
ビリヤードのキューにはフォース
(repulsive force)はあれど、
パワーは存在しない。
エンジンではないので出力は
無い。キューはただの棒だ。
だが、ストロークによって生じる
エナジー伝達率(transmission
エナジー伝達率(transmission
rate)の差異や反発力(リポルシ
ヴフォース)の大小は個体に
よってその差異が存在するし、
物理法則によってそれらフォ
ース自体も存在する。
ヴフォース)の大小は個体に
よってその差異が存在するし、
物理法則によってそれらフォ
ース自体も存在する。
だが、キュー自体にパワーは
一切存在しない。
キューの伝達量や伝達率の事
をパワーと呼ぶのは、根本的
な不見識で、そのような不適
合な概念で事象を規定して
いるのは日本人だけだ。
いるのは日本人だけだ。
例えば揚力(lift)はパワーでは
ない。反力(counterforce)も
パワーではない。
パワーではない。
そんな不見識を言ったら、航空
工学や力学、一般学識の世界で
は笑われる以前の存在と見做さ
れる。
工学や力学、一般学識の世界で
は笑われる以前の存在と見做さ
れる。
だが、日本撞球界では世界的
レベルで非常識な反アカデミ
ズムのような無知蒙昧が大手
を振っていろいろな場面で
登場している。
登場している。
多くの不見識な誤認誤謬が日本
のビリヤード界に根強く蔓延っ
ているのは事実だ。
のビリヤード界に根強く蔓延っ
ているのは事実だ。
キューにパワーが等語るのは
「元気を貰う」と言うのに等
しく誤認による完全不適合で、
あり得ない存在しない事を
あるかのように誤認してい
る概念化なのだ。
あるかのように誤認してい
る概念化なのだ。
元気が出るのは内発的な人間
の個体感情や身体状態であり、
他人が他人に元気を与える事
はできない。
腹痛は自分の腹痛であるよう
に。
人を悲しませるのと元気が出る、
元気や勇気が自己内部に生ま
れるのは大きく異なる。
元気づける事は元気という他人
の内発を触発させる事であり、
元気とは自分自身のものなので
ある。自分の中に生まれる。
それを他人にあげたり貰ったり
はできない。
「元気を貰う」「勇気を貰う」
というここ20数年ほどで登場し
た女のミュージシャンが言
い出した概念化は完全誤謬
であり、存在しない。
い出した概念化は完全誤謬
であり、存在しない。
「元気づける(られた)」「勇気
づける(られた)」は存在するが、
元気や勇気を人から貰ったりあ
げる事は存在しない。
主体が存在しないからだ。
「元気の素」はあっても、元気
そのものは自分の中に生まれる
ものだ。
それと似たような誤認誤謬錯誤
が「キューにはパワーがある」
という発想だ。
キューにパワーは存在しない。
だが、日本のみがこの大いなる
不見識があたかも常識のように
罷り通っている。
キューにパワーがあるなら、
一体何ニュートン、何PSある
のか示してほしい。
反発力や伝導率はパワーでは
ない。
キュー自体が出力たるパワーを
持つ事は、物理的にあり得ない。
パワーのある釘やトンカチが存
在しないように、パワーを持つ
キューという棒はこの世に存在
しない。
一体、いつまで日本撞球界は
出鱈目な概念(パワーとは20年
程前にハイテクシャフトなる
物が広まりだした頃にメーカー
が初めて言い始めた新造の作為
的な概念=不存在を存在するか
のように人をして欺罔せしめ
る概念)で真実を人から遠ざけ
ようとするのか。
程前にハイテクシャフトなる
物が広まりだした頃にメーカー
が初めて言い始めた新造の作為
的な概念=不存在を存在するか
のように人をして欺罔せしめ
る概念)で真実を人から遠ざけ
ようとするのか。
パワーのある刀、パワーのある
杖、パワーのある木刀、パワー
のあるノコギリ、パワーのある
槌、パワーのある板、パワー
のある棒、パワーのある柱、
パワーのある紙、パワーのある
鉛筆、パワーのある線路、パ
ワーのある翼、パワーのある
ヘリのプロペラ、パワーのある
電柱、パワーのあるアスファル
ト、パワーのあるプラスチック、
パワーのある黒板、パワーのあ
るガラス戸、パワーのあるタイ
ヤ、パワーのあるボールe.t.c.
・・・。
そういう物はこの世には存在
しないのである。
存在しないものを存在している
かのように広める言質は、それ
は世迷言であると同時に人心
を惑わす大きな罪である。
を惑わす大きな罪である。