渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

R大学

2024年02月05日 | open
 
名曲「大阪で生まれた女」には
某ブクロのR大学が出てくる。
私が高校時代に毎日のように仲間
と屯していた喫茶店はR大のそば
にあった。
そこで、R大附属高校の奴等、中学
時代の同級生たちといつもいた。
女子大附属に行った中学時代の
関東大会準優勝のバスケ部の彼
女(めちゃくちゃ可愛かった)も
いつも一緒にいた。
喫茶店で勉強したり、情報交換を
したりするのよね。まあいわゆる
タムロ。
当時、豊島岡女子に通う中学時代
の仲良しの女友だち
もそこにいた。
ほぼ毎日プチ同窓会気分。
男と女が性別や上下関係などなく、
同列で本気本音で接する、実に
良い空気だった。

ある時期、のちに千葉大に転任し
うちの高校の社会科の教師が
わが校の学内でトンデ
モ仕置き
の折檻を励行し始めた。
それは、教科書を生徒に授業中に
音読させて、彼
が間違いと思った
読みを生徒がする
と教科書を数十
ページ手書きで丸写
し、それを数
十回ノートに書いて次週の授業ま
でに提出させ
るというものだった。
物理的に書ける訳がない。
書けないとどうしたか。
柔道部の部室に連れて行ってバリ
カンで丸坊主だ。
どんどん学内に野球部マッツ
ァオのいがぐり頭の生徒が増
えて行った。
私も「読み間違え」た。
山本権兵衛を「やまもとごん
べえ」と読んで「ごんのひょ
うえ、である。はい、お前は
書き写しができなければ坊主」
と宣告を受けた。
おかしい。私は歴史には疎い
が読み物は好きで、私が読ん
だ書物では「ごんのひょうえ
/ごんべえ」という二通りの
呼び方で戦前戦中の往時は呼
ばれていたという記載の記憶
があったからだ。
だが、出典を明らかにできず、
私の説明抗弁も空しく、強権
的に教科書写しができなければ
坊主確定となった。

私はR大そばの喫茶店で一計
を案じた。
集まる中学時代の気の置けない
男女の仲間を総動員して、教
科書の該当部分をコピーして
写し書きをすべて手書きで分
担してノートに書いたのだ。
これは教師の言の欠缺をピン
ポイントで狙ったものだ。
「自書せよ」とも「一つの
ノートに書いてこい」とも
その当該教師は言明していな
かったのだ。これは大きな
ミスだ。理不尽な事を押し
通すが、あたかも論理性を
有しているかのような厚顔
であるので、論理で突けば、
論理で返そうとする。そこ
に一穴の缺欠が存したら、
そこを突いて一点突破の全
面展開が可能なのだ。
当該教師が犯したミスである。

見事提出して、その時に教師
がクレームをつけたら、法廷
劇のように論理の欠缺を突い
て全面展開するつもりだった。
堂々と。
そして全学で運動を組織して
その教師の暴虐と学校側の
教師横暴の野放しを完全粉砕
するつもりだった。

かくして、ノートは中学時代
の友人たちの支援の行動で
数日で完成した。
しかも、私の書体に似せて
仕上げるという職人技で中学
時代の仲間たちは手書きで労
を取ってくれた。無報酬だ。
これ、東京の心意気。

そのノートを教師に期限内に
提出した。
その教師は驚くと同時に苦虫
を嚙み潰したような顔をして
いる。
私はその理不尽な暴虐の抑圧
をクリアした。
学内でクリア者は初だ。高校
1年の時の事だ。丸坊主生徒が
どんどん増殖する中でどうに
か言質の穴を突いてクリア
した。

物を言ったら徹底的に論理で
論破するつもりだった。
論破などではない。おかしい
ことはおかしいので、論理的
に紐解いていけば、絶対に
「無理」をしている論理を
持ってくる側が敗北する。
これは論戦の原理だ。

そして、誰かが全学の裏で
の期待を受けて報復戦を組
織した。首謀者は誰か知ら
ない。明確な犯罪だ。
ある晩、その教師の自宅の
電話が鳴り響く。
ちょうど丑三つ時だ。
奥様が電話に出ると、電話
口からは坊主のお経が流れ
てくる。
これが数か月毎晩連夜続いた。
実行犯は誰がやったかなどは
判明しないし、私も知らない。
首謀者はその作戦計画を練っ
ただけで作戦実行手配は各学
年の仕切り人に任せた。全学
年の非公然隠密連携行動だ。
全員が共謀共同正犯である。
テロリズムだ。
奥様は心底参ってしまい、夫
である教師を詰問して糾した。
「あなた。貴方は学校で何を
やったのか」と。
当然、教師がやった事は当時
としても犯罪である。傷害罪
にあたる。われわれ生徒の行
動も当然法に触れる。刑事犯
罪だ。
だが、当該教師はある時教壇
で「敗北宣言」をした。
「負けた負けた!お前らには
負けた」と(ママ)。
「もう二度と教科書写しと
坊主にしたりはしない」と。
当たり前だ、たわけ。
だが、私は追撃戦を計画した。

高校2年の学園祭用に映画を
撮影した。
私は演出担当で、親友のS特
進のクラスメートから撮影の
描写の全権委任を受けていた。
フェリーニに影響を受けた作
で高校生の主人公が遅き自我
の目覚めと人間疎外に悩み、
そして闇夜に走り出す、とい
う作だ。
盗んだバイクで走り出しはし
ないが、バイクで走る高校生
との接触で主人公が疎外感を
感じるシーンは近所の本郷
高校の生徒に出演してもらっ
た。私のバイトと走り仲間の
人脈だった。
この作品は「高校生が面白い
映画を撮っている」と東大で
話題になり、東大五月祭で
東大学祭期間中にフィルムを
われわれが貸し出して上映さ
れていた。無声映画。
私は雀卓を囲むシーンで、
メンタンピン三色ドラドラで
あがる役でカメオ出演してい
る。
その作品の最初のテロップで
私は書いた。私が書いた。
「この作品はフィクションで
す。実在の人物団体とは一際
関係ありません」
と。
そして、その丸坊主強制教師
を「人の尊厳を解さぬ教師」
役で出演させた。
出演オファーは監督がうまく
やった。
ただ、黙って、取調室のよう
な部屋で主人公の生徒が何か
を訴えているのに、にやりと
しながら不遜な顔で腕を組ん
で頷いているだけの役だ。
私の仕込みはテロップのトラ
ップだった。
ラッシュは出演教師も全員で
観たが、その時に私の担任の
現国教師(元早大社学同)は
「おい、イッサイが一切で
なく一際になってるぞ。誤
字だろう」と言った。
その時、敵もさるもので、例
のターゲットの坊主教師はニ
ヤリとして私を見据えて黙し
て語らずだった。
その坊主教師が「誤字だ」と
口にしたならば、「いえ先生。
これはヒトキワでございます。
読み間違いですか?どうなさ
いますか?」とバリカンを目
の前に出すつもりだった。
これは用意周到にバリカンも
密かに用意していた。
プランCでは全学占拠バリスト
も計画していて、その教師の
坊主強制の横暴を弾劾し、職
員会議において処断させる大
衆団交を組織する手はずだっ
た。
そして、血盟者は全員同意し
た。
当然報復で内申書はゼロにな
る可能性もある。
もしかすると機動隊導入で退
学になるかもしれない。
血盟者たちは大検を取得して
学力だけで試験を突破し大学
に合格をするつもりでいた。
(実際には製作スタッフは
ほぼ全員が早大に進学)
これは、すべて組織的に水面
下で計画された。
第一、監督の生徒自体が国際
組織第四インターナショナル
の奴だった。ナチズム的な暴
虐に対してはレジスタンス的
な権謀術数の徹底抵抗戦線で
の実力行使は当然にして張り
めぐらす。私はしかるべき国
家権力介入の際の局地防衛の
戦闘配置等を組織する防衛委
員長の役目を隠密で担ってい
た。
すべては水面下のフラクショ
ンによる決定だ。用意周到に
それは計画されていた。

だが、その坊主教師は作品ま
で作っての大掛かりなトラップ
まで仕掛けたその企みを見抜
いたようで、一切誤字指摘を
言葉では言わなかった。
一点突破の全面展開は思わぬ
ところで肩透かしとなった。
所詮、いくら抵抗戦線を築こ
うとしても高校生の知恵の稚
拙さだった。

作戦はスカったが、われわれ
が作った映画はごく狭い文京
区内では人気を得た。東大の
学祭でもウケは良かったよう
だ。
われわれの高校の文化祭上映
では「自慰行為シーン」(背
後からの絵柄のみ)があるた
めに見てられないとして上映
会場を飛び出した女子高生も
いたが。

その坊主教師はその後、うち
の高校を見限って国立千葉大
の大学教員になった。
担任だった現国教師もうちの
高校を離れて開成高校に転任
し、そして開成で副校長(教
頭)にまでなった。元早大
ブント社学同の叛旗派で歳
は私のちょうど10上。広島
県出身。呉の三津田高校卒。
「君たちは僕のこのくだら
ない講義を聴いているくらい
ならば、学校サボって鎌倉に
行って海でも見て物を考えて
いたほうがよほどいい」と
教壇で言っていた教師だ。
私は翌日実行した。横須賀線
に乗って。
その時歩いた砂浜は、自主製
作映画のラストシーンにロケ
で使った。

また、今では考えられないだ
ろうが、その担任教師の自宅
に呼ばれて、奥さんの手料理
で私のバイク仲間の別クラス
の友人ともども歓待してくれた。
「いけるクチなんだろ?」と
サントリーローヤルとオール
ドのダルマどっちがいい?と
言われて三人で教師自宅で痛
飲した。
そういう時代だった。
だって、教師が生徒を強制的
に文字読み間違いしたら丸坊
主にするような時代だから。
都内のやや進学校でもそれだ
った。
ちょい前の私が中学の時など
は教師が生徒を廊下に正座さ
せてグーでスボコ殴りなどは
当たり前だ。1970年代は。
「暴力の時代」なのである。
そして、暴力だけではなく、
「暴力と抵抗の時代」。
それが1970年代だ。

あの私たちの映画を製作した
スタッフの生徒の多くは都の
西北の杜の大学に進んだ。
だが、ほぼ全員が中退。国内
では中退者が異様に多い大学
でもあったが、主人公の奴な
どはその後、やはり大学やめ
て写真家になって東南アジア
を放浪してアジアの子どもた
ちを撮影してちょい有名な写
真家になっていた。
また、中退後に本物の陶芸家
になった奴もいれば、謀略好
きからか音楽関係でちょい名
のあるプロデューサーになっ
てるやつもいる。
後ろ姿で自慰行為を演じてい
たやはり早大に進んだ奴は、
その映画の約10数年後にばっ
たりと目黒区内のカフェで会
った。
顔姿が見えない低い仕切りの
横の席で初めて会ったという
女性を口説いていた。
英語もベラベラで高2の時に
カミュの『異邦人』をフラン
ス語の原語で数ページそらで
暗唱する奴だった。
私とは高校時代にはデカルト
の方法序説についてよく論争
した。
その喫茶店の時は、笑った。
声でそいつと判った。
「あれ?」と思い、上から
真横の席をのぞき込んだら
奴だった。
声をかけたら奴も驚いてい
たが、そいつとその口説い
てる女性を私と当時の彼女
で近所の目黒のビリヤード
屋に連れて行った。飲み食
いできるプールなバーに。
その時、アメリカ人の留学
生二人(日本語殆ど話せな
い)と店内で知り合って仲
良くなり、店で6人で玉を
撞いて飲みながら、いろい
ろ話をした。
私は英語は堪能ではないの
で細かい部分の会話に苦労
したが、高校時代のその学
友はペラペラのペランチョ
なのでいろいろ横からアド
バイストークを交えて話し
ていた。
その時、話題になったのが
氏名の日米の起源と表現に
ついて。
私の名前(ファーストネー
ム)は英単語でも実はある、
という話を私がすると、米
国人の二人はその単語を聴
いて「それはとてもワース
ワーズだ」と言う。
スニーキーピートみたいな
意味の英語での私の名前の
単語が存在するからだ。
でも本当は日本語ではリア
ライズ、ノウリッジ、クレ
バーの意味なんだよ、と言
うと「へ~!」とアメリカ
人は驚いていた。
そして続けた。ファミリー
ネームは「聖書」の意味が
あるんだぜ、と。
それをつたない英語で説明
した。米国人二人は驚いて
いた。オチの二段階活用だ。
高校時代の友人は横でニタ
ニタしていた。
唯一、高校時代の仲間では
大学を中退しなかった奴だ。

後日談が笑えた。
その10数年ぶりに再会した
高校時代の友人からその後
何年かして連絡があった。
あの日あいつが初めてその
人と出会って口説いてた時
(喫茶店でたまたま隣りの
席だったので、話しかけた
らしい)、たまたま私が当
時の彼女と一緒で、別な隣
りの壁向こうの横の席に居
合わせたが、その女性と結
婚したのだと連絡が来たの
だ。
その彼女とは私も初めて
その日に出会ったのだが、
その女性が奴を指して曰く
「こんな面白い人と会った
事ない」とビリヤード場で
言っていた。
まあ、高校時代の学び舎の
連中は、特質特化集団の
ような梁山泊の様相を呈し
ていたのは確
かだった。

そしてR大。
ここは大学時代に戦略的にセク
トでオルグに入って一時期駐屯
した。
しかし、オルグしきらんやった。
白金スチャラカ学院大やブルー
マウンテン大とは異なる独自の
気風のある大学で、常駐しても
オルグは困難だった。
高校時代からウンドのお兄さん
たちとサークルボックスで慣れ
親しんだ駿河台のチョコレート
大学とはかなり違う気風だった。
駿河台チョコ大は本物の梁山泊
だった。
それは高校時代から知っていた。

思い出深い池袋とR大。
それが名曲「大阪で生まれた
女」の原曲には出てくる。
それをレポしたブログ記事を
見つけたので思い出した次第。

 



 

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