渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

航海日誌

2023年10月08日 | open



何月何日何時何分、どこをどの
ように走ってどうだったか、と
いう記録をつけている。
マシン整備の全内容、走行距離、
走ったルート、路面と周辺状況、
走り方、出会った人、あった事
等を克明に記録している。
これは船長が記す航海日誌のよ
うなもの。
1980年代前半にレース活動して
いた頃にはコースだけでなく一
般道を走る時にも記録をつけて
いたが、その後はやめていた。
ここ5年ほど前から再び記録を
つけ始めた。

実は、この記録、とても役に
立つ。
一番の効果は走りのルートを
記録を手書きでつける事で反芻
する事だ。
これがデジタルの自動記録だと
単なる記録だけになる。
自分の頭で思い出しながら記録
をつける事に意味がある。
こと二輪に関して同じミスを私
犯さないのは、この反芻行動
より再検証して自然に自己総
しているからだと思える。
記録を残す事に意味があるので
はなく、その走行の足跡を辿る
事により自己検証作業をしてい
るのだ。ただの日記ではない。

なんでもデジタルシステム頼り
だと、確実に人間力は低下する
と思う。
私は、その認知力という人とし
ての知力が公道走行に不適切と
自己判断した時、二輪を含む
全ての車両の運転はやめようと
思っている。運動能力も大切だ
が、自己認知力が低下するのが
一番危険だと認識しているから
だ。

オートバイは12才から乗り始め、
四輪は13才時にマニュアル車を
「ごく普通に」運転できるよう
になった。ヒール&トゥを使って。
二輪の免許は16才になってすぐ
取得し、公道を走り始めた。
ことしはオートバイ運転開始か
らちょうど50周年になる。
年齢は63才になった。
年齢的なものから、残された走
れる時間はそれ程無い。
別な言い方をすると、二輪に
乗れるのは今しか無い。

二輪での公道転倒は1985年秋
の道志みちでの集団引率の時
の左コーナー以来無い。
それまでは、コース以外では
無理しすぎで飛んでいたが、
あの道志道は速度と不適合で
寝かせ過ぎてコテンとフロン
トから転んだ。サスを沈めず
にタイヤのグリップだけで寝
かせたからだった。

私は転倒原因は徹底的に自己
検証する。
よく転んだが、同じ転び方は
ていない。「またかー」とい
うのは無い。「またか」をやら
かすと、三度目も必ずあるから
だ。
これは死んだ先輩が私に常々
言っていた事だった。
「二度ある事は三度ある」
つまり、同じ過ちは二度繰り返
してはならないのだ。
二輪での転倒は全て自分のミス
だ。横から他の車両が突っ込ん
で来たり、隕石が落ちて来て
直撃しない限り。
路面状態が悪く、滑りゴケして
も、「誰もがこれでは滑る」と
いう状況であっても、転ぶのは
自分だ。コースにオイルが拡散
しているのに選手を走らせて
死亡させたりする過去に幾度と
あったレースオーガナイザーの
責任とかではないのが公道だ。

数年前、阿蘇で転倒したなにわ
ナンバーの知らない人を救助し
たが、その人は「これ!行政
はなんもせんのんかいな!」と
憤っていた。
心得違いだと思う。
私はその同じ場所で転んでは
いない。
転んだのは自分だ。
行政は転んでくれとは頼んで
などない。
自分のミスを自分のせいと認め
ず、他人や誰かのせいとしたが
る人間は二輪になど乗るべきで
はないと私は考えている。

その考えが支柱にあり、自己
検証と総括をし続ける。
結果、その重要さに実質的に
「これか」と気づいた1985年
秋以降は現在まで無転倒だ。
きっかけは、柳沢雄造さんが
私に直に知らしめてくれた。
彼は恩人である。
彼は自分に厳しく他人にも厳し
い人だったが、今の時代、あま
りそういう人はいない。
現代はコンプラばやりで、ドカ
ンチが良市民ぶって大手を振っ
ているからだ。
コンプラ風潮などは、それも
ただの「流行」でしかない。
私は流行には興味は無い。
だが、その結果として得られた
のは、38年間の公道無転倒と
いう事実だ。
事実は雄弁に真実を物語る。
人の世の定理だ。
流行などは一切関与しない。





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