
縁あって、私は近藤勇さんの遺品
の短刀を都内のある寺の住職に請
われて毎年手入れしに行っていた。
幕末の東西戦争で新政府軍を僭称
した西軍の悪逆非道は目を覆うも
のであり、もはや武士道ここに終
えりの感が強かった。
東北の激戦の地でもそうだが、関
東圏内でも西軍の非道な暴政は
強制的に実行された。
まず、戦争で死亡した敵軍の将兵
の死体はそのまま野晒しを庶民に
命じた。ねんごろに葬ろうとした
りすると天皇の軍隊の皇軍を僭称
した西軍の極悪非道な仕置きが待
っていた。一家皆殺しにされるで
あろうというような。
それゆえ、誰も一人として東軍の
武士たちの死体には触らなかった。
上野の山でも、東北の地でも、そ
の亡き骸は野鳥につつかれ、夜犬
に食いあらされ、さらに腐敗も進
みこの世の地獄のような様を呈し
ていたと当時の多くの目撃者の談
が記録に残っている。
こうした西軍の武士にあるまじき
所業はまさに「近代的」で、まる
でナチスの原型をみるかのようだ
ったが、それは捕らえた敵軍の将
に対しても断行された。
元京都守護職会津中将御預かりの
新選組の局長で幕府陸軍奉行並と
いうきちんとした幕臣であった近
藤勇を切腹ではなく斬首にした。
この措置には西軍側からも反対の
声が上がったが、土佐谷干城らが
斬首強行論で押し切り、近藤氏は
板橋にて首を刎ねられた。
そして、これまた武士への所業と
も思えぬ事に、近藤氏の首を京ま
で移送して三条河原に晒した。
ただの押し込み強盗と同じ扱いで。
日本の歴史は勝者によってねつ造
され書かれた歴史である。
明治以降は薩長土肥芸の諸藩がこ
の国を牛耳った。
薩摩は東西戦争から10年後に尻尾
切りでかつての東軍と同じく逆賊
と長州によりねつ造されて武力で
征伐された。
そして、日本はそれ以降、現代に
至るまで、国家権力は長州閥によ
って完全掌握されている。
近藤勇さんも斬首後、誰も葬ろう
とはしなかった。
その時、西軍の咎めなど恐れず、
たわけ!死ねば誰でも仏である!
と言って自ら動いて近藤氏を弔っ
た坊主がいた。
その坊主が住職だった寺に近藤殿
の遺品が残し伝えられていた。
そして、私の在京時代の現職住職
(直系卑属で東大出身の全共闘世代
のインテリ坊主だった)の要請で
私は近藤さんの遺品の懐剣を手入
れしに毎年赴いていた次第だった。
刀剣を手入れしていて、刀を眺めて
いると涙が出て来た。
「近藤さん。さぞや無念だったで
しょう」と。
私の血筋からいくと同族血族別家は
幕臣だが、当家は芸藩浅野家の家中
だ。時代が時代ならば、藩命により
近藤さんを討つ側に参加せざるを
得なかったし、事実、尊属は幕末東
西戦争の内戦に参加している。
だが、私は明治ねつ造新政府成立
の92年後生まれだ。独立自尊の自
由意思を持つ。
戊辰戦争はあくまで東西戦争であ
り、決して「明治維新」などでは
ない。
それが証拠には靖国神社を見てみる
がよい。
あそこに天皇陛下を守護するため
の要職かつ聖職にあった会津中将
様や幕臣の多く、また奥羽越列藩
同盟の人士たちが祀られるのであ
るならば、私は靖国神社の存在を
認めよう。
だが、靖国神社は、薩長土肥芸の
西軍とそれらがねつ造した乗っ取
り新日本に功績のあった者たちが
祀られる神社だ。
そんなものは英霊を祀る神社では
ない。これは明らかであり、高ら
かに断言できる。
戦前までは、新選組は朝敵であり
逆賊と扱われていた。
なにしろ、天皇陛下を守護する会
津中将をも朝敵とねつ造フレーム
アップして濡れ衣を着せて断罪す
るのが西軍のやり口だ。
戦闘後の死体遺棄を命じた如く。
それが西軍とりわけ長州の質性だ。
戦後、新選組に光をあてて、彼ら
も人を思い、京を思い、国を憂い
た同じ日本の同胞(はらから)であ
るとして、クローズアップさせた
司馬遼太郎の功績は歴史的に大きい
と思える。
司馬遼太郎なくば、私は近藤氏の
刀を手入れになど行かず、長州閥
勢に洗脳された芸藩末葉としてし
か新選組を見る事ができない脳の
働きになっていた事だろう。
それは脳機能が健康体ではない。
日本人の歪んだエセ国粋主義や
お国自慢や手前味噌の手前親族
自慢が世の中の人々に真の意味で
実害の弊害を以て不幸をもたらす
ように。
ただ、本堂横の間で近藤さんの刀
を清拭して眺めていたら、会った
事のない近藤勇さんが薄らと笑顔
でいるような面持ちがふわりと浮
かんで見えたような気がした。
意外と愛嬌のある顔に思えた。