井沢満ブログ

後進に伝えたい技術論もないわけではなく、「井沢満の脚本講座」をたまに、後はのんびりよしなしごとを綴って行きます。

日本人とは何か

2020年03月18日 | 日本語について

 今上帝即位に各界から寄せられる祝意コメントを一冊にまとめ、宮内庁に奉納するそうで、そのコメント文を求められたのがかなり前のことであり、それ以来「日本人とは何か」と漠然と考えて来たが、天皇を国の扇の要として戴き続けて来たということが、日本人であることの大きな要素ではあろう。2700年に渡り一系統でつないで来た王朝を日本以外に世界は持たない。

 日本人の精神の根幹に皇室があることと並んで、世界でも突出して多彩な語彙を有する日本語の共有を、日本人の特質の一つに挙げたい。

言語としての豊潤さに加え、日本語には「神と人とを結ぶ霊」がこもる。

磯城島(しきしま)の日本(やまと)の国は言霊の幸(さきは)ふ国ぞま幸(さき)くありこそ (万葉集)

 古来より日本人は,言葉それ自体が帯びる霊力を感知,言葉が現実を形成するとして来た稀有な民族であった。言葉に託して量子力学的世界観を、大和民族の精神性の有り処(ありど)である縄文時代より有して来た。

 日本人を象徴するキーワードは、「天皇、言霊、和」であろう。

  あらゆる存在に神を感知、分け御霊として神を自らの裡に観じる日本人は一神教に本能的に馴染まない。神人一如が本来の姿である。

 それゆえ、時に無宗教と見做されるが、宗教という、神と人、人と人とを上下に分離させる「組織」を本能的に受け入れないのだ。宗教(という組織)が強いる戒律を必要としない。随神(かんながら)の「道」を誰に押し付けられることもなく自然に古来より歩んで来た。付記すれば先祖への尊崇も、日本人固有であるかもしれない。「個」の優先から先祖への敬愛は生まれないだろう。先祖という死者も日本では神になる。

 華道、武道というごとくスポーツもアートも日本人にとっては神へ向かってひた歩く一筋の「道」なのだ。他国には見られない特有の感性であろう。

 「日本は神の国」という発言は政治家としては浅慮であるが、古来より天皇が祝詞という神韻を秘めた言葉で神と民とをつなぎ続けてきた祭祀王であれば、間違ってはいない。

大和の民の天に向かって放つ言葉は五七の韻律を有し、古代の日本文字である神代文字(ヲシテ文字)(ホツマ文字)で表される二十四声(ふそよごえ)での陰陽の配列「あわうた」や「ひふみ祝詞」も五七のリズムで神歌を歌い継いできた。

 あわうたは歌いだしの「あ (天)」から結びの「わ(地)」まで図で見ると螺旋を描いている。 物質の根源である原子構造からDNA、宇宙に至るまで螺旋。螺旋は神のグランドデザインかと思われる。日本では言葉にも螺旋を秘めたその凄み。あわうたはホツマツタエによると伊耶那岐命と伊弉諾尊の御製と伝えられている。

また縄文の火焔土器のトーラス(フリーエネルギー)説は矢作直樹氏であるが、他土器も渦巻き(螺旋)を見れば、古代日本人の霊的直感に畏怖の念を抱く。上野の縄文展で見たその実感からも、縄文時代の出土品は、世界四大文明のそれを上回る。

 「日本語は国の防波堤である」というのがわたくしの持論だが、

侵略者は常に相手の言葉を破壊、奪うことから手をつける。

日本語の喪失は神の喪失でもある。

 自ら国語を棄てる国もあり、それらの国はいずれ滅びに向かうこと、某国某国の例を見れば明らかであろう。 言葉を単なる意思伝達のツールだと見做せば粗略に扱いもする。思えば自らの言葉を軽んじる国々は神を持たずに来た国でもあった。

 

 国を表すのに「国家」と「家」の感性を有するのも日本人固有である。神と意識をつなげる天皇を家長として国を営み続けて来た。

 だが日本という家の「家風」に敬意を払ってくれさえすれば他国からの客を迎えるにきわめて鷹揚であった。「他家」からもたらされる文化を取り入れるに柔軟でもあった。

 古来よりの家風に敬意を払ってくれさえすれば訪問者を家族として迎えるのにやぶさかではないのは、現代も同様である。

 外国人であっても家族と呼ぶに躊躇することはない相手がいる一方、同胞と呼ぶにためらう日本人もいて、ことは国籍の次元にはないこと、先般のラグビーワールドカップを見れば明らかであろう。君が代を、心を一つに結び歌えればそれが同胞である。

 つまるところ日本人とは精神性であり、必ずしも国籍ではない。

 末尾に、日本は漢字伝来以前に文字を有していたこと、記紀(古事記 日本書紀)以前に古代文書(古代古伝)のあったことを知っておきたい。「ホツマツタエ」は古代大和ことばで綴られた一万行に及ぶ叙事詩であり、縄文後期中葉からの神々の歴史・文化を伝えているとされている。

 日本人の高い精神性のルーツである縄文時代を教科書から消し去った輩がいる。国籍を日本に置けど、これらは日本人ではない。侵略者に寝返った一味である。

 縄文時代の精神性の高さは、大陸からの侵略者の乱入で弥生時代に低下したこと、敗戦後に蛮族にやられた後の日本と同様である。

 言語の劣化による日本人の精神性の低下は今なお続いている。

 本来、日本人にとって、言葉はほぼ神と同義であった。

 日本語は単なる意思伝達の手段ではなく、根本創造主である神への架け橋なのだ。

 それを心の奥底(おうてい)に刻印しておきたい。日本人であることの誇りを取り戻すために。

 

 拙文中の不備は後ほど加筆訂正させていただきます

 

 

 


やはり日本は言葉の国だった

2020年01月12日 | 日本語について

日本の文字の発祥が中国由来の漢字であるということがどうにも腑に落ちず、神代の文字について以前触れたことがある。

枕草子や源氏物語を送り出すほど言葉の豊穣さを誇った日本が、他国に文字を頼るほど言語に不自由していたとは思えなかったのだ。

神代文字は神社の御札やヒェログリフとして古い岩に刻まれた文字に見られるのだが、学説として定着しているわけではなく、わたくしなどは片隅でボソボソ呟いてきたに過ぎないが、このところ神代文字について、真っ向から肯定的な意見が出されるようになっていて、それが專門の学者ではなく、矢作直樹氏のような医学畑の人が堂々と発信なさるようになり、わたくしごときも、語りやすくなって来た。

矢作直樹・東大大学院名誉教授の発信なさる内容に共感を抱き、尊敬申し上げつつ私淑していることは、以前こちらでも記した。

まず、日本最古の歴史書とされている『古事記」『日本書紀」の編纂が8世紀のはじめ。それより古い文献が実はあるので、それが『古史古伝』である。『古史古伝』他、磐座の文字が神代文字であり、重要な情報がコード化されて埋め込まれているという。霊性の高い神代文字が一種の隠蔽をされたのは西暦663年の朝鮮半島における白村江の戦い以降であるというのが矢作説である。白村江での敗戦により日本に入り込んできた唐勢力が日本文化抹殺の一環として神代文字を抹殺した。

第二次大戦後のGHQも全く同じことをしている。日本人の精神と日本の国体の弱体化を試みる時、まず言葉が狙われる、ということをはらに据えて置きたい、すなわち言葉というものはその民族の精神であり、国体なのだ、と。靖国神社のぼんぼり祭りに奉納するぼんぼりに貼る半紙にも、わたくしは「日本語は国の防波堤」であるとして、同じ文言を書き続けている。

矢作先生もGHQによる日本弱体化施策について発信していらっしゃるし、霊的感受性も強いようで、不思議な体験も多く、このところ今まではいわゆるスピ系の人しか発信しなかった事柄を積極的に語られるようになっていていよいよ親近感を勝手に抱いているのだが、お目にかかりたいと願いつつ、接点がない。一度わたくしが出入りしていた尾崎財団にいらしたことがあり、お付き合いのあった明治神宫至誠館の館長さんが現在いらっしゃるところにも顔を出していらっしゃるようでご縁をたどればまったくないというわけでもないようだ。もしご縁を結ぶ必然性があるなら、時満ちればお目にかかれるだろうし・・・・当分は書籍で追っかけをやるだろう。

矢作先生は、日本の縄文文化を高く評価、これも同意。縄文展に出かけ、そこに展示されたものたちの 火焔土器(トーラスであろう)はじめ日用品が、世界の四大文明の出土品に引けを取らず、それどころか優れているものもあることに驚嘆しまた不思議に思ったことは、以前述べた。火焔型土器はトーラスというフリーエネルギーのひとつだというのも、矢作先生からの受け売りである。 遮光器土偶は宇宙人であるという説にもわたくしは諸手を上げて賛同する。

矢作先生は、縄文時代の文字や稲作他の文明が、むしろ世界に伝播したのだとおっしゃる。縄文時代の高い精神性を私たち日本人は思い出すべきだとも。縄文文化はレムリアからの移住者により影響を受けているのだとも述べられ、先生自身が過去世 を感知、高次元に意識をつなぐことが出来る霊的感性をお持ちであることを近年、隠さず表明されるようになり、ますます親近感を抱くようになっている。

 

そういう時代なのか、矢作先生を筆頭に、医学博士や物理の専門家の錚々たる人たちが賛同を表明し、グループを形作って、ユーフォや宇宙人の存在を肯定、世の中に発信すべく活動を始められている。我が意を得たりと思っていた矢先、英国の女性の宇宙飛行士が宇宙人はいると明言、地球上にもいるとさえ発言したというニュースを見かけた。

今まで狭いスピ系の世界でしか通用せずオカルトとして退けられて来た事柄がこれも近年、量子力学という科学の見地から語られるようになった。

時代が大きく転換しているらしい。いわゆるアセンション次元上昇についても、冷静に述べられることも多くなっている。

量子力学について一端でも学ぼうと取り寄せたのが『量子論から解き明かす「心の世界」と「あの世」、岸根拓郎・京都大学名誉教授著である。專門の見地から量子とは何かが述べられ、かたわら「祈り」の力他にも言及されていて興味深い。読みながら矢作先生たちの論と突き合わせつつの検証など、いずれ試みてみたい。

ここ一連の急速な動きを見ていると、世界は新たなパラダイムにシフトしつつある、というわたくしの感慨も、大仰だとも思えないのだ。

自らに関わる余談だが、よく見る夢のパターンのうちから二つ。 1つ目は、洪水に飲まれ流されている夢で、それ自体に伴う恐怖感はあるが、もっと怖いのは、洪水から逃れて山の頂上まで逃げ延びて、しかし頂上からふと眼下を見ると、洪水はひたひたと山の頂きにまで迫っていて、その時の絶望感。日本国内で山の頂上まで来る洪水は想定できず、となれば外国での過去世の体験の再現か、大陸ごと沈んだとされるレムリアやアトランティスにいた頃の”記憶”やもしれぬ。

 

もう一つの夢のパターンは、地面からふわりとからだが浮き上がり、(ああ、そういえば人間は空を飛べたのだった)としみじみと”思い出して”いて、目が覚めてからは、人間は半分光で半分が肉体であるという《半神、半人》の時代が確かにあった・・・という記憶にも似た思いなのだ。思い出す、というニュアンスが添う。

こんならちもなきことを人前で述べたことはないのだが、ムー、アトランティスまで語り始めた矢作先生とそのグループの学者の人々の近年の発言姿勢に背中を押されるていで、末尾にふと記してみた。私にもいくつか過去世の記憶めくものはあり、エジプトで神官をやっていた時代の名前まで"知って”いる。矢作先生も、古代イスラエルの失われた十支族のメンバーであった頃のポジションと名前を述べていらした。 ヘンな人たちが増え、皆さんとびきりのインテリであることで、わたくしのような者まで息がしやすい時代になりつつある。

どこぞの星からワンダラーとして地球に来たわたくしたちは、地球という魂の修行場で営々と進化の旅の途次にある者かもしれない。楽しく学ぶ、ということも言われているが、わたくしにそんなゆとりはない、喘ぎ喘ぎ苦しみながら、それでも楽しいことも華やいだ祭りもあるというのが わたくしが選んだ修行内容レッスンの実相であるらしい。進化の道を苦悩しながら歩む同士よ、とふと誰かに呼びかけたくなった。

いずれにしても魂という意識体それ自体に消滅はない。《永遠の進化》が宇宙の法則であろう

。笑みを忘れず進みたい。

誤変換他その他の不首尾は後ほど・・・・。

 

 

 

 


森と杜の違い

2018年11月02日 | 日本語について

森が、樹木の自然発生なのに対して杜は、人々が意図的に
樹木を植え、そこを聖地とした、ということが
言えるだろう。
鎮守の森と書くより鎮守の杜が実相に近い。

明治神宮はまさに杜であろう。
人の手で後の繁茂にもっとも環境の良い
森が計算を基に作られ、そこが神の齊き(いつき)坐す(ます)
ところとされ、神官を筆頭に人々の日々の祈りにより
神的磁場として昇華される。
皇居が本来そういう場であった。

山自体が神社とされているところがある。
大神(おおみわ)神社などがそれで、拝殿はあるが
本殿はない。

昔々、美輪明宏さんが丸山姓から美輪姓に変えられて
間もなく(私が二十代半ばの頃である)、お目にかかった時
「みわ、(という音)は神に通じるんですね」
と思いつきを申し上げたら否定はされなかった。

山そのものを御神体とするのは、日本に限らず古代原住民の霊的
インスピレーションであろう。

アメリカが、インディアンを蛮族として西部劇で描き、
殺害放逐したが、しかし霊的精神性は、ひょっとして
土地を乗っ取ったアメリカ人たちより
インディアンたちのほうが高かったのではないか。

と思う時想起されるのは、戦後GHQが試みた日本弱体化政策である。
彼らの当時捉えていた日本人像は、山や岩に神聖を認める
蛮族であったろう。異教徒なので、殺してもよいという
発想が種類をわざわざ変えての2度もの原爆投下で
あったろうと思われる。

GHQは日本語を放逐しようと試みるが、早晩日本人の
異常なほどの識字率の高さを思い知り、駆逐が無謀であることを悟る。
侵略者の常で、彼らが言葉と共に圧殺を試みたのが日本の神である。
だが神道もまた生き延びた。所により、枯れ果てつつ
あるがまだ命脈は保っている。

土地には神の息吹みなぎるイヤシロチ(弥盛地)と、
息吹が失せたケガレチ(気枯地)がある。
国民が神と祭祀を見失う時、日本という龍神の形をした
この国がケガレチとなってしまうのではないか、と
それを懸念している。日本という国体の「気」が枯れるのではないか、と。

あらゆる既存の宗教がその力を失いつつあるどころか、災の
元ですらあった時代は終わりつつあり、私たちに求められるのは
個々人が神を見出すことではなかろうか。
日本では天照大神と名付けられたgod of the sun
世界に遍満する。
よって神道は本来、世界に広まるべき性質を持っている
というのが私の説である。神道には教祖も聖典も教えも
なく従って宗教の範疇には収まらぬ闊達さがある。

天照大神god of the sunは、自然界の森羅万象と宇宙をそこに
含む根源神の表象として扱わねばならない時代に入りつつ
あるような気がしてならないのだ。

神官を頼らず、自力でsomething greatとの
回路を開きたい。
そこには「宗教」がもたらす対立はない。宗教は組織であり、
組織ある所、権力と位階、組織を維持するための金銭がつきまとう。

古代の人々は、宗教は持たずその霊感により神は体感
していたと思われる。

話が飛躍するが、これほど豊かな言葉を持つ日本が、
書き文字を持たなかったとは思えぬ。
中国から漢字がもたらされた時、即座に受け入れ
ひらがな、カタカナと発展変化させていく能力は
一気には得られるはずもなく、したがって私は
神代文字の存在を信じている。縄文時代の日本の豊かさを思う時、
なおさらその感を深くするのである。


しかしGHQによる言葉狩りは形を変えて実は
教育という形で戦後73年間機能して来たのであり、その成果が
現代日本の若者の言葉の貧弱化であろう。
日本の神の圧殺にもGHQは一見失敗したようでいて、
しかし搦めてからじわじわとそれは、酸が金属をいつしか
腐食するように進行して来た。子供たちは語彙を失い、
漢字は最小限に抑えられ現在に到る。

言葉がやせ細れば感性も思考も、やせる。
神もまた、やせる。言葉は精神と表裏一体なので、言葉が
貧しくなれば、神はその分遠ざかる。

 


礼儀と礼節

2017年11月30日 | 日本語について

まず、人に怪我させるほどの暴力は言語道断ということを前提にだが・・・・

日馬富士を個人的によく知る私の友人からの情報、あるいは報道を通じて感じる人柄から、
その暴力はひとまずおいて、普段は物静かで学究的であるという
横綱をさまで激昂させた貴ノ岩の「礼儀、礼節」のなさとは、何だったのだろうと、
そこをこそ知りたい。

もっとも、事件のあった夜に酔った日馬富士から飲みに誘われた、という
一般女性の証言者まで現れ「酒癖の悪さ」をテレビで暴露されていたり、
横綱のイメージも定まらない部分がある。ただ、わざわざテレビ局に電話でも
しなければ、飲みに行こうよと誘われた女性などを局が突き止めるはずもなく、
こういう証言のされ方で日馬富士の「酒癖の悪さ」を暴露されても
にわかに信じる気にはなれないが。

ちなみに、横審内部を知悉する友人に訊ねてみたが「いまだ謎が多く、解らないことが
有り過ぎる」という返事。

ところで、日馬富士が言う「礼儀、礼節」の、両者の違いは何だろう?

しばし考えてみたいが、即座に思うのは礼儀にはお辞儀や謝礼を差し出すなどの
行為が伴うニュアンス。礼節はもっぱら、礼儀を成り立たせる基本の精神、と
仮説を立ててみた。

言葉の使い方も両者、異なる部分がある。

礼儀知らずという言葉はあるが、礼節知らずはない。 

 

 

誤変換他、後ほど。


日に1つ、新たな言葉を覚えよう

2017年08月18日 | 日本語について

今朝もいつものように、湯浴みで身を清め散歩に出ました。
陽は差していませんが、雲の向こうに日拝をし、心身ともに
清々しく、ありがたいことです。

ドラマはまだ先ですが、久々のドラマなので慎重を期して
細部までシノプシス(あらすじ)を練っていて、これは
その場の勢いで書くことがほとんどだった私には珍しいのです。

シノプシスに後足で砂かける、と書いてふと思ったのですが・・・・

これは「あとあし」 「うしろあし」 どちらで、読んでいますか?

あとあし、が正解です。

1日1つ、新たな言葉を覚えるをモットーに日本語の語彙を増やしましょう。

たとえば「鞠躬如(きっきゅうじょ)」という言葉は、ご存知ですか?

身をかがめて恐れ慎むさまを、表します。

使用例 鞠躬如として韓国側の主張を聞いているだけの、情けない外務省。

朴槿恵前大統領の前で、揉み手していた舛添さんも思い出しますね。

ただ鞠躬如はこういうネガティブな用法ばかりではなく、「鞠躬如として用を聞く」というふうにも用いられます。

典拠は論語です。

http://rongo.roudokus.com/rongo10_05.html

揉み手は、わかりますか?

(コトバンク)>左右の手のひらをすり合わせること。多く、頼み 事や謝罪・弁解などをするときの手つき。「揉み手をして頼みこむ」

媚びへつらう、時も使いますね。

 

 

ご変換ほか後ほど推敲致します。