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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

街の灯

2023年06月27日 | open



午前3時、街はまだ眠っている。
私は目覚めた。
午前3時の東京ベイは、今頃、
どうだろう。

以前、渋谷ピンクドラゴンの
店長の誠一郎さんが私に言った。
「東京の人間って、東京が東京
がとか言わないんだよね。そこ
にいるから」
と。
けだし然りと思った。
多くの歌謡曲やポップスでは
「東京」が歌われる。
これ、多分だが、東京生まれ育
ちではない人たちが作ったので
はなかろうか。
東京生まれ育ちの人間は「東京」
を語らないし、「東京」とは
あまり言わない。都内を指す
場合は特定エリアで物を言う。
エンコ、ノガミ、ジュクなど
は裏筋社会の呼び方なので一
般人は使わないが、浅草、上野、
新宿と特定エリアで東京人は
呼称する。第一、東京という
限定地名の場所は無い。行政区
割としての東京都しかない。
「東京」と言われても「どこ
それ?」なのだ。埼玉に「さい
たま」があり、広島に「広島」
があるのとはかなり違う。
北海道に「北海道」という都市
は無いように東京にはそれが
無い。

多くの人は東京が首都だと思っ
ている。
だが、日本は首都を法で定めて
はいない。
それどころか、日本は世界的に
稀有な国で、「日本」という国
名は慣用呼びであり、日本は
世界的常識である「国号」を
定めてはいない。
日本という国名は何らの法的
根拠の無い「いわゆる日本」
という概念なのだが、それを
世界に通用させている。
それはそれでよいのではと思う。
それが日本独自の風習だからだ。

本来は「国歌」もそうあるべき
だった。
だが、日本の国歌は法的根拠
がかつて無かった。
しかし、人を自殺まで追い込
む事をやる県があったために
法制化されてしまった。
その県ではある特定の戦後層
は「君が代」の歌詞もフレーズ
も知らない。一切歌えない。
「教えない」という事を教員
たちが集団強制したからだ。
「こういうものがあるが、歌う
も歌わぬも君たちの自由だ」
ではない。
「特攻服を着ると犯罪者」と
する憲法違反の条例を成立さ
せるような行為を為す連中が
その強制を行なって「歌わせ
い」事をした。
それが平和教育だ、として。

憲法違反だろう、それ、と思う。
それは国家主義的全体主義の
裏返しの行為でしかない。
国歌をインターナショナルや
ワルシャワ労働歌等にすれば
気がすむのか。
特殊な県の県民の特殊な感性
により板挟みになり心潰され
た教員たちは極度の心身症に
なったり自殺して行った。
私の親戚の小学校教員も心身
症で長期休職するに至った。

そうした事をする土地が日本
にはある。
かくして、「君が代」は「暗黙
国歌」であったのに、保守派
の採決により「国論」として
制化された。
「君が代」に反対して人に「君
が代」を強制的に歌わせななか
った者たちはそれを望んでいた
のか。
「君が代」は自由を奪われた。
誰もが望んで歌ったり、歌わ
なかったりした存在ではなく、
「歌わなければならない」と
いう存在にさせられた。
なぜ?
それは、国家がそうした情勢
に持って行かざるを得ない事
をする人々がいたから。
本末転倒だ。

だが、今でも歌わせなないと
いう強制を強いる学校がまだ
多くその県では存在する。
今度はそれは法律違反を犯す
事になる。
法律違反は犯罪だ。
教師たちが犯罪者となり、犯罪
を生徒児童に指導する。
法的にどうか以前に事の良し悪
しとして根本的に大きく間違っ
ている。
自由を阻害する強制強要の土着
風習。
それは、真の平和教育とは無縁
だ。
そして、心ある人は心を病み、
どんどん健康が阻害され、自死
を選ぼうとしたりする。
そのような特殊傾向が異常に
強い特殊な土地は、地域特性と
して精神土壌が汚れている。
だが、それを洗濯する洗剤は
存在しない。
なぜならば、実はその特定エリア
の特殊性は、保守や革新やそう
した政治的支持立場を超えて、
いずれの勢力の両方、換言すれ
ば「ほぼ全員の県民」がその感
性に蝕まれて集団洗脳のように
「集団強要大好き病」に感染
罹患しているからだ。
そして、繰り返すが、それは
平和とは程遠い。
人を死に追いやる全体主義が
形を変えて存在しているだけ
だからだ。

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