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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

地元の石碑

2024年11月09日 | open



江戸期に海(干潮時に潟)
だった宮之浦という場所
は現在は三原市内西部の
大住宅街になっている。
私が大学の頃までは田んぼ
と畑しかないような土地だ
った。

その田園の中を山陽本線が
一直線に通っていた。
鉄道は今は大幅に位置を移
動して高架線になっている。

江戸期の元禄13年(1700)
というと、劇画の「子連れ
狼」
では柳生と拝一刀が激
烈に
争っていた時代だ。
拝一刀も柳生烈堂も元禄15
年(1702)に死亡。
その頃、三原城下町の外の
宮之浦新開は開田されたと
いう。宮は城下の西の宮
八幡宮の事だろう。
海水が押し寄せるエリアな
ので、たぶん糸崎と同じく
塩田だったのではなかろう
か。明治初期の写真を見る
三原城周辺はぐるりと塩
だらけだ。
宮之浦とは読んで字のごとく、
神社の前は一面の海だった。
本格的に埋め立て含め土地
改良工事が実行されたのは
昭和の戦後からだろう。

石碑の北側に水門がある。
灌漑用水の水門だったのだ
ろう。
左手遠方は三原市役所。
ここら一帯は江戸時代は海
中。左手に見える川は人
河川だ。本来の河口はず
っと
内陸部のため、満潮時
には
海水が川を逆流して数
キロ
上流まで上る。


用水路を集めて河口付近に
流す水門。


どこから来た水なのかは、
現在は市内西部は全て暗渠
になっているので不明。
2024年現在から74年前の土
地整備事業なので、今では
付近に住む人も事情をよく
知らない模様。
石碑にも刻まれた発生した

「水利」とは、農業用水の
水利の事だろう。
ここは宮沖という場所だが、
明治以降は明治期の写真を
見ると、あたり一面塩田だ
った。海水を分ける土手も
現在も残っている。
知らない人は「なぜ住宅街
の街中に土手が?」と思う
ようだ。私も最初そう思った。
ここ、川だったのではと思っ
たが、調べたら塩田の海水仕
切りの土手だった。

江戸期の城下外れの現在の市
街地西部の開田にあたっては、
悲惨な伝承も残されて慰霊碑
のようなものもある。
あまりに開墾防水工事が難航
したため、人柱を立てて生き
埋めにしよう、という事にな
った。
そこで城の武士たちが協議し
て、駆り出した地元農民の徴
用工事夫のうち、服につぎあ
てのある者を埋めよう、とい
う事に決定した。
無茶苦茶な話だが封建時代の
事だ。そういう事があるのだ
ろう。築城の際に工事に従事
した人々を丸ごと皆殺しとか
ごく普通に実行されていたの
が封建時代だったから。
そして、三原城外の開墾整備
工事においては、甚五郎と
いう人が生き埋めに決定し、
人柱として埋められたという。
その供養のために松が植えら
れ、その松は甚五郎の松とし
て現在も何代目かが残ってい
る。初代甚五郎の松の切株も
残存している。

劇画の世界とはいえ柳生と拝
一刀の果し合いの時代。
現実社会でも人権意識などは
日本人には存在しなかった。

その人権意識の不存在は武士
だけでない。
百姓家であっても、貧しけれ
ば平気で子どもや娘を金で売
り、
老人たちは姥捨て山に捨
てら
れた。現代語では「悪意
の遺
棄」という犯罪になる類。
さらには、口減らしと称して
生まれたばかりの子を殺す事
も百姓たちはやっていた。
封建時代という殺伐とした時
代、人の命の価値などはとて
も小さなものだった。
制度により、人がそうなった。

人殺しなどは本職の武士だけ
でなく、農民や町人たち、全
ての階級も平
気だった。坊主
は人殺しはやらずとも、人殺

しに対して目を背け何もせず、
むしろ権力側に密着してわけ
のわからぬ外国語の呪文を唱
えるだけだった。
これでは駄目だ、となったの
は明治期に入って国の上層部
が西欧先進国の実態を知っ

からで、その一例として明治
初期に決闘二
関スル罪(決闘
罪)が制定さ
れた。
この法律は現行でも生きてい
る。
現代社会は、江戸期の甚五郎
さんを生き埋めにした不条理
の集団的暴力が
まかり通るよ
うな時代ではない。
そして、暴力は暴力の連鎖を

呼ぶ。それは果てしない。
全てにおいて、よろしくない。



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