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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

「バイク女子」

2023年09月16日 | open



「バイク女子」という単語は
ごく最近ここ数年で登場して
一般化した。(創作された単語
である)

それまでは存在しない。
さらに大昔は「女性ライダー」と

か呼ばれていた。

女性でオートバイに乗る人は
1960年代~1970年代には極め
て日本では少なかった。
1969年に東京12チャンネルの
傑作アニメ『ルパン三世』で
峰不二子
がエンディングでバ
イク(たぶん
トライアンフ)
を駆るシーンは
印象的だった。
あえてあの絵柄にしたのは、
当時オートバイに乗る女性が
極端に少なかったので際立た
せるためだろう。

1980年代に入り、日本国内は
空前絶後のバイクブームとなっ
た。
それらの下地は、1976年にホンダ
とヤマハが新たなマーケットと
して主婦層を狙って50cc原付
バイクを大々的に販売した事に
歴史的な布石があった。
女性の獲得。それが二輪界での

新たな市場獲得目標だったのだ。
ホンダvsヤマハの二輪戦争は
1970年代中期の原付買い物用
バイク発売によって序章
が開始
され、やがて二輪が一般
的にも
普及してきた1980年代に
入り
スポーツであるレースの
世界
でもHY戦争が熾烈化した。

二輪免許制度は1975年に激変
され、
警察当局は「国民を二輪
乗らせない」方向に舵を切った
が、国産メーカーは新制度枠の
自動二輪中型限定枠の市場に
対して徹底的に新型車種を投入
してマーケットを活性化させた。
同時に原付に目をつけ、これも

主婦層をターゲットにして徹底
的な販売攻勢で時局を乗り切ろ
うとした。
道交法も1978年に大改編され
さらに立て続けに80年代に規制
法改正が連発したが、国民の
輪熱はなおさら熱くなるばかり

だった。

1980年代のバイクブームの特徴
として、多くの女性たちが二輪
に乗り始めた国内現象があった。
それはアイドル歌手や女優たち
までもが二輪に乗るようになって
いた現実の現象が沸き起こった。
二輪に乗る女性が珍しかった頃
は「女性ライダー」と呼ばれて
いたが、80年代にはもはや女性
も男性もない。

性別など関係なく「バイクに乗る
人か、そうでないか」でしかない
世の中になっていた。
私はこれはとても健全な傾向だ
思った。女性を特別視しない。
性別など関係なく、やる事の
ジャンルでしか区分けしないと
いう見方が世間で一般的になり
つつあったからだ。
それが1980年代だった。
何もバイクに乗る女性は特別な
奇異な目で見られる存在では
なくなって来ていたからだ。

だが、やがて二輪の冬の時代が
来る。
女性も男性も加齢により段々と
生活様式が変化し、二輪を降り
る人が増えた。
また、日本のバブル経済の破綻
がそうした暗黒時代の前兆とし
てあり、その後続く「失われた
20年」によって、国民は閉塞感
を日常とする世相となった。

ところが、インターネットが
2000年代から普及し、一般化
した2006年あたりから少しずつ
日本の二輪環境も変わって来た。
そして2015年頃に「プチバイク
ブーム」が訪れる。
再び二輪に乗る人が増え、その
中では新たに若い世代の女性
たちも乗り出した。

そこで登場した新語が「バイク
女子」だった。「女子会」と
いう言葉が流行りだしたあたり
からだろう。
今では一般女性だけでなく、女優
さんやAV女優さんやタレント、
芸人、スポーツ選手、女子アナ
たちの女性でも二輪に乗る人は
多くなった。

でも私個人はとても違和感がある。
「バイク女子」という表現の視座
に。
バイク好きな人がたまたま女性で
あっただけなのに、なぜ女性を
特別視するような呼称が特異性
を以てもてはやされるように
言われるのかと。

真のバイク全盛期の1980年代は
もっとスケールが大きく、誰でも
二輪に親しんだ時代だったので、
二輪に乗る女性が別段特別視され
る事は無かった。
そして、それこそが、性別を超え
た感覚の健全性を持っていたと
私は感じている。

「姫ライダー」などという愚に
もつかぬ現代はびこるスカは
1980年代には男からも女からも
全否定された。
二輪乗りは性別関係なく独立自尊
の精神性を持っていたからだ。
自分で走り、倒れたら自分で起こ
す。たとえ原付だろうと大型だろ
うと。もちろん、横にいたら手
助けはするが、まず自分でやる。
やってみる努力をした。女性も
男性も。

そうした風景が当たり前だった
1980年代のそのような二輪世相
というのは、私は至極まともだ
ったと今でも確信している。

女性は男性に比べると体力的に
不利な面も多くある。
だが、それらを乗り越えて同地
平で生きようとする。
そうした姿が素晴らしいのであ
って、特別視されたりしたり
して持ち上げる存在ではないの
では、と私は思うのだ。
私などは、会話していて相手が
たまたま女性で二輪に乗る人
と知っても「あー。そうなんだぁ」
だけでしかない。「同好の士なん
だね」という程度。そこに性別
を絡めて来るのは人間がとても
さもしく感じる。
これは受動的な側だけでなく、
主体の側が特別視を要求する
場合においても。「女を売りに
するなよ、この馬鹿」とか正直
思う。
「バイクと関係ないじゃん」
と。

ゆえに「バイク女子」という表現
の背景にあるものがちらちら見え
るので、私はとてもいやらしい
意識性をそこに見るのだ。
「バイク人」ならまだ分かる。
しかし「バイク男子」という言葉
が存在しないのに女性対象のみ
存在させるのは、何かしらの意図
があるからだ。
しかも、それは男性たちによって
「創られた」意図が。
バイク好きなのに男女関係ないで
しょ?というのが本当の事なので
はないかなぁ。

そして、そうした「バイク女子」
という表現は、トランスジェン
ダーの人
たちの存在をも無視す
る方向性
を持っている。
「りけじょ」や
「刀剣女子」が
流行ったのも
同じ社会的意識性
の背景を持って
いる。
本来は性別等は一切関係ないの
に、そこに性別を噛ます事で
特別視しようとする。
だが、その源流は日本の男社会
の女性差別に根底の底流が存在
したのだ。
「女流~」という表現と特別視
のやり方がそれだ。

「バイク女子」という表現。
な~んにも考えず、多くの人が
抵抗なく使っているのが今の
世相だが、私は非常に言い知れ
ない違和感がある。
それ、本物じゃないでしょ?と
いうような。
ホントのバイク好きがそうした
表現を無頓着に使っているとし
たら、あまりにも本当のバイク
の普及と楽しみの広がりとは
乖離しすぎている。
つまり、それ、本物ではない。
本物に近かった1980年代の
二輪世相をタイムリーに経験
して来ただけに、そうした事が
見えて来る。



 

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