卵をぶつけたわけじゃなし、
あのプレーを良しとしない人たちがいたってそれは個人それぞれの感性なのだから、
よろしいのではないのでしょうか。
応援している、好きだから、という点では同一線上にお互いいるのだから。
もし日本の選手が敗退して帰って来たからといって、卵を投げつける人は
いないでしょう?

勝敗はむろん大事な要素で、どうでもよいとは言いませんが、せっかく駒を進めたからには、見事な命の燃焼を見せて欲しいと願っています。日本人の心映え、心意気をこそ見たいのです。

それはそうと、東海大学の金 慶珠さんを最近テレビで見かけません。この方の油紙に火がついたようにペラペラと喋り倒して、空論を実に見せかけるあたかも反日国是の韓国政府のスポークスマンみたいなありようを好きではないので、見かけないのは精神衛生によろしいのですが。呉善花さんのごとき、朝鮮も日本もよく知る方にこそテレビには出ていただきたいのですが、公平であるから呼ばれないのか、呉さんが出演を避けていらっしゃるのか、母国のご家族への配慮もおありのように感じはしましたが。

サッカーから、話題が日韓問題に転じそうです。

 

誤変換他、後ほど。

 


90歳への道しるべ

2018年06月29日 | 映画

余り皆さんの興味はそそらなさそうな「君の名前で僕を呼んで」なのですが・・・
うっかり字幕なしのDVDを注文した怪我の功名で、2度観たのですが、
最初は英語のダイアローグを追うのに精一杯、しかし
2度目は原作で隙間を埋めたこともあり、細部の描写に気がついて
いよいよ、これは秀作だ、という思いを深くしたのでした。

宣伝文句に煽られてアメリカで大ヒットというのを、無邪気に信じ込んで
いたのですが、4月にはもう日本で封切られていて、それでも
私の耳に届かなかったのは、興行的にはさほどのことでも
なかったのかもしれません。観た作品やドラマのことを書くと
その作品を好きな人のコメントが来るのですが、今回は反応がゼロなところを
見ても。

と思えば、むしろ納得で・・・・テレビもそうですが、映画はとりわけ
質と量が一致しないことのほうが多いのです。多いというより、ほぼそうかも
しれません。いわゆる世界的大ヒット作で、質の高い作品に遭遇した
ことがありません。映画のほうが観客を選ぶたぐいの作品は、よくて
手堅い集客、普通は承知で単館上映などに腰を据えて創ります。

昨年度だったか? なんだかダンスする映画と、地味な「ムーンライト」が
アカデミー賞を競い合い、結局地味な「ムーンライト」が授賞したのだった、と
思いますが、観客を膨大に集めたのは男女がなんだか踊っている、
退屈もしないけど、さして深くもないダンス映画のほうでした。
映画もドラマも、無論好き嫌いで観ていいので、質がどうのというのは
気難しく映画にアートを求め、言いたい人間が言えばいいので。

それにしても、プロの訳の分かった人たちが「ムーンライト」に賞を
与え、「君の名前で僕を呼んで」は現時点で、各国の賞に
308もノミネートされ、授賞が92という目覚しさ。
創り手としては、人気の度合いはむろん嬉しいことだけれど、
創る者になってよかった、と心の底から思えるのは質で
評価されることです。

それにしても、嬉しい驚きが完璧に近い脚本を書いた
ジェームズ・アイヴォリーが、現在90歳ということです。

というのも、不肖わたくしが90歳まで実は書き抜こうと
思っているからです。なんだか、たまに作動する霊感で
自分の寿命を知っているのですが、長いのですよ。

まだ多少の時間はあるので、修行は出来るしいずれは
得心できる作品を書き上げることができるか、と
砂漠で蜃気楼を追うような日々です。

ジェームズ・アイヴォリーという90歳(書いていた時点はたぶん
89歳)が、あんな精緻なそしてみずみずしい感性のホンを
書いたということが、わたくしには道しるべです。

余談ですが、小説版の中で「エスパドリーユ」という単語があり
前後の脈絡から、おそらくぺったんこ靴だと
踏んだのですが、調べたらやはりそうでした。女性なら知っている
単語なのかもしれません。

若い研究者役のアーミー・ハマーが素敵に履きこなしていて、こういう
靴は、アキレス腱がシャープな人にしか似合わず、しかもアーミーは短パンで、
これも足がまっすぐで長い男にしかそぐわず、日本人には無理・・・
と思い込んでいたら、昨夜観た北野武監督の「ソナチネ」に、若いヤクザ役で
出ていた勝村政信さんが、足がまっすぐで結構似合っていて、靴がエスパドリーユで
あったかどうか、記憶にないのですが。ふーん、日本人にもいるんだ・・・・と
思ったのですが・・・・しかし、「君の名前でーーー」の後に虚無的な
北野バイオレンス映画を観ると、脳が撹拌されました。

奥山和由さん制作の自信作だ、とご本人がおっしゃったのですが、
「RAMPO」や「女殺し油の地獄」のような耽美的な映画をプロデユースなさったかと
思えば、無造作に人を殺す「ソナチネ」を送り出し・・・・面白い人だなあ、と
まだお付き合いのとば口ではありますが、興味の尽きない方です。

プロデューサーという職域に目配りが効くようになったのは、最近です。
書くのに精一杯で、直接接触することの多い演出家は身近なのでしたが。
この間のローマで、花火をぶち上げてくれたClaudioといい、奥山さんといい
優れたプロデューサーは、その言葉の最もいい意味に於いて腕利きの
「山師」です。

奥山さんは、くださったSMSで「RAMPO」について、「あの当時の確信犯的な『遊び』です」と書いてありました。
「所詮、映画、されど映画。出来ればなるべく危ない遊びをしたいと思ってます」

秋に封切りされる「熱狂宣言」に関しては「な~んにもものを考えない、現代の大衆に不埒な遊び相手を与える映画にしようと考えました」

 

遊びをせむとや生まれけむ  梁塵秘抄

 https://www.nekkyo-sengen-movie.com/

誤変換他、後ほど。

 

 


「君の名前で僕を呼んで」

2018年06月28日 | 映画

「日の名残り」の脚本家がアカデミー賞で脚色賞を得、
俳優他さまざまな賞を得たりノミネートされていて、
アメリカで大ヒットとか。(2018.4.10現在92受賞308ノミネート)
それに加え北イタリアの田舎と、この間訪れたばかりの
ローマが舞台だということで、何気なくAmazonから
取り寄せた映画が「Call me by your name」(君の名前で僕を呼んで)でした。

取り寄せたはいいが、字幕が広東語の選択があるのに
日本語字幕はなし。
イタリア語になったときだけ、英語の字幕が出る、という
難儀な見方をしたのですが、内容は解りました。

幸い、原作小説の翻訳版を合わせて求めていたので、
観終わった後、ついていけなかった箇所を小説版で
補強したのでした。それでも、ネットにある専門サイトで
予告編を観ただけで、とりこぼしたセリフがあります。

http://cmbyn-movie.jp/

 

4月27日(金)公開『君の名前で僕を呼んで』日本版本予告

 

以下、少し内容に触れるので観ようと思う人は
読まぬほうがよいと思うけれど。

1983年、北イタリアの果樹園に囲まれたヴィラで大学教授の父を持つ17歳の
少年は、
ガールフレンドもいて、それなりの経験を持つそういう意味では
普通の少年なのですが、その夏ヴィラを訪れたアメリカの
若い研究者の男に強く惹かれてしまうのです。

男は少年を冷たく避けながら、その実彼もひと目見たときから
少年に恋しているのですが、その感情に正直に
向かい合えず、二人の仲はぎくしゃくとします。

そして結ばれる・・・・という話の運びなのですが、
アメリカに戻った男から電話で、結婚すると聞き、
祝意を伝える少年なのですが、電話を切った後、
暖炉の前で泣く。ひと夏の終わりです。セリフもないまま、延々と少年の
さまざまな感情が交差する表情をカメラは映します。延々と。
そして画面から少年の姿が消えてからなお、暖炉の薪の爆ぜる音が
残っている。というごとき余韻の残る結びでした。
映画のこういう終わり方を観るのは初めてかもしれません。
集中度の低い、画面の小さなテレビでは使えない手法です。
(後述 調べたら少年の表情だけを移し続けるラストは3分30秒だそう。
それでも、飽きないのです)

「日の名残り」のベテラン脚本家ジェームズ・アイヴォリー(90歳)の
脚本ですが、原作の
末尾はごそっとカットして、しかし小説で描いた世界を
映像としてみずみずしく繊細に再現していて、鮮やかでした。

英国アカデミー賞 脚色賞および 第90回アカデミー賞 脚色賞 を初受賞、全米脚本家組合賞脚色賞、放送映画批評家協会賞脚色賞、サンフランシスコ映画批評家協会脚色賞、シカゴ映画批評家協会脚色賞、フロリダ映画批評家協会脚色賞、オースティン映画批評家協会脚色賞

小説はシノプシスにすれば、原稿用紙2枚もあれば
足る態度の展開なのですが、少年の繊細な心理を
呆れるくらい細やかに描写して、これは白人作家の
いい意味における執拗さで、学びたい点です。分野は
全く異なりますが、スティーブン・キングの、これでもか
と細部を描き尽くす作風を連想したのでした。

なぜ、男があれほど強く少年に恋しながら、間を置かず女性と結婚するのか、そこに疑問が残りましたが、おそらく彼は常識のほうを
選んだのだろうし、あるいはヘイターの父親を恐れたのかもしれないし、
またひと夏つかの間の恋が、永遠に続くものではないことを知っていたのかもしれません。

少年の両親は、少年と青年の恋に気づきながら
無言で見守っています。

父親のせりふが、原作でも映像でも図抜けて優れていました。

「炎があるなら吹き消すな。乱暴に扱うな」

「放っておけば自然に治るものを、もっと早く治すために心の一部を
むしり取ってしまえば、三十歳になる頃には心が空っぽになり、新しい相手と
関係を始めようとしても相手に与えられるものが何もないことになる」

「建前と本音。その中間にも多くの生き方がある。しかし本当の人生は
ひとつしかない。気がつけば心はくたびれ果て、体はいずれ誰も見てくれない」

(オークラ出版 マグノリアブックス アンドレ・アシマン著 高岡薫・訳)

示唆に富んだ言葉がもっと長くあるのですが、脚本家もやはりこの部分に
感応して、父親に延々と長台詞を言わせています。

 

『君の名前で僕を呼んで』インタビュー特別映像

 

映画への疑問はもう一つ、なぜ男性同士なのか、男女ではないのか、と
いうことでした。しかしながら、愛の本質を描くには世間一般の
誰もが受け入れる関係ではなく、一種の極限に二人を置くことを
作家は選んだのでしょう。

少年と青年がユダヤ人同士であるということが
キーだと思うのですが、ここは日本人である私には
実感では分かりづらい部分です。全く解らぬというほどではないのですが、
想像の域内です。同じ国内にいて「異邦人である」という民族意識を
日本人は持たず、おおむね周囲は同胞です。

映画に現れるローマが、旅行嫌いの私が当初はあれほどうんざりしていたローマが、
今は恋しく勝手なものです。美しい街です。
イタリア人の美意識は天性なのでしょう、田舎の建物の
一つ一つさえアートなのです。風雪に漆喰が剥げ落ち、レンガが露わになった
塀さえあたかも絵画。

日本の美意識は特有で卓越しているところもあるのですが、こと建物と
町並みに関しては美のかけらとてなく殺風景です。

イタリアの田舎で数日間を過ごすことは積年の夢ですが、
映画を観て、なおさらその思いが募りました。

ローマのホテルに日替わりで置かれるタオル地のスリッパです。
デザインがいいので、鞄に放り込んで来ました。

 

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雨に咲く花

2018年06月27日 | 日記

 

今朝、トーストに目玉焼き、ベーコンエッグという定番朝食がふいに欲しくなり
カフェに向かう道すがら、媚薬のように鼻孔をくすぐる香りがあり、
見れば白い陶器めく梔子(くちなし)です。

街路樹のかたわらに群れ咲いて、この花の香気は雨季を含んだ空気の中でこそ
引き立ちます。ジャスミンと並んで官能的な香りです。

ジャスミンは、香油も精製した後の香りの残るジャスミンウォーターも
持っていますが、梔子のそれはありません。
以前インド産の香油を手に入れましたが、梔子とは似ても似つかぬ匂い。
雨のあわいに、つかの間開く花の香気と思えば余計に香りが貴重です。

花は香りで存在を訴えかけてくれますが、月もひょっとしたら
「気配」で語りかけてくるようで、夜道を歩いていて
ふと見上げたらほぼまんまるな月で、調べたら満月は明日ですが、
しばし足を止め、見上げていました。

「雨月(うげつ)」というのは、名月が雨に隠れて見えぬさまを
言いますが、見えない月にまで名を与える日本人の心映えを
ゆかしく感じます。

「雨に咲く花」は井上ひろしという歌い手さんが歌い、往時ヒットした
曲名ですが、その歌詞の一節に、

およばぬことと あきらめました

とあり、自分の身の丈に合わぬ高嶺のお方に懸想した切ない
恋心を当時の人々は「及ばぬ」と慎ましく表現し、
しかしこの言葉も今は廃れつつあるでしょうか。

歌は、

ままになるなら、いまいちど

ひと目だけでも逢いたいの、で結ばれますが
「ままになる」「ままにならない」も、使わなくなりつつあるのかも
しれません。

あめにうたれて さいている はなが わたしの 恋かしら。

何番目かの歌詞の結びです。

文中の「懸想」は「けそう・けしょう」と読み、恋い慕うという意味です。
そういえば・・・・昭和も初期の日本映画のせりふには
「お慕い申し上げております」などという、これもつつましい
恋心の表白がありました。

と書きつつ、ふとまた思い出したのですが高校生の頃、通りかかった
体育館の裏手で、井上ひろしさんに遭遇しました。
当時はコンサートが体育館で行われていました。楽屋がないので、通路代わりに
体育館の裏手を移動していたのでしょう。
高度成長期にあったか、差し掛かっていたか、という時でしたがまだ
国民は経済的には豊かとは言えない時代です。でも情調はまだたっぷりと、
日本人の心にありました。

中学生の頃、川口浩さんのコンサートは体育館の水を抜いたプールの底に
ござか何かを敷いて客席にし、行われたのでした。川口さんは
不良っぽい坊っちゃんのイメージで、市川崑監督、岸恵子さん主演の「おとうと」での
役柄はそのまま、うってつけでした。

井上ひろしさんの、舞台化粧が当時は男の化粧は珍しく記憶に残っています。
首をちょっと傾げながら片腕をたわめ、優美なしぐさの人でした。

井上さんは44歳で、川口さんは55歳でこの世を去り、花だけは
雨の中に馥郁と蘇り咲き続けています。

 

 

 

 

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「うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと」

2018年06月26日 | 映画

表題は、江戸川乱歩が好んで色紙に記していた言葉で
端的に乱歩ワールドを表しているかと思います。

昨夜、奥山和由版「RAMPO」を観て、たけし映画(「ソナチネ」)に見る
暴力性のかたわらに、こんな耽美を裡に隠し持って
いらっしゃるのかと、いよいよ奥山さんという
お付き合い初めの方に興味をそそられたのでした。
また、まかせた監督の作品が気に食わないと、自ら
撮り直す気迫とやんちゃぶりも好もしく。
同じ台本に拠る違う監督の二作が同時上映され、
それも話題を呼んでヒットとなったようなので、
かたわら、プロデューサーとしての計算もあったのかなぁと下衆の勘繰りを
したりもしていますが、面白い。
自作版の上映時は、香水を館内に漂わせたそうで、嬉しさに絶句
します。

本木雅弘くんと羽田美智子さんが、特筆すべき美しさです。

夜の夢の中で息し続けられればよいけれど、目が覚めれば
しらじらとした現実。乱歩というひとは、しかし人の数倍
夜の時間が長い、至福の人であったかと思われます。
ふと、泉鏡花を思い出したりもするのですが。

美に耽る映画が払底しています。そういえば、可愛がって頂いた
鈴木清順先生も、美学に殉じる方でした。

 

誤変換、他の地ほど。