カワサキ SSマッハ350(Mach Ⅱ)
最高出力 45PS/8000rpm
最大トルク 4.25kg-m/7000rpm
車両重量 148kg
発 売 年 1971年
マッハはハイエンドの500や750
でなく350のマッハⅡでも速かっ
た。実に良かった。
1971年当時、国内クラス最強。
なぜ350ccという中途半端な排気
量の車があったかというと、当時
世界グランプリのカテゴリーに
350があったからだ。
世界GPは50、80、125、250、
350、500があった。
350ccクラスは最高峰クラスの
手前で、タイム的にも最高峰と
大差ない。ただ、扱いが難しい
クラスで、250と並び、スペシャ
リストたちが走らせていた。
その下の125や80や50になると
もう職人技の持ち主のような
各国トップ選手ばかりで、一般
人などは50ccレーサーなどは
難し過ぎて走らせる事は困難
だった。パワーバンドは500rpm
以内、10数段変則などが50の
マシンだった。
日本人で世界初WGPマン島戦を
制した人も50ccクラスでスズキ
ワークスからの出場で優勝した。
その後、変速制限が設けられ、
6段ギアが最高数とされた。
1976年からの高校時代、私の学
年でマッハSS or KHに乗る者は
私含めて8人いた。
他はヤマハRDやホンダCBヨン
フォアかスズキGTサンパチ。
カワサキ好きならマッハ(既に
廃番)かKH(SSの後継機)に乗っ
た。
私もヨンフォアも所有したが、
マッハのほうがずっと面白かっ
た。
私の周囲では、鈍足化の意味
無しハッタリのデチューンで
ある2ストマルチに集合管を
装着するなどの者はいなかった。
2ストエンジンの仕組みを知って
いれば、二輪2stで集合管などは
絶対に着けない。
我々が3年生になる頃、2スト
に集合を着ける妙ちくりんな
音だけで激オソ珍走改造が某
C県I県方面から都内に浸食
流入して来た。果てしなく遅
かった。
これらの流れが、その後の
「走りとは別世界」の妙ちく
りんな「暴走しない」珍走団
の原型となって行った。
ただ、サンパチ初期型はとてつ
もなく速かった。仲の良い奴の
一人が1型サンパチを持っていた。
フロントドラムのB0。
バイパスでTON-UPでかっとん
でいるとブレーキ効かない(笑)。
ただ、最高速は180km/h近く出た。
当時としては驚異的な速度だ。
マッハの対抗馬として1972年に
スズキが登場させたが、仮面ラ
イダー1号本郷猛(藤岡弘、)の
普段乗りの二輪としてもGT380
は人気を博した。
スズキGT380(B)
私にカワサキMS90をくれた1学年
上のイトコの兄貴は限定無し自動
二輪免許なのにサンパチに乗って
いた。タンクがモスグリーンの。
うちに時々サンパチで遊びに来
たりしていた。
サンパチはモーターのように
スムーズに回るエンジンだった。
幼稚園からの幼馴染で、PKO法案
を成立させる時に海外各国を
飛び回っていた防衛庁から外
務省に出向していた親友も高校
時代には湘南でサンパチに乗っ
ていた。東大落ちたから仕方なく
慶応に行き防衛庁キャリア組と
なったが、高校時代は進学校に
通いながら族仕様のサンパチに
乗ってた(笑)。しかも高校で
は生徒会長だった。大学入学後
も暫くそれ乗ってた(笑)。
モスグリーンタンクのサンパチ。
互いに大学入学後に久しぶりに
湘南で再会して奴のサンパチに
乗ってみたが、快速だった。
2ケツで奴を後ろに江ノ島周辺
の海岸線を逗子から茅ケ崎まで
湘南爆走したが、「いつもこんな
運転するのか?」とか言ってた。
サタデーナイターズ独特のキビ
キビとんがり走りだったからだ
ろう。
ただこちらも、「なんだよ、この
布カウルと倒しバイザーは。
俺たちでさえ、東京ではもう
こんなのやらねえよ(笑)」とは
思ったのだった(笑)。
奴は防衛省の事務次官更迭絡み
で自分も飛ばされた。事務次官
まで行ってから自民党から入閣
し総理大臣になるのが幼稚園の
時からの奴の口癖だったが、
頓挫した。
ガキの頃からキレモノだった。
幼稚園から小学校低学年時代は
漫画を描くのが中学生以上並み
に上手かった。
独自キャラの連載漫画を描いて
いた。その名は「スカタン」(笑)。
何だか今記憶を辿ると、ばいきん
マンのような風貌のキャラクタ
のヒーローだったよ。
小学校1~2年生が描く漫画とは
思えない才能を見せていた。
マッハはミドルのSSマッハⅡで
さえも、今は300万円程するよう
だ。
簡単に気安く買えないよ(笑)。