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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

1978年の世界グランプリの観客

2024年06月13日 | open



1978年の世界グランプリを
観戦に来た観客。
ヨーロッパのライダーはハン
ドルをクリップオン=セパレ
ートハンドルにする人たちが
多かった。
日本では当時セパハンは装着

禁止だった。
理由は理不尽で一方的な警察

の独断と偏見によるものだっ
た。
日本国家と日本警察というの
は、国民の出自や門戸で犯罪
者と決めつけて冤罪を実行し、
殺人犯にしたてたりするよう
な国と組織だ。それはまさに
国家ぐるみでやっていたし、
今もやっている。

ロードレースは西欧の国技に
近いスポーツなので、
毎回世界
グランプリには20万
人近い人た
ちがサーキットで
観戦した。
1977年に350クラスで世界チャ
ンピオンとなった片山敬済選手
は、1978年から500クラスに
参戦した。
マシンはヤマハのマシン。
だが、350までのクラスと異な
り、500クラスはワークスマシ
ンでなくば勝てないという世界
だった。
350の時にはワークスマシンよ
り速く走ってプライベーターで
世界チャンピオンになった片山
選手だったが、500ではそれは
通用しない事は自身も理解して
いた。
目指したのはヤマハの純ワーク
スライダーのシートとワークス
マシンを得る事だった。
だが、ヤマハのワークス席には
すでにケニー・ロバーツとジョ
ニー・チェコットというトップ
ライダーがいた。
スズキから後年ヤマハに乗り換
えた2年連続の世界チャンピオン
のバリー・シーンでさえ、純ワ
ークスライダーではない扱いで
マシンも部品もトップモデルと
は異なる物しか供給されていな
かった。
それほど、ワークスの世界は狭
き門だったし、これは現在でも
同様だ。
片山敬済選手を引き抜いたのは
グランプリに復帰してかつての
栄光の復権を目指すホンダだっ
た。
だが、ホンダは125レーサーは
作ってはいても、500で2スト
マシンなどは持っていない。
片山敬済選手に与えられたホン
ダのワークスマシンは楕円ピス
トンという新構想のエンジンを
持つ4ストモデルNR500だった。
片山選手はグランプリライダー
としてではなく、テストライ
ダーのような立場に甘んじる
3年間をその後過ごす事になる。
その間、ケニー・ロバーツは
3年連続世界王者になった。
ヤマハとスズキの圧倒的な力
の現実を知ったホンダは、1981
年にようやく自社初の2スト500
グランプリワークスレーサー
NS500の開発に着手し、1982年
第1戦から投入するのだった。
ホンダのワークスには全米で
実力を見せたまだ20才のアメリ
カ人フレディ・スペンサーを
擁した。
片山選手もワークスに名を連ね
たが、片山選手の選手活動の
うち最高期間だった1979~1981
を走らない未完成4ストマシン
のテストに費やされた痛手は
大きく、ケニーやフレディを
後ろにして世界チャンピオン
には到達する事はできなかった。
それでも、NS500では片山選手
は初年度の1982年に1勝してい
る。
ちなみに1983年は、全シーズン
を通して優勝したのはケニーか
フレディしかいなかった。
その後ろに片山、シーン、マモラ
といったライダーがいたが、片山
選手をして「ケニーとフレディ
のみが神に一番近い領域を走っ
ている」と言わしめた程1983年
はケニーヤマハとフレディホンダ
が激闘を展開した歴史的なシー
ズンとなった。

日本では1980年代~1990年代に
ほんの一瞬ロードレース人気が
多少高まった程度で、日本では
オートバイのレースなどはさほ
ど人気はない。
モーターサイクルに対しては
国家も教育機関も「危険な悪人
が乗る乗り物」という洗脳キャ
ンペーンを展開しているような
国だったからだ。
法律上免許取得が可能な16才に
なっても高校に通っていたら
免許を取らせない、二輪を買わ
せない、乗らせない、という
いわゆる3ない運動という史上
最悪の極悪偏向強制教育を日本
の教育者や国家機関、PTAなど
は推進していた。先進国の中
でそのような悪辣な国策を
すのは、大東亜共栄圏大日

帝国時代の気質を根強く残

させる勢力が権力を握る日本
だけだった。

世界の先進国の中で日本だけ
が異質であり、偏向的で独裁
権力が若者の健全な育成を
阻む国だった。
当然、国際スポーツとしての
モーターサイクルロードレー
スで日本の選手が活躍すると
いう事などは片山選手、金谷
選手、根本選手という特例を
除いては皆無だった。
日本は「オートバイには国民
を乗らせない国」だったから
だ。人材が育つ素地はゼロだ
った。
日本とはそういう国であり、
基本的に今もその本質は何ら
変化していない。偽装的に
国民を騙すためにあたりが柔
らかくなっただけだ。

ヨーロッパでモーターサイクル
は生まれた。
英・仏・独・伊・西・米はモー
ターサイクル最先進国だ。
これは日本製二輪が世界選手権
でトップを走ろうとも、モータ
ーリゼーションが著しく未発達
の日本は、内実のある自動車先
進国とはなれなかった。
作る物は良くとも、作っている
人々が住む国家と社会体制が世
界最悪の国が日本。
国権発動でふんぞり返る国家権
力とそれに追従して国民を二輪
から遠ざけようとする勢力が
国を牛耳るのが日本だったし、
これは実は今でも継続している。

ヨーロッパの国と人々は昔も
今も、モータースポーツ先進
国と国民として生きている。
万余どころではない。
15万人18万人はごく普通に集ま
る。それがヨーロッパのレース
だ。




日本でもバイクが人気あった
1980年代中期には、鈴鹿8時間
耐久レース(世界選手権)に
は18万人の観客が押し寄せた。
たまたまだ。ブームだったから。
ブームなどは軽佻浮薄なの
で、
文化としては人の社会には定着
しない。

だが、その一時期のみは観客動
数は欧米なみになった。
数年前、鈴鹿8耐の実況中継を
していたアナウンサーが「7
万人という空前絶後の観客が
集まっています」と叫んでい
た。
時代も歴史も物も知らない世代
というのは怖いものなしだなと
感じた。
また別なレースでは「びっこ
を引きずってます」と平気で
生放送していたアナウンサー
だ。
公的放送中継伝達者として終わ
ってる。資質が既に不適切だ。
やはり、日本人の民度などは
「アジアの端っこの島の猿」
と白人どもから差別的に嘲笑
される筈だ。
モータースポーツの日本での
地位の低さと同時に、それを
放送中継する人間の質の低さ
が覗い知れる。
なお、不適切な発言があり云々
のテロップも肉声謝罪も一切
無かった。
ネット観戦していた観客から
はチャットで「それあかんやつ」
「差別表現」等々の投稿がタイ
ムリーにあった。それはアナウ
ンサーは見ているのは確実なの
に一切謝罪は無し。
一つの日本人と日本の姿を象徴
している。

日本が大好きな人たちは日本人
に多いが、そのほとんどが日本
と日本人の悪辣で非常によろし
くない面から目を逸らそうとす
る。
自らの襟元を正さず、己の国と
国民の所業を糺さず、それで
果たして真の愛国者といえる
のか。
日本と日本人はとんでもなく
遅れた後進国である、という
自覚から始めないと、真の良性
国と国民にはなれない。
そうした事は、モータースポー
ツひとつ、オートバイレースの
ひと
つをとってみても、欧米と
比較す
ると、即座に日本の非開
明性と
後進性がつぶさに理解で
きる。

ただ、国を亡ぼすのも建設する
のも国民がそれをやる。
この定式のみは、先進性後進性
の如何を問わず万国共通だ。

 

 


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