思えば、このブログをはじめた頃は1日のアクセス数が50以下で、ほとんど誰も見ない状況でしたが、今では1000位以内がランクインするgooアクセスランキングに載ることもしばしばとなり、個人ブログとしては人気を獲得したと思います。皆様のおかげだと思います。
今年も1年間ありがとうございました。
世界変動展望 著者
2010.12.31
来年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」で注目しているのは、江が息子家光と忠長にどのように愛情を注ぐのかということだ。周知の通り、江は家光より忠長の方を愛し、育てたため、将軍の跡をめぐって、兄弟間の骨肉の争いが起きた。
家光の乳母は春日局で、彼女が育ての母で、事実上の母といってよい。昔は身分の高い人の子供は、母の乳がよく出たとしても、乳母が乳を飲ませる風習だった。その方が子供が丈夫に育つと考えられていたからだ。乳母と子は親密な関係になることが多く、乳母は子を愛し、子も実の母以上に乳母を愛することが少なくなかったという。春日局と家光もその例である。
一方、忠長は珍しく江が直接乳を与えて育てたという。そのため、江は家光より忠長の方を愛し、彼を次期将軍にしようと考えていた。上の論理からいっても、自分が乳を与えて育てた忠長を家光より愛するのは当然だ。
このため家光は母親の愛情を受けずに育ち、江も父・秀忠に次期将軍を忠長にするように勧めたため、父親にも愛されていないと感じてしまった。おまけに、弟・忠長からもあまり良く接せられなかったようだ。子供の頃の家光は非常に辛い思いをして育ち、自殺まで考えたかもしれない。
これが史実であろう。これを見ると、江はあまりよい母親ではない印象を受ける。江は主人公だから、さすがに悪役に描くわけにいかないから、どうするのか気になる。また、春日局との関係もどう描かれるのか気になる。
江と春日局は母親同士の敵対関係で、お互い育てた子供を将軍にしようと激しく争った。周知のとおり、その戦いの結末は、春日局が駿府城の家康に家光を将軍にするよう直訴し、家康が秀忠に世継を家光にするよう命じることで決着した。次期将軍を決めるのは、将軍の専権事項だから、隠居した家康の命令で世継が決まるのはおかしいと考える人もいるかもしれないが、秀忠が家康の命令に従った理由は、さすがにわかるだろう。
家康は江戸幕府の開祖であり、秀忠等徳川家の人間がその地位にあるのは、すべて家康のおかげだ。家康は江戸幕府の最大功労者である。秀忠が将軍で、武家の棟梁というのは形だけのこと。事実上の最高権力者は家康であり、家康の命令には将軍・秀忠といえど、絶対服従なのだ。大御所政治ともいわれるゆえんだ。
このように家光が将軍になれたのは春日局のおかげだ。それだけではない。子供の頃に辛い思いをして育った家光を愛し、支え続けたのは彼女である。春日局がいなければ、家光は自殺していたかもしれない。家光が助かったこと因果関係はないだろうが、家光が天然痘にかかって、死にかけたときに、水ごりをして「私は今後病気になっても決して薬を飲まないから、家光様の命を助けてほしい。」と願ったのは有名だ。
どんなことがあっても、春日局は家光の味方だったし、家光がどれだけ春日局に助けられたかわからない。それは家光もよくわかっていた。「春日局はどんなことがあっても私の味方だ。絶対に私を裏切ることがない。」と家光は心の底から思っていたに違いない。まさに二人は母子といってよい。かくして、春日局は家光の絶大な信頼を得ることになる。つまり、家光は春日局のいうことなら何でもきくということだ。
「政治をしているのは家光ではなく、坊主と乳母だ。」と当時誰かが影でささやいていたように、春日局は大きな権力を持っていた。江は御台所だから、春日局よりずっと地位が高く、大奥のトップは江だが、それも形だけのこと。真のトップは春日局である。
春日局はもともと夫・稲葉正成や子供たちを出世させるために、乳母になったといわれるが、春日局が強大な権力を得たためか、稲葉正成は下野で二万石の大名となり、長男・正勝は老中となり、小田原城主になって、八万五千石をもらったという。
はっきりいって、政治能力は江より春日局の方がずっと優れていて、この時代の女性で、ここまで主体的に活動し、政治力を持った人はいないだろう。当時は儒教的価値観が浸透し、女中庸に書かれた「三従の道[用語]」に代表されるような女性観に合わない彼女は否定的評価だったらしいが、私は江より春日局の人生の方が、よっぽど女性の強さを表していて、よいと思う。また、そっちの方が面白いと思う。1989年に放送したから、取り扱えなかったのだろう。
江と春日局の関係はどう描かれるのだろう。田渕久美子のことだから、篤姫と和宮のように一時期対立しても後で和解するという話にするのだろうか。私はそれに関心がある。
用語
[1]三従の道:女性は幼い時には父親に従い、長じては夫に従い、老いては息子に従うという考え。江戸時代の代表的な女性観。