渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

スカンジグラインドと日本の魂

2021年01月04日 | open



北欧ラップナイフのスカンジグラインド
がなぜセーバーグラインドと呼ばれたか。
それは、文字通り刀剣(セーバー/サーベ
ル)の断面形状だったから。

日本の鉄器刀剣は2世紀に中国から伝来
した内反素環頭大刀(うちぞりすかんとう
たち)に始まる。
分類では切刃造と呼ばれる現在の北欧の
ナイフと同じ刃の形状になっていた。
この切刃はのちに後退して「鎬(しのぎ)」
を形成する。年代とともに棟側に寄り、
大和伝では中央付近だったものが、備前伝
登場の頃には中央より棟側まで鎬は移動し
た。
帝室技芸員宮本包則83歳の作(復元刀)

弥生時代に大陸渡来の内反りだった刀剣
は、やがて直刀となり、その後、東北の
蕨手刀の影響を受けて反りを持った湾刀
に変化して行く。
大和朝廷に叛旗を翻した平将門軍が反り
のある湾刀で朝廷軍を圧倒した事が記録
に見られる。
平将門は、盛んに地元で独自の方法で自家
製鉄を行ない、刀剣と鉄器を生産した。

平将門の製鉄炉(復元)


農具に使われた鉄器は、開墾進展や農作物
の増産をもたらし、土地が富む。鐵こそは
金(金属)は王哉(おうなり)であった。鐵を
制した者がこの世を支配した。

将門軍との緒戦で直刀が折られて敗退した
朝廷軍は、自らも湾刀を作らせて対抗し
た。
そして、大和朝廷お得意の飴と鞭の騙し
裏切りの強要の謀略で周辺を傘下に収め、
将門軍を包囲して壊滅させた。
大和朝廷は遠くヤマト連合政権成立以前
のクマソ「征伐」の頃から、人を騙して
欺いての毒殺や暗殺等の汚い手で事を為し
て来た。それは江戸幕末戊辰戦争でも励行
され、さらに明治になっても薩摩に対して
敢行された。日本ほどいかにも権力者らし
いこ汚い手口で権力を行使して来た国はな
い。「美しい神州日本」などという世迷言
で目に鱗をうかうかつけていると、自分も
その人騙しの裏切りの汚い側の人間に与し
てしまうので、人としての道に外れたくな
いのならば注意が必要だ。

湾刀の発生を以って日本の刀剣は「日本
刀の発祥」となす。
当初、その湾刀は東北で捕えた刀剣製造
者が捕虜であったため「俘囚の剣」と呼ば
れていた。
朝廷は、捉えた俘虜たる刀剣生産者を
日本全国各地に派遣集住させて刀剣を
生産させた。
それゆえ、日本刀の謎の一つでもある、
全国同時多発的に時を同じくして各地の
刀剣産出が勃興したという現象が発生し
た。
日本刀が天から降って来たように遠く離れ
た全国各地で同じような形状で発生した
のは、そうしたまさに「天から」降った
政策によるものだった。
中世以降のように私的生産者などいない。
全て「官製」であり、完成品は朝廷が召し
上げた。それらは、整備された古代街道
を荷駄に積まれて全国から中央に集められ
た。
全国に産鉄民と鍛冶を派遣集住させた地は
全国で一様に「別所」として置かれた。
普通の場所ではない「別な場所」とされ
たのである。特別の場所ではない。別物
の場所という排外主義的な意味だ。
こうした手管はヤマトは得意で、征服した
者たちを集住させた隔離コロニーやそこ
に移住させた人民を鬼、鹿、龍、葦(吉と
同、悪し衆の略)、と呼んだ。悪し原を
吉原と呼ぶような佳字変化させて煙に
巻くことも起きた。出雲国風土記等には
それが顕著に現れている。

元々刀鍛冶は征服された俘虜ゆえ、被差
別民としての立場にさせられたのであ
た。
日本刀となる湾刀は捕虜となった敗北者
たちが生産していた刀剣であったという
厳然たる事実から目を逸らしてはならな
い。それが日本刀の歴史の事実だ。
その製鉄製剣技術を簒奪して御剣(みつる
ぎ)としたのが朝廷だったのである。
フツノミタマノツルギと呼んだ原初聖剣は
大陸渡来の内反素環頭大刀(うちぞりすか
んとうたち)であった。国産ではない。
国産の聖剣とした「日本刀」は、制服し
た俘囚の剣が原初だったのである。
それは、東北の刀剣こそが日本刀の原形
であったことを指し示す。
日本刀の歴史にこそ、日本の権力者による
簒奪構造と体質が如実に現出している。
そこは事実であるので、日本刀を歪んだ
視点で美化するのは美化ではなく愚だ。

よく日本刀の反りは騎馬戦に適した云々
という説がまことしやかに言われること
があるが、それは大いに疑義がある。
なぜならば、当時の日本の産駒は、乗馬
戦闘に適した体躯ではなく、あくまで移動
による機動戦用だからだ。馬上から大刀
(たち)を使うなどは後世夢想のファンタ
ジーだ。
日本刀の湾刀は反りを持った蕨手刀など
から来た流れだ。馬上戦闘の騎馬戦に適し
た云々は夢想である。サッと馬で移動し、
下馬して戦闘におよんだ事であろう。
日本刀を「俘囚の剣」から発生したもの
ではないとしたがる視点が、そうした
日本刀の反りの発生等に対して非現実
な想像を以って創作を開始する。
ましてや、湾刀たる日本刀は朝廷が初めて
作り出した物であるなどと言うに至って
は論外だ。舞草刀の存在の説明がつかな
い。

そして、さらに重大な事実がある。
湾刀たる刀剣=のちの日本刀を保持した
のは朝廷の貴族ではない、という歴史的
事実だ。
原初は朝廷は直刀。在郷武士は湾刀。
日本刀は武士が所持した。
平将門などは典型だった。
国内各地の完全制服に朝廷は600有余年の
歳月をかけたが、各地に残る武装して在地
で治世を張る集団は古代末期まで多くい
た。
これは朝廷としては看過できなかった。
武士を使って武士団を制圧させる事をやる
しかなかった。
しかし、それがあだとなり、やがて武士は
朝廷から政治実効権力を奪取して、自らが
国の政治を執り行なうようになった。
奇しくも、それは平将門、藤原純友の挙兵
を制圧する事により、天皇親政たる古代の
終焉をもたらし、封建領主が全国を散在的
に治めるという「中世」の登場となった。
西洋にみられる「中世」は、アジアでは
唯一日本のみに存在した。

日本刀こそは武士の物なのだ。使うのも
武士だ。貴族が戦闘する訳ではない。
貴族は後方の安全地帯から指図するだけ
だった。それはやがては権力を失う。
軍事力、暴力装置は装置ではなく統治者
そのものになるのは自然の流れだからだ。
理由は明白。
生死をかけた戦闘現場は、全て武士が
担っていたからである。
その修羅場の戦闘の現場で血にまみれて
刀剣を使っていたのは武士なのだ。貴族
ではない。
現場を知る者が、それにより全てを円滑
に執り行なう現実主義を実践しようとする
ように動き始めるのは人の世の道理である
のだ。
やがて武士たちは、貴族から政権を奪取
して「自主管理」としての武家政権を確立
したのである。形の上では朝廷や貴族は
温存させておきながら。

日本刀こそは武士の剣、武人の刀なので
あった。
武士はただの戦闘者ではない。武を以って
為政を成すのである。歌詠み鞠蹴りでどう
して国を護れようぞ。
それが武士だ。
貴族は国を護らない。
まして、民などは、虐げて搾取するだけの
下々としか考えていない。
国と民を護り守るのは武士であり、その
武士の魂が日本刀であったのである。
ちなみに武士の士という文字は、斧のよう
な刃物を表す象形文字から来ている。
士は生まれた最初から刃物あり、なのだ。

80年前に言うと投獄されるようなこうした
事こそ、真(まこと)の日本の歴史の真実で
ある。

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