まずはじめに。
当時、朝鮮人に対するいわれのない差別はあった。
確実に。
差別をするようなゴミはいつでもどこでもいるんだけどorz
それから
徴用で送られた先は炭鉱など、きつい現場だった。
何もこんなことまで否定しようとしているわけじゃなくてね。
差別があった
↓
だから徴用された
っていうのはウソなんだ、と。
それから
帰りたくても帰してくれない
っていうのもウソなんだ、と。
ちなみに
戦時動員された朝鮮人労働者の多くが働いた炭坑や鉱山での仕事は、
確かに過酷だっただろう。
しかし、労働環境が厳しい分、
朝鮮人労働者は給与面で厚遇されていた。
1944年頃の九州の炭坑で、朝鮮人労働者の月収は150~180円とされ、
巡査の月給(45円)の3~4倍、
大卒事務系初任給(75円)の2倍かそれ以上を稼いでいたと言われる。
謝罪無用! 冨山 泰 著 恒文社21より
ええと、
これって強制労働?
むりやり強制連行して来て、
むりやり炭鉱にぶちこんだなら
給料出さなくてもいいような気が。
さて。
募集(1939.9~1942.2) 14万7000人
官斡旋(1942.3~1944.8) 30万人
徴用(1944.9~1945.4?) 22万人
計66万人
ここまでが前回。
強制力を伴った「徴用」が朝鮮人に適用されたのは
1944年9月からだった。
日本人は1939年からいきなり徴用開始。
募集や官斡旋、などという
徴用猶予期間のような甘いことを言ってられるほど
幸せな情勢じゃなかったんだね。
徴用を強制連行だと言うのなら
日本人も強制連行されてたんだよね。
1910年の日韓併合以降、
内地での朝鮮人人口は増え続け、
1921年末には3万8千人
だったのが、
1938年末には79万9千人
に膨れあがった。
増加した人口の多くは、
朝鮮半島の農村からの出稼ぎ労働者が大半を占めた。
もちろんこれには密入国者は含まれてない。
当時の日本は朝鮮からの密入国に悩まされている。
1939年(昭和14)から1942年(昭和17)までの間に、
密入国者1万9千人を朝鮮へ強制送還しているんだよね。
しかも、
一人あたり2円とか3円とかの費用を使って
人狩りをしなければならないほど人手が足りなく
労働力が欠乏しているはずなのに、
密入国してくる人をなんでわざわざ帰国させるの?
もったいないよねえ。
とまあ、
この時点で強制連行なんて(以下略)
なんだけども。
動員とは無関係の出稼ぎ労働者の流入は続き、
1945年の終戦時には
内地の朝鮮人人口は約200万人となった。
1938年末に約80万人
終戦までの6年間で、
募集、官斡旋、徴用、合わせて約66万人
この80万人と66万人を足した
約146万人
終戦時、約200万人朝鮮人がいたわけだけど
200万人から146万人を引いた
約54万人
は、ええと、何?
内地で生まれた人もいるだろうけど。
それにしてもこれだけの人が
自分の意思で入って来てるのにわざわざ人狩りなんかしなくてもねえ。
と思うんだけども。
こんな数字当てにならない?
この54万人も強制連行されてきた、って言う?
うん。
まあ、好きにしてくれればいいんだけどね。
なんせ、チラシの裏だから。
西岡力氏によると、
戦時動員の6年間に増えた120万人の内訳は、
自由意志で渡航してきた出稼ぎ労働者とその家族が63万人、
動員先を抜け出して条件の良い飯場などで働いていた「自由労働者」が25万人だった。
だそうです。
さて、終戦後。
占領軍の命令によって日本政府は引き揚げ船を準備して、
運賃無料
持ち帰り荷物制限230キログラムまで
という条件で帰国させた。
1946年(昭和21)末までに
約140万人
が朝鮮に帰っていき、
自分の意志で残留を希望した約60万人が日本にとどまった。
5年後の1950年(昭和25)の国勢調査に拠れば、
46万4000人が留まっていた。
引き揚げにあたっては移送計画により渡日した労働者が優先とされている。
結果として、
「連行者」はほとんどこのとき帰国している。
このことは在日一世の渡日時期調査によっても裏付けられている
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「強制連行」という言葉は戦前にも戦中にも存在しない
昭和40年に出版された朴慶植著『朝鮮人強制連行の記録』が初出と言われてる。
参考資料: 「朝鮮新話」 鎌田沢一郎 昭和25年 創元社 P,320
もつともひどいのは労務の徴用である。
戦争が次第に苛烈になるにしたがつて、朝鮮にも志願兵制度しかれる一方、
労務徴用者の割り当てが相当厳しくなつて来た。
納得の上で応募させてゐたのでは、その予定数に仲々達しない。
そこで郡とか面(村)とかの労務係が深夜や早暁、
突如男手のある家の寝込みを襲ひ、
或ひは田畑で働いてゐる最中に、
トラックを廻して何げなくそれに乗せ、
かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込み、
その責を果たすといふ乱暴なことをした。
但(ただ)総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、
上司の鼻息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやつてのけたのである。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
参考資料: 朴慶植 「朝鮮人強制連行の記録」に引用された「朝鮮新話」の一部分 P,70
もつともひどいのは労務の徴用である。
戦争が次第に苛烈になるにしたがつて、朝鮮にも志願兵制度しかれる一方、
労務徴用者の割り当てが相当厳しくなつて来た。
納得の上で応募させてゐたのでは、その予定数に仲々達しない。
そこで郡とか面(村)とかの労務係が深夜や早暁、
突如男手のある家の寝込みを襲ひ、
或ひは田畑で働いてゐる最中に、
トラックを廻して何げなくそれに乗せ、
かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込み、
その責を果たすといふ乱暴なことをした。
・・・。
・・・。
あれ?
なんか大事な部分が抜け落ちてない?
すごく意図的なものを・・・ゲフンゲフン
まあ、ここから『強制連行』という言葉が生まれ
呪縛が始まったわけだけど。
強制連行者 終戦直後にほぼ帰国 産経新聞9月26日
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/6646/vol8.html
当時、朝鮮人に対するいわれのない差別はあった。
確実に。
差別をするようなゴミはいつでもどこでもいるんだけどorz
それから
徴用で送られた先は炭鉱など、きつい現場だった。
何もこんなことまで否定しようとしているわけじゃなくてね。
差別があった
↓
だから徴用された
っていうのはウソなんだ、と。
それから
帰りたくても帰してくれない
っていうのもウソなんだ、と。
ちなみに
戦時動員された朝鮮人労働者の多くが働いた炭坑や鉱山での仕事は、
確かに過酷だっただろう。
しかし、労働環境が厳しい分、
朝鮮人労働者は給与面で厚遇されていた。
1944年頃の九州の炭坑で、朝鮮人労働者の月収は150~180円とされ、
巡査の月給(45円)の3~4倍、
大卒事務系初任給(75円)の2倍かそれ以上を稼いでいたと言われる。
謝罪無用! 冨山 泰 著 恒文社21より
ええと、
これって強制労働?
むりやり強制連行して来て、
むりやり炭鉱にぶちこんだなら
給料出さなくてもいいような気が。
さて。
募集(1939.9~1942.2) 14万7000人
官斡旋(1942.3~1944.8) 30万人
徴用(1944.9~1945.4?) 22万人
計66万人
ここまでが前回。
強制力を伴った「徴用」が朝鮮人に適用されたのは
1944年9月からだった。
日本人は1939年からいきなり徴用開始。
募集や官斡旋、などという
徴用猶予期間のような甘いことを言ってられるほど
幸せな情勢じゃなかったんだね。
徴用を強制連行だと言うのなら
日本人も強制連行されてたんだよね。
1910年の日韓併合以降、
内地での朝鮮人人口は増え続け、
1921年末には3万8千人
だったのが、
1938年末には79万9千人
に膨れあがった。
増加した人口の多くは、
朝鮮半島の農村からの出稼ぎ労働者が大半を占めた。
もちろんこれには密入国者は含まれてない。
当時の日本は朝鮮からの密入国に悩まされている。
1939年(昭和14)から1942年(昭和17)までの間に、
密入国者1万9千人を朝鮮へ強制送還しているんだよね。
しかも、
一人あたり2円とか3円とかの費用を使って
人狩りをしなければならないほど人手が足りなく
労働力が欠乏しているはずなのに、
密入国してくる人をなんでわざわざ帰国させるの?
もったいないよねえ。
とまあ、
この時点で強制連行なんて(以下略)
なんだけども。
動員とは無関係の出稼ぎ労働者の流入は続き、
1945年の終戦時には
内地の朝鮮人人口は約200万人となった。
1938年末に約80万人
終戦までの6年間で、
募集、官斡旋、徴用、合わせて約66万人
この80万人と66万人を足した
約146万人
終戦時、約200万人朝鮮人がいたわけだけど
200万人から146万人を引いた
約54万人
は、ええと、何?
内地で生まれた人もいるだろうけど。
それにしてもこれだけの人が
自分の意思で入って来てるのにわざわざ人狩りなんかしなくてもねえ。
と思うんだけども。
こんな数字当てにならない?
この54万人も強制連行されてきた、って言う?
うん。
まあ、好きにしてくれればいいんだけどね。
なんせ、チラシの裏だから。
西岡力氏によると、
戦時動員の6年間に増えた120万人の内訳は、
自由意志で渡航してきた出稼ぎ労働者とその家族が63万人、
動員先を抜け出して条件の良い飯場などで働いていた「自由労働者」が25万人だった。
だそうです。
さて、終戦後。
占領軍の命令によって日本政府は引き揚げ船を準備して、
運賃無料
持ち帰り荷物制限230キログラムまで
という条件で帰国させた。
1946年(昭和21)末までに
約140万人
が朝鮮に帰っていき、
自分の意志で残留を希望した約60万人が日本にとどまった。
5年後の1950年(昭和25)の国勢調査に拠れば、
46万4000人が留まっていた。
引き揚げにあたっては移送計画により渡日した労働者が優先とされている。
結果として、
「連行者」はほとんどこのとき帰国している。
このことは在日一世の渡日時期調査によっても裏付けられている
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「強制連行」という言葉は戦前にも戦中にも存在しない
昭和40年に出版された朴慶植著『朝鮮人強制連行の記録』が初出と言われてる。
参考資料: 「朝鮮新話」 鎌田沢一郎 昭和25年 創元社 P,320
もつともひどいのは労務の徴用である。
戦争が次第に苛烈になるにしたがつて、朝鮮にも志願兵制度しかれる一方、
労務徴用者の割り当てが相当厳しくなつて来た。
納得の上で応募させてゐたのでは、その予定数に仲々達しない。
そこで郡とか面(村)とかの労務係が深夜や早暁、
突如男手のある家の寝込みを襲ひ、
或ひは田畑で働いてゐる最中に、
トラックを廻して何げなくそれに乗せ、
かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込み、
その責を果たすといふ乱暴なことをした。
但(ただ)総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、
上司の鼻息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやつてのけたのである。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
参考資料: 朴慶植 「朝鮮人強制連行の記録」に引用された「朝鮮新話」の一部分 P,70
もつともひどいのは労務の徴用である。
戦争が次第に苛烈になるにしたがつて、朝鮮にも志願兵制度しかれる一方、
労務徴用者の割り当てが相当厳しくなつて来た。
納得の上で応募させてゐたのでは、その予定数に仲々達しない。
そこで郡とか面(村)とかの労務係が深夜や早暁、
突如男手のある家の寝込みを襲ひ、
或ひは田畑で働いてゐる最中に、
トラックを廻して何げなくそれに乗せ、
かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込み、
その責を果たすといふ乱暴なことをした。
・・・。
・・・。
あれ?
なんか大事な部分が抜け落ちてない?
すごく意図的なものを・・・ゲフンゲフン
まあ、ここから『強制連行』という言葉が生まれ
呪縛が始まったわけだけど。
強制連行者 終戦直後にほぼ帰国 産経新聞9月26日
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/6646/vol8.html