







江戸東京散歩。
吉良邸である。
先ほど東京下町からの通信。
地元の有志が当時の吉良屋敷の
うちの1/86を復元したらしい。
元禄15年(1702年)、ここに赤穂
浅野藩の浪士は討ち入りをした。



大名の邸宅を武装襲撃で首を獲る
などは江戸幕府始まって以来の
大事件で前代未聞だ。
だが、これは喧嘩両成敗の御法度
を自ら反故にした将軍綱吉の誤り
がもたらした。
浅野殿が即日切腹であるのと同じ
く吉良殿にも切腹の沙汰を申し渡
していれば吉良邸討ち入りなどと
いう挙兵は無かった。
だが、討ち入りの浪士たちはもと
より切腹覚悟で決起した。
それは、武士であるからだ。
義を軽んずるは武士に非ず、だか
らだ。
討ち入りの際に、近隣大名は騒音
があっても武士の情で幕府に届け
出などはしなかった。
これも武士ゆえの事である。
武士の情はお情け頂戴のナサケ
ではない。切腹の際に介錯をす
るのが武士の情だ。
助成合力も武士の情であり、
同族の矜持を守るのが武士であ
った。
独立自尊の武装血脈たる武士は、
お上のご政道よりも武家の義を
重んじた。
武家には武家の法があった。
それは幕法や明文化された法に
規定などはされず、武門の道義
として存在していた。
士道とはそれであった。
但し、江戸期には士道は廃れ、
やみくもに上に従う武士道なる
新思想が強要された。
士道は独立自尊であり、上が
たとえ殿だろうが将軍だろう
が天皇だろうが、非ある場合に
はそれを糺した。忖度は無い。
それが日本の武家だけが有した
士道の根幹であり、日本を牽引
した日本人のインディペンデン
スであった。
江戸期には元和以降は歪められ、
武士から牙を抜こうと幕府は
躍起になった。
武器の自由を奪い、色まで指定
し、髷もミョウチクリンな短筒
を頭に乗せたような珍妙な髷を
武士に強いた。全く兜を被る事
を前提とはしない妙な髪型とし、
髭ももみあげ伸ばしも禁じた。
守らなければ死を命じた。
吉良邸討ち入りは、元和以降
骨抜きにされていた武士の面
目を見せた事件だった。
幕府に背く「暴挙」ではあるの
だが。
赤穂浪士の火事装束は、後年、
新選組の隊服のモデルになった。
劇画『子連れ狼』での拝一刀と
柳生烈堂の江戸八丁河原での最
終対決も討ち入りと同年の夏の
事であった(笑