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1964年、東京オリンピックが
開催された年の冬の写真。
大正時代に史上初の純国産車
「ヤナセ号」を設計製作した
人の戦後乗っていた車の上に
座らされて撮影。
その人は、東工大卒業後、国
費留学で日本の自動車自主製
造の為に自動車工学を学ぶべく
フランスに渡り、その足でさら
に渡米して最先進国の自動車
産業と自動車工学を学んで帰
国した。
そして、初めての純国産車を
製作した。
テスト走行では帝都東京府東京
市から箱根を目指したが、標高
が上がるにつれて点火に不具合
が出た。
並走していた設計者は、すぐ
にプラグを交換した。
ネジの一本に至るまで純国産
で製作したが、その時に交換
したプラグのみ国産からチャン
ピオンに交換した。
ぐずついたエンジンは息を
吹き替えして箱根の峠をクリア
し、見事に初走行は成功した
のだった。
試作車として10数台が製作
され、皇室宮家にも納められ
た。
まだ、ゼロ戦などが誕生する
遥か以前の大正時代の事だっ
た。
日本の自動車作りは、その人
の功績から開始された。
私の父は、戦後その人の一番
弟子だった。
1980年代、法曹界にいた私が
職務で最高裁図書館で調べ物を
している時、ふと書棚に分厚い
「紳士録」があるのが目にと
まった。
昭和初頭の出版だ。確か昭和
8年(1933年)の書籍。
つらつらと見ていたら、その
日本初の国産自動車を設計製
作した人が掲載されていた。
「日本自動車産業の雄」と
記されていた。
私は幼い頃、その人に非常に
可愛がられた。
父も母もそうで、父などは
私生活でも書生のように師事
していた。
豊臣秀吉の旗本武将の直系子
孫だが、とても温厚な人だっ
た。仏の○さんと呼ばれてい
たそうだ。
後年、私を採用した子息の社
長は京大出の工学士で、身長
も高くがっちりしていて、か
つ豪胆ながら理論派で繊細。
戦国武将のような人だった。
お二人とも自動車工業界に
生きた戦前戦後の日本の産業
史に名を残した人だったが、
ご両人とも鬼籍に入った。
私の父も没した。
父が発明開発した物のいくつ
かは現在もトラック等では
ほぼ必需品として装着されて
いる。道行くトラックを見れ
ばそれが装着されている。
父が作ったスタジオクレーン
は、ずっと何十年もNHKの
大河の撮影で使用されてい
た。
国産車初のキャブオーバーも
初めての低床都バスも観光バス
のはとバスも父が手がけた。
実は私が入社後に私が発案し
た物も現在現行品として道路
を走っている。
オートバイのエンジンマウント
にヒントを得て、特許と不正
競争防止法に抵触しない形で
私が考えた。これにより、大幅
に車両は改善され、個別の局所
的な不具合が完全に解消した。
その後、それを見て川西(新明和)
もそれの構造物を真似して自社
製品に使用するようになった。
という事は、新明和でも同じ
不具合が発生していたという事
だ。
産業車両の発達発展に寄与でき
た事は、モノヅクリの喜びも
ひとしおだった。単なる西日本
営業統括を超えた喜びだった。
私は幼い頃、出かける時はいつ
もこの画像のようなこんな格好
だった。
写真は目黒区上目黒のメーカー
工場にて。
カワサキの前身であるメグロ
製作所もここから山手通りを
南下すればすぐの所にあった。
この写真は、日本が戦禍から
立ち直り、戦後復興を成し遂
げ、高度経済成長が開始され
て数年後の写真だ。
日本の戦後復興は「東洋の奇跡」
と欧米で呼ばれた。
同じ敗戦国とは異なるV字ターン
の経済復興を日本のみが遂げて
いたからだ。
この写真は、そうした日本が
爆発的に元気になり初めて、
順調に発展していた初期の頃
のものである。
正直なところ、1960年代の
日本は、「どこまでこの発展
は続くのか」という印象だっ
た。鉄腕アトムの世界が本当
にすぐにでも実現しそうな。
爆発的加速で推進力を得たロ
ケットのような社会が戦後日
本の姿だったからだ。
だが、急速な一挙的な産業発
展は社会のあちこちで大きな
歪みをもたらした。
その最大たるものが、公害と
薬害だった。
まだ環境庁さえも存在しない。
工業地帯の汚水は垂れ流し、
製薬もずさんな認可と採用で
多くの国民や幼い子どもたち
が奇形児として生まれたり、
生まれつき身体障がいを持っ
て生まれたりしていた。
企業が国家繁栄、資本の増殖
の為に、国民の健康や環境に
一切配慮せず、毒を川や海や
空に垂れ流ししていた為に起
きた。
繁栄の1950年代〜1960年代
は、公害と薬害とアメリカの
戦争の後方支援の国家として
の姿があったのである。
障がい児が生まれようと、煤
煙スモッグで国民が傷つき苦
しみもがこうとも、国も資本も
お構いなしの無視だった。
それが実は高度経済成長の社
会的背中だったのである。
日本人は真の危険には気づいて
いなかった。
それは未来劇である鉄腕アトム
にも現れていた。
アトムの動力は小型原子炉だ。
原子力には未来がある、など
と盲信し、日本人は誤ちを繰り
返そうとしていたのである。
そして、それはフクシマとして
不幸な現実になった。
だが、まだ原発を再稼働させよ
うと時の為政者と資本は動き始
めた。「日本の為」と称して。
構造と発想は、戦後の歪んだ
1950年代、60年代と何ら変わ
っていない。
変わる筈もない。
資本と為政者のルーツに変動
は無いのだから。
我々日本人は愚かだ。
死魚の腐肉を喰らい続ける迷え
る我々に、果たして本当の明る
い未来は来るのか。