1965年の東京 [60fps HD]
1960年代の日本 / Tokyo, Japan in 1965
私が4~5才の頃の東京。
空がすげーでしょ。
こんなもん。
東京は工業スモッグの街だ
った。
特に京浜工業地帯がひどか
った。
1965年。まだ環境庁は存在
しない。
公害は垂れ流しだった。
薬害も野放図。
多くの国民が苦しんでいた。
戦後日本の虚構の繁栄はそう
して作られた。
そもそもが、隣りの国を分断
する戦争により特需で儲けて
繁栄のきっかけを作った国だ。
アメリカのポチとして。
IQ154の天才として生まれたが、
18禁映画を撮影し壊れてしまっ
たシャロン・ストーンの悲惨な
結婚生活
私は個人的に最高に世界で一
番好きな女優だ。
IQ154で天才とするなら、
園児の時にIQ168、13才の
時にIQ157と診断された凡人
のバイク乗りもいるので、
IQの数値が天才か否かを代
弁するものではないとは個
人的には思うが。
ただ、そいつの思惟の中味
も今書く文章も13才の時と
何ら変わらないというのは
個人的によく知っている(笑
IQテストには複数の方法形
式があるが、共通項は「識
別認識能力の検査」項目で
ある事だ。
法則性の着眼と差異を見抜
けるかどうかを調べる検査。
そうしたものは空間的把握
と数値的連面性を短時間に
認識する者にとっては別段
困難なものではなく、年齢
割りにしての出題でも瞬時
に解く事ができる。
それと記述の正確再現連続
性を有しているか否かの差
でしかない。
IQ数値が高いからと天才で
あるとか、飛び抜けて頭脳
が優秀なのではない。
あくまでも後付で脳の活性
化の度合いを測定するモノ
サシでしかない。
だが、IQテストは年齢に比
して高等発達した段階を得
ているかどうかの指標には
なるだろう。また、老齢期
においては認知症の判断基
準にもなるし、幼少期成人
期を問わず、IQ数値による
判断で境界知能であるか知
的障がい者であるかの振り
分けにも使われている。
ただ、境界知能域の人たち
は、かつては知的障がい者
扱いだったが、近年境界知
能域が設定されるにおよび、
一切社会的支援が受けられ
ない対象域となっている。
それは理不尽だ。
IQ69の「知的障がい」とIQ
70に差異などは無い。
理不尽で不条理な構造が社
会福祉の名の下に現在制度
的立脚物として日本には存
在している。
IQ数値が高い者を「天才」
としたがる感性や風潮など
は、それらの理不尽な制度
を補完するもの以外の何も
のでもない。
バカバカしい実相なのだ。
実は本物の天才はIQ数値な
どとは無関係だ。
IQ数値が低くとも真の天才
ぶりを発揮する芸術の人な
どは多くいる。
IQ神話に捉われる人間は、
全てが全体主義的構造体の
中における人としての心が
プリズナーのそれであり、
その事は「創作されたもの」
である真実に無自覚だ。
そういうのは、それこそIQ
には関係なく、頭が悪い。
シャロンは私は1985年公開
の映画『ロマンシング・ア
ドベンチャー/キング・ソ
ロモンの秘宝』で知った。
『ロマンシング・アドベン
チャー/キング・ソロモン
の秘宝』は、前年に公開さ
れたマイケル・ダグラス製
作主演の『ロマンシング・
ストーン秘宝の谷』の二番
煎じ映画だった。
『ロマンシング・ストーン
秘宝の谷』(1984)は、私は
公開時に妻と横浜鶴見の映
画館に観に行った。
かなり面白かったが、この
作品は興行成績も良く、多
くの賞も取っている。
それの翌年のシャロン・ス
トーン出演の『ロマンシン
グ・アドベンチャー/キン
グソロモンの秘宝』は1年
に及ぶアフリカロケにもか
かわらず、内容も興行成績
も大コケだった。実際に観
てもつまらない映画。
だが。
私は初めて観るシャロン・
ストーンに映画ファンとし
て心が射貫かれた。
こ、これは!
こんな女優いるんだ、と思っ
た。無論、光る表情の演技力
の秀逸さに度肝を抜かれた。
その後も全く売れない無名女
優だったが、私は大ファンに
なった。
『氷の微笑』(1992)の大ヒッ
トでシャロンは一躍有名にな
ったが、彼女のプライベート
キャラとはかけ離れていたた
め、彼女は悩み続けたという
のは映画好きならよく知る話
だ。
そうした彼女の個性は『クイ
ック&デッド』(1995)で劇場
公開の時のセクシャルシーン
をDVD化の時には強烈な申し
入れによりその部分を丸々カ
ット編集させた。
彼女はセクシャルな事が本当
に嫌いなのだろうが、映画の
部分的カットを要請するのは
さすがに俳優としてはいかが
なものかとは私は思う。
ただ、彼女だけは絶対に枕営
業をしない人だった。
これは業界では稀有なのだ。
アメリカも日本も、映像業界
というのは枕営業で役をもら
ってナンボという世界である
のは昔も今も常識だ。
日本でも、俳優のネジネジ中
尾が、ただ単に普通に晩飯に
広末涼子を誘っただけなのに、
広末は「きょうは生理なので
できないのですが、それでも
よろしいのですか」と言って
来て、中尾彬は芸能界のド腐
れぶりに今更ながら呆れたと
公言している。
中尾はかつて清純派とされた
吉永小百合に思いがあったが、
ある撮影現場に行くと吉永が
咥えたばこの立膝で渡哲也他
出演者たちと麻雀をやってお
り、「お前は何をやっている
んだ!」と一喝したという有
名な実話もある。
日本の芸能界では「清純派」
などはすべて嘘の虚飾であり、
興行の為に作られた虚像だ。
芸能界、映画界は枕営業とい
う身売りで仕事を取って来る
とても不正で不届きな事を
「ん?わかってるよな」と強
要する世界である事は事実だ。
有名な集団アイドルなどは
すべてプロデューサーの愛人
であるのは公然の秘密、とい
ったもので。それらは元セン
ターだった者が脱退後に暴露
したりしているが、暴露せず
とも事実はそんなもん。
日本のそれら枕営業は、いつ
から発生したかは定かではな
いが、日本の芸妓遊びのあた
りからの流れではなかろうか。
アメリカ社会の映画界の枕営
業はいつからかは知らぬが、
所詮は男尊女卑で女性を性的
なモノとしてしか見ない男根
主義アメリカの実像が映画界
にも反映されたものだろう。
そもそも、「民主主義」の国
アメリカは世界有数の差別主
義の国だ。
アフリカ系アメリカ人などは
高校にさえ進学できず、アメ
リカで初めて1960年代に大学
まで進学した黒人女性は、大
学で散々白人たちにパワハラ
と人種差別といじめに遭い、
自殺した。
そういう国がアメリカである
し、アメリカのポチである日
本もアメリカを真似する。
さしあたり、芸能界、音楽界、
映画界、テレビ界などは、と
てつもなくどす黒く、汚い世
界である事は間違いない。
特にテレビ界、メディア界な
どは、どうしてこうも人間の
クズばかりが集合しているの
か、という感を呈している。
汚い汚濁場所なんだよ、芸能
界やテレビ界、映画界、音楽
界は。日本もアメリカも。
これ、ほんとだよ。
シャロン・ストーンの清廉な
魂よ、永遠に。


空自の輸送機に空自陸戦隊では
なく陸自から特戦が選抜されて
投入されるだろう。
滅させて早々に捜査は終了さ
せる。誰が?真に日本の主権を
掌握している勢力が。無論主権
在民などは日本には存在しない。
得する。
蜂起の戦争と革命戦争のみ
だ。
ない。

別部落の人たちを徹底的に
差別し抜いていた事などは
教えない。
時一つの人々の真の自由と
解放のかけ橋は音楽にあっ
たのだと知る。
た1960年代に入っても、
「ロックは不良の音楽」と
して排除していた。差別制度
を守るため。
から排除しようとした。


よく似合うと思う。
快速バイク。
パワーも昔の2スト50のスポー
ツモデルに近く、6.3PSある。
車重も70kg程で、とても軽い。
つまり、速い。
同型エンジンのジョグなどは
俊足スクーターだった。
この2ストビーノは、スタイル
はレトロだが、走りは俊敏だ。
現行ビーノは車重80kg超えで
馬力は4.5PSで4スト。トコトコ
ゆっくりバイクになっている。
この個体は黄色ナンバーを取得
しているので、原付オマケ免許
では乗れない。
務化されている原付の二段階右
折も無い。普通に交差点の真ん
中まで出て右折できる。
情に合わない法律を圧力で変更
させなかった。
屋でしかなく、全員もれなく交
通社会の発達などには興味が
無かったので、原付の社会的
不具合規制に対して先進的な
先進国の議員としての目を向け
る事は皆無だった。
のである。


の事)だったという話。
た。
手製ではなく旋条痕のある
ライフル弾なのだろうから。
れで済ますだろう。
真犯人は判明しているのに、
オウムを犯人にしたいがため
に捜査は作為的に上層部に
よって捻じ曲げられた。
リカをよく手本にしている。
せようとすると、安倍氏の
ように消される。そういう
図式だ。
リカの官民軍需支配層。








とか思ってたら、のっけから、麻薬組織

シェー・ウィガムがマイケル・J・
フォックスにしか見えない(笑)。

まあ、オリバー・ストーン監督とジョン・
トラボルタの悪役ぶりに期待して最後
まで観ることにしよう。2012年作品。
オリバー・ストーン監督作品ならば、
『プラトーン』(1986年)は絶対に
見逃すなよ、映画ファン。
って、もう観てるだろうけど。
おいらも何度も観た。『ハスラー』程
ではないにせよ。
くっそリアルすぎるのがなんともアレ
だったが。
『プラトーン』で注目すべきは、デビュー
間もないジョニー・デップだ。
主役を食いまくりの天才的演技だった
ので、セリフシーンはすべて大幅に
カットされた。
このベトナム戦争映画は、アメリカでは
黒人が高校に行くのも珍しかった時代
を舞台としていた。
1964年、全米初の大学進学した黒人
女性は白人たちから「猿が人間社会に
来た?」と猟奇的に扱われていじめら
れて自殺した。黒人たちは高校にさえ
進学できないのがアメリカ社会だった。
大規模な公民権運動が起きたのはその
後だが、「公民権」である。黒人はまだ
奴隷の延長と米国白人は見ていたのが
私が子どもの時代のアメリカだ。アメリカ
インディアンなどは奴隷どころか虫以下
の扱いだったし、これは今でもそう
であるのが米国社会だ。黒人大統領は
出たが、アメリカインディアンで大統領
が登場した時、初めてアメリカ合衆国は
民衆の国家となったといえるだろう。
ベトナム戦争の時代。アメリカ合衆国
とは虚飾の「民主主義国家」だったので
ある。
それは今でも全く変わらない。
トランプ大統領を見てみるがいい。
この映画の題名「野蛮なやつら」とは
まさに、トランプのような種族の事だ。
栄誉あるアメリカ合衆国大統領にあり
ながら、暴力で民主主義体制を破壊する。
あれがアメリカ人のアメリカ人らしい
もっともアメリカンな姿なのだ。
彼こそがUSA。彼こそが大統領である。
あんたが大将よりも上だ。
あれを大統領にした米国人民たちは
大いに恥じるべきだろう。
そもそもアメリカ人は恥じることを知ら
なすぎる。
それは、暴力でしか国家を運営できない
未熟で野蛮で粗野で未開な国家作りを
北米人がやったからだ。
アメリカには夢がある。
すべての人種、国家を超えた人々を
受け入れて、そして互いに助け合って
築く国の姿をアメリカは素地として
持っている。
だが、それを壊して我が物顔で専横を
決め込もうとする人間たちが多すぎる。
それがアメリカ合衆国に巣くう「野蛮な
やつら」だ。
1986年、『プラトーン』でアメリカ合衆国
の真の姿を描き切ったオリバー・ストーン
監督は、骨のある映画監督だと思う。
『プラトーン』がなぜ歴史的な作品か。
それは、アメリカの「悪」と「罪」を
アメリカ人自身が描いた初めての戦争
映画だったからだ。
それまでのアメリカ産戦争映画は、
インディアンに襲われた市民の窮地に
騎兵隊がやって来てインディアンを皆
殺しにしてヒャッハ~!いいぞ~!
拍手喝采!の戦争映画ばかりだったから
だ。
すでに西部劇では、その見直しがされた
作品は少数ながら出てきていたが、
アメリカが行なった国家戦争は、アメ
リカによる戦争賛美の作品しか(「しか」
である)存在しなかったのだ。
それは、真実を描くと困る連中がいる
から。その連中が国家的軍需産業を
動かしているから。
アメリカという国は、構造的に10年おき
ごとくらいに国家的戦争をしないと
成立しないシステムになっている。
戦争を起こして参戦できないような
状況ならば自国民を大量に殺害して
でも戦争理由をこしらえる。
そういう国がアメリカ合衆国なのだ。
これは映画ではなく、現実世界の話だ。
そのアメリカに戦争で負けた日本国は
アメリカのポチとなった。
現政府与党、とりわけ自民党をはじめ
とする保守陣営層は、売国奴であり、
全員米国のポチなのだ。
民主主義者ではない。
そして、社共は、旧ソ連・中国の手先
だ。社共のうち「社」は風前の灯だった
が、過去日本では二度政権与党となって
いる。
戦後アメリカが作った疑似民主主義体制
の「予定調和」の体制の中で。
