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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

仮面ライダーとロードレース ~立花レーシング~

2024年03月04日 | open


(1971年放送『仮面ライダー』)

仮面ライダー本郷猛は城北大学
(のち
城南大学)の大学院研究
生ながら
ロードレーシングライ
ダーでもあった。

彼は立花藤兵衛が主宰する立花
レーシン
クラブに在籍するロー
ドレースの選手
でもあった。

『仮面ライダー』(1971年)の
中で
出てくるロードレースシー
ンは、まるで
1950年代の日本の
公道レースのように
公道でのレ
ースシーンが撮影された。

選手権のかかったJA.Oという組織
主催
の公式ロードレースとして物
語上設定
されている。
出場マシンは、ほぼ公道マシンで
あり、
俗にいうプロダクション
レースのよう
なレギュレーショ
ンのようだ。


そこでレース中に本郷(藤岡弘)
と相棒
のチームメイト滝(千葉
治郎)は、ショ
ッカーの陰謀に
気づき、怪人と戦う。



レース自体は本郷が優勝する。
「やったぜ、おやっさん!」
メットの色ちゃうやんけ(笑)。

立花レーシングクラブの面々。
メカニックは誰?(笑)


藤岡氏と千葉氏、エキストラ
のみなさん。

藤岡氏が跨るのは、カワサキ
のロケット
マシン、A-7SSア
ベンジャーと思われる。



本郷猛の日常的な愛車はスズキ
GT380、通称サンパチだった。
大柄なオートバイだが、ばかっ
ぱや
だった。特にフロントブレ
ーキが
ドラムの初期型。

(本郷猛モデルのプラモデル)

立花レーシングのマーク。


仮面ライダー製作放映時の1971年
の時点で、本物のロードレースは
どの
ようなものだったのか。
情勢としては1960年代のホンダの
圧勝後にスズキが台頭し、それを
ヤマハが撃墜して不動のヤマハ黄
時代を築く頃である。
ヤマハは60年代末期に一旦WGPか
撤退するが、マシン開発を進め、
個別
に世界有力ライダーにマシン
を供給する
ことで開発と実績を同
時に積んだ。

そして70年代はもう完全にヤマハ
世界を制した時代となった。
それはワークスでもプライベーター
でも。ヤマハのマシンでなければ
世界
選手権のレースが成立しない
程だった。


1971年式ヤマハTR2B


仮面ライダー本郷猛の出場した
レースが
実は1971年時点ではす
でに存在しない
10年以上過去の
形態を演出していること
がマシ
ンひとつを見ても判ることだろう。


1971年の世界グランプリ




まだサイレンサーの装着は義務付
られていない。
ヘルメットもおわん型→ジェット
ヘル
メット→ジェットヘル+シー
ルド→
フルフェイスと、ヘルメッ
トの進化
がそのまま全員集合した
のが1971年
の世界選手権だったと
いえる。

ちょうど仮面ライダーがこの世に
登場
した年の世界グランプリがこ
うだった。

特徴は、全車が空力特性を得るた
めに
フルカウリングを装着して、
前傾姿勢
とダイレクトレスポンス
を得るために
セパレートハンドル
を着けていること
だ。まだ、後年
のように極端なバック
ステップに
はなっていない。


ジェットヘルメットは1973年頃ま
世界選手権でも使用されたよう
だ。

下は1973年に125ccクラスで世界
チャンピオンになったスウェーデ
ンの
スノーマンことケント・アン
ダーソン。
(前年世界2位)
ヤマハの供給ファクトリーマシン
だ。

身長180センチほどの長身なのに
小さい
125ccを職人技で駆ってチ
ャンピオンに
なった。250とダブ
ルエントリーで
250では1973年に
は総合6位だった。

前年の1972年の250ccクラスは、
やはり
ヤマハのヤーノ・サーリ
ネンが世界
チャンピオンになっ
ている。世界で
初めて膝をすり
ながら走った男だ。

残念ながら世界チャンピオンの
ヤーノ
は1973年のグランプリレ
ース中に死亡
した。

(ケント・アンダーソン/1973年)


1971年当時は、レーシングマシン
には
サイレンサーが無かったので、
とんでも
ない爆音だったことだろ
う。

1983年に全日本選手権筑波戦の最
中に
サイレンサーが一つだけ脱落
した
国際A級125のヤマハのマシン
があった。

私は現場にいたが、とんでもない
爆音
だった。あれが全車ノーサイ
レンサー
だった時代は、騒音がど
うの以前に
絶対に耳がすぐ難聴に
なると思った。


一方、市販車改造クラスのレース
盛んに1971年当時も行われた。
これなどは仮面ライダー本郷猛が
出た
レースに近いレギュレーショ
ンだろう。

タンデムステップに足を載せ、左
でシフトチェンジをするという
職人技
を見せている。
(1971年式スズキT250R)


ただ、本郷猛のレーシングマシン
では
なく、変身後の仮面ライダー
(1号も
2号もなく、仮面ライダー
は仮面ライ
ダーただ一人)の愛用
マシン=サイク
ロン号は、1971年
当時の最先端の
世界グランプリマ
シンの様式をモデ
ファイしていた
ことがうかがえる。



フルカウルのオートバイなどは、
レーシングマシン=ロードレー
サー
以外には存在しなかった。
それをTVドラマ「仮面ライダー」
は400馬力のスーパーマシンとし
物語の中に登場させた。
しかも、本郷猛が駆るスズキの
GT380
がレバー一つでサイクロ
ンに変身し、
その風圧で本郷の
ベルトの風車が回転
してパワー
を得て本郷猛は初めて
仮面ライ
ダーに変身できた。

ただ、マスクについては、改造
人間
としての手術痕を隠すため
に被った
と原作では設定してお
り、ドラマの
仮面ライダーでも、
初期には時々
本郷猛がマスクを
脱いでいるスチール
が残されて
いる。

それがいつの間にかサイクロンに
乗って風圧での変身から、2号が
初めて行なった変身ポーズにより、
ジャンプすると変身できるように
変化した。
変身前は生身の人間であるのに。
仮面ライダー七不思議の一つなの
だが、そこは突っ込んではいけな
い(笑)。


仮面ライダーのサイクロン号には
立花レーシングのマークがある。
これはライダーベルトのタイフー
ンにも。
しかし、カウル付バイクでなぜベ
ルトに風圧?というのも、そこは
突っ込んではいけない(笑)。



時は流れて、2009年。
MFJ主催の全日本選手権ロードレー
GP250クラスにおいて、旋風が起
きた。

なんと往年の全日本トップライダー
して世界グランプリライダーの
宇井選手
が企画参戦として「立花
レーシング
クラブ」の選手で全日
本選手権に全戦
出場。マシンはそ
の名もサイクロンと
名付けた2スト
GP250マシンで全日本
選手権を戦
ったのだ。


ノリノリ。

結果、なんと日本チャンピオン!(笑)
いいね~、こういう遊び心で本気の
ギンギンつり目の全日本選手権に参
して日本チャンピオンになっちゃ
うと
いうのは(笑)。

1971年。この世に仮面ライダーが
登場
した。
その年、5年後に圧倒的な強さを示
した
イギリスのバリー・シーンは
50ccクラス
でレースをやっていた。
世界中のレースファンから愛された
英国人バリーは、2003年に肺がんで
亡くなった。


バリーは、ハンサムボーイだった。
ロードレースがまだ市民権を得て
いない
時代、モーターサイクルの
スポーツ性
を英国で広めた功績に
より女王陛下から
ナイトの称号を
バリーは授与された。

80年初頭にヤマハに引き抜かれ
たが、
あまりにもケニー・ロバ
ーツとの差別
待遇により再び古
巣のスズキに復帰した。

とてつもなく光る走りをするラ
イダー
だった。決してことさら
に派手なアク
ションではないの
に、まばゆいほどに
輝いていた
走り人だった。

日本では現在もなお、モーター
サイクルの
スポーツ面が国民に
認知されていない。

英国でさえ1970年代初期にはそ
うだった。

だが、バリーがサーとなること
で大きく
変化した。
1971年当時の日本は、上掲の立花
レーシ
ングの雑誌説明書きで「オ
ートレース」
と記載されているよ
うに公営ギャンブル
レースとスポ
ーツレースの区別さえついて
いな
い。

80年代バイクブームが去った今、
サーキ
ットの観客席はガラガラだ。
ロードレースのみならず、あらゆ
るモーターサイクルレースでは日
本車が世界選手権を席巻し不動の
王者であったのが長く続いたという
のに。
日本を代表する世界に誇れるもの。
それは日本刀とモーターサイクル
だ。
それと前方後円墳。
ただ、日本国内自体では、モータ
ーサイクルの地位は世界稀有なほ
どに低すぎる。
つい先ごろまで、公的教育機関ま
でもが憲法違反をしてモーターサ
イクルを悪者にしたてあげて国民
に運転免許の取得と運転を禁止す
ることをしていたのが日本だ。
絶対にあきらかに全てがおかしい。
教育放棄は、やがて国が亡びる。
早期交通教育を為し、日本国全体の
モーターリゼーションが名実ともに
先進国の仲間入りをすることを切に
私は願っている。

日本でもモータースポーツの選手権
天皇杯のようなものができればい
のに
と私は思う。

四輪車だけでなくモーターサイクル
愛した上皇陛下(皇太子時代)。


ライディングを楽しまれる昭和天皇。


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