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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

東京・横浜方言

2023年08月29日 | open


典型的な東京の風景

普段私が話す言葉は東京・横浜
の方言だ。
仕事では全国共通語の「標準語」
を話すようにしている。
対人対話や畏まった場では、その
ように共通語を使用するように
小学生の時から学校の国語
教育
で習ったからだ。
学習して習得したものはそれを
使う。日本語を母国語として
教育を受けた者の常識として。

地元方言しか話さないで人と
コミュニケーションを取ろうと
するのは大変失礼、無礼な事で
あり、傲慢だ。
よくイナカモン(田舎という
地方に住しているのがイナカ
モンではないので注意)には
多いのだが、地
言葉だけしか話
そうとしない人
たちがいる。
しかし、あれは極めて人として
傲慢な態度だと断定できる。
フランス人が絶対に英語を話そ
うとしないのに似て。
全国共通語である標準語は義務
教育で6才の時から日本人は
教育される。
これは明治に始まった。
国軍創設の時に命令が通じない
からだったが、明治に国民教育
として「標準語」を新設した。
それは、旧幕臣の旗本言葉を
ベースに新政府軍によって創作
された日本初の全国共通の言語
だった。
ここに初めて日本人は母国語で
ある「国語」を手に入れたので
あった。

明治新時代から100数十年が
経とうとも、日本人たる自覚
が薄いのか、地元の部族言葉
しか話そうとしない人々が地方
に行けば行くほど多い。
言語として方言を守るのは良い
事だろうが、初対面や公共放送
で方言しかあえて話さないのは
日本人としての相互の交流と
意思疎通を無視する傲慢至極
の態度である。
だが、自覚無き人々は田舎には
多い。小学校行っただろうに。

うちの刀剣会の山梨県での合宿
の時、初めて会った
横浜出身の
人が、私の
話し方について、
「話し言葉遣いが
かなり江戸前
なので驚いた」と
言っていた。
普段話すのは書き言葉ではない。
私の地言葉になる。
つまり、東京横浜の方言だ。
サンマの産地で生まれてハマ
で育ち、小石川界隈の高校に
通い、ハマに住みながら都内の
大学に行き、虎ノ門新橋の職場
に通勤した。ずっと江戸・横浜
界隈で過ごしていた。
なので、語り回しはちょいと
伝法なエンコ風味もあるが、
東京と横浜の混ぜ口調になる。
だが、襟元正して真摯に会話
する時
には標準語を使う。

東京・横浜の方言を話す江戸ハマ
ジモチーたちがラッキーなのは、
それは日本語の共通語たる標準語
が、地元方言にとても近い事だ。
これはかなりラッキーであると
同時に楽している。
しかし、よく考えると苦労もある。
方言と標準語が似ているだけに
微細な差異をきちんと使い分けて
正しい日本語=標準語を話すの事
の難易度が上がるからだ。
むしろ、まったく標準語とかけ
離れた地方の人たちは、標準語
をマスターして話すのはたやすい
のではなかろうか。
昔の芸能人(歌手や俳優たち)は
標準語を話すことを強制された。
大阪出身者たちや九州四国出身者
たち等々。
松田聖子や堀ちえみや広末涼子は
完璧な標準語を話していたが、
地方出身者だ。
今でこそ、地方在民のような空気
もあるので、方言で時たま話す
事は芸能人も認容されてはいるが、
基本的に人様に物を伝える公共
放送では全国に通じる共通語=
標準語で話すのが礼儀であり常識
だった。
それゆえ、かつては芸能人たちは
ニュース放送と同じ標準語の日本
語を話す事を必須とされたのだ。
なにも東京人ぶる中央集権主義
の象徴で標準語を話していたの
ではない。

最近はライン等のメールでのやり
取りも人との間で多いが、困る
のは、メールの書き言葉さえも
方言一色で書いてくる人。
「その言葉の意味がわからない」
と返信すると「嘘じゃろ?馬鹿に
しとるん?」とか言ってくる。
性格は典型的なその地方のパターン
だから仕方ないとして、そのスタ
ンスの人が多すぎて困惑する。
そのうち、意味不明の言辞も聞き
流す、見流す、スルーになって
来る。問うと馬鹿にしてるのかと
逆上するからだ。これ、何も一人
ではなく、同パターンとして何人
もが同じ反応を示す。
個別個体差ではなく集団性だろう。
テレビの地方局も方言ファースト
で放送しているし、非常に住み
にくい。よそから来た人を排除
するジモチー根性の構造に地方
社会は隅々まで満ちているから
だ。市の商工会でさえ東京から
来て飲食店を開店した人を指して
「あっこの店、行ったらいけんで。
よそもんじゃけえ(あそこの店は
行ったら駄目だよ。よそ者だから)」
という事を言ったりしていると
いう全国的(というか首都圏では、
か)には信じがたい事実がある。
別な地方でも似たような例が問題
となってニュース番組でも取り
上げられていた。
とにかく地方の田舎の人たちは、
「牧歌的で人柄が良い」という
のは大嘘で、非常に底意地が悪く、
排他的で非開明的で、妬み深く
執念深い。こればかりは全国
共通項のようだ。
それは大昔からあるようで、夏目
漱石の名作『坊ちゃん』を読めば
地方の性根がよく判る。
あれは漱石の教師としての地方赴任
の実体験をベースにしているが、
実際にあの登場人物のような地方人
が全国各地にわんさかといたのだ
ろうし、今も根を張っている。
「日本人」になればいいのに、と
思う。垣根など作らずに。
だが、残念ながら、21世紀の現代

にあっても「ニッポンは一つの国
ぜよ」にはなっていない。
龍馬がやろうとした日本の洗濯は
今なお実行されていない。

なんとかならないものか。
答えはなんともならない。
地方のジモチーたちは変えるつもり
が全く無いから。
地方の変革は地方の在地の人間が

自主的に自覚してやるべきで、
よそから転入した人間が率先すべ
きではない。そういうレーニンの
外部注入論のようなのは駄目なのだ。
それは人類の歴史が証明している。
だが、今の全国的な地方復権、在
地在民
の国内風潮は、非常に良い
面もあるが、
実は地方人の意固地
な狭い地元
根性を増幅させる悪し
き面も助長
させている事が社会的
に体感でき
る。

広島出身ではないくせに先祖の
ルーツが広島だからと広島の
選挙区から立候補した総理岸田
だが、私と同世代で学生時期も

被る岸田が、せめて「ほうじゃ
けえのお。じゃろう?」とか
言ってないのがせめてもの救い
か。
なんだか虚しすぎる救いで救い
にもなっていないが。


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