コメント欄に頂いたコメントにお答えしようとしたら、長くなりそうなので
記事で書くことにした。といって、皇室は踏み込めば膨大。
駆け足でさらっとお答えするにとどめる。
皇室に関してご主人と考え方が異なるという方からで、ご主人は
「旧弊なものは改めるべき」というお考えだそうで、その点が筆者の方と
違う、と。
ご主人のおっしゃる旧弊が何を指すのか判然とせぬが、おそらく
「伝統」か伝統に準ずるものであろうかと思われる。
結論から申せば、皇室から旧弊という名の伝統の要素を抜き取ったとたんに
皇室は瓦解に向かう。不要論へとつながる。
皇室の存在意義raison d'etreとはなにか。
一に祭祀、ニに祭祀、三四が祭祀で五が伝統。国事行為やいわゆる公務は
付加的なものでしかなく、それがなければ皇室が瓦解するというものではない。
そもそも、神武天皇という「神話」を発端として皇室はあり、この神話を共有するところから
日本の皇室は存在する。神話は信じてもよいし、信じたふりでもよい。
共有さえするならば。神話というフィクションをドキュメントとするために
神武天皇陵はあると考えるか、実在だからこそ陵(みささぎ)はあると
考えてもよい。あるいは実在だが、神話性は後世に付与されたものである、しかし
信じたふりをしていよう、というのでもよい。
共産国を束ねるのが共産思想なら、中韓の国体を束ねるのが反日思想、
アメリカをまとめるのは、世界の警察としての大国という誇りないしは自惚れ、自由という
「概念」であろう。国家を形成するには束ねる力が要る。
日本という扇の要は常に天皇陛下であった。
「制度」としての天皇制を善用も悪用するのは民のほうであり、天皇は天皇でしかない。
受け取りての問題であろう。
神話は合理性の対極にある。
祭祀の必要性の有無は、神を感知する能力の有無に関わることなので、
感知能力の無い者には、無意味な呪術でしかなくそもそも論じる資格はない。
神界はある、と見え聞こえする者が祭祀を云々する資格があるが、しかし
資格あらばそもそも、祭祀の必要性の有無を論じること自体が烏滸の沙汰(論外)であろう。
神を感知する能力は本来誰にもある。日本の古代人は皆有していた。西欧流二元論と
プラグマティズム(実質主義)に浸らされて見失っているだけである。
そもそも神の出現し給うのは、合理主義の庭ではなく非合理の庭であり、
神そのものが西欧合理主義に相対する存在である。
神をいささかでも体感したければ伊勢神宮に行くと良い。玉砂利を踏んで歩むにつけ
神の息吹を感じる。もし日本人なら。外つ国(とつくに)の人であれ、感受性鋭敏に、
心直き人であるなら、感受する。
西欧がその価値観において行き詰まっているのは、神と人、物と精神、自然と人間というごとき対立概念による行き詰まりであり、神と人、自然と神と一体化で考えるというよりは、
自然に体得していた大和民族の感受性が神道を生み出し、というより発見し、
その神道の最大の祭主が天皇陛下である。
天皇陛下の別名は、日本最大の神官であり、祭祀王であり、皇居は最大の神社、日本の中の巨大な結界である。
皇居という名の結界の中には、更に神域があり、いまだ衣冠束帯や十二単におすべらかしの神官や巫女たちが古代より連綿と燃え続ける神の火を守り神事を明け暮れ行う。
天皇陛下も相当数の神事を年間こなされ、表に見えるいわゆる国事行為や
公務は祭祀の膨大さに比べれば一端に過ぎぬ。
旧弊というなら皇居内の神域に住まう神官や巫女たちで、たとえば巫女は
歯を痛くして宮内庁病院に行くために、神域をいったん離れたら、改めて
身を清め、おすべらかしを新たに結い神事に戻る。
旧弊というなら、これに尽きるので、しかしこれを否定し去れば神道の儀式そのものが
崩れ去る。儀式というものは、神と向かい合う所から、自ずと編み出されていった
「必然性」なのであり、「形」を守ることで中身を代々引き継ぐものが感得するというべきものである。神への敬意の凝ったものが祭祀の手順であり決まり事といってもよい。
これらは全て旧弊の衣をまとう。
皇居内の旧弊と見えるものは、実に全ては祭祀に行き着くのであり、これを
否定し去れば皇室は崩れ不要になる。海外に向けてはもっと効率のいい
「機関」を設置、それこそ国連大使日本版のような、見目麗しくIQの高い男女を
その都度選出すればよろしい。何も東京の真ん中に大きく敷地を取って
何かを守ることもない。神域を置くこともない。
十二単や衣冠束帯の重みは、即ち伝統の重みであり、さればこそ世界は瞠目し、ひれ伏す。実際に世界は息を呑みひれ伏したのが今上の即位の礼であった。
[1/4]【今上天皇御即位】正殿の儀Celebration parade His Majesty the Emperor
皇太子が天皇に皇太子妃が皇后に即位する時の即位の礼が、皇室のまた日本の最大の
神事であるが、その荘厳さのよってきたるものは、伝統の深みに尽きる。伝統はその都度の必然性から編み上げられてきたものであり、さかしらげな合理主義で簡便に変更のきくしろものではない。
男子一系というシステムも、旧弊の範疇に属するのであろうが、しかしながら
世界の歴史の栄枯盛衰の中で、天照大御神という神の子孫であるという「神話」による男子一系を守りぬいて2673年続いている「家」は無く、それゆえにこそ世界の稀種であり、貴種としての尊崇を得る。男系であるからこそ神の系譜であるという自負心であろうか。
神武天皇を初代として始まる一家の存在を
信じるか信じないかそれはどちらでもよい。信じるか、信じたふりをする、それが
「様式」ということなのであり、様式は「約束事」でありそれが伝説を守り、伝説を更に
守るのが皇統である。男子一系は神を先祖として仰ぐ世界で唯一の家である
皇室の約束事なのである。
神事に基本的に女性は向かぬ。差別的見地ではなく、生理、妊娠、出産と
祭祀に安定性を欠くからである。むろん、神を感知する能力そのものは概ね
女性のほうが秀でているし、祭祀の柱は男子にあるが、女性側の祭祀も
ある。
衣冠束帯と十二単を旧弊であるからとして排除するとする。すると神事における
お手ふり(所作)とリズム感が、ことごとく狂ってくる、というのは判るだろうか。
というのは衣装もまた必然なのである。それは洋の東西を問わぬ。
カトリックにおける儀式を見れば判る。魂を見失えば儀式も形骸化するが、
それは別問題。
皇室における旧弊の最たるものが神事であるが、それを排除すればそもそも
皇室が不要になる。なぜなら皇居内の一見旧弊と見えるものは
全て神事に行き着き、神事に端を発するものなのである。
神は非合理の中にこそ住まわれるのである。それゆえ天皇を継ぐべき
長子は人としてより神候補として育て上げるべきなのだ。
非人間的である。だから戸籍はない。人格もない。その代償として
莫大な特権と富があがなわれる。運命である。逃れたいなら
道がないわけでもなかろう。
天皇は国家と民にかかりくる、あらゆる災厄を我が身を通せと祈る者。
実際新年の四方拝ではそれが祈りの中心である。
西欧合理主義はとうに行き詰まったまま21世紀を世界は迎え、行き詰まりはいまだ
打破されてはいない。日本の神道イズムの中にこそその回答があると私は
思っている。そして、その神道の最大の祭主が天皇である。
祭祀を疎かになさるなら、言葉を変えれば旧弊を保つ覚悟がなければ、
その方たちはもはや皇室の継承者ではないだろう。
非合理を愚直に守り重んじる者の前にこそ、神は姿を顕される。
さかしらげな人間の科学も文明も、宇宙の森羅万象を司る存在から見れば
芥子粒に過ぎぬ。
まとめてみる。
宮中で明け暮れ神事に仕える巫女は、おすべらかしに近い髪をしていて
洗髪に二時間かかるやに漏れ聞く。結うにもおおごと。
また神事に使う忌火は、御火鑚具(みひきりぐ)を使用。
ヒノキの板にヤマビワ製の心棒を摩擦して発火させるのであるが、
この「発火の儀式」に権祢宜(ごんねぎ)の職の者が、前夜から
参籠斎戒(さんろうさいかい)してきりだす。
これを「旧弊」として簡素化するか? というのが命題であろう。
髪は短髪、シャンプー3分に切り詰め、火に至ってはライターで一瞬である。
しかし、それでよいのか?
膨大にかかる時間の中で、人は神へと心を集中し練り上げていき、そこに
神が感応するのだという考え方もあるのではないか。
儀式というものは、人のしどけない心を粛然と人間以上の存在に
向かわせるためにある。
皇居内のあれこれ「旧弊」とされるものの中にこそ、日本の神が
息づく、という言い方を解って頂けるだろうか。それを理解せぬ者は
皇室の暮らしに適応叶わぬ。
思う所あらまし述べてみたが、個人的世迷い言に過ぎぬかもしれぬ。
それに、神を感受する能力などと偉そうに書いたが、さしたる
感受性ではない。多少「見聞き」することもあった、という程度の
微弱なものである。この程度の霊感、人の役にも立たぬのになんで
半端にあるのだろうと自嘲したこともあるけれど、高次元や、天使といった
存在を概念でなくぼんやりとでも「知っている」ということで、その分
神事への理解は早いかもしれない。
表題に2とナンバーを振ったのは過去に一度同じタイトルで文章を書いていたからだ。
皇室とは何か・・・・・
http://blog.goo.ne.jp/mannizawa/e/48146c0e5cdfb20238a4dc8b4e4b0324
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/96/6110083bf2d78de2168b7cbe526ceedd.jpg)