
スキーよりもスノボの人気が
上回った歴史的理由を知りた
い。
犬派よりも猫派が優勢になった
歴史的な背景は何となく想像が
つくが。
日本のビリヤード情勢において、
キャロムの四ツ球よりもポケット
が広まって一気に主流が逆転し
た理由はこれはもう明白だ。
それはプラザ合意以降の日本の
金融緩和政策から始まった1986
年からのバブル経済を背景に、
その時期にポール・ニューマン
がアカデミー賞を初めて受賞し
た映画『ハスラー2』が1986年
の年末に日本で公開され、空前
絶後のビリヤードブームが突如
到来したからだ。
それまで日本では玉撞きといえ
ば四ツ球かスリークッションの
事を指していた。
アメリカンプールは米軍基地の
ある街だけのゲームだった。
それが1986年を機に一気にひっ
くり返った。
1987年には街のあちこちに
プールバーなる飲食をしながら
玉撞きができるカフェバーが
乱立した。
数百メートルの通りの中に数軒
開店する程に。
学生や若いサラリーマンやOL
で連日連夜大盛況だった。
街中の撞球専門店も長蛇の列で、
玉台待ち8時間などという記録
まで東京では出た。
そのうち、ほぼ全店が予約制に
なった。
街のビリヤード場は一挙的に
キャロムビリヤードからアメ
リカンプールに様変わりした。
ブームは長くは続かない。
1990年にバブルは弾けた。
ただ、まだ好景気の余韻は残り、
本格的な真冬が来るのは1994
年頃だった。
バブル経済の終焉と共に狂喜乱
舞のビリヤードブームは去り、
ニワカたちは玉を撞かなくなっ
た。
残ったのは、本気で撞球をやろ
うとしている人々のみだったが、
それが本来のスポーツの姿だ。
娯楽としての酒を飲み食いなが
らの玉突きなどは終わり、本物
たちが残った。
そして、本物たちが残ったあと
からの世代は、本物たちしか
周囲にいないので尚更本物たち
になって行った。
今、その世代が中年になり中堅
層を形成している。皆さん、で
きる。
そして、その後はアミューズメ
ントが登場して、また玉突きは
玉撞きではなく突っ転がしの
レジャー遊びとなった。
そのアミューズメントで育った
層は本物の撞球を知らないので、
礼儀作法もへったくれもない。
無論、本物を求める者たちは
本物のビリヤード場に行った。
アミューズメントからは選手
などは登場しない。する道理
が無い。温泉ピンポンと同類
だからだ。縁日の出見世の
射的屋から射撃選手は生まれ
ない。
現在、撞球に通じている者た
ちは、年齢プロアマ関係なく、
全員玉屋育ちだ。全員が。
それは大学の高度学問を学ぶ
のには大学に行かないとなら
ない、というのに等しい。
学校に行かなかったり義務教
育までではアカデミックな専
門学術探求の深化は無理だ。
まともなプレーヤーは全員が
もれなくビリヤード場育ちの
玉屋出身である。
そして、時代を40年超えても、
残っている文化がある。
それは、初めて相撞きの手合
わせをした相手には、ホーム
の側の人間が必ず相手に尋ねる
のだ。
「普段はどちらで撞いてらっし
るのですか?」
と。
これはいわば道場流派名を尋ね
るのに等しい。
あるいは、「卒時ながら、いず
れの御家中か」というような。
しきたりではないが、本物の
撞球人たちには、今でもその
文化が活き活きと生きている。
礼節を重んじる日本人の伝統だ。