
建歴3年(1213年)5月3日、我が
一族は源氏を滅ぼし幕府を乗っ
取り暴虐の限りを尽くす北条を
討たんと決起した和田殿に助太
刀せんと、武者3,000騎を率いて
鎌倉の由比ヶ浜(ゆいがはま)に
駆けつけた。いざ鎌倉を反幕府
の側から実行した。
鎌倉市街戦にまで持ち込み、激
戦を繰り広げて奮戦するも、幕
軍の援軍増大と矢の不足等で敗
北。また、攻め手の副将戦死で
士気が落ちた事も影響した。
捕らえられた者は全て斬首。
残りの軍勢はかなりの将兵が房
総方面に船で敗走した。
さかい川の河原に梟首の数は234。
私が入学した小学校の横を流れる
川だ。
鎌倉市街戦はかなりの激戦だった。

蜂起した御家人たる武士の多くが
戦死したが、反幕府勢力は相当な
人員が戦地からの撤退に成功した。
戦後の鎌倉北条乗っ取り幕府によ
る領地没収や弾圧は非常に厳しか
った。
だが、その120年後の千早城、赤
坂城の楠木正成を攻めた時には、
幕府側の寄せ手としてわが一族は
参戦している。
そこでも一族は壮絶な討死をした
が、それは太平記あたりに記され
ている。
だが、この鎌倉攻めの和田決起に
3,000騎の部隊で馳せ参じた時の
1213年は、遠い昔の絵空事では
ない。
現在でも、戦死者の人骨が浜から
出てくるのだ。
武装蜂起で現状体制側が滅びた
歴史は日本にはほぼ無い。
乙巳の変のような天皇家と側近
内部の殿中での斬首テロルのクー
デターのようなものは成功したが、
その他の一発蜂起は殆ど成功して
いない。
打ち上げ花火は駄目なのだ。
俯瞰するに、やはり、天下獲りは
地固めじわじわで軍事力と政治力
で攻めるのが功を奏している。
ロビー活動の重要性などは、古代
も現代も何ら変化は無い。
645年7月。中大兄皇子と中臣鎌
足は蘇我入鹿を宮中で斬首して
殺害。
ここから「大化の改新」が始まっ
た。

逃げ惑うのは女性天皇の皇極天皇。
テロリズムを断行した中大兄皇子
は天智天皇として即位した。
日本の歴史は、公武をいとわず、
テロリズムによって作られて来た。
日本の歴史においては、暴力こそ
が正義であった。
天皇でさえ斬首のテロルを実行し
ていたのだ。