駅から半径2km圏内の住宅街
の中で、大型スーパーが20数
軒ひしめき合う街、三原。
上図に記載されていないチェ
ーン店のドラッグストア兼ス
ーパーも含めたら、その数は
実にとんでもない事になる。
人口は広い全市内含めてたっ
た8万の人しか住んでないの
に。
狭い市街地でそこら中スーパ
ーだらけというこんな街は見
た事が無い。
市内のスーパーは熾烈な過当
競争だろうなぁ、と思う。
店によっては同じ商品が1個あ
たり20円も違う事もある。
まあ、談合してない証拠だろ
うが、この街、スーパー多す
ぎ(笑
あと、三原市街地の特徴とし
ては二つある。
一つはやたらめったらと理容
室、美容室が多い事。建物数
軒ごとに髪切り屋がある感じ。
そして、今は廃れたが、町医
者がベラボーに多い。とてつ
もなく多い。
これも城下を歩くと分かるが、
数軒ごとに医院がある。
なんだべ?この街は。
なお、城下町としての風情は
明治以降の近代工業都市化に
より全く残っていない。
残っている武家屋敷ゼロ、城
下町の景観もゼロの街である。
城下町なので、江戸期の三原
の住人は武士および武家関係
者が人口の半数を占めていた。
維新後、ほぼ全家に近い武士
の家が外に転住した。ただ、
武家奉公人まで含めると出鱈
目に侍関係者が多いのがかつ
て江戸期の三原で、明治以降
はガラリと変わって、ほぼ全
員が町人の住む街、みたいな
事になった。
明治以降の近代化政策により、
農村部からの人口の流入も相
次ぎ、莫大な工場労働者を抱
える地方の工業都市へと変貌
した。資本主義国家の発達の
中での典型的なパターンだ。
最大規模は東京と大阪だった。
現在の三原市街地は江戸時代
には城下であったので、たぶ
んそれなりに厳格厳粛な街で
治安も良い街であった事だろ
う。
今は狭い町なのに、窃盗、強
盗、恐喝、強取、傷害、殺人
等が人口比率からすると頻繁
といえる数が発生しているし、
交通事故も多く、運転者のお
行儀はかなりよろしくない。
それらを当たり前のようにや
る。
床屋(理容店)などで地元の人
たちの話に耳を傾けていると
「あっこ(あそこ)の果物とか、
ようごそっと盗ってきたもん
よ」「ほうよ。盗られるもん
持っとるけぇ、いけんのんよ」
とかいう会話を何度も耳にす
る。
耳を疑うが、それがこの地の
「普通」であり「常識」で
あるようだ。人の物を盗んだ
り強取することは何とも思っ
ていないらしい。お好み焼き
屋でも地元民たちのこの手の
話をよく耳にする。
そして、三原の人たちの得意
業が「あっこ(あそこ)はアレ
じゃけぇ、あんた、付きおう
たらいけんよ」というような
事を非常に多く口にする事だ。
町中のいたるところに「人権
看板」が建っている町だ。
だが、まともな教育を受けて
ないのか、市民の意識は変わ
らない。
それだけでなく、飲食店舗に
ついても「あっこは行ったら
いけんで」と人によく言うの
が三原市民の特徴だ。商工会
の人間さえもそれを言ってい
たりする現実がある。
万引きも異様に多く、ある大
型玩具店などは度重なる窃盗
強盗により店舗を閉店せざる
を得なくなった事実がある。
無法地帯。
腰にピースメーカーをぶっこ
んで歩かないとならないのか
と勘違いしてしまう。
だが、そうした現実、事実を
指摘して、なんとかしないと
なぁとか口にしたり書いたり
すると逆切れするのがお決ま
りのパターンだ。
そして、私とは会った事も無
い人間が私の友人をつかまえ
て私のこうした記事を読んで
「三原の悪口しか言わんけぇ。
付き合いあるんじゃったら、
あんたも気ぃ付けんさいよ」
と言ってたりする。そういう
町人(まちびと)たちが棲んで
る町。
これは広島市内でも同様で、
私を指してある公務員は「い
つも常に乞食(発言ママ)のよ
うに何かブログネタがないか
下を見て歩いてるような奴じ
ゃけぇ、あんた付き合うのや
めたほうがええで」と私の友
人に言っていたりした。公の
場では先生呼称されているよ
うな立場の人間だ。
広島県という仁義なき土地に
おいては、地元愛というのは、
ベタベタに、右に転んでも左
に転んでも何が何でも褒めち
ぎって、黒い物も白と言いま
くって持ち上げ、「わしらの土
地が一番じゃけぇ」と互いに
言い合う事が地元愛の表現だ
と思っている。
ぬるい。
市民として刃を自分に向けて
是正すべき点を冷徹に見抜い
て、それの悪弊を鋭意を以て
除去して行く瑞々しい精神的
前進力に欠ける。
それは地元を真に思い、人を
思う心の缺欠だ。
かつての三原、落ち着いた時
代の三原はこうではなかった
のではなかろうか。西日本で
も知られた武芸錬磨の町であ
った時代には。
現在は正直、トホホで残念な
件がかなり多い。
懇意にしている法律家は町を
出た。「ここの人たちは変わ
らない」と言い残して。
生活拠点を三原ではなく別な
遠い土地に求めた。
広島県三原市はコンパクトな
町で買い物至便で便利なのだ
が、映画館とボウリング場と
ビリヤード場が全く存在しな
い。
ネットカフェに玉台は1台あ
るが、そこはあくまで玉台置
き場であって撞球師の社交場
である「ビリヤード場」では
ない。
かつて昭和初期から戦後の頃
の三原市には映画館が6軒程
存在した。
町の隆盛具合は、昭和30年前
後が一番活気があったのでは
なかろうか。
広島県内の僻地で田舎だった
西条が国立大誘致と新市名東
広島市に変更し、市街地も大
開発整備でとても美しくなっ
て以降、近隣企業誘致により
外部から流入した転住者たち
は、三原市ではなく東広島市
に好んで住むようになった。
三原はなおさら人口減少に拍
車をかける事になっている。
東広島市内は実際に二輪や車
で走ってみると、道も整備さ
れ、なだらかな坂と起伏に富
み、景観も美しく、「良い町」
という印象を鮮烈に与える。
インフラ整備も半端ない。
完全に酒どころ西条から近代
都市東広島へと脱皮転換に成
功している。「街の器」とし
ては。
市制改革の一つの成功例だろ
う。
関東でいうなら、今のさいた
ま市(JR駅大宮)のような雰
囲気の街が東広島市だ。
東広島市
三原の場合、町の衰退の一因
は、もしかすると異様なスー
パー乱立にもみられるように、
タコが自分の足を食っている
のではなかろうか。
経済活動の側面としては。
テナントも今はガラガラで借
り手がつかない物件だらけ。
20年程前は、三原市内にはマ
ンションは数棟しか存在しな
かったが、不動産業者に食い
物にされるように一気にとん
でもない数の分譲マンション
の物件が乱立した。
どこも建てれば即契約満室、
という状態だった。それが
2002年~2015年頃まで。
今は飽和状態で、マンション
を建築しても売れない。
なんだか、不動産業者に狙い
撃ちにされたようにも思える。
泳ぐ魚の群れに一気に網を
打たれたように。
今はスーパーが乱立している。
新規の大型店舗の開店ラッシ
ュ時期だ。
マンション建設ラッシュの次
は大型スーパー乱立で市場の
食い争いか、という状態。
砂金によってゴールドラッシ
ュで湧いた西部開拓時代の町
のように、あるいは日本の炭
鉱町やニシンの町のように、
ほんの一時ドル箱ラッシュで
活気づいても、やがてはどれ
もがゴーストタウンのように
なっている。それは、現実と
して。
三原市の過去の流れと現況を
見る限り、将来性は非常に寒
いものを感じざるを得ない。
三原に砂金など無いのに。ニ
シンも石炭も無いのに。
数年前の未曾有の豪雨災害と
いう天災により、河川から流
出した土砂が沿岸に堆積し、
三原名産のタコも一切獲れな
くなった。全く。今三原に名
物の地蛸はいない。無い。
「たこの町みはら」としての
町おこしもとん挫した。
生態系が回復するまで、あと
50年程は三原沖で蛸は獲れな
いだろう。
人災ではなく、天災ではある
が、いよいよ天からも見放さ
れたか。
残された道は、福永武彦の小
説「廃市」のように、淀んだ
空気を噛みしめて、因習を後
生大事に温めて、ここで生き
る事だけなのか。