goo blog サービス終了のお知らせ 

渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

なにわ的価値判断をするならば

2022年09月10日 | open
 
 
このビリヤードキューの落札価格
は最強のようにも思える。
しかも、とても良いキューだった。
だが、本物の大阪人からすると
「ちっちっち。500円」とか言っ
て自慢のキューを出して来そうな
気がする(笑
安ければ安い程価値があるという
大阪人特有の価値観。
私は江戸もんだが、その浪速人の
アンチテーゼのような心意気は
好きだ。
商人のどぎつい商魂に負けない
カウンターカルチャーみたいで。
そのあたりは東京とはまったく
文化が異なる。
東京人は値引きねだりなどしない
もの。
 
特にこれは東京だけでなく全国的
にであるが、刀剣類に関しては、
値引きのねだりなどはしないの
日本刀の購入の時の鉄則だ。
負けろ、は武士の武具では御法度
なのである。それは口が裂けても
言わない。
「ざまみろ」等、武士や士族が
絶対に口にしない言葉はいくつか
あるが、それらは武家の武家たる
質性の所以に拠る。それを口に
すると武士ではなくなるし、武士
は無理してではなく、ごく自然に
それらを当たり前のように口にし
ない。武士や士族はそうしたもの
だ。
現代人で解ってない人たちは刀剣
類刀装具類でも値切り倒すが、
それは心得違い甚だしい。武士は
やらない。理解して身について
いないからそうした事をする。
刀は一般的商品ではない。
だが、現代では、物切り系自称
古流武術団体や個人には弁えずに
刀を値切り倒す人間が非常に
多い。
嘘みたいな小汚い値切りをする。
 
司馬遼太郎の『新選組血風録』の
中で、斎藤一が京都の市で虎徹を
見つけて値切り倒して買って来る
シーンがあるが、それはあり得な
い。斎藤一は武士の出だ。無い。
司馬遼太郎は、武士の実態と価値
観等については知悉していなかっ
たか、身近に本物の士族の末裔が
いなかったのではなかろうか。
現代でも、刀剣類を平気で値切っ
たりするのは、旧武士階級とは
無縁の人たちによく見られる。
日常的な武家の文化的素地の中で
躾を血脈的に受けていなか
ったからだろう。
現実は真実を物語る。

武士とは縁もゆかりもない者たち
が袴をはいて刀を差してサムライ
の真似事をしている。
何をやりたいのかよく分からない。
やっている事は、武士の魂や心
や作法や思考法や生き様や死生観
などの武家文化などは一切体現
もしくは適正解釈して世に紹介
する事はせずに、大出鱈目をやる。
非常に行儀悪い。

そして、犯罪的であるのは、これ
が武士の作法などと称して大嘘を
捏造して刀の扱い方を広めよう
としたりする事だ。やっている
連中は値切り倒しを常にする
集団だったりする事実がある。
武士の流れに無い新設道統捏造
集団だからしかたないのかも
知れないが、少なくとも武家の
文化を破壊する事を以てそれが
武士の在り方であったとするよう
な拡散をするのは非常に宜しく
ない。
ニセモノはニセモノなりに存在
してもよいが、本物を否定する
ニセモノというのは害悪だ。
いくら武士とは縁もゆかりもない
流れの集団だとはいえ、やり過ぎ
である。流の来歴を捏造僭称した
りはまだ勝手だが、他家の家紋を
勝手に使ったり、日本刀をまるで
用具のように扱ったり等が武士の
規範だったかのような事を宣伝
するに至っては、それはやっては
ならない事なのだ。
パフォーマンス集団は、武芸とは
全く発生ルーツが異なるので、
なかなか武士文化、武家教養には
疎いのかも知れないが、この日本
の世の中、日本人ならばやって
いい事と悪い事がある。
弁えるべし。

外国人が「ヘイ!ニンジャー!」
とか言って明治10年の内戦の時
に「忍者」を映画作品に登場
させたりするのは外国人の勝手
だ。日本の本当の歴史とは関係
ない。
だが、日本人がこと武家文化や
武士の実態に関して表現する際
には、絶対にやってはならない
事がある。
それを知らねば、なぜ武士たち
は武士としてああであったか、
などは亡失されるし、それは
日本の現実に存在した歴史をも
否定する事になる。
現実の事実は否定できないの
であり、また、なんぴとたり
とも事実を身勝手な解釈で否定
したり破壊する権利はない。
パフォーマーが表現手段として
演劇するのは表現の自由だが、
それを「本物の武士はこうだった
と当流では伝わっている」として
本物の武家文化を破壊する行為
は断じて自ら戒めるべきなのだ。
そもそも「自戒」と「自裁」
こそが武家文化が残した日本人
としての素質であり、現代に
まで通じる日本人の心の在り方
だったが、それらは明治以降は
日本人全体領域としては亡失の
一途だ。
だが、そうした質性を結果と
して全否定する言動を以て
「これが武士」とするのは、
それは明らかに駄目なのだ。

なお、日本のお辞儀に始まり
日常生活での所作、作法、言葉
遣い等はすべて「武士の文化」
を基軸としている。
日本語の中で新たに作られた
「標準語」という明治新設
日本語は武家の幕臣旗本言葉
をベースに創られた。
日本の礼儀作法は武士文化を
中心に形成されているのである。
これは現代でも。
最近ではそれさえも崩そうと
朝鮮式お辞儀を一般常識作法
であるかのようにマナー教室
や就職試験で実行しようとする
日本人が増えている。
デパートガールのようなお辞儀
を。
これもまた、日本文化を破壊
する行為だ。

この記事についてブログを書く
« 過重点(加重と荷重) | トップ | 磨き »