渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

新原付制度の問題点

2024年01月07日 | open



2025年中に開始される新原付
制度。

これをよくひも解いてみると、
はっきりと見えて来る事がある。
世間ではそれが見えておらず、
なんだか誤解している
面が多く
見受けられる。

内実は、この新制度は新規排
ガス
規制を現行50cc車両がクリ
ア不可能だ
からその50cc第一種
原付の法的縛
りを拡大して、デ
チューンした
出力が極度に低い
125に適合させ
よう、というも
のだ。

つまり、原付一種相当免許(道
交法と車両運行法は異なる)で
125の車両に
乗れる、というもの
ではなく、
新たに原付一種車両
相当の125
を設定して、その車両
に限り
原付免許(実技無しの学
科試験
のみ)でも乗れるように
するだ
けの話。
当然、125であっても原付一種
(50)縛りの道交法が適用され、
二段階右折と30km/h速度制限
が適用される事になる。

「原付免許で125に乗れるよう
になる」と
ぬか喜びしている人
たち多すぎ
ないだろうか。
中身は逆なのだ。
特定125(50並みの動力性能し
か持たない新作デチューンバイ
ク)
をこれまでの50扱いにする
だけの法改正
なのが真実の実体
だ。


これは、排気量による免許区分
を実行している現行制度の改変
なのだが、非常に法的にも整合
性を欠く「特例事案」となる。
それは、現在大型二輪免許の
教習所で多く使われている
ホンダのNC750Lなどはどうい
う事なのかという問題。
NC750Lは2気筒745ccで馬力は
37馬力である。
少し前の250ccの国産二輪の
出力はメーカー自主規制で
45馬力だ。400は59馬力。
その後250が40PS、400が53
PSへの低下自主規制となった。
ナナハンのオートバイが37PS。
これは250よりもかなり低い
馬力しかない二輪という事に
なる。排気量の大きい分トルク
は太っているが、出力を現在
道路を走れる古い250よりも
かなり低くした形だけの大型
二輪という事になる。
それで取った免許で大型の排
気量無制限の二輪が運転でき
る事にしてしまっている問題
が現代は存在する。
かつての免許制度はデチューン
バイクで簡単にして免許を取ら
せる思想は存在しなかった。
実質公道を走っている車と同じ
車で教習なり一発検定をして
いた。カレーが辛いから砂糖を
入れましょう、みたいな変な事
はしていなかったのである。

そして、現在は普通二輪免許で
新車で80馬力の400さえ乗れる。
そうした時、「排気量分けの
免許制度は何なのか」という
問題が日本の社会制度として
横たわっている事に気づく。
大型免許があるのは明らかに
法的にも論理的にもおかしい
という根本問題の矛盾が露呈
する。
「自動二輪」は自動二輪で
一括りにするのが本来の二輪
免許制度の整合性を担保する
のである。
そもそもが、1975年の世界で
類例を見なかった法改正の
日本独自の自動二輪免許を
二分化して排気量によって
運転可能な二輪を定めると
いう悪法成立こそが根本的
に現行免許制度の矛盾を発生
させている。法的にも整合性
が無く、非常に珍妙な制度と
なっている。
まあ、憲法で軍事力はこれを
保持しないといっても、名前
だけ自衛隊とした国軍を保持
するような国なので、自動車
の運行に関しても出鱈目な
法律を勝手に国(=統治権力
の実体である警察)が作って
それを制度として施行してい
るのが日本という国だ。
日本という国号さえも法的に
定めていないという世界でも
例のないこの変な国。
つまり、実際は法律などあって
無いような国がこの日本という
国なのだ。法的整合性も何も
あったもんじゃない。

新原付制度は、排ガス規制を
クリアできないという問題か
らの苦肉の策だが、「原付
免許で125に乗れるように
なる!」とぬか喜びしている
人たち、多くないだろうか。
本当は逆だ。
「125なのに50の道交法が適用
されてしまう」なのだ。
低出力125をそれまでの原付
一種
と同じとみなす制度が新
原付制度なのだ。

では、現在大型二輪免許取得で
使われているホンダNC750は?
250よりかなり低い馬力の車
免許を取得できるようにして、
排気量無制限で高出力車を
運転
できるようにしてしまって
いる
その問題点はどう説明すると?

何か根本的におかしいでしょ?
新原付制度は、法は整合性の
確保を目指すという「法の精神」
から
したら。

1975年法改正が根本原因なん
ですよ。
自動二輪免許を二つに分けて
排気量によって免許ごとに乗
れる車を限定したから。
同排気量でも大排気量車を上
回る機種が開発されたら、そ
の免許区分は全く「拘束性を
求めた法改正」の意味が消滅
してしまう。
1975年の日本独自の法改正を
考案した人間は、本当に目先
の取り締まりだけを考えた
「国家百年の計」を持たない
人間が成立させた仕組みだと
思いますよ。

そして、1975年法改悪の骨子を
引きずったまま、日本国家と
警察は1995年にさらなる法改悪
を断行した。
それは「自動二輪」制度を無く
し、普通二輪と大型二輪という
新制度を新たに作り出した。
これはアメリカの圧力に負けて
教習所免許でも大型車に乗れる
ようにはするが、何としても
旧限定付制度は保持したい、
というこれまた苦肉の策、メン
だけを優先した政策だった。
本来ならば、1975年10月以前の
免許と同じように「自動二輪=
排気量無制限」という免許に
戻すのが一番法的にも整合性
が確保されるのに、何としても
「国民に二輪に乗らせない」と
いう目的で国家権力が作った
1975年法改正の骨格だけは残し
たかった。
戦後日本の最大国民統制が破防
法の制定と1975年の
免許制度
改定だったから。

国家権力がなりふりかまわず自
由に国民の乗り物を規制できる
という事を実行したのが75法改
定だから。ゆえに95年改正の時
には、これだけはアメリカ
に何
と言われようと墨守した
いのが
国家権力だった。

(道交法制定などは国民的議論
などは一切されない。権力が
勝手に御用学者を集めて作る。
そのため、原付の30km/h規制
などという現行社会現実に全く
そぐわない法が成立して運用さ
れていたりする)

今の二輪免許制度は、1995年に
改定され、排気量ごとの免許区
分を強化したものだ。
1975年の法改悪は自動二輪免許
を条件付、条件無の二種類に分
けるものだった。なので400も
750も同じ自動二輪免許だった。
中型限定免許で750を運転した
ら条件違反のみ。これは法的に
当然だ。違反点数加点は2点。
(違反点数は減点ではなく加点)
だが、1995年新免許制度では
別免許となったので、普通二輪
免許で大型二輪を運転したら
無免許運転となり一発免許取り
消しになった。
つまり、排気量しばりの免許制
度として1975年規制をより強化
した内実を持たせたのが1995年
新免許制度であり、これはアメ
リカの圧力に屈した日本のせめ
てもの「独自規制」を敢行して
やるというくだらないメンツと
意地を見せた新制度だった。
本来ならば1975年10月以前に
戻して「自動二輪免許=ハーレー
でも乗れる免許」にすべきだった
のだが、権力者の思惑は法的整
合性や合理性などは無視するの
が日本の国家運営の常だ。やる
訳がない。
そして、1995年新免許制度は
免許を取得する事自体はどん
どん簡単にした。
それから年を追って、じわり
じわりと首を絞める手段を講じ
た。
今、大型二輪免許を教習所で
取得した人が大型二輪で一年
以内に3点の違反をしたら、卒
業した教習所の卒検技能教官
に規定の実技学科講習を受ける
義務が設置されている。
それを受けなければ全免許取り
消し。
教習所でなくば、免許センター
での一発試験官に講習を受ける
が、そこでは旧限定解除以上に
「落とすため」の講習なので
ほぼ100%合格させない。
つまり法的制度の裏での国権
発動で免許を取り消す仕組みに
改変された。
そして、その特別講習から半年

以内に3点の違反をしたら即免許
取り消しとなっている。
現行の大型二輪免許制度はそれ。
過去規定年数以内に違反が無け

れば3ヵ月で点数は戻るが、新
大型二輪免許制度は、たった3
点の違反で即免許取り消しとい
う制度に改められたのだ。
これ、新たに大型二輪免許を
取得しようとしている人たち
知っているのだろうか。
免許を取るのは極めて簡単に

させて、かつ罰則は超絶強化
しているのだ。サラッと人知
れないうちに、警察権力は。
もろに権力の「飴と鞭」政策

であるので、権力の体質という
ものが
分かりやすい。
軽微な違反でも国家制度に背く

者は徹底的に取り締まる、と
いうのが真の目的だ。交通事故
防止のためなどは金科玉条であ
る。

これも1995年新免許制度以降、
「大型二輪免許も教習所で取
れる」として誤認から喜んだ
人たちが多かったのではなか
ろうか。
実はアメリカの圧力を逆手に
利用して、国家権力の強化
体勢を巧みに敷いたのが日本
の権力者たちだったのだ。
かなり狡猾である。
そのため得意の「飴と鞭」を
国家が実行するようになった
のが1995年以降の日本の二輪
免許の流れなのだ。
アメリカの圧力と国民の無知
を利用したので「アメと無知」
なのだろう。国家権力としては
してやったり、の感だろう。

今回の2025年新原付制度には
そうした根本問題を場しのぎ
と同時に国権強化の一環として
断行される背骨がある。
だが、そうした根本問題につい
ては「二輪ジャーナリズム」を
自称する連中は判っていても
指摘はしない。
日本の二輪界にジャーナリズム
もモータージャーナリストも
存在しないという現実があるか
らだ。社会問題などはあえて
目を逸らすのが日本の二輪界だ。
軒並みいいこちゃんぶりっこで
良市民ぶる。報道機関が権力の
手先となって。
そんなジャーナリズムは先進国
には存在しない。それは暴力と
弾圧で国を治める未開発国の
あり様だ。
だが、残念ながら、日本人たち
がやっている「二輪界の社会性」
などは、権力にひれ伏して真の
自由と個人の尊厳を大切にする
ものとはなっていない。真の社
会性などは持ち得ていない。
しかし、これは免許制度やその
各種規制によって決められた
ではない。
国民たる日本人の二輪乗りたち
が自分で自分の首を絞めている
だけの事だ。見て見ぬふりとい
事を行なう事で。
そして、自分だけ助けてもらお
と権力に尻尾を振って忠犬=
似非
良市民=ぶりを見せる事で
逃れ
ようとする。
そうした奴らこそ、実は国を亡
ぼす奴らなのだ。
自分の事だけしか考えない奴は
自分をも滅ぼす奴だ。

(映画『七人の侍』島田官兵衛
の台詞から)

 

 


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