平 忠彦 英雄伝説 2nd Lap
-ラストランSUGO-
1992年4月。
一つのレジェンドが選手として
の活動の幕を閉じた。
この日、SUGOサーキットに詰
めかけたファンは伝説の平忠彦
選手の最後のデモランを見守っ
た。
レーシングライダーにしては
珍しく、温厚な人格者だった。
ノービス時代はよく転ぶが突き
抜けた走りではなく、コツコツ
と地道にステップアップする
人だった。
埼玉イナレーシングの人だった。
だが走りは光っていたし、レー
ス開始2年後の78年にはノービス
250で全日本3位になり、79年に
はジュニア350で全日本チャン
ピオンになった。
そして、1980年には私も76年
から別チームながら大変お世
話になった実力者の王子の三原
さんと組んで平選手は鈴鹿8時
間耐久にも参加した。
その年1980年は平選手は全日本
国際A級に昇格して350で日本
チャンピオンになった。
81年から500にスイッチし、
ランキング6位、82年に3位、
そして83年から85年まで不動
の3年連続日本チャンピオンに。
さらに1986年からはヤマハワー
クスとして世界グランプリに
250クラスでフル参戦して世界
ランキング9位となった。
特に最終戦のサンマリノGPで
はスタートに失敗し、ほぼ
最後尾から全員を抜き、トッ
プのチャンピオンのラバート
に肉迫する。逃げるラバート
はオーバーペースで転倒、
平選手は追撃する2位以下を
突き放して優勝した。
映画のような現実が起こった。
映画『汚れた英雄』でも、
北野晶夫は最終戦で転倒して
しまうが、そこから立て直し
て、全員を抜き優勝する。
平選手はまるで4年前の自身
が吹き替えをした映画のよう
な優勝をサンマリノで遂げた。
最高の走りだった。
なお、世界グランプリは従来
は数十年に亘り押しがけスタ
ートだったが、始動性の悪い
ヤマハと押しがけがあまり上
手ではない平選手は1986年
GPでスタートで追突される
重大事故を起こした。
ホンダのマシンは始動性が
良く、1歩押してクランクが
1回転する間に点火するが、
ヤマハのマシンは250も500
も3歩押さないとエンジンが
始動しないような車だった。
平選手はそれゆえに重大事故
を起こしてしまった。
そのため、安全性のために、
ロードレースでは押しがけが
廃止されてエンジンをかけた
ままからのスタートが採用さ
れるようになった。
平選手の事故が国際ルールを
変えたのだった。
平忠彦さんは現役引退後に
ヤマハのチーム監督まで勤め、
また、ヤマハ系の御自身のショ
ップを浜松に開いて二輪界の
隆盛に貢献した。
だが、現在のヤマハは歴史的
な平さんの功績、ヤマハへの
貢献を軽んじ、関係を絶つ。
現在、残念ながら、平さんの
ショップ「タイラレーシング」
ではヤマハの車は取り扱って
はいない。
ヤマハは河崎氏、平氏と同じく
多大なる歴史的貢献をした本間
利彦氏も切った。ホンダも同様
の事をし始めた。
そして、現在。
ヤマハはホンダと並び、MotoGP
では世界最底辺の位置を走る事
しかできない二輪を作るメーカー
になった。
ネオコングローバリズム台頭
以降、二輪メーカーだけでなく、
日本の自動車産業界には一つの
潮流が席巻している。
それは「利益優先第一主義」。
そして、有益な人をどんどん
社内や関係企業から追い出して
行った。
特に二輪車業界にその傾向は
激しく、社内でも有益な貢献
をした人材を閑職に追いやった
り、退社するように仕向けたり
した。
そして、現在がある。
世界最底辺の二輪車しか作れな
くなった日本の二輪メーカー
の現実が。
ヤマハが平さんを切るという
のは凄すぎる事だ。
いうならば、巨人軍が長嶋さん
を「もう無関係の人」として
放逐するようなものだ。
一体、日本の二輪メーカーは
何をやっているのか。
というか、ヤマハはトヨタ傘下
になって、完全にトヨタ色に
なったのかも知れない。