渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

国道1号線-白バイのはたらき-

2024年10月09日 | open

国道1号線-白バイのはたらき-

この独特の砂型製作のクラン
クケース。メグロだろうか。
右シフトのようだ。


映像でも判るように、この
戦後昭和の時代には国道1号
でもこの程度の交通量だった。
一般乗用車が今の諸情報を含
めた貨幣価格に換算すると1
台あたり3~5千万円程した
時代なのである。1950年代
には超富裕層しか自家用自動
車などは所有できなかった。
オートバイは今の金額換算だ
と大体300~500万円程に相当
する。
日本人は預金証明書を提出し
て政府の許可がないと自由に
海外旅行には行けなかった。
金の持ち出しが国力を低下さ
せるからだ。むしろ外貨を多
く獲得したかった時代。

車両にはウインカーの無い時
代である。
二輪車は手信号で右折左折を
表示した。
私が自動二輪免許を取得した
昭和51年1976年の教習では、
手信号のやり方をまだ教えて
いた。
右折は左腕の肘を曲げて二の
腕を垂直に上に向ける。
左折は肩の位置で真横に水平
に腕を伸ばす、というやり方
で、これは昭和40年代の小学
校の校庭での自転車の交通教
育でも同じ方法を習った。

昭和30年代40年代(1960~
1970)の交通警察官のイメー
ジは誰もが全員サングラスを
していたイメージがかなり
強い。そして、誰もが高圧的
だった。この動画のような親
切さは一切無く、本当に高圧
的。それが世の中の警察官の
真の姿だった。オイコラ警官
の明治の官憲のまま、みたい
な感じだったのが真実だ。
国民に威圧的に接する。それ
が日本全国の警察の姿勢だっ
た。今でも警察の訓示にもあ
る「威風堂々」などというく
だらぬ警察のプライドは、そ
うした高圧的に国民を威圧す
る事が常習だった時代の思想
的残滓だろう。
そして、警察の天下り組織で
ある日本二輪車安全普及協会
などでは、二輪の「正しい乗
り方」として「威風堂々」を
現在急に掲げ始めた。その乗
り方はこの上掲動画にある白
バイ警官の乗り方(天神乗り)
であり、現代二輪のポジショ
ンには全くそぐわない非科学
的で完全に誤った載り方だ。
現代白バイ警官たちでさえや
らないような。
それを国民に対し「指導」、
「教育」しようとしている。
とんでもない権力者の紐付き
の組織
だ。国民を危険に導く
思想と
実体を洗脳教育しよう
として
いる。
威風堂々などという精神論で

二輪の安全確保などはできな
い。物理的かつ医学的に理に
叶った方法でないと。
二輪の安全運転の具体的方法

において、「威風堂々」など
という精神注入論などはくそ
くらえだ。害悪でしかない。
二輪運転の安全確保は適正で

公正妥当な科学的根拠に依拠
する。
警察官のパレードと勘違いす
るな。
警官の立礼のような姿勢で二
輪に乗る事で交通安全が確保
できると思ったら大間違いだ。

なお、私が幼少時の昭和30
年代には、まだウインカーの
無いトラックなどもあり、簡
易ウインカーで矢印の板がパ
タンと出てくる仕様の車もあ
った。
信号の無い交差点では白と緑
の縞々の木箱の上に警察官が
立って交通整理をしていた事
もあった。
道路はどこも未舗装路が多か
ったが一部幹線道路は舗装が
為されるようになってきてい
た。

アスファルト舗装道路が全国
的に広まったのは大都市から
で、
しかも1964年の東京オリ
ンピ
ックを目安に高速道路が
国内で初めて完成し、舗装道
路が徐々に全国
的に普及した。
東京オリンピックから1970
年の大阪万博ま
での国内の
変貌ぶりが激しく、東京では
江戸城の濠が次々に埋められ
て首都高が建設され、史上
初の高層ビルである霞ヶ関
ビルも建設され、東京の外観
が近代ビル群に変貌して行っ
たのだった。
ただし、環境問題に対しては
国は放置状態で、公害問題、
河川と海洋汚染問題は深刻
だったのが1970年前後だっ
た。国民の健康被害は甚大
だったが国は環境庁が登場
するまでは丸無視だった。
東京横浜では空襲警報のよう
な警報が鳴り、光化学スモッ
グ発生で生徒児童は建物の中
に避難した。
銀座で初めての歩行者天国
(1970年8月2日)
1970年8月2日の日中、小4
の私は
横浜のドリームボウル
でボ
ウリングをしていた。
白い襟付き半袖シャツを着て
いた
が、ボウリング場内はエ
コン利きすぎで寒かった(笑

1970年から現代まではさして
国内状況は変わりが無い。
電子機器が登場し、通信機器
や医療が大幅に発達した程度
だ。列車はレールを走り、車
はタイヤで転がる。野球は
ールをバットで打ち、人は

動では徒歩で歩く。変わりの
ない
ものは変わりも無い。
変わったのは建築物や電化

製品と人の心だけである。
1970年に今の日本の原型は
完成されたと言っても過言
ではない。
70年安保の時代。大阪万博の
時代。ベトナム戦争の時代。
キィハンターの時代である。
それまでは砂利道でもない、
なんというか黄土色の真砂が
打ち固められたような道路
ばかりが国内の道路だった。
学校の校庭のようには柔らか
くはなく、結構固く、砂塵の
舞い上がる道路だった。
ガードレールは昭和31年まで
は日本国内には一切存在しな
かった。
ガードレールは私が生まれる
少し前に国道1号に敷設され
たが、普及し始めたのもずっ
とあとからだった。
東京の街は、車道よりも少し
高くなった歩道があり、歩道
の角は丸いRで削られていた。
日本の歩道が敷石からすべて
アスファルト舗装歩道に変え
られたのは、1960年代末期に
首都圏で歩道の敷石が学生た
ちの投石用にはがされて利用
されたからだった。落として
砕いた石を運搬する役は主と
して女子大生だった。

戦後の日本のモーターリゼー
ションはオートバイ製造から
始まった。
戦後、日本には二輪メーカー
が二百数十社ほど存在した。
そして徐々に廃業や統廃合を
繰り返し、現在の4社のみが
生き残ったのである。
カワサキは大人気の目黒製作
所と提携し、メグロの販売網
で自社の開始したオートバイ
を販売していた。2ストモデ
ルだ。カワサキは2ストから
始まった。かなり速いライト
ウエイトのスポーツ車を川崎
航空機は製造していたが、大
型車の製造ノウハウが無かっ
た。そこでメグロと提携して
販売生産部門の拡大を狙って
いた矢先に目黒製作所が倒産
しかけたので川崎航空機工業
が買収して目黒を吸収した。
その後川崎重工に二輪製造
部門は移転し、今世紀に入り
二輪部門を独立させて別法人
とした。

 

 


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