世界変動展望

私の日々思うことを書いたブログです。

アンドロメダ銀河

2011-03-20 00:00:06 | 物理学・数学

アンドロメダ銀河はアンドロメダ座の方に見える銀河。我々の天の川銀河から最も近い銀河であり、距離は約230万光年。


図 アンドロメダ銀河の写真[1]

アンドロメダ銀河は約1兆個の恒星からなり、直径22~26万光年[2]。我々の天の川銀河は約1000億個の恒星からなり、直径が約8~10万光年なので、アンドロメダ銀河は天の川銀河より少し大きい。

アンドロメダ銀河は肉眼でも観測することができ、964年には既にアブド・アル・ラフマン・アル・スーフィーによって"小さな雲"と記述されている[2]。かつてこの銀河は我々の銀河の中にあると考えられていたが、宇宙が膨張していることを示した有名なハッブルが1923年にケフェイド型変光星を利用し約90万光年(当時)の距離にあり、銀河系外の天体であることが明らかになった。

約230万光年の彼方にあっても肉眼でみえるのだから、星は密集すると大変明るくなるということだろう。人類がアンドロメダ銀河まで行ける日は来るのだろうか?

(作成日:2011-05-10 03:59:17)

参考
[1]ついてるレオさん"Happy Life" 2006.10.2
[2]Wikipedia アンドロメダ銀河 2011.5.10


リング星雲

2011-03-20 00:00:05 | 物理学・数学

こと座にあるリング星雲は惑星状星雲の中で最も有名なものの一つ。約2600光年の距離にある。


図 リング星雲の写真[1]

1779年にフランスのダルキエが口径約3インチの望遠鏡で彗星を観測していて偶然に発見した[2]。星雲の中心には白色矮星が存在し、この星から数千年前に放出されたガスが白色矮星からの紫外線を受けて蛍光灯のように輝いている[2]。

白色矮星は「恒星が核融合反応を停止し、収縮した天体の一種。太陽と同程度の質量を持つ恒星が、赤色巨星の状態から外層部を失った末期の姿。きわめて高温・高密度だが、余熱で輝いているだけなので、長い時間をかけて冷え、黒色矮星となる。[3]」白色矮星は星の晩年の一つだ。黒色矮星はまだ観測されておらず、まだこの段階に至った星はないらしい[4]。

太陽も晩年は白色矮星になるだろう。白色矮星の密度は1cm3あたり約1.4トンで中性子星(1cm3あたり10億トン)やブラックホール(1cm3あたり100億トン、[5])ほどではないにしろ、かなりの高密度。昔、物理学の計算で白色矮星、中性子星の密度を計算したときに、こんな異常な密度の物体があることに驚いた。計算を終えた後信じられなかった。核物質並みかそれ以上の密度を持つ物体が現実の世界に本当に存在するのは驚異的だ[6]。

(作成日:2011-05-10 04:24:17)

参考
[1]Wikipediaの写真 2010.5.10
[2]Wikipedia リング星雲 2010.5.10
[3]白色矮星 大辞泉
[4]黒色矮星 大辞泉
[5]これは太陽質量程度のブラックホールの密度。資料のp28を参照
[6]核物質:核力だけで核子(陽子、中性子など)をくっつけていくことでできる仮想的な物質。非常に高密度。


かに星雲

2011-03-20 00:00:05 | 物理学・数学

おうし座にあるかに星雲は1054年におきた超新星爆発の残骸。地球から約7000光年の距離にある。

図 かに星雲の写真[1]

1054年におきた超新星爆発の残骸とわかるのは、当時の日本や中国の文献に超新星爆発があったことが記されているから。昼間でもはっきりとわかったらしい。それだけ超新星爆発は明るい。鉄より重い元素であるニッケルなどの元素は超新星爆発でできるとされているが、この星雲の観測ではじめてそれが確認されたという。

星雲の中心部にはかにパルサーとよばれる中性子星があり、1969年に発見された。直径は約10km、光度は16等級。1秒間に30回という高速回転をしており、33msの周期で電波やX線を出しているという[2]。可視光も出していて、望遠鏡で観測できるらしい。

中性子星といえば主成分が中性子で非常に高密度な星だ。その密度は1cm3あたり10億トンにもなる[3]。質量は太陽の1~2倍程度だが、半径が約10kmくらい。太陽の半径が約70万kmだから、半径10kmくらいの物体が太陽と同じくらいの重さなのは異常に高密度だとわかるだろう。

オリオン大星雲やばら星雲が星の生まれる状態なら、かに星雲は星の最後の状態だ。超新星爆発で飛び散ったガスは再び収縮し新しい星を生み出すのだろう。非常に長い星の一生は誕生と死の輪廻を繰り返す。そう考えると星の輪廻とは気が遠くなるほど長いものだ。

(作成日:2011-05-10 03:56:49)

参考
[1]壁紙リンク
[2]Wikipedia かに星雲 2011.5.10
[3]中性子星 大辞泉


プレアデス星団(すばる)

2011-03-20 00:00:03 | 物理学・数学

おうし座にあるプレアデス星団は青く美しい星々。日本では昴(すばる)とも呼ばれる。地球から約400光年の距離にある。


図1 プレアデス星団の写真[1]

図2 プレアデス星団の写真[2]

昔は視力検査として、この星が何個まで数えられるか試したという。通常の視力の人は好条件で6,7個の星を観測でき、非常に視力がよい人は25個も数えられたらしい[3]。この星団はばら星雲よりもさらにガスの収縮が進んで星がたくさん生まれた状態で、ほとんどガスは残っていないのがわかる。これらの星々は新しい星々で、年齢は6千万~1億歳程度だという[3]。太陽が確か約50億歳だから、ずいぶん若い星だ。また青白い星なので高温である。

もちろん肉眼ではこんなふうに見えないが、天気がよい日に観測してみるとよい。

(作成日:2011-05-10 03:42:16)

参考
[1]このサイトより
[2]天体写真の世界より
[3]Wikipedia プレアデス星団 2011.5.10


ばら星雲

2011-03-20 00:00:02 | 物理学・数学

いっかくじゅう座にあるばら星雲は赤く美しい星雲。

図1 ばら星雲の写真[1]

図2 ばら星雲の中心の星々[2]

約5000光年の距離にあり、ジョン・フラムスチード(1646~1719)によって発見された[3]。肉眼では見えないが、望遠鏡に干渉フィルターをつけて観測すれば見えるらしい[3]。見ての通りばらの形に似ているのでばら星雲という。中心をみるとガスが薄いのがわかるだろう。これは中心付近のガスが収縮し、恒星となったため。[2]に見える星々は新しい星々である。オリオン大星雲もしばらくすればこの星雲のようにガスが薄れてみえるところが現れるかもしれない。

(作成日:2011-05-10 03:24:13)

参考
[1]AstroArts 2005.11
[2]小さな天文台から 2009.1.11
[3]Wikipedia ばら星雲 2011.5.10


オリオン大星雲

2011-03-20 00:00:01 | 物理学・数学

オリオン大星雲は最も明るい散光星雲である。1610年にフランスのニコラ=クロード・ファブリ・ド・ペーレスクが観測したのが最初だとする説が有力らしい[2]。地球から約1600光年の距離にある。この星雲は双眼鏡や肉眼でも観測できる。

 

図 オリオン大星雲の写真[1]

この星雲は近くにあるθ星により光るとされている。最も明るい散光星雲だけあって、天文愛好家はよく撮影するようだ。確か星が生まれる場所で、ハッブル宇宙望遠鏡が恒星の誕生を探るためこの星雲を観測していたのを記憶している。ガスが収縮して光りだすのが恒星の誕生だが、星間物質が密集しているところでは星がたくさん生まれつつある。

オリオン座にはこの星雲と馬頭星雲という有名な散光星雲と暗黒星雲があるので、三ツ星とともに有名になる要素がいくつもある。

(作成日:2011-05-10 03:06:12)

参考
[1]星空観察日記 2006.2.24
[2]Wikipedia オリオン大星雲 2011.5.10


馬頭星雲

2011-03-20 00:00:00 | 物理学・数学

オリオン座の馬頭星雲は有名な暗黒星雲で、とても美しい。1888年にハーバード大学の天文台が写真撮影で発見した。


図1 馬頭星雲の写真[1]


図2 馬頭星雲の写真[2]

暗黒星雲とは光を出さない微粒子の集まりで、背後の発光体の光を遮るため黒いシルエットがみえる。馬頭星雲は暗黒星雲の典型で、シルエットが馬の頭の形をしているので馬頭星雲と呼ばれる。地球から約1500光年の距離にある。

この星雲は見ての通りとても美しいので天文愛好家たちはよくこの星雲を観測し、写真をとる。天文学に興味がない人でも、こういった写真を見せられたら宇宙に関心を抱くかもしれない。ただ、勘違いしてはいけないのは望遠鏡を通して見ても上のような光景は見れない。これは高性能の望遠鏡で長時間露出し写真撮影したもので、肉眼や望遠鏡を通して観測しただけでは見れない。星雲の写真は撮影の仕方や技術でずいぶん違ったものになるので、本当の姿はわかりにくい。

天文学の分野でこの星雲についてどういう研究がなされているのかわからないが、新しい発見があれば知りたいものだ。銀河や星雲の美しさや宇宙に憧れて天文学や宇宙物理学を志す人はいるだろうが、間違ってはいけないのは天文学者や宇宙物理学者の仕事には愛好家たちがやっているような星や星雲を見て楽しむ趣味的な要素はないということだ。天文学や宇宙物理学は一般の人が思うほど華々しくロマンがあるものではなく、かなり地味で気の遠くなる分野である。

天文学は物理学に比べて測定誤差が大きく正確でないし、直接実験ができないので真理の探究が難しい。別な言い方をすれば、確かな根拠を蓄積して真実にたどり着くことが難しい。現在の観測範囲では正しいと考えられていることも、精密な測定で覆ることが多いかもしれない。そういう意味で天文学は物理学より不安定な学問だと思う。

天文学を志す人はそのあたりのことをよく考えるとよい。

(作成日:2011-05-07 19:14:24)

参考
[1]夜空 2010.7.12
[2]壁紙link
[3]Wikipedia 馬頭星雲 2010.5.7 


低所得は低学力、品行の悪さに繋がるか?

2011-03-19 21:59:58 | 社会

低所得は低学力、品行の悪さに繋がるか?低学力についてはある程度相関があると思う。例えば東大合格者の保護者の年収は一般よりかなり高いデータがあるし、低学力層の所得が低いデータも見たことがある。では品行の悪さはどうかというと、低所得と関係があるとする文献を読んだことがある。また家庭の悪さと関係しているという話も聞いたことがある。

私の読んだ文献で、ある名古屋市立某中学校の話があった。その中学校は市内でも有数の低学力校で、1年で自殺者が2,3人出たり、教師が常識はずれの罰を与えたり、品行が悪い者が各クラスに数人いて授業をよく妨害するなど、環境がかなり悪かったらしい。文献によれば、その中学校の生徒の半数以上が年収450万円以下の低所得層だったという。さらに品行が悪い生徒の保護者のほとんどは母子家庭で低所得かつ家庭がうまくいっていないなど問題を抱えていたという[1]。

他の文献で低学力層ほど品行が悪いというデータを見たことがある。品行が悪い者は低学力者が多いため、内申点や入学試験の点数も低く、偏差値下位高校は教育困難校になることが多いという。そのため下位校ほど入試で内申点を重視し、品行の悪い者を排除しようとするという。逆に上位校は問題児がほとんどいないため、内申点を重視しない傾向があるという[2]。

所得格差が学力格差になってはいけないといわれるが、民主党の高校授業料無償化などいろいろな努力がなされていても、なかなか難しい。

(作成日:2011-04-25 22:27:16)

参考
[1]文献にもとづいてこのように記述しているが、母子家庭に悪い偏見を持たないでほしい。母子家庭でも高所得、家庭がすばらしいところはいくらでもある。仮に低所得だとしても何ら悪いことではない。また誰しも少なからず問題を抱えて生きているものである。他人のそうした状況を悪くいう方が悪いことである。
[2]上位校が内申点を重視しない傾向があるのは、内申点のつけ方が客観的ではなく学力を正確に反映していないことや学力試験の結果を重視した方が優秀な生徒を確保でき自校の目的である大学進学に有利になるからという理由もある。


最大の整数は存在しないことを示せ.

2011-03-19 00:31:30 | 物理学・数学

『最大の整数は存在しないことを示せ。』

この問題の証明を尋ねる人がいた。簡単だけど、こういう証明を学生は気にするのだろうか。

--
[証明]

最大の整数をMとする。M+1 > M 、M+1は整数だから、Mが最大の整数であることに反する。よって最大の整数は存在しない。

[証明終了]

--
背理法を使うとこのような証明になる。では、次のような説明はどうだろう。「1,2,3 ・・・と整数はいくらでも大きくできるから最大の整数はない。」これは説明としては通用するだろう。しかし、証明になるのか。教科書で習った証明法を使わないと、なぜか心配になってしまう。でも、背理法の証明も「いくらでも大きい整数が作れるので、最大の整数があるのはおかしい。」といっているので、この説明と同じ事だと思う。だから、私は証明としても十分だと思う。

きっと証明対象が自明すぎるので、証明として大丈夫かという不安を覚えるのだろう。


平成23年度(2011年度)愛知県公立高校入試Bグループ問題解答と合格ライン

2011-03-14 19:51:17 | 物理学・数学

問題は去年より少し簡単になったと思います。基本、標準問題を迅速確実に解けるようにしましょう。

上位・中堅校の推定合格ラインの一部を示します。データ元は野田塾[1]。

平成23年度(2011年3月実施試験)の推定合格ライン
(数値は内申, 学力試験の順、満点は内申45, 学力試験 100)

尾張1A
旭丘 42, 90 昭和 35, 79 名東 35, 79 熱田 30, 63 一宮南 31, 68  江南 34, 72 津島 33,67

尾張1B
名古屋西 31,65 天白 32,74 菊里 40,86 一宮西 39,82 小牧南 30, 66 半田 38,81

尾張2A
明和 42,90 松蔭 34,72 名古屋南 33,72 向陽 40,86 春日井 34,73 高蔵寺 32,70
一宮 41,88  新川 30,64 東海南 31,68

尾張2B
瑞陵 38,83 千種 39,83 桜台 38,81 旭野 36,80 横須賀 36,75 西春 36,78 五条 36,73 一宮興道 34,72

三河1AB
岡崎 41,89 豊橋東 38,84 豊田北 33,71 刈谷北 35,75 豊田西 39,82

三河2AB
岡崎西 32,70 刈谷 41,88 安城 32,69 豊丘 35,80 国府 34,80 岡崎北 35,76 安城東 33,67
西尾 35,76 知立東 34,70 時習館 40,83

皆さん、合格できるとよいですね。

参考
[1] 平成23年度(2011年3月実施)愛知県公立高校入試推定合格ライン 尾張1A  尾張1B  尾張2A  尾張2B  三河1AB  三河2AB  野田塾  2011.3.14
[2] 愛知県公立高校Bグループ入試の問題と解答 佐鳴予備校  2011.3


豊臣秀吉はなぜ征夷大将軍にならず関白になったのか?

2011-03-11 00:00:03 | 歴史

豊臣秀吉はなぜ征夷大将軍にならず関白になったのか[1]?これは昔からの疑問で今でもはっきりと答えがわからない。秀吉は武士だから、トップになるなら征夷大将軍になるのが自然で、彼が将軍にならなかったのは、いくつかの理由でなれなかったとか将軍になる機会に恵まれなかったと考える人は多い。将軍になれなかった又は就任の機会に恵まれなかった理由としては、

(1)将軍は源氏の血をひくものだけが就ける決まりで、秀吉は源氏の血をひくものではないから。
(2)足利義昭が将軍在任中だったから。
(3)将軍になるため足利義昭に養子にしてくれるように頼んだが断られたから。
(4)秀吉の生まれついての身分が低かったから。

などいくつか説がある。しかし、これらはいずれも有力ではないと思う。特に(3)は創作だろう。(1)も根拠が弱い。なぜなら、鎌倉時代の摂家将軍など源氏の血をひかない者でも将軍になった例はいくらでもある[2]。それに特定の血筋でなければ就任できないのは関白も同じで、五摂家の血筋でない秀吉が関白になるのは将軍以上に難しいと思う[3]。(2)も根拠が弱いと思う。義昭の将軍在任は1573年までだから、(2)が理由なら義昭の退任後いくらでも将軍就任の機会があった[4]。秀吉が関白に就任したのは1585年で、このとき将軍職は空位である[1][4]。また(4)も根拠が弱い。生まれついての身分が低くければ将軍になれないというなら、関白は尚更である。

秀吉は関白相論に便乗し、近衛前久の猶子として関白宣下を受けたが、五摂家の血筋でない秀吉が関白になったことは極めて例外的で、当時の秀吉の権力の強さを象徴する出来事といえるだろう[3][5]。秀吉が源氏の血筋でないからとか、身分が低いから将軍になれなかったという説はこのことから考えても根拠としてかなり弱い。例外的に関白になれた秀吉の権力の強さを考えると、おそらく秀吉が望めば将軍になれただろう。

では、なぜ秀吉が将軍ではなく関白になったのかという理由だが、調べてみたところどれも有力なものはなく、判然としない。私の推測だが、秀吉が将軍にならず関白になったことにはたいして理由はなく、関白相論でたまたま関白になっただけではないかと思う。関白や将軍の地位は天下統一の手段であって目的ではない。天下人になれるなら、関白か将軍かは重要な事ではないし、たまたま関白になれ、その地位で十分天下統一できたので将軍は目指さなかったのかもしれない。強いていえば、秀吉は諸大名に天皇に忠誠を誓わせることを大義名分として天下統一をしていたから、将軍より関白の地位の方がやりやすかったのかもしれない。関白は天皇の補佐・代理人だから、天皇に忠誠を誓わせることは諸大名を自分の家臣とすることを意味するので、秀吉の大義名分と関白職は天下統一にずいぶん役立ったのだろう。

以上が私の考察だ。こうして秀吉は関白職を将軍に代わる武家の棟梁の地位とし、豊臣氏の世襲によって受け継がせようとした。そして公家主体であった朝廷の官位に諸大名を組み入れ、公家と武家を統一して支配しようとした。いわゆる武家関白制といわれるものだ。ただ、この制度は長く続かず徳川家が将軍職に就き、関白は従来通り五摂家の持ち回りとなった。

日本の歴史上豊臣家の関白就任は極めて例外的なものだったといえよう。

(作成日:2011-04-24 19:56:38)

参考
[1]豊臣秀吉 デジタル大辞泉
[2]鎌倉幕府の第4代~第9代将軍は源氏の血をひかない公家が将軍職に就いていた。摂家将軍とは第4代藤原頼経とその嫡男の第5代藤原頼嗣の2人の将軍のこと。
[3]関白は藤原北家の流れをくむ五摂家(近衛、九条、二条、一条、鷹司の5家)だけに就任が許された。摂政も同じである。朝廷の官位では関白の方が将軍より上位だから、五摂家の血を持たない秀吉が関白になることは将軍就任と同じかそれ以上に難しかったであろう。(五摂家のリンク先はデジタル大辞泉)
[4]足利義昭 デジタル大辞泉
[5]関白相論:1585年に二条昭実と近衛信輔の間で発生した関白の地位を巡る紛争。この紛争の結果秀吉が関白となった。


豊臣秀頼は石田三成と淀君の子か?

2011-03-11 00:00:02 | 歴史

豊臣秀吉の世継とされた豊臣秀頼は秀吉と淀君(茶々)の子ではなく、石田三成と淀君の子だという話がある。これはドラマなどに出てくる話で、今年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」でも三成と淀君が怪しげな雰囲気になりそうな感じがある。

しかし、秀頼が三成と淀君の子供だという話はまず間違いなく嘘で、事実ではない。そもそもなぜこのような話が出たのかというと、秀頼が秀吉の子供ではないという噂があったことが原因だろう。知ってのとおり秀吉は子供に恵まれず、秀頼の誕生は彼の晩年だった。側室が何人もいてなかなか世継が生まれなかったのに、淀君との間には男児が生まれたので不思議に思った人が多かったのだろう。さらに秀頼は秀吉にあまり似ていなかったらしい。そういう事情があると「秀頼は秀吉の子ではないのでは?」という噂がたっても無理ないかもしれない。

ただ、秀頼は三成の子ではない。淀君が妊娠した時期を考えると三成は朝鮮出兵で忙しかったろうし、淀君との間に子をもうける機会はない。実際に秀頼の父ではないかと噂があったのは、大野治長という人物で淀君とは仲がよかったらしい。そのため噂になったのだろう。

しかし、秀頼の父親が治長であるという証拠はなく、これも噂にすぎない。史実では秀頼は秀吉と淀君の子である。DNA鑑定できればはっきりするのだろうけど。

(作成日:2011-04-24 19:25:53)


伊達政宗

2011-03-11 00:00:01 | 歴史

伊達政宗(1567~1636年)は仙台藩初代藩主で有名な戦国武将だ。政宗というと5歳のときにほうそう(天然痘)にかかったため右目を失ったが、数々の武勲を立て、仙台藩の礎を築いたことで有名だ。また、金の磔柱を持って上洛するなど、かなり派手なことをやったことでも印象に残っている。はでな服装や振る舞いをする伊達、伊達男、伊達女など伊達政宗に由来する言葉は今日でも使われている[1][2][3]。

伊達政宗は畠山、蘆名氏を倒して奥州を平定し、23歳の若さで200万石以上の領地を獲得するなど数々の武勲を立て、江戸時代になってからも62万5600石という大きな知行を持ち、かなりの成功者に見える[4]。

しかし、その生涯は家康に負けず悲劇の連続だった。上のようにほうそうで幼くして右目を失ったこともそうだが、それが原因で実の母である義姫(最上御前)に嫌われ、母の愛を受けずに育った。義姫は弟の小次郎ばかりをかわいがり、家督を継がせるように父輝宗に促していた。伊達家の家督争いもたいへんなものだった。政宗は父輝宗に愛されていたが、その父も敵である畠山義継につかまり、なんと政宗の目の前で殺された。それだけでも十分悲劇だが、何よりも政宗の生涯で最大の悲劇は豊臣秀吉に降伏するため小田原に参上する際に、実の母義姫から毒殺されかかり、弟小次郎をその手にかけてしまったことだろう。

母が政宗を毒殺し、小次郎に家督を継がせようとしたのは、彼女の弟への愛情もあっただろうが、上洛の命令を無視し続けてきた政宗が今更秀吉に降伏しても伊達家は助からないと考えたため、政宗の首を秀吉に差し出すことで伊達家を守ろうとしたのだろう[5]。いかに伊達家を守るためとはいえ、なんと実の母が自ら作った手料理に毒を入れて息子を毒殺しようとしたのだから、この時の政宗の胸中は極めて辛いものだっただろう。織田信長も家督争いのために弟を殺しているが、まさか母から毒殺されかかったのだから、極めてひどい。悲劇の度合いでいえば、家康と政宗ほどひどい人物はいないだろう。後に母とは和解したようだが・・・。そうでないとあまりにも悲しすぎる。

思うに、政宗は新しいものや派手なものに関心があると思う。例えば、キリシタンに関心を持ち、支倉常長をローマに派遣したこと、上の金の磔柱や小田原参上の際の白装束、朝鮮出兵の際に部下の頭に金ぴかの兜を使ったことなど、派手さについてはいくつも例がある[6]。また、政宗は幼いときから賢く、普通の子より半年はやく話ができるようになり、3歳の時には100まで数えることができたという[7]。虎哉宗乙(こさいそういつ)という名師や片倉小十郎影綱といった優れた家臣に恵まれたのは幸いだった。

無論、政宗は天下を狙っていた。おそらく江戸時代に入ってからも天下を狙っていただろう。私は仙台市の仙台城址(築城は1601年)に行ったことがあるが、もうすぐ江戸時代という時に作られたにしては山の上にあり行くのが大変だった。仙台城本丸は川や峡谷が近くにあり、明らかに攻められにくい場所にある。二の丸は平地にあったらしいが、その築城は政宗の死後すぐで、おそらく政宗以外の者は世が安定したため戦よりも交通の利便性を考えた城にしたかったのだろうが、政宗の野望のため彼に反対され、平城を作れなかったのだろう。

政宗の戦いは徹底していて、相手が降伏しても女、子供すら皆殺しにした[7]。政宗のこうした考え方は敵をふるえあがらせたという[7]。政宗としては敵が降伏してこれを許すと相手からなめられ裏切りに繋がるので、天下をとるため心を鬼にしたのだろう[7]。例えば敵を許したがために、ひどい目にあった例として源頼朝による平家滅亡がある。平家が天下をとったとき、子供だった頼朝を生かしたがために平家は滅亡となった。戦いとは非情なもので、相手の息の根は止められるときに止めておくのが当時の鉄則だったのかもしれない。

仙台市は東北地方の中心都市として発展しているが、それは当然のことながら伊達政宗が仙台市の礎を築いたからだ。仙台市の人にとって伊達政宗は故郷の英雄であろう。それは名古屋市の人にとって織田信長が英雄なのと同じことだ。その他、大河ドラマ「独眼流政宗」(1987年)の平均視聴率39.7%は歴代大河ドラマで最高であり、最大のヒット作である[8][9][10]。

伊達政宗は私の好きな戦国武将の一人だが、その生涯は波乱に満ちたものといえよう。

(作成日 2011-04-23 20:19:28)

参考
[1]伊達:1 意気や侠気(きょうき)をひけらかすこと。また、そのさま。
2 人目を引くはでな服装や振る舞いをすること。見えを張ること。また、そのさま。
3 好みがしゃれていること。考え方がさばけていること。また、そのさま。粋(いき)。「―に着こなす」

[補説]人目につくようにする意の「立つ」の連用形「立て」からとも、伊達政宗の家来がはでな服装であったからともいう。

デジタル大辞泉より

[2]伊達男:人目を引く、しゃれた身なりの男。また、侠気(きょうき)のある男。侠客。男だて。 デジタル大辞泉より
[3]伊達女:格好のよさで人目を引く女。いきな女。 デジタル大辞泉より
[4]仙台藩の62万5600石という石高は加賀(102万5千石)、薩摩(77万石)に次ぐ全国3位。この3つの藩は御三家筆頭の尾張徳川家(61万9千石)より石高が高く、外様雄藩といわれた。関ヶ原の戦いの時、徳川家康は政宗が東軍に味方することが必要と考え、「100万石のお墨付き」を与えたが、後に政宗が和賀忠親に一揆を煽動させていた策略が発覚し反故にされた。
[5]上洛せよという秀吉の命令は要するに秀吉の家来になれということ。当時関白秀吉は諸大名に天皇への忠誠を誓わせることを大義名分にして全国の統一を進めていた。関白は天皇の補佐・代理人であるから、諸大名が天皇に従うことは事実上秀吉の家臣になることを意味する。秀吉が征夷大将軍ではなく関白になったのは、このことと関係があったのかもしれない。秀吉のこういう統一の仕方は彼の主君織田信長が将軍足利義昭を奉じて京に入ったことなど、信長の統一の仕方と共通するものがあり、秀吉はおそらく信長にならったのだろう。
[6]政宗は秀吉の命による朝鮮出兵のとき、部下に金ぴかの兜をかぶらせたという。かなり派手で目立つため恥ずかしいが、政宗はその恥ずかしさのため秀吉は部下を先陣に使わないだろうと判断したため、このようにした。先陣は通常名誉なことだが、命を落とす危険も大きく、大事な部下を失いたくないという政宗の配慮による兜だった。
[7]伊達政宗、学研まんが人物日本史 1987年
[8]大河ドラマ「独眼流政宗」の最高視聴率は47.8%で歴代3位。ここ10年で最大のヒットといわれた「篤姫」(2008年)の平均視聴率は24.5%、最高視聴率は29.2%である。ある報道で篤姫のヒットを「空前のヒット」などと大げさに表現していたが大嘘であり、時代が違うとはいえ篤姫の人気は独眼流政宗の人気の足元にも及ばない[9][10]。
[9]世界変動展望:"篤姫は空前の人気ではない" 世界変動展望 2008.12.29
[10]世界変動展望:"宮崎あおいの出演ドラマの評価は過剰である" 世界変動展望 2009.1.19