横浜市栄区に瑜伽洞(ゆがどう)
田谷の洞窟という人工洞窟がある。
鎌倉時代にノミだけで掘られた。
全長は1kmほど。
内部は伽藍のようであり、様々な
仏教彫刻が見られる。
横浜市内南部や鎌倉・藤沢あたり
の小学校ではよく社会科見学に
行く場所だ。
造られたのは鎌倉時代というが、
詳細は不明。
内部はかなり神秘的な空間と
なっており、真夏の盛夏でも
内部温度はどの場所でも16℃。
中を歩くと、岩盤というより
粘土質の山を掘った様子が
小学生の時に観察できた。
内部の足元には水路もあった。
ここは全国的にも非常に珍し
い歴史的な遺物かと思われる。
現在の横浜市栄区は旧戸塚区だ。
1986年に戸塚区から泉区と共に
分離して誕生した。それ以前の
大昔は相模国鎌倉郡だった。
このあたりは、今でこそ横浜だが、
大元は鎌倉なのである。
現横浜市は大部分が武蔵国(港
周辺以北)だが、現横浜市南部
は旧相模国に属した。港周辺の
ヨコハマは武蔵で横浜市南部は
相模。
付近で特異な地理的配置として
は藤沢市が挙げられる。
海岸部分と江の島を持つ藤沢市
は南北に細長く、藤沢市の東横
のかなり南方まで横浜市となる
行政区割りとなっている。
ライオンが縦に伏せたような形
で藤沢市が横浜に食い込んでい
る配置。
藤沢には海(相模湾/太平洋)が
あるので海沿いの市と思いがち
だが、かなり内陸部まで市内と
なっている。表現によっては、
横浜よりも北にある、というよ
うな地形になっている。
藤沢は、江戸幕末に誕生した
シティである横浜などよりも
ずっと歴史は古く、東海道の
主要な宿場町(門前町)だった。
江の島観光は江戸時代に人気
だった。その様子は有名な
『東海道五十三次』にも描か
れている。
そして藤沢も、鎌倉時代に
幕府があった頃は管轄も土地
も「鎌倉」であったのである。
神奈川県は面白い。
日本で初めて武家政権が登場
した土地であるというのも
興味深い。
なぜ相模の国に?と。
それにはいろいろ歴史的な
意味があった。
「武士(もののふ)は東国」
といわれた歴史の意味がそこ
にはある。
現実的に日本国内で東日本と
西日本に住してみると、両者
は全く人的質性において「別
物」であることがあらゆる面
で体感できる。人間が全くの
別種なのだ。
単に電気の電圧が500Vか600V
の違いだけではない。
全てが別物なのだ。
これは、現実的に東日本と西
日本の両方に長く住んでみな
いと理解できないだろう。
この違いは、民俗学的には中
世以降に形成されたものでは
なく、古代のさらに遥か昔の
「縄文対弥生」という原日本
形成過程までその違いのルーツ
が遡るのではなかろうか。
とにかく、21世紀の現代にあっ
ても、東日本と西日本では人間
の質性の全てが異なる。
現在は同じ「日本人」であるが、
現実としては異文化と異人間の
存在現象があるのが東日本と西
日本なのだ。
これは柳田国男が主張した京都
を中心とする方言同心円拡散の
現象とは対立する。
言語としてはそうした広がりが
現象的に分析できるが、言語が
土着文化や人的質性をも規定
しはしない、という歴史性が
現実的現象から看取されるか
らだ。
東日本と西日本は「別の国」
なのである。
そして、「日本刀」としての
規定になる日本固有の湾刀で
ある刀剣は、東日本の「俘囚
の剣」から誕生した。朝廷を
主とする鉄器の直刀からでは
ない。
「日本刀」は朝廷に対立した
平将門軍が初めて湾刀を使用
した事に発生し、朝廷軍の刀
剣を叩き折りまくった。
将門軍の湾刀は圧倒的な武器
としての戦闘力を有していた。
それは取りも直さず、狩猟に
通じた東国の技術的歴史性と
蕨手刀を原型とした刀剣が
東国のみに存在した事の発展
系として日本刀の誕生の経緯
があった。騎馬技術も狩猟民
の技法からの伝系だ。
将門軍を周辺懐柔により包囲
した朝廷軍は、焦って捉えた
東日本坂東の人間たちを俘虜
としながらも、その作刀技術
を簒奪掌握し、自分らも湾刀
を製作し始めた。
それより数百年前より東国の
製鉄技術だけでなく、西日本
各地(特に中国地方)の製鉄
技術の簒奪掌握により国家
体制を築いてきた天皇国家
が日本(やまと)であったが、
具体的な武器と戦闘様式と
して局所的な大敗北を喫した
のは平安時代末期の東国の
平将門の「乱」であった。
そして、将門の蜂起「鎮圧」
によって古代は終焉を迎え、
中世が日本に登場するので
ある。
だが、学術的に西欧と同じ
「中世」が日本に存在した事
が発見されたのは、ごくごく
最近の事で、近現代学問が発
達普及浸透してからの事だった。
アジアでは日本のみが「中世」
という封建領主制を有する歴史
を持つ唯一の国だった。
天皇政権は俘虜の刀剣製作者
と製鉄技術者を朝廷支配下の
西日本に連行して各地に配置
させた。
その場所はのちのちの現代
までもいわゆる「被差別地区」
となったが、近世差別的統治
制度成立以前に、天皇支配の
貫徹の中で新たに作られた
差別統治階級制度の一旦として
そうした東国産鉄作刀技術集団
が最下層階級に置かれながら
各地に配置集住させられたと
いう歴史的事実が存在する。
それゆえ、刀工は江戸期になる
までずっといわゆる最下層の
階級に置かれていた。
江戸期にも歌舞伎役者のように
刀工が裁判によりいわゆる「脱
賎」したという記録はみられ
ないが、刀工以外の一般的な
鍛冶職が中世と同じく最下層
階級に置かれたままであった
事実(「鋳掛屋」等が典型例)
を見ると、刀工自体の往時の
社会的に置かれた階級も見え
て来る。
刀工は江戸期には武家たちに
珍重されたので社会的な印象
としての位相は高くなったよ
うに見えるが、実はそれは
社会制度としては虚飾であり、
天皇を中心とするピラミッド型
の人民支配構造の中にあっては、
天皇からの委託を表看板にし
た武家の独占権力体制の時代下
では鍛冶職は最下層階級のまま
だったのが現実だ。
武家政権は天皇親政時代の
階級社会構造を利用流用した
差別的階層制を旨とする天皇
支配の「代理人」の統治体制
を骨子としたからだ。
日本の社会的差別は天皇が作り、
そして武家政権がそれを利用
した。
「西が尊く東は野蛮」という
日本固有の発想は、仏教思想
と中華思想が結合して、天皇
を中心とする階級社会が形成
された律令体制以降に誕生し
たと解釈されるのが学術的に
は一般的だが、実は縄文対弥生
の時代にその素地が発生した
ものだろうと思われる。
「自分らが文化の中心であり、
最良最上であり、他の周辺は
未開で野蛮な蛮族」という
中国独特の中華思想の導入は、
日本では大陸文化の模倣を
始める大和朝廷律令制度導入
時期に開始されたのは確かで
あるが、天皇を中心に据えた
大和朝廷成立以前の大和合議
制政権時代とそれ以前のヤマト
時代、さらにそれ以前の弥生
文化と縄文文化の拮抗時代から、
現在に続く日本人の土着的な
地域ごとによる排他性は形成
されていたのだろう。
そしてそれは「持つ者と持たざ
る者」という社会構造が登場し、
原始共産制が崩壊した時から
開始された事だろう。
生産を独占した者が権力を持つ。
これは古代を超えた太古からの
定式として存在したのだった。