Kevin Schwantz Invasion 1988 fuji speedway in Japan 1-3
Kevin Schwantz Invasion 1988 fuji speedway in Japan 2-3
Kevin Schwantz Invasion 1988 fuji speedway in Japan 3-3
1988年の富士スピードウェイ
スーパースプリントレース。
翌年1989年に日本で初開催の
世界グランプリの前哨戦として
世界グランプリライダーが集結
して戦われた。
これが1988年時の地球上の
トップライダーたちだ。
最高峰500ccのワークスマシン
は1台あたり開発費も含めると
5億円程した。
250でも1台3億円を超えた。
現代のレースは市販車改造の
延長線上にあるようなレースで、
1980年代の四輪F1のような競技
専用車でのレースではなくなっ
ている。
ワークスマシンの開発にはメー
カーは湯水のように資金を投入
した。
それは、とりもなおさず、工業
力の発展と、メーカー市販車の
販売台数増加に直結していた
からだった。
現代は様々な制約が競技規則に
設けられ、まるでエコカーレー
スのようになってしまった。
戦闘力の高い技術の粋が投入
された最新鋭のマシンで文字
通りの技術と技法の最先端、
最頂点を目指すレースではなく、
エンジンの耐久性やタイヤの
同一指定など、非常に発展力を
阻害するファクターが現代では
桎梏としてかけられるように
なった。
そして、世界最頂点を40年間
保った日本のメーカーは、それ
らを払拭しようとコンピュータ
データ頼り一辺倒となり、人間
不在の車作りにシフトした。
あるべき道を大きく踏み外した。
その結果、今や日本メーカーは
揃って世界最底辺の最後尾を走る
事しかできない二輪車しか作れ
なくなった。
この1988年の映像は、世界最高
峰の二輪レースで、世界最頂点を
めざすには日本製オートバイで
なければ勝てなかったという、
世界の二輪史の中での輝ける
日本二輪黄金時代のその最高
頂上時代のレースの映像である。
こうした日本製二輪が突き抜け
ていたシーンが地球上で約40年
間程続いた。
太陽系の中で、日本の二輪が
ダントツ性能だった時代だ。
この時の500GPマシンは富士
スピードウェイ直線終わり前
でこの速度。約280km/h。
実際はブレーキ直前位置での
計測ならばもっと出ているだ
ろう。
純ロードレーサーには速度計
は付いていないのでスピード
ガンでの測定になる。
250ccで大体このコースでは
260km/h台だ。
125ccでもGPマシンならば
240km/hを超える。
GPマシンは性能では50ccでも
180km/hを超えていた。
海外の直線がもっと長いスピ
ードコースではさらに最高速
が出る。500ccなどは300km/h
はゆうに超えていた。
サーキットはそれらの260km/h
前後が「高速域」であり、180~
160km/hは「中速域」、100km/h
は「低速域」で、ヘアピンなど
の80~70km/h域は「超低速」
という区分けになる。
制限速度が設けられている公道
とは速度域がまるで異なる。
つまり、公道でも最高速制限の
ないドイツのアウトバーンでの
一般車両の巡航速度160km/hは
競技コースでは「中速域」に
あたる。
一番多い120km/h巡行は「低速
域」であり、アウトバーンでは
安全走行速度域となる。
日本では公道の最高速制限は
120km/hだが、それは巡行安全
確保速度であるともいえる。
なお、高速警察隊のPCに私は
ある交通案件の被害者として
同乗したことがあるが、高速
道路でごく普通にその高速隊
PCは170km/hで走行していた。
同乗していた所轄警官は体験
する生まれて初めての速度だっ
たようで、かなりビビっていた。
相当に。
たぶん、仮に希望しても交通
機動隊には配置転換はされな
いだろう。
速度に目と感性(心)が追い
付かないのは、たとえ訓練し
ても克服は不能だからだ。