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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

スズキ無双の時代

2024年01月11日 | open

メーカータイトル7連覇!
スズキのファクトリーマシン
RG500/RGB500/RG-Γ500の
歴史をゆっくり解説
【ゆっくりバイク解説】スクエア4エンジン


スズキのワークスマシンの82
RG-ガンマ。123PSで117kgの
車重。
化け物である。
圧倒的安定度で1982年に年間チャ
ンピオンを1977年以来獲得した。
翌年もたぶんチャンピオン争い
になると思われたが、開幕戦で
WGPデビューしたてのワイン・
ガードナーにチャンピオンの
ウンチーニが頭部衝突させられ
てしまい、死線をさまよい1983
年シーズンを棒
に振った。
1983年はグランプリ史に残る
ホンダvsヤマハの対決となり、
2スト500マシンを初めて作った
ホンダが世界王者になった。
だが、本当はそこにスズキの
ワークスが絡んで三つ巴の乱戦
激闘になる筈だった。
何が起きる分からない歴史とい
ものは皮肉なものだ。

私が高校から大学までの7年間は
世界チャンピオンはヤマハやホン
ダのライダーが取ったりもしたが、
世界グランプリでのメーカーチャ
ンピオンはスズキが絶対君臨王者
だった。
ライダーは1976-1977にバリー・
シーンでダントツ王者。
1982年にフランコ・ウンチーニで
安定王者。
だが、市販レーサーを多く供給し
たスズキはメーカー上位独占状態
だった。
ヤマハ・ホンダの片山敬済でさえ
一時期スズキのレーサーに乗った
程だ。
市販車でもWGPで勝てるレーサー
をスズキは作っていた。
スズキの車は実際とても良い。

スズキは1980年代に再びWGPか
ら撤退するが、80年代後半には
ワークスが三度目の世界戦挑戦
に復帰し、アメリカ人のケビン・
シュワンツをライダーとして
大暴れして1980年代レースシーン
は活気づいた。

市販車では、250のRGΓは未完成
車で良い二輪ではなかった。
だが、熟成され、Vガンマ以降は
4社の中で一番完成度が高いので
はなかろうかとさえ思えた。
隠れた名車は時代遅れのパラツ
インを搭載したカワサキのKR-1
が実は88NSRよりも速く、ハン
ドリングも良好で良質車だった。
しかし、ガンマ250の最終型あた
りは、もう最高の2スト250だった。
あれは実によい車だ。
ホンダは最後のNSRまで悪性ハン
ドリングは消滅しなかった。
年々良くはなっているのに、なぜ
ストンと悪性部分が無くならなか
ったのか不思議だった。
エンジンのみは世界一良い。

ホンダはエンジン最高でハンド
リングが×。
ヤマハはトータル的に高偏差値。
カワサキは性能は良くとも品質
が×。
そしてスズキは、トータルとして
とても良い二輪車を作っていた。
スズキのオートバイ買っておけば
間違いない、みたいな。
カワサキもスズキもコアなファン
が多いメーカーだが、スズキは
「スズ菌」と呼ばれるほどスズキ
を偏執的に愛するファンがいる。
それは、確かな製品の裏付けが
あっての事だろう。
スズキのバイクはモノが良い。

スズキの最近の市販車はキャン
ディ調のブルーが主体だが、
往年の王者時代の赤黒と、そし
て全メーカーの中で一番爽やか
だったANAの飛行機のカラーに
似た、あのスカイブルーと濃い
ブルーと白というカラーを復活
させてほしいと私は願う。
そう、ブルーインパルスがT-4
で大空を駆けた時代のような
スズキのブルーを。

歴史を変えたG500-XR14


歴史を変えた公道市販車RG250Γ。
初めてアルミフレームの認可
を取得した。他にも新機軸を
多く認可させた。フルカウル付
レーサーレプリカと現代に続く
SSの歴史はスズキが作った。
この1型ガンマは歴史的功績の
ある車だったが、走行力におい
ては未完成部分がまだ多かった。
だが、250で初の45PSを認可さ
せた功績も非常に大きい。ある
状況の地平を一気にスズキが
突破した感じで衝撃的だった。
都市伝説であるが、認可した
行政担当窓口官は左遷されたと
いう。



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