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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

スーパー激戦区 ~広島県三原市~

2025年06月22日 | open



駅から半径2km圏内の住宅街
の中で、大型スーパーが20数
軒ひしめき合う街、三原。
上図に記載されていないチェ
ーン店のドラッグストア兼ス
ーパーも含めたら、その数は
実にとんでもない事になる。
人口は広い全市内含めてたっ
た8万の人しか住んでないの
に。
狭い市街地でそこら中スーパ
ーだらけというこんな街は見
た事が無い。
市内のスーパーは熾烈な過当
競争だろうなぁ、と思う。
店によっては同じ商品が1個あ
たり20円も違う事もある。
まあ、談合してない証拠だろ
うが、この街、スーパー多す
ぎ(笑

あと、三原市街地の特徴とし
ては二つある。
一つはやたらめったらと理容
室、美容室が多い事。建物数
軒ごとに髪切り屋がある感じ。
そして、今は廃れたが、町医
者がベラボーに多い。とてつ
もなく多い。

これも城下を歩くと分かるが、
数軒ごとに医院がある。
なんだべ?この街は。
なお、城下町としての風情は
明治以降の近代工業都市化に
より全く残っていない。
残っている武家屋敷ゼロ、城
下町の景観
もゼロの街である。
城下町なので、江戸期の三原
の住人は武士および武家関係
者が人口の半数を占めていた。
維新後、ほぼ全家に近い武士
の家が外に転住した。ただ、
武家奉公人まで含めると出鱈
目に侍関係者が多いのがかつ
て江戸期の三原で、明治以降
はガラリと変わって、ほぼ全
員が町人の住む街、みたいな
事になった。
明治以降の近代化政策により、
農村部からの人口の流入も相
次ぎ、莫大な工場労働者を抱
える地方の工業都市へと変貌
した。資本主義国家の発達の
中での典型的なパターンだ。
最大規模は東京と大阪だった。
現在の三原市街地は江戸時代
には城下であったので、たぶ
んそれなりに厳格厳粛な街で
治安も良い街であった事だろ
う。
今は狭い町なのに、窃盗、強
盗、恐喝、強取、傷害、殺人
等が人口比率からすると頻繁
といえる数が発生しているし、
交通事故も多く、運転者のお
行儀はかなりよろしくない。
それらを当たり前のようにや
る。
床屋(理容店)などで地元の人
たちの話に耳を傾けていると
「あっこ(あそこ)の果物とか、
ようごそっと盗ってきたもん
よ」「ほうよ。盗られるもん
持っとるけぇ、いけんのんよ」
とかいう会話を何度も耳にす
る。
耳を疑うが、それがこの地の
「普通」であり「常識」で
あるようだ。人の物を盗んだ
り強取することは何とも思っ
ていないらしい。お好み焼き
屋でも地元民たちのこの手の
話をよく耳にする。
そして、三原の人たちの得意
業が「あっこ(あそこ)はアレ
じゃけぇ、あんた、付きおう
たらいけんよ」というような
事を非常に多く口にする事だ。
町中のいたるところに「人権
看板」が建っている町だ。
だが、まともな教育を受けて
ないのか、市民の意識は変わ
らない。
それだけでなく、飲食店舗に
ついても「あっこは行ったら
いけんで」と人によく言うの
が三原市民の特徴だ。商工会
の人間さえもそれを言ってい
たりする現実がある。
万引きも異様に多く、ある大
型玩具店などは度重なる窃盗
強盗により店舗を閉店せざる
を得なくなった事実がある。
無法地帯。
腰にピースメーカーをぶっこ
んで歩かないとならないのか
と勘違いしてしまう。

だが、そうした現実、事実を
指摘して、なんとかしないと
なぁとか口にしたり書いたり
すると逆切れするのがお決ま
りのパターンだ。
そして、私とは会った事も無
い人間が私の友人をつかまえ
て私のこうした記事を読んで
「三原の悪口しか言わんけぇ。
付き合いあるんじゃったら、
あんたも気ぃ付けんさいよ」
と言ってたりする。そういう
町人(まちびと)たちが棲んで
る町。
これは広島市内でも同様で、
私を指してある公務員は「い
つも常に乞食(発言ママ)のよ
うに何かブログネタがないか
下を見て歩いてるような奴じ
ゃけぇ、あんた付き合うのや
めたほうがええで」と私の友
人に言っていたりした。公の
場では先生呼称されているよ
うな立場の人間だ。

広島県という仁義なき土地に
おいては、地元愛というのは、
ベタベタに、右に転んでも左
に転んでも何が何でも褒めち
ぎって、黒い物も白と言いま
くって持ち上げ、「わしらの土
地が一番じゃけぇ」と互いに
言い合う事が地元愛の表現だ
と思っている。
ぬるい。
市民として刃を自分に向けて
是正すべき点を冷徹に見抜い
て、それの悪弊を鋭意を以て
除去して行く瑞々しい精神的
前進力に欠ける。
それは地元を真に思い、人を
思う心の缺欠だ。

かつての三原、落ち着いた時
代の三原はこうではなかった
のではなかろうか。西日本で
も知られた武芸錬磨の町であ
った時代には。
現在は正直、トホホで残念な
件がかなり多い。
懇意にしている法律家は町を
出た。「ここの人たちは変わ
らない」と言い残して。
生活拠点を三原ではなく別な
遠い土地に求めた。

広島県三原市はコンパクトな
町で買い物至便
で便利なのだ
が、映画館とボ
ウリング場と
ビリヤード場が
全く存在しな
い。

ネットカフェに玉台は1台あ
るが、そこはあくまで玉台置
き場であって撞球師の社交場
である「ビリヤード場」では
ない。
かつて昭和初期から戦後の頃
の三原市には映画館が6軒程
存在した。
町の隆盛具合は、昭和30年前
後が一番活気があったのでは
なかろうか。
広島県内の僻地で田舎だった
西条が国立大誘致と新市名東
広島市に変更し、市街地も大
開発整備でと
ても美しくなっ
て以降、近隣
企業誘致により
外部から流入
した転住者たち
は、三原市では
なく東広島市
に好んで住むよ
うになった。
三原はなおさら
人口減少に拍
車をかける事に
なっている。
東広島市内は実際に二輪や車
で走ってみると、道も整備さ
れ、なだらかな坂と起伏に富
み、景観も美しく、「良い町」
という印象を鮮烈に与える。
インフラ整備も半端ない。

完全に酒どころ西条から近代
都市東広島へと脱皮転換に成
している。「街の器」とし
ては。

市制改革の一つの成功例だろ
う。

関東でいうなら、今のさいた
ま市(JR駅大宮)のような雰
囲気の街が東広島市だ。

東広島市




三原の場合、町の衰退の一因
は、もしかすると異様なスー
パー乱立にもみられるように、

タコが自分の足を食っている
のではなかろうか。

経済活動の側面としては。
テナントも今はガラガラで借
り手がつかない物件だらけ。
20年程前は、三原市内にはマ
ンションは数棟しか存在しな
かったが、不動産業者に食い
物に
されるように一気にとん
でもない数の分譲マンション
の物件が乱立した。

どこも建てれば即契約満室、
という状態だった。それが
2002年~2015年頃まで。
今は飽和状態で、マンション
を建築しても売れない。
なんだか、不動産業者に狙い
撃ち
にされたようにも思える。
泳ぐ魚の群れに一気に網を

打たれたように。
今はスーパーが乱立している。
新規の大型店舗の開店ラッシ
ュ時期だ。
マンション建設ラッシュの次

は大型スーパー乱立で市場の
食い争いか、という状態。

砂金によってゴールドラッシ
で湧いた西部開拓時代の町
ように、あるいは日本の炭
鉱町やニ
シンの町のように、
ほんの一
時ドル箱ラッシュで
活気づい
ても、やがてはどれ
もがゴース
トタウンのように
なっている。
それは、現実と
して。

三原市の過去の流れと現況を
見る限り、将来性は非常に寒
いものを感じざるを得ない。
三原に砂金など無いのに。ニ
シンも石炭も無いのに。
数年前の未曾有の豪雨災害と
いう天災により、河川から流
出した土砂が沿岸に堆積し、
三原名産のタコも一切獲れな
くなった。全く。今三原に名
物の地蛸はいない。無い。
「たこの町みはら」としての
町おこしもとん挫した。
生態系が回復するまで、あと
50年程は三原沖で蛸は獲れな
いだろう。
人災ではなく、天災ではある
が、いよいよ天からも見放さ
れたか。
残された道は、福永武彦の小
説「廃市」のように、淀んだ
空気を噛みしめて、因習を後
生大事に温めて、ここで生き
る事だけなのか。

 
 

 

 

 


 
 
 
 


 


 


【三原】お好み焼?焼きそば?独特の焼き方をするローカルお好み焼!

2024年11月26日 | open

【三原】お好み焼?焼きそば?
独特の焼き方をするローカル
お好み焼!


私は東京生まれ神奈川育ちだ
が、祖父の家が江戸時代から
三原市街区
だったので、1960
年代初期から
よく三原には行
った。

こういうお好み焼きがごく普
通かと思っていたら、尾道や
福山や広島市内(中心部)のお
好み焼きは違う事をその後
知り、結構驚いた。
三原は三菱の街だったので、
関西風が広島市内のお好みと
合体したのではなかろうか。
三原では焼きそばかうどん入
りをモダンと呼ぶ。
鳥のキモの事をモツと呼ぶ。
そしてキャベツがやたら多い。
油を敷かない鉄板で焼くのと
油敷き鉄板で焼くのと二通り
あるが、前者は三原市民にも
賛否両論あり、好みが分かれ
る。

私はよそもんなので手前味噌
や身内びいきなど無しに客観
的に現象や味などを見られる
が、三原のお好み
焼きは正直
言ってウマい。

幼い頃から年に何回かながら
食べ慣れた味だからと
か、そ
ういうのは抜きにして、
正直
ウマい。

そしてソースは実は三原の地
ソースの天狗ソースがウマい
のだが、三原のお好み焼き屋
はいろいろなメーカーのをブ
レンドして工夫している店が
多く、味の違いが店ごとに楽
しめるのが非常に良い。
これが広島市内に行くと、特
定の集団圧力ではないが、特
定メーカー以外のソースを使
うと商工会でつまはじきの村
八分、という裏の事情もある
と市内の人間何人もから聞く。
集団圧力は広島県民全体の得
意技だが、ことお好み焼きに
関しては広島県三原市におい
てはどの店も自由に独自の工
夫の味を出している。
なので三原のお好み焼き屋は
ベラボーに店舗数が多い中、
かなりいろいろ個性が楽しめ
る。画一的な金太郎飴の味で
はないのが三原のお好み焼き
の最
大の特徴だ。
これは「お好み焼き」の名前
を地で体現している良現象か
と思える。
東京の蕎麦屋のように辻を曲

がればお好み焼き屋がある程
で、どの店にも行きたい放題
のお好み次第のお好み天国だ。

三原のお好み焼きでもう一つ
面白い
現象がある。
それはテイクアウトで持ち帰
った時。
美味しいと評判の店のお好み
でも一日経つと味がガタ落ち
する店と、そうではない店が
ある、という事。
これはピザと同じで面白い。
なにがどうなってそういう作
用が発生するのかよくわから
ない。
その場で食べれば極上でも、
一日取り置きすると味がガタ
落ち、というのと店でも美味
しく、取り置き後も味があま
り落ちないという店がある。
これは何だろ?
謎。

以前、イトコのねーちゃんと
三原お好み焼き店総網羅の
ネットマップ作ろう、と言っ
てたが、イトコのねーちゃん、
50代で白血病で死んでもうた。
そのねーちゃんの兄の子も
20才で白血病で死んだ。
私の父も白血病で死んだ。
広島県、実は多いのではなか
ろうか。
半世紀以上過ぎても、例の影
響が少なからずあるのではと
と思う。
広島市から100キロ離れた
福山市でさえも風向きの影
響か、あの8月6日過ぎには
「黒い雨」が降った事を知
る日本人は多くはないので
はなかろうか。
私の母も「黒い雨」を経験
した。当然三原の人もそう
だっただろう。

大昔の1970年代。

私と都内で接近したある女性
が、私
の親が広島県出身だと
聞いて
から「え?広島?原爆
大丈夫
なの?うつるんでしょ?」
言った。話していた場を離
れるようなそぶりを見せなが
ら。

1945年の日本人の被爆による
被曝がまるで細菌かウ
ィルス
のように伝染するかと
思い込
んでいて、それで自分
の身を
案じたのだ。自分のみ
の身を。
何という無知、何という偏見、
何という差別観。
だが、歴史の現実に目を向け
ず、物事の真実を見つめよう
としない人間は、国籍も居住
地も関係なく得てしてそん

ものだ。

そればかりは全国版であり、
21世紀の今でも地方に残る
独特の偏波な視野狭窄的独断
と偏見と差別性をも凌駕する
オールジャパンだ。

三原のお好み焼き、殊の外う
まい。

これホント。
客観的に言って、かなりイケ

る独特なお好み焼きを焼く。
三原はタコとお好み焼きだな。
あと真鯛がやたら釣れる。
船を出せば坊主は無い。ゼロ。
坊主がゼロというのは気持ち

がいいぜ~、ハッハー。おれぁ
坊主がでぇきれぇだからよぉ。
坊主なんざは世の中ゼロに限
る。坊主なんてろくなもんじゃ
ねえ。

大げさではなく、三原沖はそ
れほど釣れ
る。素人でも釣れ
る。私の最短実績は釣り時間
30分きっかりで3人で6尾だっ
た。30分で納竿で6尾。三原の
海は嘘偽りなくそんな感じ。
寺の多すぎる城下町なのに
海に船出しゃ坊主はゼロ。
あ~、気持ちいい。

タコは残念ながら数年前の
豪雨災害(街の一部が水没)に
より、海域の状態に変化が
生じて、今はほとんど地物が
獲れない。
漁協も商店会も非常に困惑し
ている。
三原の地蛸の味は激しい海流
の中で育ったため極上で、他
の瀬戸内海エリアよりも遥か
に味が良かった。もしかする
と日本一ではと思える程に。
あと何年か何十年かは三原の
地蛸は復活できないだろう。
自然災害は恐ろしい。

三原は狭い町だ。
かつての三原城内の現在城町
というエリアのあるお好み焼
き屋は東京の私の叔父の幼馴
染がやっている店で、かなり
イケる。駅からズドン
と真っ
すぐに行って最初の信
号を右
に曲がってすぐ。駅前から
160メートル。

そして私はここ数年、そのお
好み焼き屋の向かいのバイク
乗りのオーナーとマスタ
ーの
店で、連日のように飲み
上げ
ている(笑
狭い町なのでどこかで誰かが

繋がる。
その店のマスターが私の友人
の撞球会メンバー二人とひょ
んな事から知り合いだった。
たまたま偶然。道で難儀した
とこを助けたり助けられたり
の一度だけの接触だったよう
だが。
このたび、私を通して久しぶ
りにその三人は再会し、原チャ
でGO!で共に海の上を走っ
た。
点と点が繋がって人の輪が広
がった。輪で輪が広がり和に
なった。

そういう新たな笑顔の関係性
の始まりってのはいいもんだ。

 




町のラーメン屋

2024年04月17日 | open
 

町の古いラーメン屋さん。
 
チャーハンではなく焼めし
というのが良い。


ここのラーメンは私は結構
好きだ。環七のラーメンみ
たいな味。
不思議なもので、時々ふと
無性に食べたくなる。
醤油スープだが塩味が濃い。
焼めしはサッパリしていて
なかなか、いやかなりいけ
る。私はここの焼き飯がと
ても好きだ。くせになる。
半チャンセットで950円。
ここで昼間からビール飲み
ながら餃子とおでん、締め
はニラ玉ラーメンなんての
は最高ではなかろうか。
月曜が定休日だから、土日
ならばそれが可能だ。
古くからある古びた町の
ラーメン屋で昼酒。もうね
最高だよ(笑
ここ、餃子も美味しいのよ。
おでんは汁が今イチ。醤油
が強すぎる。あれ、つゆを
もっと薄くしてしっかりカ
ツブシと昆布で出汁とって
さらに具に巻昆布入れたら
いいのになぁ。

おでんは1個100円。激安。
ただ、つゆはご覧の通りだ。
まるで関西のみに存在する
「関東炊き」という関東には
存在しないナンチャッテ関東
もどきのおでんのつゆの色と
同じ。真っ黒。


絶対おすすめの焼めしと共
に、このノーマルラーメン
もおすすめ。味が濃く、ガ
テン系。塩分強め。
チャーシューはサッパリ系。
100点満点中90点超のラーメ
ン。非尾道ラーメンで伝統的
な全国版のザ・ラーメン。


国道185号線から商工会議所
信号を北上ル2軒目左。
 
 

東京・横浜方言

2023年08月29日 | open


典型的な東京の風景

普段私が話す言葉は東京・横浜
の方言だ。
仕事では全国共通語の「標準語」
を話すようにしている。
対人対話や畏まった場では、その
ように共通語を使用するように
小学生の時から学校の国語
教育
で習ったからだ。
学習して習得したものはそれを
使う。日本語を母国語として
教育を受けた者の常識として。

地元方言しか話さないで人と
コミュニケーションを取ろうと
するのは大変失礼、無礼な事で
あり、傲慢だ。
よくイナカモン(田舎という
地方に住しているのがイナカ
モンではないので注意)には
多いのだが、地
言葉だけしか話
そうとしない人
たちがいる。
しかし、あれは極めて人として
傲慢な態度だと断定できる。
フランス人が絶対に英語を話そ
うとしないのに似て。
全国共通語である標準語は義務
教育で6才の時から日本人は
教育される。
これは明治に始まった。
国軍創設の時に命令が通じない
からだったが、明治に国民教育
として「標準語」を新設した。
それは、旧幕臣の旗本言葉を
ベースに新政府軍によって創作
された日本初の全国共通の言語
だった。
ここに初めて日本人は母国語で
ある「国語」を手に入れたので
あった。

明治新時代から100数十年が
経とうとも、日本人たる自覚
が薄いのか、地元の部族言葉
しか話そうとしない人々が地方
に行けば行くほど多い。
言語として方言を守るのは良い
事だろうが、初対面や公共放送
で方言しかあえて話さないのは
日本人としての相互の交流と
意思疎通を無視する傲慢至極
の態度である。
だが、自覚無き人々は田舎には
多い。小学校行っただろうに。

うちの刀剣会の山梨県での合宿
の時、初めて会った
横浜出身の
人が、私の
話し方について、
「話し言葉遣いが
かなり江戸前
なので驚いた」と
言っていた。
普段話すのは書き言葉ではない。
私の地言葉になる。
つまり、東京横浜の方言だ。
サンマの産地で生まれてハマ
で育ち、小石川界隈の高校に
通い、ハマに住みながら都内の
大学に行き、虎ノ門新橋の職場
に通勤した。ずっと江戸・横浜
界隈で過ごしていた。
なので、語り回しはちょいと
伝法なエンコ風味もあるが、
東京と横浜の混ぜ口調になる。
だが、襟元正して真摯に会話
する時
には標準語を使う。

東京・横浜の方言を話す江戸ハマ
ジモチーたちがラッキーなのは、
それは日本語の共通語たる標準語
が、地元方言にとても近い事だ。
これはかなりラッキーであると
同時に楽している。
しかし、よく考えると苦労もある。
方言と標準語が似ているだけに
微細な差異をきちんと使い分けて
正しい日本語=標準語を話すの事
の難易度が上がるからだ。
むしろ、まったく標準語とかけ
離れた地方の人たちは、標準語
をマスターして話すのはたやすい
のではなかろうか。
昔の芸能人(歌手や俳優たち)は
標準語を話すことを強制された。
大阪出身者たちや九州四国出身者
たち等々。
松田聖子や堀ちえみや広末涼子は
完璧な標準語を話していたが、
地方出身者だ。
今でこそ、地方在民のような空気
もあるので、方言で時たま話す
事は芸能人も認容されてはいるが、
基本的に人様に物を伝える公共
放送では全国に通じる共通語=
標準語で話すのが礼儀であり常識
だった。
それゆえ、かつては芸能人たちは
ニュース放送と同じ標準語の日本
語を話す事を必須とされたのだ。
なにも東京人ぶる中央集権主義
の象徴で標準語を話していたの
ではない。

最近はライン等のメールでのやり
取りも人との間で多いが、困る
のは、メールの書き言葉さえも
方言一色で書いてくる人。
「その言葉の意味がわからない」
と返信すると「嘘じゃろ?馬鹿に
しとるん?」とか言ってくる。
性格は典型的なその地方のパターン
だから仕方ないとして、そのスタ
ンスの人が多すぎて困惑する。
そのうち、意味不明の言辞も聞き
流す、見流す、スルーになって
来る。問うと馬鹿にしてるのかと
逆上するからだ。これ、何も一人
ではなく、同パターンとして何人
もが同じ反応を示す。
個別個体差ではなく集団性だろう。
テレビの地方局も方言ファースト
で放送しているし、非常に住み
にくい。よそから来た人を排除
するジモチー根性の構造に地方
社会は隅々まで満ちているから
だ。市の商工会でさえ東京から
来て飲食店を開店した人を指して
「あっこの店、行ったらいけんで。
よそもんじゃけえ(あそこの店は
行ったら駄目だよ。よそ者だから)」
という事を言ったりしていると
いう全国的(というか首都圏では、
か)には信じがたい事実がある。
別な地方でも似たような例が問題
となってニュース番組でも取り
上げられていた。
とにかく地方の田舎の人たちは、
「牧歌的で人柄が良い」という
のは大嘘で、非常に底意地が悪く、
排他的で非開明的で、妬み深く
執念深い。こればかりは全国
共通項のようだ。
それは大昔からあるようで、夏目
漱石の名作『坊ちゃん』を読めば
地方の性根がよく判る。
あれは漱石の教師としての地方赴任
の実体験をベースにしているが、
実際にあの登場人物のような地方人
が全国各地にわんさかといたのだ
ろうし、今も根を張っている。
「日本人」になればいいのに、と
思う。垣根など作らずに。
だが、残念ながら、21世紀の現代

にあっても「ニッポンは一つの国
ぜよ」にはなっていない。
龍馬がやろうとした日本の洗濯は
今なお実行されていない。

なんとかならないものか。
答えはなんともならない。
地方のジモチーたちは変えるつもり
が全く無いから。
地方の変革は地方の在地の人間が

自主的に自覚してやるべきで、
よそから転入した人間が率先すべ
きではない。そういうレーニンの
外部注入論のようなのは駄目なのだ。
それは人類の歴史が証明している。
だが、今の全国的な地方復権、在
地在民
の国内風潮は、非常に良い
面もあるが、
実は地方人の意固地
な狭い地元
根性を増幅させる悪し
き面も助長
させている事が社会的
に体感でき
る。

広島出身ではないくせに先祖の
ルーツが広島だからと広島の
選挙区から立候補した総理岸田
だが、私と同世代で学生時期も

被る岸田が、せめて「ほうじゃ
けえのお。じゃろう?」とか
言ってないのがせめてもの救い
か。
なんだか虚しすぎる救いで救い
にもなっていないが。


日本のイナカモンの性根

2023年04月11日 | open
























日本のイナカモンなどはこんな
もんだ。
だが、これは農村部の僻地だけ
の事ではない。
田舎の地方都市の市街地などで
も同様のケースは非常に多い。
根本的に民主主義意識や人道意
識や人権意識や社会道徳意識が
欠損しているのだ。歪んだ集団
的強制圧力の排除意識を助長す
るエセ人権ばかりがはびこって。

よく田舎の地方都市などで、そ
の地域の悪しき土地柄の面を指
摘すると、「どこの土地でも一
緒ですよ」と口にする者が非常
に多い。
そういう識別力皆無の人間たち
が、自分たちこそが正しいとし
て地方の田舎独特の差別排外
行動を取る主体だ。全く自己
切開などはしない。自分に刃
を向けて悪しき面を小規模社会
の中でも改良していこうなどと
いう気はさらさらない。
何か「私たちは自省せねばなら
ないのでは」等の物を言ったら
排除排外排斥する。教育的
立場にある教職員や商工会幹部
やスポーツ団体の地方長などが
それをする。即する。
広島県人(生まれ育ちが広島県)
などはそれが大好きだ。
この上掲の記事に見られるよ
うな事はごく日常的に起きて
いる。
「違う」のだ。
日本国民としての情操や感覚
が。
イナカなどはそんなもんだ。
これは大昔から。
漱石が『坊ちゃん』で描いた
愛媛県民たちもそんなもんだ
った。東京生まれ育ちの「坊
ちゃん」は、その地方性の閉
鎖性根性を蛇蝎のように嫌って
いた。
そうした『坊ちゃん』だったが、
高名な作家の作品の舞台になっ
たからと、愛媛県のその地は
坊ちゃんが愛した土地である
かのように出鱈目を宣伝して
観光地化している。
さもしい話だ。自分たちと自分
らの土地は毛嫌いされていた
小説だったのに、その根本存立
さえ見ようとせず、ゼニカネの
利益換算で物事を押し進める。
だが、それがイナカモンという
種族が集住するコロニーである
地方の田舎なのである。
人間性は完全に閉ざされている。

日本人も、世界のイナカモンに
ならないように気をつける事が
肝心だろう。
戦争で人が日常的に死んでいる
土地に行って必勝しゃもじや
折り鶴を贈って笑顔、のような
ド恥ずかしい失礼な自己満足自
己中感覚では、国際社会人には
なれない。
嗚呼、それをやったのは広島か
ら立候補した永田町族だった。
しかも、日本のトップワン。
世も末だ。


町の雛人形 〜城下町百景〜

2023年03月02日 | open



広島県の備後三原城下の町は今、
雛人形で満たされている。
ここは城前の旧西国海道。
江戸期の山陽道になる。
江戸期には、この街道沿いには
商家が並んでいた。
全て長屋で繋がっている。
当然一階の屋根には防火設備の
「うだつ」があった。
この地点から東が大門まで武家
地で武家屋敷が並んでいた。
また、西南の出島のような埋立
は西築出(にしのつきだし)と
ばれた地区で、武家地だった。
そのエリアには作事奉行所等が
あった。海に浮かぶいくつもの
二重櫓に囲まれた城内で、その
地区に入るには東側の酉之御門
か西の門の二箇所からのみだっ
た。城とは要塞なので、その
ような造りになっている。
その住宅街の西築出には弓術や
剣術指南番の屋敷も多く、また、
藩校武術部門の吾往館もあった。
学問の藩校は本丸寄りの明善堂
という藩校で三原の武士の子息
は学んでいた。生徒は200人。
まあ、くそ難しい学問を学んで
いた。
その100年後にも、旧士族の個
家庭では、6才の子どもに正座
させて論語素読をやらせるとい
うような事が広島藩士の末裔の
家では行なわれていた事実があ
る。
百年前の学問を百年前の武家政
権時代のままにやるという意味
がよく分からない。口ごたえな
どしたら父親に引っ叩かれる。
結果、論語読みの論語知らず
が生まれた。

一方、本丸と三の丸から東にあ
東築出は講武所や馬術教練場
馬場があった。全て城内。
三原城下は東町は商人街、西町
は職人街だったが、城内を通る
街道沿いは、本丸前の武家屋敷
以外の東西の町には商店が並ん
でいた。

この町雛は三原の城下町の商工
等が催す雛飾りで、街道沿い
商店全店が飾り雛を店先に出
す。
毎年の風習になっている。
季節を彩る城下町百景のうちの
一つである。


あすは、夜の町の雛人形の様子を
お届けします。

安政柑

2021年12月16日 | open


大事に育てて来たうちの安政柑が
けさ盗まれた。昨夜はあったのに。
こだまスイカ位の大きさの。
一昨年も全部盗まれた。
レモンもミカンもハッサクも全部
盗まれた年があった。80個。
柿さえも盗まれた。

なんでそんな事するの?
人の宅地内に入って。
一度、車上荒らしがあったので警察
に相談したら、深夜に警察官数名が
宅地内と周辺に連日連夜潜伏して、
建造物侵入犯人を現行犯逮捕した。
かなりの大捕物だった。暴れまくっ
ていたが制圧されていた。
また、別な日には敷地内をうろつく
不審者が二人うちの忍者犬に派手に
噛みつかれて怪我をした。
健康保険証を持っていない夫婦二人
だった。
警察にだけは言わないでくれとか
言ってた。
かなりの怪我。
やむなく治療費はうちが支払った。
不審夫婦はその後別地に行ったらし
いが、たまたまその行き先に私の知
り合いがいて、その夫婦らしいのが
かなり泥棒らしき事を繰り返してい
て地元鼻つまみらしい。

うちのレモンをまるごと盗んで行
ったのは、どこかのおばさんらし
い。
向かいの人が見ていた。
あまりに堂々と摘んで行くから、
知り合いかと思ったと言う。
丸々盗んで近所の市営住宅のほうに
消えたという。
それまで家の敷地に門扉をつける
のは嫌だったが門扉をつけた。
感知ライト他セキュリティも入れた。
それ以降はレモンも柿も蜜柑も被害
は無い。
だが、表通りに面している樹木に
成った大きな安政柑が丸ごとけさ
がた盗まれた。

なんでそんな事するかなあ。
三原、泥棒が多い。
なんだろな、この土地。
ろくでもないのはどこにでもいるが、
泥棒がやたら多いのと、道路通行で
右折で茨城右曲がりをする人だらけ
なのは事実だ。
なんとなーくだが、「なん言いよん
なら。そがーに人に盗まれるもんを
家で植えとるんが悪いんよね」とか
被害者のほうを悪く言いそうな土地
柄のように思える。
実際、信じ難いが、そういうケース
は嫌という程多いし。
人の車やオートバイをこすって疵つ
けてもやったほうが逆切れとかね。
人んちの敷地建造物にボゴボコ車を
ぶつけながら、ぶつけたほうがこち
らに文句言ったりとかね。
なんでこんなとこに物があるんじゃ!
とか文句言う。
自分が道路はみ出してうちの屋外駐
車場を突っ切っていながら。
結構えらい語気で文句言う。
はあ?とか思うが、事実はそうなの
で否定しようがない。
盗人猛々しい土地柄。
商工会がよその土地から転住して
来た特定新参飲食店経営者の店の
事を他の会員に「あっこは行っ
らいけんで(あの店には行かない
うにしろ)」と言ったり。
東京生まれ東京育ちの人間にそれら
事を打ち明けると、「そんな訳
ないだろー。そんな事は言わない
だろ、ふつー」とか言うのが多い。
てか、全員、信じない。
東京では考えられない、あり得ない
非常識だからだ。
しかし、公的団体の不正受験を指摘
したらパワハラで団体の活動させな
い事を強要したりするような土地柄
だ。
それはスポーツや武道、教育の場で
そうした事が横行している。
そんな感じ。ここんとこの土地。

そんな土地柄などどうでもいいけど、
差し当たり、人んちのもん盗むなよ。
ここは泥棒村か?
そうそう、あちこちでバイクを盗ん
で来ては海外にさばいていた正式
業者が何年か前に検挙された。
三原市内のバイク屋。
ま、そんな場所。

猫救出の時には三原市民の心の暖か
さを感じたが、それとは別に悪い
事は悪い。日本全国、どこでも良く
ない事は良くない事だ。
それに目をつむれ、黙れ、言うなら
出て行け、というのは、さすがにど
うかと思いますよ。
教育的立場の人間でさえ広島県は
そうなのだから、実に困ったもん
だ。
まあ、自民党の国会議員夫婦が市
長たちに金ばら撒いて手なづけよ
うとして逮捕されたけど、そうい
う事が通る土地柄だからだし、だ
からこそそんな事をやっていた。
三原市長もしっかり貰っていた。
明るみに出た時、「一切使ってい
ない。そのまま取ってある!」と
か開き直って胸張って言ってた。
意味わからん。猛々しさは行政長
が代表している。
広島県民、政治の中央からも馬鹿
にさてるんだよ。そんな民度、そ
んな行政長の程度だろう、と。
だから公的行政長まで中央からの
金まきで鼻薬の毒薬渡されてワン
ワンと尻尾振ってる。
舐められてるぜ、広島人。

良い事悪い事に地域性はない。
ここだけルールてのは無い。
悪い事は全国区だ。
差別や排外主義や不正や汚職や盗み
等々もろもろ。
いけない事はいけない。
日本全国、どこでもいけない。
襟元正そうぜ。


広島県三原市今昔

2021年10月07日 | open

今の三原市の住宅街(宮浦地区)。

1960年代。


三原市というのは、江戸期からの
城下数町を除いて、私が大学の頃
の1980年代初期でもこんな感じだ
った。畑・田んぼの中に国鉄山陽
本線と呉線が走り、遥か先まで見
渡せた。


同地点からの現在。


元々は浅瀬の海だ。
元禄時代に一部干拓新田開発がされ
たが、潮が押し寄せるので耕作地と
しては不適当で、沖の浜を中心に塩
田が作られた。



宮浦という地名は、三原西宮八幡宮
の下にある浦=海という意味だ。
現在、田畑はすべて住宅地となった。


これは1980年代末期に農地が全部
住宅になったのである。
よその土地から多くの人たちが三原
に移り住んで来た。
うちのように数百年も城内、城下に
住んでいる家は珍しいのではなかろ
うか。城下では作り酒屋や御殿医の
家などがそうだろうが、総人口から
いったらほんの数える程のごく僅か
だ。
「よそから来た人」たちが三原の
人的質性と土地柄を形成している。
この土地の地方地区なりの人柄は
そうした人たちが構成している。
数代前にはどこにおったか分からん
ような連中があとから三原にやって
来て、わしら三原ぢゃ三原ぢゃ言う
て地元ぶって大きな顔しとる。
そういうとこ。
それに苦言を呈すると「なんじゃ、
おんどりゃ。しごうしたるど(ぶっ
殺してバラバラにしてやるぞ)」て
なもんで。いや、まじでそういうの
で来る。それがフツーかのように。
ま、そんなとこ。
同じ新興都市でも、横浜の住宅街と
はまるで質性が異なる。
広島の友人が自分が愛する広島市を
冷徹に俯瞰して、似たような事を言
って嘆息していたが、広島市、三原
市、福山市というのは、似た歴史的
な変遷による人的性格形成の同一性
傾向があるのではなかろうか。

広島県の人に物言いしたらダメすよ。
たとえどんなに全国区の「日本の常
識」や日本の法律や社会規範で物を
言っても、「ここでやりたいのなら
黙れ」「ここにおるつもりなんか」
「出て行け」だから。
不正受験を糺そうとしたら、黙れ。
悪い事を直そうと啓蒙啓発をしたら
出て行け。
そういう土地です。
特殊なの。
日本の全国版社会規範と意識と民主
主義精神や制度は一切通用しません。
だからこそ、河井夫婦は広島県の行
政長各人に金ばら撒いた。
そして、受け取っていながら、河井
夫婦を裏切った。河井の上を行く
外道ぶり。
そういうのが起きる土地柄、人柄、
お国柄。お里が知れるというやつ。
隔離された(自分たちで隔離させて
いる)土地なのです。
なんでそういう事するかなあ、てな
ことが日常。それが日常。
変わった場所です。
元々は違ったのでしょうね。

とにかく、「私的集団性」での「強制」
「威圧」「強圧」「恫喝」「嫌がらせ」
「裏切り」「恩を仇で返す」「後ろ足
で砂かけ」が異様に多い土地です。
端的に言うと「仁、義、礼、智、信」
の五常は一切存在しない。仁義無き
土地柄、人柄なんです。
なにもそれはヤクザの話ではなくて、
一般人もまったくヤクザと同じで、
まるで徳が無い。そして、のぅのぅ
けぇけぇ言って威張ってます。
これ、山間部や島しょに行くとまるで
人が違う。牧歌的で人柄も温厚。
そのコントラストが物凄くあるので、
まあ、変わった場所です。
「地方」というのはどこもそうした
傾向あるのかも?
私は東京都、神奈川県、埼玉県、千葉
県しか知りませんが、その4都県では
経験ない事ばかりに出くわします。
「異国」なんですよ。まるで。
20年前に東京から転住して来て、商工
会でもいじめ抜かれていたラーメン屋
店主が私と初めて話をしたら私に言い
ました。
「三原に引っ越して来て20年以上。
外国の異国で初めて日本人に会った
感じが今しています」と。
これ、よく分かります。

よくないよ。
よくない事は、日本全国どこでもよ
ない。
自分たちのエリアだけの俺様ルール
や新興の土着感覚だけで社会的規範
を無視したり、その意識に基づいて
人を虐げてよしとする気風は絶対に
良くない。
日本の道徳教育からやり直したほう
いい。

ハンバーガーがすんげウマい店 〜岡山県倉敷市玉島〜

2021年07月03日 | open
 
岡山県水島からの帰り、雨に
降られた。
旧国道2号を西に向かっていて、
参ったなあ、と思って信号
で止まった矢先、左
を見る
とバーガー屋。
ここで、雨をやり過ごす事にし
た。
 
なんとも50'sなアメリカンテイ
ストだ。
大昔の原宿キン'コン'
や新宿二十面相や
目黒通りノー
ジーンみたいな店だ。


良い!


基本的にはハンバーガー屋。


食券制です。


マスターは二代目。
以前はまぁさんという女性が
やってた
そうだ。


このマスターは元料理人。
気さくな方で
す。
ハンバーガー期待できそう。


いやあ、たまたまだけど、これはいい
とこ
めっけた。開店して7年だってさ。


良い。実に良い。
クリームソーダのワッペンが
違和感無し。


マスターおすすめのなんとか
バーガー。
これ、半端なくウマいす。塩
ダレチキン。
あと、これでトマトジュース
があれば言う事ないよ。ない
んだよな、今んとこ。
つーか、クリームソーダが絶
対にメニューにはあったほう
がいいと思う。
50'sのお店にクリソーは必須
だぜ。
前に進むには右足の次には左
足、くらいにクリームソーダ
は絶対に必要。日本の場合ね。
メリケンではソーダ水。
西部開拓時代から親しまれて
いた。
映画『シェーン』でも出てく
るよね。
コークハイを世に作ったのは
ピンクドラゴンで、飲み物の
クリームソーダを日本で流行
らせたのは日本人だ。そもそ
もクリームソーダという名称
が和製英語。
英語ではソーダフロートだ。
あ、チューハイもメイド by
日本人(笑


倉敷岡山方面に行くときゃこ
こ定番だな。
こりゃいいや。
飯がウマいってのは、かなり
のポイント
だ。腹膨れてゆっ
たりできる。
 
たまたま偶然みっけたけど、
ここはラッ
キーだった。良い
店です。マスターも感じいい
し、これは友人とも行かねえ
となと感じたよ。
これだよ、これ。
こういう店を探していたのよ。
山の中とか超遠隔地とかのリ
ゾート地ではなく、ストリー
トの街道沿いにあってフッと
入れる店。
ここは、シチュエーションも
店の造作も最高だ。これこれ。
これよ。
店前のオープンテラスでも飲
み食いできるらしい。言う事
なし。

あんまり50'sな店なので、ピ
ンクドラゴンの誠一郎店長に
電話したら、たまたま別件
でおいらに電話しようとし
ていたところだったみたい。
ピンドラは企業体としても
優良企業。
お店の運営もきちんとして
いる。
ただ、唯一ピンドラの欠点は
ある。
それは故山崎社長の性格もあ
るが、とても良い店舗(飲食
店等)を出しても、凄く流行
って儲かっているのに閉店し
て次の事をやっちゃうことだ。
あれ、客側からすると、飲食
店が無くなるというのはかな
り寂しいものがある。

街道沿いにあるこの店。
かなり気に入った。横浜、原
宿の香り、横須賀の空気がある。
中国地区でそれが味わえるのは、
結構イレギュラーで楽しい。
 

埼玉県さいたま市大宮(旧大宮市)

2021年05月02日 | open








 
私が住んでいた頃の大宮駅西口。
1970年代はこうだった。1980年代初期に
新幹線が開通して西口一帯全面開発され
るまでは。まるで戦後昭和の都内のよう
な風景だった。


昭和戦後のままの風景だった大宮西口。
正面のビルは商工会館で、大宮西口で
唯一のビルだった。この風景は1980年代
初期まで続いた。これはネットによる
と昭和50年代とあるが、たぶん違う。
車両からして、1973年あたりだと思う。
「愛と暴力」の昭和の時代。



晴れ。東方に雲あり

2020年12月11日 | open

数日ぶりに晴れた感あり。
遠方の島影はうなもの朝霧にけぶる。
気候良し。

三原沖の島は薄らとしており、四国は
けさは見えず。


これが瀬戸内海独特の光る海だ。


備後三原城。
毛利一門小早川隆景が戦国末期に築城し、
江戸期に福島正則が領し、福島改易後に
紀州より浅野家が入封して明治維新まで
治めた。
三原は歴史的名城である事と国境の扱い
の統治上のセンシティブさがあるため、
一国一城の規定の例外中の例外として江戸
幕府も破棄を命じず安堵を許した。
同様の例に肥後国の八代城がある。
三原も八代も本藩の家老職が城代を務め
た。

本丸天守跡。天守は築かれなかったが、
三原城は数十の二重櫓が城郭に張り巡ら
されていた威風ある城だった。

江戸時代の三原城。


青く見えるしまなみ信金の看板が城内
酉の御門があった場所。


門を入った正面にうちの屋敷があった。
江戸時代には西之築出(にしのつきだし)
という出島で、作事奉行所があり、明治
維新後から昭和にかけては御作事町という
町名だった。昭和中頃まで、地元の市民は
「お作事場」とその街を呼んでいた。


三原城と城下は大別して三区画に分けられ
る。
東からは現在の東町、入浜丁があり(下の
地図外)、山陽道を西に進むと和久原川に
かかる大橋を超えて大手門がある。この
門から西が城内になる。
東町は主としてお店(たな)が並ぶ商人街で
あった。
城内は現代の町名で館町(やかたまち)、
本町(ほんまち)、城町、港町となる。
このうち本丸、三ノ丸周辺は館町、本町、
城町という現代町名がある。江戸期は武家
地なので町屋のような町名は無い。四谷、
市ヶ谷、昌平坂。地名はあっても町名は
無かった。それが武家地だ。

三原城内のいくつもの城門を過ぎて西に
山陽道=西国海道を進むと、職人街である
西町に入る。
江戸期には鍛冶屋が数十軒あり鎚音を響か
せていた賑やかな街だった。
三原の町人たちの多くは西町に住んだ。
この西町の中心からやや西に「かじ新町」
と呼ばれる地区があるが、かつての名残り
を町名にとどめる。今は西町というのが
正式名称だ。
三原の市民は現在の西町の事を昭和時代
頃までは俗称で「下町」と呼んでいた。

幕末慶應年間の三原城図。



住宅地図であり、城勤めの武士の苗字通称
が全て記載されている。原本は畳二畳ほど
ある大きな地図だ。
城の地図であるゆえ、町人街は記載されて
いない。武家地のみだ。
このあたりは江戸切絵図と同じ。
城下町の住宅は大店(おおだな)意外は自己
所有物件ではなく全て賃貸物件であるの
で、町人の名を住宅地図には記載しない。
全市民の苗字が住宅地図に記載されるよう
になったのはゼンリンの住宅地図からだ
が、それ以前からローカルな商店街住宅
地図は地元商工会や新聞配達店舗により
作製されていた。そこには、共同住宅以外
の戸建は全て住人名がもれなく記載されて
いたので、配達や配送などでは大変に役に
立っていたし、現在でもそうだ。
インターネット情報は個人情報関連で、
簡易に閲覧できないシステムだが、地元民
にとっては住宅地図はとても有難い。
どこどこの誰さん、というのは住宅地図を
見ればすぐに分かるからだ。
何処の誰兵衛かというのは、町暮らしで
は安全保全からも重要な事なのである。
家屋に隠れ住むのは犯罪者くらいなもの
だ。
江戸時代には表札は存在しなかったが、
明治以降に日本で表札が登場したのも、
何処の誰であるかを堂々と表示するため
である。吾ここなり、と。
これは、私は良い日本独自の文化だと
思っている。
外国人の友人がマンションの共同表札を
見て「個人情報だだ漏れやんか」と言った
が、それは観点が違う。
そうした表札を悪用しようとするのは、
日本においては犯罪者なのだ。
大抵は悪意の訪問などに使うのであるが、
マンションなどでは、エントランスはとも
かく、オートロックから中に入ると、完全
に建造物不法侵入になるので注意が必要
だ。屋内駐車場にも住民意外は入っては
ならない。違法となり犯罪となる。

江戸期、日本国内には住居に表札は無かっ
た。
看板あっても表札なし。これが日本の町の
景観だった。
表札が無くても何故お届け物や御用聞きは
町で迷わなかったか。
それは、江戸切絵図のような地図が整備さ
れて誰がどこに住んでいるか明確になって
いたからである。
町人街であるならば、大家さんか住人に
尋ねればすぐに案内してくれる。
当然、誰何はされるだろうが。
江戸時代、日本国内は世界有数の安全国で
あり、特に城下町では治安が良かった。
治安は良いが犯罪は江戸では多く、年間
江戸では約2,000人程が斬首されていた。
10両盗めば即首が飛んだ。幕末貨幣価値
でいえば現在の約30万円だ。
オレオレ詐欺のようなのは、単なる斬首
などという生ぬるいものではなく、市中
引き回しの上、磔獄門であった事だろう。
また、押し込み、ゆすりたかりは、現在
でも当然犯罪である。

検査を複数回受けて陰性なら問題ないだろうに 〜田舎人の心根〜

2020年11月27日 | open






「周囲の目」ってどんな目?
まあ、村八分にあうという事だろね。
田舎なんてのはそんなもん。
完全陰性確認してから帰省したとしても、
爪弾きにするのだろう。
田舎もんは何も田舎に住んでるから田舎
もんなのではない。その己の閉鎖性、心
の極度な狭さがイナカモン丸出しなのだ。

なんなのだろうと考えてみるが、よく理解
できない。
保身なのかしらね、自分だけの利益しか
頭にない。
そういうのが集団で集住してるんだろう
なあ。
田舎の人は田舎の世界が価値観の全てなの
で田舎で一生終えても何の問題もないだろ
うが、開明的で人と人の適切で平等な繋が
りを経験した都会の人は田舎では暮らせや
しない。田舎は全てが陰に向かう閉塞性に
満たされているからだ。
それって、『下町ロケット』で地元新潟に
帰った殿村さんも苦渋を経験させられたよ
ね。地元ジモチーによる嫌がらせを。
広島県の三原市でも商工会でそういうのが
あるよ。東京から転住して飲食店を出した
人をジモチーたちがいじめ抜いてた、みた
いなの。
店主は私が東京人だと知っていろいろ苦労
の20年の歴史を語っていたが、こうも言っ
てた。
「言葉も通じない外国にずっと暮らしてい
て、やっと日本人に出会った感じが今して
います」(ママ)と。
親御さんが危篤で東京に急遽家族と共に
帰ったが、三原とは完全に縁を絶ったよ
うだ。
その気持ち、よく分かる。東京人などが
ずっと死ぬまで住む土地ではない。県外者
で、しかも東京や大阪の人間が受容れられ
る事は田舎ではあり得ない。

完全なる検査をしても世間の目があるから
帰省を拒否されるとしたら気の毒だ。
それが当たり前であるかのように言われる
なんて、田舎ってのはねえ。相変わらずだ。
「殺す気か?」ですか。へー。
田舎の人って、性格宜しくないのばかりな
の?
おしんの姑みたいに。
よくそんな事を息子のお嫁さんに言うよな
あ。
心無い心根だが、本人は「それが何か?」
だろう。イナカモンはそんなもんだ。
俺が亭主ならば、そんな事を子どもの配偶
者に言う奴を一喝するけどね。
しかし、人的質性良くないなあ。

でも、そういうのがわんさかごちゃまんと
いる。田舎というのは。
なんなのだろうね。