井沢満ブログ

後進に伝えたい技術論もないわけではなく、「井沢満の脚本講座」をたまに、後はのんびりよしなしごとを綴って行きます。

ミニシナリオ講座 小雨の銀座で

2017年08月02日 | 井沢満の脚本講座

お世話になったプロデューサーの、シナリオ学校での生徒さんが
ある新人賞を取ったというので、作品を読んでみました。

電話であらまし、感想はプロデューサー氏宛にはお伝えしたのですが、
ご本人に直接会ってお伝えしましょうか?

と言ったのは、そのプロデューサー氏の教え子なら、とプロデューサー氏への
恩返しの一端でありました。多大にお世話になった方で、NHK育ちの私を
民放に引っ張ってくださり、「外科医 有森冴子」シリーズを実現化してくださった
方です。

というわけで、雨催いの銀座に出かけたら、某局の街頭インタビューの網にひっかかり、割に知っているジャンルのことだったので述べてきましたが、頭の中でここ使われる、あ、ここカットだな、ここは放送コードに触れる、とか計算しながら喋るので、妙に場馴れしてるなと、思われたかもしれません。職業は訊かれなかったので。カメラマン、ディレクター、インタビュアー含めて感じのいい人たちでした。自分が受けてみると全ての街頭インタビューが、やらせってわけでもないのですね。

銀座には早く着きすぎたので、インタビューで時間が潰せて幸いでした。

プロデューサー氏と、その教え子さんとお会いしたのは和光別館2階のカフェです。教え子さんの当選作シナリオが掲載された雑誌を広げつつ、具体的に指摘していったのですが頭と勘のいい女性で、飲み込みが早くミニ講義も楽でした。
セリフとト書きの基礎は出来ているし、あとは《視点》《切り口》《表現方法》です。

テレビと映画の脚本、小説、戯曲、コミック原作、作詞、エッセーと手がけているのでいろんな分野から例を引いてお伝えできるので、解りやすいようで「教室で学んで、分からなかった単なる“説明”と“描写”の違いが、今回明確になりました」と言って頂けたので何より、お役に立ててよかった。

次回作へのアドバイスもその後、メールで送ったりなどお節介を致しましたが、文芸ものが書ける方なので、応援したく思っています。

新たな作家が誕生しますように。

物書きに限らずどの職業ジャンルでもそうですが、基礎が出来上がれば
悪戦苦闘している間に「悟る」瞬間が、ある日ふっと来ます。何かを掴む瞬間です。
それを経て、本当のプロになります。

越後上布を着て出かけました。プロデューサー氏が奥様から、
「今日は井沢さん、どんなお召し物かしっかりうかがって
来るように」と言われてきたとかで、「越後上布」と
お伝えしました。織り手がいなくなったせいで高騰、現在では
200万円。

私が30年前に、その価格で求めたわけではありません。
値上がりしたのです。

それにしても、スマホ撮影では色目も質感も出ませんね。
着物を楽しみにしてくださっている方々のために、次回からは
デジカメを使いましょうか。

この越後上布をまとうと、鈴木清順監督が忍ばれます。
というのは、初めてこの映画における美意識の作家にNHKでお目にかかったとき、越後上布を着ていたのです。

雨上がりのNHK西口玄関前は、水たまりが出来ていて清順監督が私の着物の裾を気遣ってくださったのですが、その時の情景も監督の表情も声も語り口も、監督が撮る映画の1シーンを見るように鮮やかに覚えています。

どこを気に入ってくださったのか、私の家まで遊びに来てくださったり、楽しい時間を何度か共に過ごさせて頂きました。下町育ちでさっぱりしたご気性であり、交わりも淡々としていて、それもいい記憶の理由でしょう。
人間、近づき過ぎていいことはありません。

名作「肉体の門」の新作版のシナリオを清順監督から所望されましたが、企画がはかばかしく進まずそのまま終わってしまったのが、残念です。

清順美学に脚本を捧げたかった・・・・・。

去ってなお慕わしい方がいるということの幸せ。

 

誤変換他後ほど推敲致します。

 


映画の感想 性同一性障害

2017年03月13日 | 井沢満の脚本講座

「彼らが本気で編むときは、」という映画を見て、感想がまだです。

タイトルが、読点で終わるのも含めて斬新です。

母になりたい母性の持ち主である性同一性障害の男子(生田斗真)と、

男に走り、母であることが出来ない母性喪失の女子、そこに

遺棄された女児と、その女児の面倒を見る母性喪失女の弟(桐谷健太)、

そして弟は、性同一性障害の男子と暮らし、いずれは戸籍の性別を

変えるということを前提に結婚を決めています。

と、これだけのシチュエーションで、ちょっと書ける人は

脚本にしろ、小説にしろ即書けるぐらい端的で優れたシチュエーションです。

長年この仕事をしているので、冒頭の30秒から3分で作品の仕上がり状態が

解るのですが・・・・

編集段階でカットすべき所を結構残してしまったな・・・・・と冒頭で感じ、

それは結局最後までそうでしたが、できの悪い作品ではありません。

これは女性の感覚で描いたな、と思って後で監督脚本家名を見たら

同一人物で、やはり女性でした。

桜を象徴的にとても美しく撮っています。

図体がでかく、男顔の生田斗真くんを主人公にしたのは正解でした。

存在が物悲しいのです。これで、女性的に小柄で、化粧映えのする俳優が

演じたら、LGBTであることの苦しみと悲しみが表現できなかった

でしょう。(生田くんをきれい、と表現している人たちもいますが)

女の子は、母になりたいと熱望する性同一性障害の男子の元を去り

結局、ふしだらな育児放棄の母親を選ぶのですが、無血縁家族の

形態が多いアメリカでは、不思議に思われるかもしれません。

映画を見ながら、思い出していたのは最近報道された性同一性障害の

女性の自殺でした。

お母様の言葉によると、ふくらんだ胸をかきむしりながら「この胸が、好かんとよ」

と涙を流しながら呻いていたと言います。

無残なことだと思いますが・・・・

しかし、死ぬのは待って欲しかった、と思うのです。

たぶん、その方の生きていらした職場などの生活環境が

狭隘な価値観で固まっていたところなのでしょう。

私が彼女の友人なら、乳房がそれほどあなたの人生を

不幸にしているなら、取っちゃえば? と言います。

反対意見も多いのかもしれませんが、死ぬよりマシでしょう。

そして、その人が生きられる場を求めて、現在の生活空間を

去れば良いのです。

世の中、広く、人さまざまです。

タイでは小学校の頃から、身体は男の子、しかし心は女の子という

存在をさらっと受け入れ、屋台で食を商う男性が女装だったりするのは

日常の光景です。

例えば、タイに職を求め、ついでに伴侶を求めればいいのだし。

国内でも生きられる場所はあります。伴侶は探せばいい。

そういうカップルはいます。ネットワークを使えば、出会いの確率も

高くなるでしょう。

とりわけ大都会のビルの谷間を生活空間とするなら、誰も

人のことなど知ったこっちゃありません。

私など以前書きましたが、耳からミニ金魚鉢のイアリングを下げ、中で

本物の金魚が泳いでいるという・・・・まことに珍奇なお爺さんを

見かけましたが、雑踏の中、目を凝らしているのは私だけで

皆目もくれず歩いていました。

私が知っている最も過激な例は、50歳を過ぎた男性で

既婚者、孫もある男性がいつの頃からか自分が

本質的には女性であることに目覚め、家族に告白、同意を

もらい、好きな男のもとに走ります。

が、相手の男に肉体まで女性にならないと、抱けないと

言われ、その人はタイに飛び「還暦記念」にあっさり男性器を切除、女陰を

人工的に作り、乳房を盛り上げて今は、想い続けていた

男と暮らしています。

性転換もホルモンでバランスを崩し、精神不安定になったり

痛みも大変らしいですが、それでも女性の体を手に入れたかった

のでしょう。(現在の性転換に関しては知らないので、ホルモンバランス云々は

現代では解消しているかもしれません)

既婚者で孫持ちの男が、という批判は当然あるでしょう。身勝手といえば

身勝手です。

一概にこうだと言いきれないのですが、それにつけても乳房が要らないと

命を断った方の心を思うと、無残です。

我慢や絶望とは別の生き方がありますよ、と言ってあげたいのです。

インドに、あるセミナーを受けに渡った事があるのですが、性同一性障害の

人がいて、自己紹介の時その人は淡々とそれを告げ、

女性のグループにいましたが、誰も排斥せず、好奇の目で見ることもなく

噂にすらならず、私たちは共に学習に励んだのでした。

その方が、性別適合手術を受けているのかどうかは知りません。

生理的に受付けないという人がいるのは仕方ありません。

それはその人の正直な感覚なので、それを否定することはありませんが、

黙って見ぬふりをしているくらいの優しさは欲しい、と思うのです。

ただ一点、人は驚くほど後天的な刷り込みによる洗脳を受けて、

一つの凝り固まった価値観に縛られていて、それは自分をも窮屈に

します。解き放ちましょう。心は自由です。

 

*誤変換他、文章の瑕疵は後ほど推敲致します。

 

 


山を守るは水を守ること、水を守るは国土を守ること

2013年09月13日 | 井沢満の脚本講座

思考も感性もとりあえず柔軟なほうではないかと自惚れているが、切り替えは下手だ。
対象にどっぷり、のめり込んで次に身軽に移るということが難しい。

新作のドラマの脚本をひとまず、脇に置いて「正論」への寄稿文を書いていたら
頭がもうそれいっぱいで、寝ていても推敲しているような状態で、
早くドラマのほうに戻らねばと思いつつも、いったん「はだしのゲン」論に
向かった脳は、なかなか進路を変えてくれないのだ。

正論の原稿から頭を引き剥がすようにドラマに向かったら、今度はそればかり。
もう現場にいったん渡したのに、ト書きに「ボイジャーが浮かんでいる」と書き加えて
メール送信したり、そんなふうである。詳細は発表前で書けぬが、父子の物語が
なぜか宇宙空間で始まる。

次のドラマの脚本、ラブストーリーにかからぬと、まずいのだが、父と息子の物語から離れられなくなっている。またこの頃になると他人であった人物たちが、一気に彼らのほうから私に向かって色んなことを語りかけ、ああそういう人物だったのか、過去はこうだったのか、と
解って来て、離れがたくなるのである。
もはやどこかに、人物が実在している感覚になって来る。

幼い息子の祖父に当たる人を、先祖代々の山守りとして設定したのだが、
この人物の性根が見えて来たのも、原稿を最終的に渡す寸前である。
ああ、そうか、この人物は日本の山と水を守って来たのだ、と
腹で納得、セリフを書き加えたりしている。

もし私が政治的意図を脚本に込めるなら、韓国や中国に買い占められつつある
水資源や土地のことも、セリフに込めるのだろうが、それは主義としていっさいやらない。
ドラマをプロパガンダの手段として使い始めたら、どんどん質を落としていくのは
目に見えている。
ドラマは頭でもなく主義でもなく心で書くものだ。ハートに触れることなら
しかし一見政治的主張であると誤解されることも厭わず書く。
「花嫁の父」では向井理くんに日の丸の大旗を振ってっもらったが、その人物の
必然性で、こちらもハートで納得したから書いたのであって、主義主張を
込めたわけではない。

何か言われるかなと思っていたら、案の定言われた。しかし、覚悟していた程でもなかった。
しかし、妙なことではないか、日本で日本の国旗を振ったら何か言う輩がいるのである。
「花嫁の父」は上海マグノリア賞の招待作品として、中国全土でオンエアされたが、日の丸に特にクレームが付いたという話は聞かない。
招待された時点で、まず私は不思議だったのだが、中国も政治意図がないことぐらいは
理解してくれたのだろう。
それが、日本人の中に勘ぐる人がいるのである。ほとほと情けない。

次回作の舞台になる地方の古民家を尋ねたのだが、築200年の立派な門扉の脇に
鉄の輪っかがしつらえられてあり、日の丸掲揚のためだという。
思えばいつ頃から日の丸が日本から姿を消し始めたろう。
向田邦子さんのドラマではしじゅう翻っていた。今日本の国旗をト書きで
指定する作家は私くらいなのだろうか。

 

 

新作中、祖父に私が書き加えたセリフ。ドラマの最後のほうで、まだ幼い孫に言う。

「山を守るってことは、日本のきれいな水を守るってことなんだ。水を守るってことは国を守るってことだ。頼んだぞ」

聞きようにとっては、政治色があるかもしれないが、この人物の設定と立場なら、自然にこれを言う。言わないとむしろおかしい。祖父役の俳優さんは私が大好きな方である。
どういうふうに、このダイアローグを音声化してくださるか、楽しみである。

テレビドラマにしては宇宙とか山とか、視野が広い世界になったかな、とそこが気に入っている。打ち合わせの席で、私の第一声は「宇宙空間から始めたいんだよね」だった。

で脳裏では、漠然としていた宇宙空間がだんだん、やはりリアルになって来るわけだが、
今朝目が覚めたらボイジャーが浮かんでいて、急いで「ボイジャーが浮かんでいる」と追加ト書きを送ったわけだ。
もっとも、ボイジャーは手間暇がかかりそうで、やってもらえるかどうか定かではない。
ラストシーンは空撮を指定するしで、現場は大変だなあ。

ちなみに小説と違って脚本には特有に「美しい構造」というのがあって、それは数式に、
あるいは建造物に似通うのだが、その脚本の構造が比較的早く見えて来ることもあるが、脚本を現場に渡す寸前に、「あ、これが今回の脚本の構造」なのか、といきなり見えることもある。
今回は後者であり、構造が見える瞬間は小さな悟りに似て、快感が伴う。

 


井沢満の脚本講座 意外性について

2013年03月10日 | 井沢満の脚本講座
「母。わが子へ」で八千草薫さん扮する母が行方不明の
二男を探し歩いて辿り着く秋葉原。母がそれと知らずに入ったのは
エロ系デパートです。取材では某量販店のコスプレフロアを想定して
訪れましたが、スタッフは更に過激に6フロアほどあるビル全体が
ソレ系のグッズや写真であふれているところをロケ先に選びました。
うっかり画面に写り込んだらオンエア出来ないようなものや
写真がひしめいています。





場違いの場所に迷い込んで心細い母親が、でも息子に会いたい一心で
息子の写真を握りしめながら、レジに立つコスプレの店員に訊ねる。
八千草さんの可憐さとあいまって、なかなか味わい深いシーンになったと
思います。

普通なら選ばない場所をぶつけることで出る効果、それが本日の
講座のテーマです。

二男の生息地に秋葉原を選んだのも「場違いの効果」を狙っての
ことです。母と子の情愛を描くには最もふさわしくない場所。
猥雑とアニメの純情と冒険が同居する場所。
秋葉原の混沌とした活気を背景にすることで、
親子の情感がより際立ったと、ロケ現場を訪れて感じました。

二男の仕事を地下アイドルを仕切る事務所の社長としたのは
演出の竹園氏のアイディアで、時代の先端にアンテナを張っている
方と組むと作家もインスパイアされることがあります。
「花嫁の父」の父がやる闘牛も竹園さんの提案で、私は
即座に乗り、それと対比的に隅田川を配置してあの物語が
生まれました。
闘牛の荒々しい世界と隅田川の情趣との組み合わせ。
これも「意外性」のセオリーに属しますね。

*「母。わが子へ」の宣伝サイトです。
http://cgi.mbs.co.jp/fixf/bbs_log/motherson.html


新作「母。わが子へ」に向けて

2013年02月28日 | 井沢満の脚本講座
番組宣伝用に、作者からの言葉をと言われて書いた短文です。


世の中には傷ついた親子関係に苦しむ人も多く、肉親ゆえに憎しみの淵は深いのです。しかし愛の対局は憎しみではなく、無関心です。憎しみの裏には愛に転じる何かが息づいています。本作における親子には、普通の親子なら誰でも持つ程度の葛藤があるだけですが、母親は死を目前に心が澄み渡っていて、息子たちもその穏やかな光を浴びつつ、親子や生と死の本質を見つめます。
 親を憎んでいる人の胸にも届くよう、思い込めて書いた、これは母恋いの書でもあれば、この世を去りゆく者への鎮魂歌でもあります。
 そして鎮魂歌はとりもなおさず、この世を、なお生きていく者たちへのエールでもあるというのが、人生の素敵なパラドックスなのかもしれません。死を見つめることは、生を見つめることです。
 たくさんの浄化の涙を流して頂き、そして少し笑って頂けたら、脚本家冥利に尽きます。

             __________

雑誌「ドラマ」に書いた短文は、セリフを省くことの大切さについてです。
発売前なので、こちらは転載を控えますが、
私は、執筆にあたってせりふは「何を書くか」よりも「何を書かざるべきか」に
エネルギーを集中します。

過剰なせりふは、視聴者から想像力を奪い、作品の底が浅くなります。
俳句と同じ余白がせりふにも欲しいのです。
これを言いたい、というのを黙ってこらえるからこそ伝わるエネルギーがあります。
優秀な役者はそこを敏感に察知、尊重してくれますが凡手の役者ほど
余計なことを喋りたがり、困惑することもあります。現場に常に
いるわけではないので、余計な一言を勝手に付け加えられて、
それが現場での動きとその役柄の性根に即し
自然に出た、こちらがウン、と膝を打つセリフであれば
いいのですが、所詮セリフの素人の考えること、余白を消すことのほうが多く
また本当は法的にはそのことにより、脚本を引き上げ放送中止させ得るぐらいの
著作権侵害なのですが、昨今は現場がルーズになっていて困りものです。
また、いじられても仕方のない脚本が多いとも聞きます。

脚本家が育ってないのかなぁと残念ですが、お互いにせりふにルーズだから
育たないのだとも言えそうです。さんざん言われて来たことですが
ドラマがいつしか・・・・2,30年ぐらい前からでしょうか、企画先行、
スター先行になってから脚本が尊重されなくなる傾向が日々大きく、
またそれだから新たな作家が育たなくなってもいるようです。
作家の文体というものが消え失せ、誰が書いているのかわからない本が
多くなりました。昔は作品のにおいといおうか気配、せりふのタッチで
誰の作品、と解る人がいて、その人達はまた群を抜き優秀でした。
・・・・いなくなりました、本当に。
それでもいい作品が生まれればいいのですが、刑事物やサスペンスといった
お話の「仕組み」で見せる作家で優秀な人はいますが(見ているとやはり、
これも相当のベテランであることが多いのですが)、せりふと心理で
見せる作家が僅少になって来て残念で、しかしふと思えばそういう作品が
求められる場もまた少ないのですね。

でも、またそういう作品が望まれる時代になりつつあるのか、と思うのは
昨年の「花嫁の父」の成功であり、また今年で言えば「とんび」の
好成績でしょうか。