(1971年放送『仮面ライダー』)
仮面ライダー本郷猛は城北大学
(のち城南大学)の大学院研究
生ながらロードレーシングライ
ダーでもあった。
彼は立花藤兵衛が主宰する立花
レーシンクラブに在籍するロー
ドレースの選手でもあった。
『仮面ライダー』(1971年)の
中で出てくるロードレースシー
ンは、まるで1950年代の日本の
公道レースのように公道でのレ
ースシーンが撮影された。
選手権のかかったJA.Oという組織
主催の公式ロードレースとして物
語上設定されている。
出場マシンは、ほぼ公道マシンで
あり、俗にいうプロダクション
レースのようなレギュレーショ
ンのようだ。
そこでレース中に本郷(藤岡弘)
と相棒のチームメイト滝(千葉
治郎)は、ショッカーの陰謀に
気づき、怪人と戦う。
レース自体は本郷が優勝する。
「やったぜ、おやっさん!」
メットの色ちゃうやんけ(笑)。
立花レーシングクラブの面々。
メカニックは誰?(笑)
藤岡氏と千葉氏、エキストラ
のみなさん。
藤岡氏が跨るのは、カワサキ
のロケットマシン、A-7SSア
ベンジャーと思われる。
本郷猛の日常的な愛車はスズキ
のGT380、通称サンパチだった。
大柄なオートバイだが、ばかっ
ぱやだった。特にフロントブレ
ーキがドラムの初期型。
(本郷猛モデルのプラモデル)
立花レーシングのマーク。
仮面ライダー製作放映時の1971年
の時点で、本物のロードレースは
どのようなものだったのか。
情勢としては1960年代のホンダの
圧勝後にスズキが台頭し、それを
ヤマハが撃墜して不動のヤマハ黄
金時代を築く頃である。
ヤマハは60年代末期に一旦WGPか
ら撤退するが、マシン開発を進め、
個別に世界有力ライダーにマシン
を供給することで開発と実績を同
時に積んだ。
そして70年代はもう完全にヤマハ
が世界を制した時代となった。
それはワークスでもプライベーター
でも。ヤマハのマシンでなければ
世界選手権のレースが成立しない
程だった。
1971年式ヤマハTR2B
仮面ライダー本郷猛の出場した
レースが実は1971年時点ではす
でに存在しない10年以上過去の
形態を演出していることがマシ
ンひとつを見ても判ることだろう。
1971年の世界グランプリ
まだサイレンサーの装着は義務付
けられていない。
ヘルメットもおわん型→ジェット
ヘルメット→ジェットヘル+シー
ルド→フルフェイスと、ヘルメッ
トの進化がそのまま全員集合した
のが1971年の世界選手権だったと
いえる。
ちょうど仮面ライダーがこの世に
登場した年の世界グランプリがこ
うだった。
特徴は、全車が空力特性を得るた
めにフルカウリングを装着して、
前傾姿勢とダイレクトレスポンス
を得るためにセパレートハンドル
を着けていることだ。まだ、後年
のように極端なバックステップに
はなっていない。
ジェットヘルメットは1973年頃ま
で世界選手権でも使用されたよう
だ。
下は1973年に125ccクラスで世界
チャンピオンになったスウェーデ
ンのスノーマンことケント・アン
ダーソン。(前年世界2位)
ヤマハの供給ファクトリーマシン
だ。
身長180センチほどの長身なのに
小さい125ccを職人技で駆ってチ
ャンピオンになった。250とダブ
ルエントリーで250では1973年に
は総合6位だった。
前年の1972年の250ccクラスは、
やはりヤマハのヤーノ・サーリ
ネンが世界チャンピオンになっ
ている。世界で初めて膝をすり
ながら走った男だ。
残念ながら世界チャンピオンの
ヤーノは1973年のグランプリレ
ース中に死亡した。
(ケント・アンダーソン/1973年)
1971年当時は、レーシングマシン
にはサイレンサーが無かったので、
とんでもない爆音だったことだろ
う。
1983年に全日本選手権筑波戦の最
中にサイレンサーが一つだけ脱落
した国際A級125のヤマハのマシン
があった。
私は現場にいたが、とんでもない
爆音だった。あれが全車ノーサイ
レンサーだった時代は、騒音がど
うの以前に絶対に耳がすぐ難聴に
なると思った。
一方、市販車改造クラスのレース
も盛んに1971年当時も行われた。
これなどは仮面ライダー本郷猛が
出たレースに近いレギュレーショ
ンだろう。
タンデムステップに足を載せ、左
手でシフトチェンジをするという
職人技を見せている。
(1971年式スズキT250R)
ただ、本郷猛のレーシングマシン
ではなく、変身後の仮面ライダー
(1号も2号もなく、仮面ライダー
は仮面ライダーただ一人)の愛用
マシン=サイクロン号は、1971年
当時の最先端の世界グランプリマ
シンの様式をモデファイしていた
ことがうかがえる。
フルカウルのオートバイなどは、
レーシングマシン=ロードレー
サー以外には存在しなかった。
それをTVドラマ「仮面ライダー」
は400馬力のスーパーマシンとし
て物語の中に登場させた。
しかも、本郷猛が駆るスズキの
GT380がレバー一つでサイクロ
ンに変身し、その風圧で本郷の
ベルトの風車が回転してパワー
を得て本郷猛は初めて仮面ライ
ダーに変身できた。
ただ、マスクについては、改造
人間としての手術痕を隠すため
に被ったと原作では設定してお
り、ドラマの仮面ライダーでも、
初期には時々本郷猛がマスクを
脱いでいるスチールが残されて
いる。
それがいつの間にかサイクロンに
乗って風圧での変身から、2号が
初めて行なった変身ポーズにより、
ジャンプすると変身できるように
変化した。
変身前は生身の人間であるのに。
仮面ライダー七不思議の一つなの
だが、そこは突っ込んではいけな
い(笑)。
仮面ライダーのサイクロン号には
立花レーシングのマークがある。
これはライダーベルトのタイフー
ンにも。
しかし、カウル付バイクでなぜベ
ルトに風圧?というのも、そこは
突っ込んではいけない(笑)。
時は流れて、2009年。
MFJ主催の全日本選手権ロードレー
スGP250クラスにおいて、旋風が起
きた。
なんと往年の全日本トップライダー
にして世界グランプリライダーの
宇井選手が企画参戦として「立花
レーシングクラブ」の選手で全日
本選手権に全戦出場。マシンはそ
の名もサイクロンと名付けた2スト
GP250マシンで全日本選手権を戦
ったのだ。
ノリノリ。
結果、なんと日本チャンピオン!(笑)
いいね~、こういう遊び心で本気の
ギンギンつり目の全日本選手権に参
加して日本チャンピオンになっちゃ
うというのは(笑)。
1971年。この世に仮面ライダーが
登場した。
その年、5年後に圧倒的な強さを示
したイギリスのバリー・シーンは
50ccクラスでレースをやっていた。
世界中のレースファンから愛された
英国人バリーは、2003年に肺がんで
亡くなった。
バリーは、ハンサムボーイだった。
ロードレースがまだ市民権を得て
いない時代、モーターサイクルの
スポーツ性を英国で広めた功績に
より女王陛下からナイトの称号を
バリーは授与された。
80年初頭にヤマハに引き抜かれ
たが、あまりにもケニー・ロバ
ーツとの差別待遇により再び古
巣のスズキに復帰した。
とてつもなく光る走りをするラ
イダーだった。決してことさら
に派手なアクションではないの
に、まばゆいほどに輝いていた
走り人だった。
日本では現在もなお、モーター
サイクルのスポーツ面が国民に
認知されていない。
英国でさえ1970年代初期にはそ
うだった。
だが、バリーがサーとなること
で大きく変化した。
1971年当時の日本は、上掲の立花
レーシングの雑誌説明書きで「オ
ートレース」と記載されているよ
うに公営ギャンブルレースとスポ
ーツレースの区別さえついていな
い。
80年代バイクブームが去った今、
サーキットの観客席はガラガラだ。
ロードレースのみならず、あらゆ
るモーターサイクルレースでは日
本車が世界選手権を席巻し不動の
王者であったのが長く続いたという
のに。
日本を代表する世界に誇れるもの。
それは日本刀とモーターサイクル
だ。
それと前方後円墳。
ただ、日本国内自体では、モータ
ーサイクルの地位は世界稀有なほ
どに低すぎる。
つい先ごろまで、公的教育機関ま
でもが憲法違反をしてモーターサ
イクルを悪者にしたてあげて国民
に運転免許の取得と運転を禁止す
ることをしていたのが日本だ。
絶対にあきらかに全てがおかしい。
教育放棄は、やがて国が亡びる。
早期交通教育を為し、日本国全体の
モーターリゼーションが名実ともに
先進国の仲間入りをすることを切に
私は願っている。
日本でもモータースポーツの選手権
に天皇杯のようなものができればい
のにと私は思う。
四輪車だけでなくモーターサイクル
も愛した上皇陛下(皇太子時代)。
ライディングを楽しまれる昭和天皇。