「隠密剣士」第二部 忍法甲賀衆より
第一話「忍法変幻(めくらまし)」
ノーカット版(約25分)
『隠密剣士』第二部第一話。
第二部の放送は1963年からだ。
1964年、それは暑い季節だった。
私は母と隠密剣士主演の大瀬康一
の舞台演劇を劇場で観ていた。
そして、舞台上で隠密剣士と忍者
が対峙して沈黙する。
広い劇場内は水を打ったように
静まりかえっていた。
その刹那、私が「ターッ!」と
大声を発した。
すると周囲の観客のオヤジたち
から「子供!うるさい!」「出
ていけ!」と言われ、母は泣く
泣く私を連れて観劇を最後まで
見られずに退出した。
よ~く覚えている(笑)。
しょもないガキだ。
『隠密剣士』は1962年から1965年
までテレビ放送されていた時代劇
ドラマで、私は2才時から大ファン
だった。
世の中の子どもたちは外で棒きれ
でチャンバラをするのが定番の
時代。昭和30年代~40年代だ。
物心ついた時から男の子は全員が
チャンバラごっこをする。
アメリカの子どもたちがカウボーイ
ガンマンごっこをするのと同じだ。
当然チャンバラでは忍者が登場する
が、多くの男子が忍者をやりたが
っている中、私は剣士の役をいつ
も買って出た。
だが、みんな段々気づき出す。
剣士は斬られな~い(笑)。
その不文律あり。主人公だからだ。
徐々に全員が剣士役をやりたがる
ようになった。なのでやがて剣士
役は持ち回りになった。
今思うと、チャンバラというのは
ごっこなのだが、一つの小演劇を
演じる事を実行していたのだ。
そして、そうした中で、虚構と
実像の違いを素肌感覚で子ども
たちは自然と学習して行った。
また、演劇現場には仕切り役が
必ず必要なのだが、強引な我田
引水は協調性を持たない為、これ
は民主的な感覚で自然にそうした
風潮は排除された。
まとめ役はいるが、何でも話し
合いで自分たちの力で解決する
事を子どもたちは覚えて行った
のだった。
それが戦後昭和の市井の子らの
実像だった。
そうした社会性、自然学習性の
空間が消滅してから、変な子
たちが雨後の筍のように増えた。
閉塞的で内向的で、そして陰湿
な子どもたち。
私たちの時代、戦後昭和はいじめ
は存在しなかった。いじめっ子
がいても、それは単独犯であり、
そのいじめっ子に追従して周囲
全体が人を死に追いやる程の
陰湿な本当の後年のイジメを
形成する事は無かった。ゼロ。
戦後民主主義の中でそれは培わ
れたものであった。神奈川県の
横浜から湘南地区にかけては
特に開明的な土地柄だった。
私は東京神奈川育ちだったが、
戦前にみられた『はだしのゲン』
のような広島の陰湿なイジメや
差別や人の妬みや偏執的な行動
は、私の育った神奈川の環境では
一切存在しなかったのは事実だ。
それは事実、「革新的」であり、
平和な共存共栄を求める民主主義
的な環境であったのである。
また、戦後の民主主義そのもの
についても徹底的に子ども時分
から教育される土地柄でもあった。
権力者吉田茂が湘南から国会まで
自分が時短で直行するために作ら
れた横浜新道などは、地元民から
は「ワンマン道路」と呼ばれ、
事実、そうした俗称で普段呼称
されていた程だった。
この子役の子は、実年齢が私より
3才~4才ほど年上だろう。
撮影は横浜鶴見の総持寺だ。
ミス撮影だが、忍者が走るシーン
で、遠方に私がかつて住していた
丘の上のあたりの住宅街が映って
しまっている(笑)。
昔の時代劇よくアルアルだ。