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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

わさび菜

2022年03月06日 | open


日本に生まれた日本人であるのは
たまたまであり、それは単なる
偶然でしかない。
それを誇りに思ったりするのは、
てめえの手柄ではないたまたまの
偶然を偉そうに思うだけで、宝く
じに当たったから俺は偉いんだと
か言う程にドカンチだ。

ただ、その偶然を心底ラッキーだ
と思う事がある。
それは食文化において。
わさび菜をふつーに食せる事は、
嗚呼、日本に生まれてラッキー、
良かった偶然これありと思うもの。
少なくとも一個人である独立した
存在の俺は。

で、それを、「日本人じゃったら
ワサビ菜食わんといけんじゃろう」
とか、「日本のワサビは世界一じゃ
けえ」とか、「これ食ったら他の
菜葉は食えんで」とか思ったり言
ったりすると、それはとんでもな
い世界的なドカンチ野郎になる。
そういうの時々どこかにいるらし
いが、それは日本国内の全国区で
も、世界レベルの感覚でも、辺境
の地の井戸の中より狭い洗面器位
の精神的人間性未開地土着感覚で
しかない。世の中では通じない。

世界を渡り歩いた外国人の友人
と国際文化論についていろいろ
意見交換をする。玉撞きしたり、
飲み食いしながら。
すると、友人たちは一様に言う。
日本は、食い物が半端なくうまい
と。
これは、私が日本人であるのは、
たまたまなのだが嬉しく思う。
そして、どんな点がうまいと思う
のか尋ねる。
すると、食材の味をどう生かすか
をすごく深く考察してると何人も
が言う。直に。
さらに、「それを強要しない」と。
ここ大切。
「食べてみんさい、うまいけえ」
「それをやりんさい、ええけえ」
という自意識価値観の他者への強制
ではない。
「よろしかったらどうぞ」が日本の
おもてなし、日本の心だ。
それを感じ取ってくれている外国人
は、日本の心を映す鏡であるので、
日本人である私たちは鑑にならない
といけないと自分に私は刃を向ける。
自戒の刃を。
それ無き日本人は、私は日本人で
はないように思える。
驕慢で傲慢な自己価値観を人に強要
してそれが当たり前と思っている日
本人たちは美しくない。
ちっとも美しくない。

食文化。
国際的な事だけでなく、国内的な
事であっても、その質性から本質
の人的心根は見えて来る。
来日在住外国人が、仮に日本の事
を悪く言う時に「出て行け」とか
言うのは、それはお門違いであり、
傲慢な人間的に最低の域に足を踏
込んでいる可能性が高い。
同様に、狭い国内の別地方から
ある特定の土地に来て生活する人
たちの殆ど誰もがその土地の質性
を快く思わないのは、それがその
土地の土地柄や人的資質の実態で
あり実体であり、事実だからだ。
だが、得てして、自己美化の病
に罹患している人々は、どの地方、
どの国であっても、他者への配慮
や気持ちを慮ったり、痛みを知ら
ない。
自分には自戒の刃を向けず、来訪者
たちを排斥する。

原始のムラである。
原始時代のほうがむしろ共生的な
価値観はあったかも知れない。
対人感覚、国の民としての社会性
に乏しい未開地原始性は、それは
けっして牧歌的な望郷的な側面が
実体のコアではなく、果てしない
田舎もん性が代弁する人間疎外と
人権侵害の実相を虚飾に満ちた
ローカル賛辞で糊塗して内実とし
て人を虐げる世界なのだと断言で
きる。

イナカモンはダメなのだ。
人を人として扱わないから。
逆に、エセ反イナカモン意識で、
中央絶対の中華思想が極限に行く
とナチズムになる。
奇しくも、その非人道的な権威
主義的な人間弾圧の思想、発想は
田舎者のイナカモン唯一絶対主義
と軸を一にする。
両者は、「人が人を虐げて、踏み
にじって優越に浸り、己のみの
権益を確保する事を善行とする」
という点で共通している。

私は、それらは、人間的および
社会システムの未開であると断じ
ている。
ワサビ菜ひとつからでも、それ
を感知する。


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