ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

聖徳太子講の伝承「雉を獲る箸」とは?

2017-11-18 10:44:11 | 日本文化・文学・歴史
11月3日の文化の日には澄み切った青空に誘われて静岡市の駿府城公園等で催された大道芸
ワールドカップを見に行きました。子供たちより大人たちが童心に帰って大道芸のパフォー
マンスを楽しんでいました。来週には東京在住の娘が友人たちと自由が丘の大塚文庫で開く
作品展に行く予定です。美大系もそうでない人も混じった働く女性たちのサークル展ですが
お近くの方は自由が丘を散策しながら作品展にもお立ち寄りいただけますようご案内いたします。

 さて今回のテーマは敦煌の莫高窟に残されている「于闐(ホータン)に関する瑞像図」の絵
の説明文『瑞像記』が24も『敦煌の民族と東西交流』(栄新江著・2012年・東方書店)に
掲載されていました。


その内容は釈迦牟尼仏、毘婆尸仏、迦葉如来、虚空蔵菩薩、観世音菩薩、宝檀花菩薩、金剛
蔵菩薩、北方毘沙門天王、**天女など仏教界の様々な仏たちが仏教界の聖地である天竺の
霊鷲山から于闐の牛頭山へ、王舎城から于闐へ、舎衛国から于闐へ飛来して于闐に留まる、
あるいは守護するとしているのです。まるで仏の世界が于闐へ遷って来たと言わんばかりな
のは何故か?と疑問を持った事から始まりました。

このような瑞像が大量に出現した歴史的背景には7世紀以来于闐で末法思想が流行したことや
8世紀中葉以降の于闐地区の社会的動揺があったためとされますが、釈迦牟尼はじめ多くの
如来や菩薩や天女や北方毘沙門天が天竺の霊鷲山や王舎城や舎衛国から于闐へ飛来し、留まり
守護すると記す以上、天竺の仏法が失われ于闐に仏陀の世界が出現したと考えるほうが自然な
のではないでしょうか。実際に5世紀初頭に于闐(瞿薩旦那国)をおとずれた中国の求法僧・
法顕は『仏国記』(416年完成)に釈尊の誕生祭(花会式)が盛大に催されておりその光景を
記しています。また、7世紀に天竺への途次立ち寄って玄奘三蔵(602~664年)は『大唐西
域記』に瞿薩旦那国の建国神話を記しており「仏法を重んじ伽藍百か所、僧は五千人余りおり
大部分は大乗仏教です。」と述べており、末法という暗い雰囲気を感じることはありません。
さらに瞿薩旦那国の始祖王は天竺マガダ国マウリア朝の阿育王(アショカ王)の太子で、はじめ
タクシャシラー国(タキシラ)にいたが譴責されて雪山に追われ遊牧民となり水草を追って
この地に来て都を定めたとしています。

建国神話は他に『ウテン国授記』『ウテン教法史』など様々な伝えがありますが大筋(始祖王
はアショカ王の太子。生まれた子は地乳で育つ。毘沙門天の国)では似ていますが、違いも見
られます。一説に
「昔、東土帝子は罪を得て追放されホータンまでやって来た時、タキシラ(ガンダーラ)の移民
と遭遇した。どちらの武士が上か力比べをすることになり東土帝子が勝った。そうしてふたつの
部族を合わせて国を作ったが、跡取りができなかった。東土帝子は毘沙門天を祀ったお堂に行き
祈願すると神像が割れ赤ん坊が出てきた。人々は神輿に乗せて運び国中が祝ったが、どうしても
乳を飲まない、困り果ててお堂に行きもう一度祈願するとお堂の前の地面が盛り上がり、乳房の
ようになり、その乳を吸って赤ん坊は大きくなった。」と伝えます。

始祖王がアショカ王の太子であると伝承されていたことは史実に対応する部分もあるようです。
タクシャシラー国とは紀元前4世紀、インドのパンジャブ地方を含む北西インドに存在していた
が紀元前321年に後にマガダ国、マウリア朝の始祖となるチャンドラグプタに滅ぼされました。

タクシャラーとはタキシラ王に所属する土地を意味し、タキシラとはタクシャカ(大工の意味)
に関連する語と言われており、ナーガ族の別称でもあったという。

チャンドラグプタ(卑賎な階級から身を起こし、ナンダ朝の武将となり王を殺してナンダ朝を倒し
た)はその後マガダ国マウリア朝を建国し2代目は息子のピンドゥサーラが継ぎ、3代目はアショ
カ王(前668~232年頃)、4代目のブリハドラタが部下に暗殺されマウリア朝は滅亡(前185年)
しました。アショカ王の時代にはタラキシラが仏教の中心地でした。マウリア朝滅亡後、幾つもの
王朝の興亡がありましたがパンジャブ地方に隣接するガンダーラに興ったクシャーン朝(紀元1~
3世紀)は新しい仏教美術を開花させて西域にも影響を与えます。
5世紀になると遊牧民族エフタルが侵入してきてタキシラに建設されていた仏教寺院やストゥーパ
は破壊されてしまいました。
瞿薩旦那国の建国神話に記されたタキシラからの移住者というのはエフタルの侵入によってタキシ
ラが破壊され、居場所のなくなった仏教徒たちが西域に逃れ、于闐にもやってきた事実が反映され
ているのではないでしょうか。

先月14日に放映されたBSプレミアム「法隆寺金堂の消失壁画の源流を探る」では亀茲、敦煌、ホ
ータンを巡りつつ最終的にはガンダーラの遺跡の壁画に法隆寺に描かれていた布と同じ柄をみつけ
たのでした。これも聖徳太子がホータンと関係があると推測させるものでしたが、聖徳太子の逸話
として良く知られている「太子は一度に大勢の人の話を聞く事が出来た。」「雉を獲るには太子講
で使った箸を使うと獲れる。」など不思議な話が伝承されています。

前者は聖徳太子が四天王寺を創建したので、四天王のうち北方守護の多聞天(毘沙門天)の漢字表記
からの発想で「多くの人の話を聞くことが出来る」となったと思われますが、「雉を獲る」方は少し
複雑で、太子講を開く人々は大工や木地氏や左官などの職能集団であることが特殊な要因です。
そこでひらめいたのがタキシラ(大工むら?)から移住し瞿薩旦那国(ホータン)の建国に関わった
人々がいたという伝承でした。

 では雉とは何か?秋の七草の暗号の解き方は同音異義熟語でしたから、
 雉=亀旨あるいは亀茲=木地の可能性があろうと思いました。
 獲るとは取る、滅ぼす、倒すの意味があります。

 太子講の箸とはなに?聖徳太子に関わる「はし」といえば母「穴穂部間人皇女(用明天皇皇后)」の
 「はしひと」であろうと思いました。以前のブログで間人皇女の母である小姉君は蘇我稲目が高句麗
 との戦いで得た女性を貰い受け妻としたという説話の「美女姫」と推量し、ホータン王家ビジャヤの
 一族に属する女性ではないかと思っています。

 亀旨とは『駕洛国記』に載る金官伽耶の首露王の誕生する卵の降臨場所が亀旨峰とされ、日本の建国
 神話にも登場します。そして伽耶国を滅ぼしたのは新羅でした。以前のブログでは首露王の妃が天竺
 阿喩陀国(コーサラ)の公主とあるので、天竺に近い西域の亀茲が首露王の元の国ではと推量しました。
 そして亀茲国の王の姓が蘇氏であったので<その国>=新羅であろうと考えました。

 間人皇女の母・小姉君がホータン王家の血筋なら聖徳太子もホータンとつながりがあるわけで、建国
 神話ではふたつの部族とあり、一方はアショカ王の太子系、一方がタキシラの移民ですから大工を職
 とする人々の系統と考えられます。聖徳太子と大工がどう考えても結びつきませんでしたが、このよ
 うに考えたら如何でしょうか?

 玄奘の『大唐西域記』ではタキシラを旦(日偏に旦)叉始羅国と表記されていますが、新羅も始羅国
 と表記した例もあります。またタキシラは古代北インドの商業、交通、政治、学術の中心地で、マウ
 リア朝時代にはアショカ王の王子クナーラが総督として統治していたとも言われます。

さらに興味深いことには、瞿薩旦那国は毘沙門天の国と言っており、唐の支配がおよんだ時には「毘沙州」
となり、王家はビジャヤ家であり、毘沙門天と深く関わっています。毘沙門天の源流を次回に。


  
 






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